イザヤ書 53章5-7節 (旧1149頁)
ヨハネによる福音書 18章28-40節(新205頁)
前置き
ただ、イエスだけが人の罪を贖ってくださる神から遣わされた真の大祭司でいらっしゃいます。『キリストは、既に実現している恵みの大祭司としておいでになったのですから、人間の手で造られたのではない、すなわち、この世のものではない、更に大きく、更に完全な幕屋を通り、 雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです。』(ヘブライ9:10-11)聖書はヘブライ書を通して、イエス・キリストが神から遣わされた、真の大祭司であることを明らかにしました。しかし、主は神ではなく、人の手によって立てられた偽の大祭司たちに苦しみを受けました。イエスは、この世の権力を追い求めた偽の大祭司たちを通して、この世に否定されました。
『門番の女中はペトロに言った。あなたも、あの人の弟子の一人ではありませんか。ペトロは、違うと言った。』(ヨハネ18:17)また、イエスの一番弟子であると、自他共に認めたペトロさえ、イエスを否定しました。主はペトロと代表される、教会からさえも、否定されたわけです。イエスは、この世だけでなく、ご自分の身内にも、否定されることによって、すべての人に拒まれました。なぜ、イエスは、世からも、教会からも否定されたのでしょうか?『彼が刺し貫かれたのは、私たちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、私たちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、私たちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、私たちは癒された。』(イザヤ53:5)それはまさに、主が否定される代わりに、罪人が認められ、彼が苦しみを受けことによって、不義な人類に癒しをくださるためでした。イエスは、すなわち、不義な罪人のために、代わりに否定と苦難を受けられたのです。
1.バラバ、人の子。
このように、主は、大切なご自分の命を捧げて、罪人を救ってくださいました。ご自身が滅ぼされるべき罪人の立場に降っていかれ、罪人をご自分の栄光の立場に引っ張り上げられたということでしょう。これは、特に今日の本文の最後の言葉で明らかに示されています。『過越祭には、誰か一人をあなたたちに釈放するのが、慣例になっている。あのユダヤ人の王を釈放してほしいか。すると、彼らは、その男ではない。バラバを。と大声で言い返した。バラバは強盗であった。』(ヨハネ18:39-40)今日の最後の言葉を始めから取り上げる理由は、このバラバという名前の示唆するところが大きいからです。『ピラトは、人々が集まって来たときに言った。どちらを釈放してほしいのか。バラバ・イエスか。それともメシアと言われるイエスか。』(マタイ27:17)ヨハネ福音書ではバラバという名前だけで書かれていますが、マタイ福音書では、フル・ネームのバラバ・イエスと記されていることが分かります。イエスという名前は、私たちが信じている主の名前です。ところが、偶然にも、この強盗死刑囚の名前も、イエスでした。
イエスは旧約聖書に登場するイスラエルの指導者、ヨシュアをギリシャ語に読んだものです。ヨシュアは『主は救いである。』という意味です。イエスも、そのような意味の名前でした。ある本で読んだ話しですが、昔の日本では、太郎や花子のような名前が多かったそうです。イエスの時代のイスラエルでイエスという名前は、まるで太郎や花子のようにかなり一般的な名前だったようです。名前の内容も神を賛美するものであり、旧約聖書のヨシュアという人も、偉大な信仰の人物だったので、多くの人に愛用されたことでしょう。しかし、そのような一般的な名前だからといっても、キリスト・イエスとバラバ・イエスとの間には雲泥の差があります。この時代のイスラエルでは、ヘブライ語ではなく、アラム語というヘブライ語に近い言語を主に使用していました。バビロン捕囚の時代を経て言語が、かなり変わったわけです。アラム語で『バル』は息子という意味です。そして、『アッパ』は父という意味です。つまり、バルにアッパを加えた『バルアッパ』バラバは『父の子』という意味です。
私たちは、『天にまします私たちの父よ。』という言葉をもって祈りを始めたりします。そのため、このバラバという名前のアッパ、すなわち、父が神様を意味すると考えるかもしれません。バラバ、父なる神の子、本当に格好いいのではないでしょうか?しかし、我々が必ず知るべきことは、イエスが来られる前には、人が神を父と呼ぶことが許されなかったということです。不従順と罪の歴史を持っている、私たち人間は、あえて神に父と呼ぶことが出来ない、資格のない存在でした。しかし、イエス・キリストの贖いによって、やっと人間は神を父と呼ぶことが出来るようになったのです。その前には、神を信じるといっても、神のしもべに過ぎなかったのでしょう。つまり、バラバとは神の子という意味ではありません。バラバは父の子、自分の罪のために苦しまなければならない人間の息子。すなわち、人の子を意味するものです。
