詩編14:1-3
ローマの信徒への手紙 3:1-20
前置き
パウロは、ローマ書1章を通して、人類が持っている罪と不義に対する神の裁きを語りました。その後2章では、『神の民』が、その罪人を判断することについて、彼らも同じく大きな違いのない罪人であることを力説しました。パウロは『神の民』のモデルとして、ユダヤ人を例として挙げ、彼らが『特権であり誇りである』と思っていた律法についての誤解を批判しました。律法を持っているので、自らを義人だと思っていたユダヤ人たちが、結局は神の前で同じ罪人であることを話したものです。パウロは『律法を聞く者が神の前で正しいのではなく、これを実行する者が、義とされるからです。』(2:13)という言葉で、真の義とは律法の所有によるのではない、律法の精神を守ることによって生じると話しました。そして、これは単にユダヤ人だけでなく、『神の民であるため、罪人とは異なるという特権意識』を持っている、すべてのキリスト者も同様であることを示しています。結局、ローマ書2章のユダヤ人への批判は、一次的にユダヤ人に、二次的には今日を生きていく私たちにも、同じく適用されるパウロの警告なのです。
1.律法の所有が救いを保証することではない。
2章で、想定モデルとしてのユダヤ人に訓戒するような姿勢を取りながら、信じる者の特権意識を指摘したパウロは、3章では、本格的に論争をしつつ、話を続けていきます。3章8節に『わたしたちがこう主張していると中傷する人々がいますが、』という言葉を通して、3章の会話がパウロの教えに反対する人たちとの論争であることが分かります。つまり、3章で、パウロは、ユダヤ人批判者と論争しながら、もう一度、ユダヤ人が誤解している律法について言い及ぶのです。2章がユダヤ人という仮想の象徴的人物を通して、ユダヤ人はもとより、すべての信じる者にした訓戒であれば、3章では、本格的にユダヤ人との論争を用いて、ユダヤ人が持つ特権意識に反論するという意味です。
1節『では、ユダヤ人の優れた点は何か。割礼の利益は何か。』これは『神がユダヤ人の祖先であるアブラハムを選び、ご自分の民にしてくださり、割礼という意識を通して、他の民族と区別してくださったのに、これが何の意味もないという意味か?』という質問です。ユダヤ人の特権意識が、どこから来たのかが分かる部分です。『それはあらゆる面からいろいろ指摘できます。まず、彼らは神の言葉を委ねられたのです。』パウロはこのような答えを通して、ユダヤ人が律法を所有したこと、そのものが大事なことではなく、ユダヤ人に与えられた言葉、すなわち、律法の精神の重要性を強調しています。新約で神の御言葉を意味するロゴスが持つ意味は、ただ言語という意味のほかに精神あるいは関係という意味を持っています。ユダヤ人に言葉が委ねられたという意味は、神が要求しておられるところ、神の御心を把握し、それをこの世で実践して生きることを意味します。これは言葉を所有するというのは特権になることではなく、神の御心を実践するための義務となるということです。ここで、私達は律法を所有していることだけで、ユダヤ人は特別であるという特権意識の無意味さが分かります。
3節『それはいったいどういうことか。彼らの中に不誠実な者たちがいたにせよ、その不誠実のせいで、神の誠実が無にされるとでも言うのですか。』新共同訳では、不誠実な者だと書かれていますが、これを直訳すると「信頼しない者」となります。ここで突然、信頼という言葉が出てくる理由は、ギリシャ語原語との関係があるためです。 2節で『言葉をゆだねられた。』という言葉が出て来ますが、原語の直訳では『誰かに信頼された。』という言葉となります。つまり、2節での『神の言葉をゆだねられた。』 という言葉は、『彼らは神に信頼された。』と解釈することが出来ます。先に私は神のロゴスには関係という意味も含まれているとお話ししました。神は民との信頼関係の中で、律法を任せられました。神の言葉を委ねられたということは、神との信頼関係の中にあるという意味です。しかし、ユダヤ人は、何度も信頼関係の律法の精神を破り、異邦の神々を拝んだのです。私たちは、旧約聖書を通して、旧約の民がどのように神との関係を破っていったのか明確に知ることが出来ます。そういうわけで、3節の質問は、このように解釈することが出来ると思います。 『ユダヤ人が神を信頼しないからと言って、誠実な神がイスラエル民族との契約を破られ、自分の民を異邦の罪人のように見捨てられるということか?』この質問にも、まだユダヤ人の特権意識が感じられます。パウロは4節を通して人は不誠実つまり、不義でありますが、神様は決してそのような方ではないという答えで、神の完全無欠さを守りつつ、3節の論争を一段落させます。
2.自らを正しいと思ったユダヤ人の罪。
