エゼキエル34章7-10節
ヨハネによる福音書 10章1‐21節
キリスト教は三位一体なる神のみ、創り主、救い主、助け主として認められ、その中で、ひたすらイエス・キリストが中心となって、神と世界を理解するキリスト中心的な宗教であります。この世界の誰も、神様から遣わされたキリストに取って代わることが出来ず、そのキリストだけが神様に認められた世界の支配者であることを認め、信じる宗教です。父なる神様が旧約とは違って、イエス・キリストだけを三位一体の代表にしてくださり、玉座を譲ってくださった宗教であります。イエス・キリストは勝利者です。終わりの日には新約聖書の弱くて穏やかなイメージではなく、戦争に勝利した凱旋将軍の姿で再び、この世に来られるでしょう。イエス様が再臨される終わりの日、主イエスは、この世界のすべての善と悪を裁かれ、その栄光の玉座を父なる神様に返されるでしょう。これがキリスト教の伝統的な終末論なんです。
それにもかかわらず、このような勝利者イエス・キリストは、相変わらず羊を愛し、守る穏やかな良い羊飼いのイメージを持って、常に私たちに慰めと愛を与えてくださいます。そして、自らご自分を良い牧者だと称され、ご自分を信じる者をご自分の羊として招かれます。そして、お赦しくださり、お助けくださいます。イエス・キリストは、良い羊飼いです。彼に従って生きる者たちに『主は羊飼い、私には何も欠けることがない。』という詩篇の言葉のように希望と喜びを与えてくださる方です。ところで、私たちは、このイエス・キリストに選ばれ、彼の体なる教会の一員として生きています。それは私達がただの羊であるだけでなく、主の務めを分け与えられた存在だという意味です。この世で大牧者である主イエスの小さな羊飼いとして良い羊飼いの任務を持って生きているという意味です。主の羊として主の体なる教会になったら、主の小さな羊飼いとしての人生をも生きなければならないからです。そういう意味で、キリスト者なら、自分が羊であるということと共に羊飼いでもあるというアイデンティティを持って、この世界を生きて行くべきです。世の中には良い羊飼いと悪い羊飼いがいます。私たちは、果たして、どちらでしょうか?今日は、私たちが、果たして、どのような羊飼いなのか、また、どのような羊なのか考えてみたいと思います。
1.良い大牧者イエスと小さな羊飼いキリスト者。
イエス・キリストは、良い大牧者です。神を知らず、信じてもいないこの世で、神に選ばれた者たちを導かれ、神の牧場に連れて行かれる愛に満ちた大牧者です。また、イエス様は、羊の門です。誰でも自由に入ることが出来ない、ただ、選ばれた羊だけが入ることが出来る、たった1つの羊の門です。愛のない、他者のためではなく、もっぱら自分のために生きていく、自分のためなら他者が死んでも構わない邪悪な世界で、自らの命を捧げながらも、羊を愛してくださる真の羊の保護者になってくださる方です。『私は良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。』(ヨハネ10:11)ところで、このイエス様は自らが大牧者になってくださることと、同時に主の共同体の指導者にも、主の御心に聞き従う小さな牧者としての務めを与えてくださいました。今日の旧約本文に羊飼いという言葉が出てきます。これは、イスラエルを治める王と貴族を示す意味です。彼らは民を愛さず、自分らの欲望だけを満たそうとした人々でした。主はそんな彼らに滅亡という恐ろしい裁きを下しました。
良い大牧者イエス様は、ご自分の命すら捨ててまで、民を生かされた愛の主でしたが、滅ぼされたイスラエルの牧者たち、つまり指導者たちは、自分らの名誉、権威、富だけを考え、貧しくて可哀相な民の事情には何の興味も持っていませんでした。もちろん、神様に褒められた王と貴族もいましたが、ほとんどの王族や貴族は民の幸せより、自分の欲望を満たすのに忙しかったのです。神はこの世の一挙一動を全部知っておられる方です。私たちの髪の毛さえも数えられる方です。そのため、苦しんでいる民の呻き声と涙にさらに深い共感と関心を持っておられる方です。そのような神の御心を理解ぜず、むしろ民を放っておいた牧者たちのせいで、イスラエルは神に呪われ、他国に滅ぼされてしまいました。羊を愛さず、打ち捨てた羊飼いたちは、心深く羊を愛される大牧者に裁かれ、滅ぼされたのです。