2.人の子たちの愚かさ。
人の子。どこか、たくさん聞いた言葉ではないでしょうか?『人の子が、仕えられるためではなく 仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと、同じように。』(マタイ20:28)イエスは、福音書でご自分を指す時に、「人の子」という言葉をよく用いられました。これを通して、イエスが自らをバラバと言われたといっても過言ではないだろうと思います。神の御子イエス・キリストが自らを人の子であると示されたというのは、果たしてどのような意味なのでしょうか?もちろん、主は自らを謙虚に低めるために人の子という別称を用いられたかも知れません。しかし、それだけでなく、さらに罪によって死ぬしかない罪人の立場に、ご自分が身をもって立ち、罪人に仕えるために、自分自身のことを人の子であるとなさったことではないでしょうか?イエスは神の子でいらっしゃいましたが、自らが人の子、バラバになり、罪人の苦しみと悲しみ、罪による死のところに行かれたということではないでしょうか?今日の本文の最後の言葉は、このようなイメージを私たちに示しています。『神の子が、人の子の立場に行かれた。それによって人の子は、死から救われて、代わりに神の子とされた。』これが今日の言葉が、私たちに示している主の恵みだと思います。
しかし、人々はこのように人の子を愛してくださった主イエスの心が分かりませんでした。誰よりも、神の御心をよく知り、従うべきであった大祭司は、神のご計画も分からないまま、ただ自分の利益のために、キリストの死を望んだ者です。『一人の人間が、民の代わりに、死ぬ方が好都合だと、ユダヤ人たちに助言したのは、このカイアファであった。』(18:14)神はこのような邪悪な者の口を借りて、お一人、キリストの死によって、多くの命が救われるようになると教えてくださいました。しかし、そのようなことを告げたことにも拘わらず、大祭司は、ただ自分の利益のために、一人のキリストが死ななければならないと思っただけです。つまり、彼は自分が何を言ったのかも、知らなかったわけです。『ペトロは打ち消して、違うと言った。』(25)教会を代表する使徒たちの中でも、イエスの一番弟子であったペトロは、失望と不安の中で、イエス・キリストを否定しました。彼はイエス・キリストを完全に信じていなかったかも知れません。『人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。』(ルカ9:22)イエスが明らかにご自分が復活されると教えてくださったことにも拘わらず、ペトロは権力者イエスの片腕になろうとしていた自分の考えと野心に陥って、主の御心を正しく知らず、誤解していたわけです。
イスラエルの群衆は、邪悪な大祭司やファリサイ派の人などによって煽られて、一週間前にホサナを叫んで歓迎していた姿とは違って、イエスを十字架につけろと叫びました。イエスが自分たちが願っていた権力者ではないことに気が付いたからです。彼らが追求したのは、イエスによる神の国ではなかったかもしれません。彼らは帝国の皇帝としてのイエスを期待したかも知れません。『祭司長たちや下役たちは、イエスを見ると、十字架につけろ。十字架につけろと叫んだ。ピラトは言った。あなたたちが引き取って、十字架につけるがよい。私はこの男に罪を見いだせない。』(19: 6)ローマ帝国の総督であったピラトは、いかがでしょうか?キリストから罪が見つからなかったことにも拘わらず、イスラエルの多数がせがんできて、イエスを十字架に押し込んでしまいました。罪人である人の子、バラバの代わりに、神の子、イエスを捨てたのです。『地上の王は構え、支配者は結束して、主に逆らい、主の油注がれた方に逆らうのか』(詩篇2:2)の言葉のように、人々は神の油注がれた者、神の子イエス・キリストに逆らい、殺そうとしました。このすべての愚かな人々、皆が人の子であり、誰もが、バラバだったのです。しかし、イエス・キリストは、自分自身を迫害する、このすべての人の罪のために、自ら人の子バラバになってくださいました。そして、父なる神の御心に聞き従い、十字架の道に進んで行かれました。
3.イエス・キリストが証する真理‐神の国。
ピラトはローマ帝国から派遣された、イスラエルの本当の権力者でした。イスラエルで彼に反抗する人はいませんでした。イスラエルの王であったヘロデも、権力者であった大祭司も彼に逆らうことが出来ませんでした。彼は、イスラエルの王のような人物でした。しかし、実は彼も人の子に過ぎなかったのです。彼も結局、バラバの立場にあるべき一介の人間だったということです。『ピラトはもう一度官邸に入り、イエスを呼び出して、お前がユダヤ人の王なのかと言った。』(ヨハネ18:33)そのようなピラトが、真のイスラエルの王であるキリストにお前がユダヤ人の王なのかと尋ねてきたのです。皮肉なことに、罪人の王が、義人の王に『本当の王なのか』と尋ねる愚かを犯したということです。『イエスはお答えになった。私の国は、この世には属していない。もし、私の国がこの世に属していれば、私がユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、私の国はこの世には属していない。 』(36)そんな彼に、主は『私が王であることは、確かである。しかし、私の国はこの世のものではない』とお答になりました。