ローマ書は、パウロの殉教の約10年前に記された文書だそうです。つまり、ローマ書はパウロがイエスを信じてから、数々の経験をした後、ローマ教会に送った手紙なんです。そういうわけで、ユダヤ人との仮想対話にはパウロ個人の経験が多く含まれています。パウロは、ユダヤ人の会堂でイエス・キリストの福音を紹介しながら、ユダヤ人と多くの論争をしたでしょう。神が自分らだけに律法を与えられたと信じていたユダヤ人たちは、律法の所有が神の特権ではなく、ユダヤ人も、神に見捨てられ得るというパウロの言葉に大きな衝撃を受け、多くの反論を申し立てたでしょう。そのうちの一つが今日の本文の5節-8節の話です。ユダヤ人たちは、『ユダヤ人が神様を信頼しなかったからといって、誠実な神様がユダヤ人を捨てられるのか? 律法を通してユダヤ人の救いを契約した神様が契約を守らないというのは、神様が”不誠実な方”ということではないか。』と反問したものです。これに対し、パウロは『ユダヤ人が、いかに不誠実で罪を犯しても、 神様が誠実な方だということは決して変わらない。』と答えたのです。むしろ、誠実な神様だからこそ、ユダヤ人の不誠実を赦し、キリストを通して救ってくださると語ったのでしょう。パウロはユダヤ人の不義のため、むしろ、主の義が現れると語ったのでしょう。これらのパウロの教えにユダヤ人たちは、自分たちにではなく、キリストに義があるという話に皮肉を言い、『善が生じるために悪をしよう。』と言ったのです。
このような背景をもって5-8節を読めば、割と容易に内容が分かるようになると思います。『しかし、わたしたちの不義が神の義を明らかにするとしたら、それに対して何と言うべきでしょう。人間の論法に従って言いますが、怒りを発する神は正しくないのですか。』この言葉を、より理解しやすく翻訳してみましょう。『ユダヤ人が契約を破ったからと言って、神様も契約を破る不義な神になるわけではない。これは、人間の視点でしかない。あなたの不義に対して怒りを発する神は正しくないのか』これは、ユダヤ人が過去、神との信頼関係を壊す罪を犯しましたが、神は依然として、その信頼関係を保っておられることを意味します。ただ、神様は律法ではなくイエス・キリストを通して、ユダヤ人との関係を保たれ、彼らの罪を赦し、救ってくださることを望んでおられるのです。しかし、ユダヤ人は、自分らが不義であるという言葉を納得できず、自分らが不義であれば、不義に放って置かれた神様も同じように不義の神になるだろうと頑なに意地を張っているのです。彼らは決して自分が正しいという考えを諦めないということです。これは、神を下げ、自分を高める大きな不敬になります。
『わたしの偽りによって神の真実がいっそう明らかにされて、神の栄光となるのであれば、なぜ、わたしはなおも罪人として裁かれねばならないのでしょう。それに、もしそうであれば、「善が生じるために悪をしよう」とも言えるのではないでしょうか。』ユダヤ人たちは、続けて不敬な話を吐き出します。『パウロよ、あなたの言葉のように私たちの不義によって神の義が明らかになり、栄光を得られるとしたら、むしろ私たちは神様の裁きを受けてはならないだろう。 ならば、神様の善が生じるために悪をしなければならない。』キリストを露わに否定し、むしろ、自分たちに正当性を与えようとしたユダヤ人は、頑固にパウロの教えに真っ向から反論しました。ここで、人間が持っている致命的な罪が明らかに現れます。自らを正しく思い、自らの考えを最後まで正しいと主張する彼らを見て、私たちは、創世記で自分の判断に従って、神の言葉に聞き従わなかったアダムのような姿を見ることが出来ます。結局、ユダヤ人たちは、自分は選ばれたという勘違いの中で、アダムが犯した罪を、同じく犯しているのです。パウロは、これによって、ユダヤ人が持っている罪の性質を告発し、最終的にユダヤ人も、神の御前で罪人であることを現わしてくれます。この話は、すでに2章5節にも現れていました。『あなたは、かたくなで心を改めようとせず、神の怒りを自分のために蓄えています。この怒りは、神が正しい裁きを行われる怒りの日に現れるでしょう。』
3.人は罪から自由になれない。