皆さん、私達、教会はイエス・キリストの体です。教会は、イエスの手と足、唇になって、イエス様が愛する人々に仕え、主の福音を宣べ伝える使命を持っています。私たち志免教会の一人一人が皆、主の手と足、唇としての人生を生きています。隣人に仕え、愛することは、イエスの体であるキリスト者において、当たり前なことであり、近所の人々に主の福音を伝えることは、私たちが召される日まで止まってはならない非常に重要な価値であります。牧師、宣教師、伝道師、教職者だけが羊飼いではありません。大牧者であるキリストの教会を成す全ての信徒は、イエス・キリストに羊飼いとしての任務を与えられた主の小さな羊飼いです。ですので、私たちは教会員どうし、お互いに自分の羊のように愛しなければなりません。また、まだ信じていない周りの隣人にも、失われた羊だと思い、福音を伝え、愛をもって仕える義務があります。ただイエスを信じ、祝福され、天の国に入り、自分だけのために信仰生活をするなら、それは神に呪われた、昔のイスラエルの王族と貴族の形と、別に違いがないでしょう。大牧者イエス・キリストによって遣わされた私たちは、主の小さな羊飼いです。今、私達の心に小さな羊飼いとしての自覚があるかどうか、考えて見るべきだと思います。
2.羊は羊飼いの声を聞き分ける。
教会の真の良い羊飼いはイエス・キリストです。韓国の教会では、たまにあることですが、教会に仕えるために召された牧師が、『自分は特別に選ばれた羊飼いである。』という考えを持っている場合が少なくないと思います。言葉では牧師ですが、まるで、自分が教会の所有者のように振舞うケースがあるということです。しかし、厳密に言えば牧師も、結局、羊の群れの中で、教える務めを与えられた、羊を教える羊に過ぎないです。つまり、牧師も、信徒も、皆が主の羊であり、皆、お互い助け合う主の小さな羊飼いとして選ばれた者であると考えるのが正しいではないかと思います。ただ、教職者は神学、聖書について専門的に勉強したので、講壇では権威を認められるべきだと思いますが、牧師も基本的には主の羊ですので、教職者も、主の羊として、神の声を謙虚に受け入れなければなりません。時々。神学博士の知識を超える本質的な神の言葉が幼稚園の子供の口から出るときもあるからです。主の羊といえば、謙虚に主の御言葉に与かるものです。それでは、果たして主の言葉とは何でしょうか?
それはイエス・キリストを通して聞こえて来る聖書の御言葉を意味します。イエスを通さずに、聞こえてくる全ての愛の言葉、聖書の言葉、救いの言葉、宗教的な言葉は注意する必要があります。韓国から渡ってきた統一教会、アメリカから渡ってきエホバの証人など、イエスを認めない、全ての聖書の教えは、残念ながら、全部嘘ばかりです。彼らは盗人であり、強盗であります。これは私たちだけが真理だという独断ではありません。これは彼らが正しい救いの道ではなく、イエス・キリストを示さない間違った教えを伝えるからです。今日の本文はこう語っています。『はっきり言っておく。私は羊の門である。 私より前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。』(ヨハネ10:7-8)本当にイエス・キリストの民となった者は、ただイエス・キリストの言葉だけを聞くものです。 『盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。私が来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。』(ヨハネ10:10)私達は主の羊として主の言葉を聞き分け、主イエスだけを通して神様に行かなければなりません。イエスのない言葉は、虚しさに過ぎないのです。