神の子である主が、人の子らに苦しめられ、死まで至ることになりましたが、彼らを憎まず、愛してくださった理由は、イエス・キリストの御心が人の思いよりも遥かに高くにあったからです。人の子は、ただ自分の目に見えるもの、自分たちの測りうるものだけを見ようとします。すなわち、この地にある自分の有益だけに心を尽すということです。これは、ペトロ、大祭司、群衆、ピラト、すべての人に同じ事柄です。そして、これは私たちにも該当するものなのです。しかし、主は、ご自分の有益ではなく、ご自分の苦難によって成就される、人の子らの救いと神の御国の成立を眺められたのです。神の子において、人の子の立場に来なければならないという、義務はありません。罪を犯し、神から離れたのは人間のほうだったからです。神様は何の理由もなく、人間を捨てられたことではありません。人間が先に神様に不従順したからです。人々が罪のため滅ぼされても、神には何の被害も及ぼされません。それにもかかわらず、むしろ、神は最後まで人間への責任を負い、ご自分の被造物である人間を生かそうとなさいました。しかも、御子イエスを捨ててまでです。神はこれらのすべての罪人が赦しを受けて、キリストを中心として一つになる真の平和と愛の国を望まれました。イエス・キリストはこのような神の国を望んでおられたのです。
『そこでピラトが、それでは、やはり王なのかと言うと、イエスはお答えになった。私が王だとは、あなたが言っていることです。私は真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、私の声を聞く。』(37)キリストが、この世に王として来られた理由は、権力者になって君臨するためではありません。彼が来られた理由は、真理について証しをするためでした。ピラトはイエスに『真理とは何なのか?』と問いました。これは私たちもすべき質問でもあります。過去、私はローマ2章の説教をしながら、真理の意味について、お話しました。聖書が語る真理とは、『表だけに見られる現象ではなく、ある物事の背後に隠れている本当のことを意味する。』と言いました。イエス・キリストがこの世の王として来られたのは、目に見える大帝国(表)を立てるためではありません。それより、目に見えない神の国(真理)を立てるために来られたのです。この世のことしか、知らなかったピラトは、イエス・キリストが夢見た本当のこと、即ち、真理とは何か、分かることが出来ませんでした。ここでの主イエスが証しした真理とは神の国の成立です。世の帝国より、はるかに大いなる神様が、手ずから治められる、神の国がイエスによって成し遂げられることです。これこそが本当の真理まのです。すべての罪人が罪による死の恐怖から抜け出し、神の子として、互いに愛しあい、神のご意志を成し遂げていく神の国。それこそが、神の国、イエス・キリストが仰る真理なのです。そこは神に許された人だけが享受できる国です。その国は神の子という身分がある時だけ、堂々と入ることができる所です。この世の人類、すべての罪人が持っているバラバ・イエス、人の子という身分としては許されません。しかし、キリスト・イエスによって神の子という身分にされた人は、罪人ではなく、義人として、神の国に入ることになります。『人の子であるあなたは、私によって、神の子となりなさい。そして、神の国に入りなさい。』イエス様が伝えようとした真理は、これなのです。
結論。
イエスは神の子です。神の子という言葉は、神の被造物という言葉ではなく、父なる神と同等の立場にたっているという意味です。須恵町の信徒たち、志免町の信徒たち、韓国からの牧師夫婦。私たちは、故郷、家柄、状況は異なりますが、人間という点では同じです。イエスは御子と呼ばれますが、父よりも劣る存在ではありません。つまり、彼も偉大な神様であるということです。この神様自らが人となられ、人間にご自分の特権を分けてくださいました。そのため、私たちは神の子となることが出来るのです。神の子になったので、私たちは恐怖と不安を追い払い、神の子と認められ、神の国に入ることができます。ペトロ、大祭司、群衆、ピラト、そして、私たちまで、すべての人は、この世の目に見えるものだけを追い求めていました。しかし、イエスは、すべての罪人を赦し、神に至る道を開いてくださいました。我々は皆、バラバなのです。我々は皆、人の子です。しかし、私たちは、イエス・キリストを信じる信仰によって、もはや人の子ではなく、神の子として生きていくことができます。このために、主が私たちに来てくださったのです。この一週間、神の子として召された私たちの在り方を省み、主の喜びとなる人生を生きていきましょう。皆様の上に主の恵みがありますように祈り願います。