李相珌(イサンピル) 牧師
申命記6章4-5、マルコによる福音書12章28-31
前置き
今日、わたしたちが読みました本文である申命記 6 章4節 5 節は非常によく知らされております御言葉であります。この御言葉は神様を信じるすべての人々にとって一番大事な御言葉の一つであります。この御言葉を通して神様に対する私たちの愛をもう一度点検して見たいと思います。 本論 申命記はモーセが荒野の生活をおえてカナアンに入っていこうとするイスラエルの民に与える神様の戒めの御言葉であります。その御言葉の中でも今日の本文が一番核心的な御 言葉であると言われるほど、イスラエル民族だけではなく、神様を信じるすべての人々が 深く黙想しなければならない御言葉であります。 本文は「聞け」と言う御言葉から始まります。これは聞いてくださいと言う言葉では ありません。「聞け」という命令であります。単純に聞こえる通りに聞くという意味では ないのであります。これは注意を集中して耳を傾けてきくという意味であります。そして 聞いた御言葉を心に刻むことであります。では、モーセがイスラエルの民に心に刻みなさ いといわれたこの御言葉はどんな内容でしょうか。
そこには核心的な内容が二つあります。一つは、神、主は唯一の主であるということで あります。もう一つは、神、主を愛しなさいということであります。私たちが信じる神様 は唯一の神様であります。唯一という意味はいくつの中の一つという相対的な意味ではあ りません。これは絶対的な唯一という意味であります。私たちの神様はいくつの神々の中 の神ではなく唯一無二の神様であります。人間たちはこの世の中に生きる時に自分のために多様な神々を作っていきます。たとえ ば自然から神々を作ることもあります。自分の前に広がる広大な自然を見た時、また、そ の力を経験した時にそれらに恐れを感じそれらを神にして仕えて行こうとします。つまり、それら作られたものに神性を与えて、それを神として崇めるのであります。
しかし、私たちの神様はそれらの神々とまったく違う神様であります。つまり、神々は 作られたものであるが、私たちが信じる神様はあってあるお方であります。存在そのもの であります。時間の概念と空間の概念がなかった時にも神様は存在していたのであります。その神様がこの世を創造されました。その創造はすでに存在していた物質からの創造では なく、無から有を創造されました。時間と空間も存在しなかったその時に神様はそこにお られ、この世を創造られました。その神様がまさに私たちの神様、主であられます。また、4節の御言葉に強調されているのは主であります。ヘブライ語でヤハウェ、英語 ではエホバであります。4節を元文からもうしますともっと明確にこうなっております。 「主は我らの神、主は唯一の神」つまり、主を 2 回連続で語ることによってそれを特別に 強調していることであります。では、なぜモ-セは主を強調しようとしたのでしょうか。 結論からもうしますと実はこの文章から言えるのは、強い主権的イメージの神様よりは 信実な主である神様が強調されているのであります。
主はイスラエルの民との契約のもとで、エジプトから導きだし、そして、40 年の荒野 を導いてこられました。その荒野の時代において、主は常に信実であられました。それを モ-セは身をもって経験したのであります。だから、モ-セが主と告白する時そこには信 実という意味が強調され含まれているのであります。さらに、主との契約は 進行中であ ります。その契約というものは一体何でしょうか。それはエジプトの圧制の中であった ヘブライ人をエジプトから導き出し、乳と蜜の流れるカナアンに導き入れるという契約で あります。だから、モーセは主とのその契約をすこしも疑わないことを強調しているので あります。さらに、モーセは唯一の主を強調しながら「あなたの神、主を愛しなさい」と 命じます。モーセが語ろうとしていた最も重要な核心はまさにここにあります。