今の私たちは、大牧者である主イエス・キリストをちゃんと伝えている良い羊飼いとして生きているでしょうか?そして、主イエス・キリストの御言葉をきちんと聞き分ける本当の羊として生きているでしょうか?私たちは、主の言葉を、どのように受け入れ、生きていっていますか?聖書は良い大牧者イエスと悪い羊飼いについて明確に比較しています。この聖書の言葉を通して主の御言葉に与かった私たちは、その違いを通して自分自身を省みるべきだと思います。このような反省を通して、悔い改めが始まり、その悔い改めを通して神の恵みが臨むからです。今日の話を締め括る前に、二人の日本のキリスト者の話しを分かち合いたいと思います。この話を聞きながら、真の羊飼い、真の羊は果たして、どちらか?考えてみる時間にしたいと思います。
3.良い羊飼い、悪い羊飼い。
1941年、昭和16年6月、日本の34個のプロテスタント教派は強制的に統合されます。これは軍国主義による教会統制の一環でした。このような統合により、生まれたのが、まさに日本キリスト教団です。その日本キリスト教団の初代議長は富田満という神学者でした。愛知県春日井市出身の富田満は、旧日本キリスト教会の大会議長であり、東京神学校の理事長などを歴任するほど、影響力のある牧師でした。彼は正統的なキリスト信仰とは違う自由主義的な神学を用い、軍国主義に賛同し、最終的には神社参拝は偶像崇拝ではなく、国民儀礼であるという言い訳をしました。また、彼の導きにより、日本の教会は、神社参拝を行います。それだけではなく、彼の主張の下で、朝鮮の教会も神社参拝を強要されます。韓国のチュ・キチョル牧師は神社参拝を拒否したため、投獄され、殉教しました。大勢の信徒が信仰を守るために投獄されたり、殺されたりしました。一方、大勢の朝鮮の牧師たちは、富田の主張に負け、朝鮮神宮で参拝を行なってしまいます。そのような韓国の牧師たちが、今も韓国のキリスト教の偉大な指導者として尊敬される場合があり、遺憾を禁じ得ません。富田満は、戦後、ちゃんとした懺悔や謝罪もせず、日本キリスト教団の影響力のある牧師として活動し、1961年に亡くなります。
韓国のソウルには楊花津宣教師墓地という場所があります。世界各国から来た宣教師たちを記念するところです。そこには日本人宣教師の墓が一つあります。まさに曾田嘉伊智の墓です。山口県出身の曾田嘉伊智は、植民地朝鮮で朝鮮の孤児たちを自分の子供のように面倒を見た義人です。彼は朝鮮の植民地独立のために朝鮮人たちと協力しようとした人ですが、朝鮮人にはスパイとして、日本人には裏切り者として両方から嫌われた人です。しかし、彼は信仰の力を通して、忍耐し、全ての誤解を乗り越えました。そして真の平和を望み、朝鮮人を助け、日本人を宣教しよう、という一念で生きました。朝鮮人たちは、彼の心に感服し、同胞のように信じ従います。日本が敗戦し、戦争が終わった時、本国に帰ろうとしていた北朝鮮地域の日本人たちが、ロシア軍に無惨に攻撃されたことがありました。当時、近所の教会で伝道に携わっていた曾田嘉伊智は自分が仕えている教会堂に信者、未信者を問わず、日本人を集め、命をかけて守りました。彼は朝鮮の民衆、日本の難民、民族を問わず、主の愛をもって、人々の面倒を見ました。また、80歳頃、福音を伝えるために下関行きの船に乗ります。そして、日本全国を巡り、神の福音を宣べ伝えました。そして1961年に韓国に戻って来て、翌年神様に召されました。
締め括り
富田満と曾田嘉伊智。果たして彼らは神様の審判台で、どんな評価を受けたでしょうか?果たして誰が良い羊そして羊飼いとしての人生を生きたと褒められたんでしょうか?裁きは神様の領域ですので評価出来ないと思いますけれど、聖霊が皆さんの心にお答えをくださると信じ、皆さんのご判断に任せたいと思います。今日の旧約本文に出てくる『羊を養う。』の『養う。』の原文は『面倒を見る、愛をもって治める、付き合う、友達になる。』などの意味をも持っています。私たちは主の羊です。大牧者、主イエスは、私たちを養われます。だから、主は、私たちを守り、愛する友達になってくださいます。その主に愛された私達は、また、他者を愛するために小さな羊飼いとして遣わされました。主から愛を受けた私たちは、今や、他者を助け、愛する友達になる番です。主の羊であり、小さな羊飼いとなる私たちの生活を通して、主は喜ばれ、私たちを祝福してくださるでしょう。来たる一週間、良い羊、良い羊飼いとして、神様の喜びになりますように祈ります。そのような生活のために、主イエスの恵みと助けが、限りなくありますように切に願います。