これらの1-8節の物語を通して、パウロは、結局『ユダヤ人はそこまでだ。』という限界を示しています。そして自分自身を弁護するために、パウロが伝えた福音を歪め、拒んだ彼らに『こういう者たちが罰を受けるのは当然です。』と評価しています。だからといって、パウロが、キリスト者がユダヤ人にまさると話しているとは言えません。むしろ、同じように扱っています。 『では、どうなのか。わたしたちには優れた点があるのでしょうか。全くありません。既に指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです。』(9)パウロは、すべての人が罪人であるだけだと話しているのです。ここで、パウロがした、これまでのユダヤ人への教えと対話が、最終的にはキリスト者にも適用されるものであることが分かります。私たちは、これにより、ユダヤ人、キリスト者、未信者を問わず、すべての人が罪の下におり、神の裁きの下にあるということが分かります。 『正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく、神を探し求める者もいない。皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。』(10-12)パウロは、詩編14編を引用して、ユダヤ人たちが大切にした律法も、人間の本質についてこう評価したということを示し、確証します。
ここまで聞いたら、ローマ書の読み手は一つ悩むようになると思います。 『それなら、人間には全く希望がないということか?人間はただ生きていきながら、罪を犯すことしかないのか?』 残念なことに、聖書はそうであると話しています。『彼らの喉は開いた墓のようであり、彼らは舌で人を欺き、その唇には蝮の毒がある。口は、呪いと苦味で満ち、足は血を流すのに速く、その道には破壊と悲惨がある。彼らは平和の道を知らない。彼らの目には神への畏れがない。』パウロは13-18節を通して、旧約聖書に記された多数の罪を数え立てながら、人間は正しくないと話しています。実に人間には惨めさしかないということです。『さて、わたしたちが知っているように、すべて律法の言うところは、律法の下にいる人々に向けられています。それは、すべての人の口がふさがれて、全世界が神の裁きに服するようになるためなのです。 なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。』(ローマ書3章19-10)さらに悲惨なことは、その罪の中にいる人間は、神に与えられた律法さえも、到底、守ることが出来ないということです。
パウロは今までの教えを通して『律法は聞くものではなく、実行するものである』と話しましたが、実は人間というものは、そのような法律の精神を守ることさえ出来ない無力な存在であり、罪だらけの存在であると再び話しています。神を知らない未信者も、旧約の民も、新約のキリスト者も、皆が自力では、神に認められない罪人であり、弱い存在であり、悪の存在だということです。実にパウロは、人間という存在へのポジティブな眼差しを諦めています。ただ人間には絶望だけがあるというのがパウロの教えの中身です。しかし、今日、聖書がここまで人間を必死に否んだ理由は、逆に、その人間という存在を救う希望の存在があるということを強調するためでした。私たちは、すでに御子イエス・キリストがユダヤ人、キリスト者、未信者を問わず、すべての人類のために、代わりに神の律法を満足させ、罪の力を打ち破り、救い主になってくださったことを知っています。人間という存在の中に絶望だけで、希望はないという事実で終わるのではなく、神様はそのような人間を見捨てられず、イエス・キリストという希望の存在を備えてくださったということ、それが今日の説教の一番大事な内容なんです。
締め括り、私たちの外から来る神の義。
今日ローマ書の言葉は、あまりにも人間の無力さを強調したあまり、聞き手が疲れを感じるほどの絶望的な話しだったと思います。しかし、パウロはすこし後の箇所で、そのような絶望的な人間に神様の愛と希望が来ると教えてくれます。今日の御言葉を通して、私たちは、私たち自身が、どれほど罪のため、弱い存在になっているのか悟らなければなりません。悟る時に、私たちの救いと力になってくださるイエス・キリストへの大きな信頼と希望を持つことが出来ます。『わたしは罪をあなたに示し咎を隠しませんでした。わたしは言いました。主にわたしの背きを告白しようと。そのとき、あなたはわたしの罪と過ちを赦してくださいました。』(詩篇32:5)人が自分の罪を告白するということは難しいことです。神を知らない、この世の人々は、自ら罪人であることを認める人を不思議に思います。しかし、神はそうではありません。神様は自分の罪を告白し、神様に助けを求める者に赦しと愛とを与えてくださいます。神はイエス・キリストの贖いを通して、罪人をお赦しくださるとお定めになりました。キリストに完全な神の義があるからです。結局、完全な義は私たち人間の心や行いからではなく、神に認められたイエス・キリストから来るのです。私たちは、そのイエス・キリストへの信仰によって義とされるでしょう。ユダヤ人の失敗を他山の石とし、私たちは、ひたすら主イエスに希望を置いて、生きていきましょう。来たる一週間、神様の平和を祈ります。