人は誰でも 自分が愛しているものを 一番大事にします。それを すべての物事の 判断の基準にします。自分がやりたいことがあっても、愛する人に 少しでも不便を か けることなら、やりません。逆に、自分がやりたくないことでも 愛する人か 欲しけれ ば やります。これが まさに愛というものが 持つ力の一つであります。それで、モーセは「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力をつくして、あなたの神、 主を愛しなさい」と命じます。ここで心と翻訳されたヘブライ語 レバップは本来人の心 臓という意味でそれは人間の 三つの心的要素である知性と感性と意志を含む人間の内的 本質を意味します。魂と翻訳されたヘブライ語 ネフィッシュは呼吸という意味で生命や 魂などの意味を含んでいます。そして力と翻訳されたヘブライ語メオドは、肉体的な活動能力または、精神的な活動能力などを、いきている者が行うあらゆる能力を意味するもの であります。それでは、「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして」という意味 はおわかりでしょうか。それは知性と感性と意志を尽くし、生きている生命を尽くして、 そして、自分が行えるすべての能力をつくして主を愛するということであります。
イエス様がこの御言葉を通して律法学者に教えることをマルコによる福音書 12 章 29- 30 節に見ることができます。28 節を見ますと一人の律法学者がイエス様にこのように尋 ねました。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」ここで「第一の意味は 「最も重要なこと」の意味であります。彼にイエス様がこのように答えました。「第一の 掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、私たちの神である主は、唯一の主である。心 を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさ い。』」イエス様も、この御言葉が「第一」、すなわち「最も重要な掟だ」とおっしゃいました。この御言葉は、私たちにも最も重要な御言葉であります。私たちも 心を尽くし、 精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、すなわち、生きている間、私たちのすべて を尽くして、ただ、主を愛しなさいということであります。私たちの生活の基準、判断の 基準、行為の基準、教えと学びの基準が主でなければならないということであります。
しかし、私たちはそのように生きることができない場合が多いであります。わたしたち のすべての基準が主ではなくこの世的なものになる場合が多いであります。実に私たちは この世の基準にすっかりと馴染んでいると言ってもよいではないでしょうか。主を愛していると告白しながら、私たちはこの世も愛しています。それで私たちは時には主と世の間 で葛藤したり、悩んだりします。時には主に重きを置いたり、時にはこの世に重きを置い たりして生きていきます。時には主よりもこの世をもっと愛して生きていく場合がありま す。もしかしたらこの世がむしろ私たちの主人になって私たちの生を導いているかも知れ ません。
しかし一つ重要なことはこの世的なものが私たちの生活に必要であってもそれが私たち の人生の主人になってはいけないということであります。イエス様はマタイによる福音書 6 章 24 節でこうおっしゃいました。「だれも 二人の主人に仕えることはできない。一 方を憎んで他方を愛するか一方を親しんで他方を軽んじるかどちらかである。」人間は属 性上どちらかに生きていかなければなりません。だから人間の属性をよく知っているイエ ス様が そのようにおっしゃいました。私たちの人生の意味と価値はながれ行くこの世的 なものであってはなりません。私たちの人生の意味と価値は私たちの生命にありますし、その生命をあったえてくださる主にあります。私たちが心を尽くして愛しなければならないのはほかでもなく主でなければなりません。ただ 私たちは 唯一の神、主だけを 愛 しなければなりません。
締め括り
今日私たちはモーセが命じたことを一緒に考えてみました。この命令は非常にふるい命 令ですがそれでも今日の私たちの生活に適用しなければなりません。なぜならこれは永遠 に変わることのない命令だからであります。だから私たちは主の御言葉を聞く人生を歩んでいくようにいたしましょう。それは世の声に従うよりは主の御言葉に耳を傾けることで あります。ただ唯一の神様を信じ、その導きに生きることを祈り求めましょう。神様は 私たちと契約を結んだお方だからであります。だから私たちは心を尽くし、魂を尽くし、力をつくして主を愛し、私たちの人生の主人とし、すべての生活の基準にしましょう。そして主の御言葉が私たちの生活の道しるべになるように、私たちの心に刻んで、その御言葉をいつも黙想しながら生きて行く私と皆さんになるように心からお願います。