イザヤ書53章5節(旧1149頁)
マルコによる福音書 14章50-52節(新93頁)
前置き
最近、家庭礼拝歴の執筆依頼があり、マルコによる福音14,15章を研究することになりました。そのうち、印象的な箇所を見つけました。「弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。一人の若者が、素肌に亜麻布をまとってイエスについて来ていた。人々が捕らえようとすると、 亜麻布を捨てて裸で逃げてしまった。」(マルコ14:50-52)今日の本文、イエスが逮捕され、裁判所に連行される途中、イエスについて行ったある若者についての場面でした。その若者が誰なのか私たちには分かりませんが、彼が亜麻布をまとって、他の弟子たちが皆逃げてしまったにもかかわらず、勇気を出してイエスについて行ったことが分かります。今日はこの若者について、そして、この本文の持つ意味について話してみたいと思います。
1。亜麻布をまとった若者
若者の外見は独特でした。素肌に亜麻布だけをまとっている様子でした。なぜ。彼がそのような姿をしていたかは分かりませんが、彼はイエスが逮捕された時、弟子たちもイエスを捨てて逃げたのに、引き続きイエスについて行きました。(実はペトロもイエスについて行きましたが、ペトロ以外の弟子たちは皆逃げてしまいました。)イエスの時代のイスラエルにとって、亜麻布は様々な用途で使われる織物でした。今日の本文のように衣服や布団の材料としても使われ、祭司の礼服の材料としても使われました。そして、亡くなった人を包む葬儀用品としても使われました。今日の本文に登場するこの若者は素肌に亜麻布だけをまとっていたのですが、普通だったら、こんな姿で出掛けません。もしかしたら、その時が夜だったので寝ている間にイエスが逮捕されたことに気づき、急いで飛び出したイエスの支持者の一人だったかもしれません。いずれにせよ、彼は亜麻布だけをまとったままイエスについて行きました。「人々が捕らえようとすると、亜麻布を捨てて裸で逃げてしまった。」(マガ14:51-52)しかし、彼は最後までイエスについて行くことはできませんでした。イエスを逮捕した連中に捕らえられそうになると、亜麻布を捨てて裸で逃げてしまったからです。
この場面を読みながら最初は爆笑してしまいました。状況に合わない滑稽な場面だと思いました。しかし、繰り返し、この本文を吟味した結果、さらに深い意味があるかもしれないと思うようになりました。聖書において亜麻布にはいろいろな象徴がありますが、イエスの十字架の死と関わるものもあります。これからイエスはポンテオ・ピラトに裁判を受け、殺人者バラバに代わって十字架にかけられ亡くなられるでしょう。そして、死を迎えたイエスは亜麻布に包まれて、墓に入られるでしょう。つまり、今日の本文に限っては、この亜麻布が死を意味する象徴であるかもしれないということです。しかし、死んだイエスを包むようになる、この亜麻布を、あの若者は脱ぎ捨てるようになりました。イエスが歩いていかれる苦難と死の道から、彼は亜麻布を脱ぎ捨てることにより、遠く遠くまで逃げ出しました。もしかしたら、この若者は別の人ではなく、私たち自身であるかもしれません。私たちはイエスを信じ従おうとしていますが、罪と弱さによって完全に主に聞き従うことはできません。いつ主を裏切るか、いつ逃げるかは誰にもわかりません。しかし、確かなことは、主イエスが私たちの罪と過ちを赦し、私たちを永遠の死から永遠の生命へと移してくださったということです。これからイエスは私たちの代わりに亜麻布をまとって墓に入られるでしょう。その亜麻布は、私たちを包んでいた私たちの罪と死であるかもしれません。
2.「それでもついて行く人」
先ほどお話ししたように、亜麻布をまとった若者は人々に捕まえられそうになると、亜麻布を捨てて逃げてしまいました。彼の逃亡がイエスを見捨てる姿のように見えるかもしれませんが、むしろ、それはキリストによって死を避けた人の姿であるかもしれません。唯一イエスだけが永遠の死から罪人を救ってくださることができます。イエス以外の誰も人の罪を赦すことができず、永遠の死から救うこともできません。イエスは罪人への赦しと救いのためにご自分の命をかけられました。しかし、イエスについていった若者がイエスのように逮捕され死ぬといっても、その死によって人を救うことはできません。若者はただイエスの死によって代わりに罪赦され、救われること以外に何もできない存在です。ですから、今日の本文で亜麻布を捨てて逃げたこと、つまり、死を逃れたということは、青年の裏切りというより、キリストにより、死を避ける姿として解釈すべきではないでしょうか。いずれにせよ、彼は逮捕された主を見捨てようとはしませんでした。最後は逃げてしまったのですが、彼はイエスの苦難に知らないふりをせず、主の後についていったのです。
私たちには、イエスのように他人を救う資格も力もありません。しかし、少なくとも、最初からイエスを見捨てて逃げず、主の苦難を憶え、その方についていこうとする信仰は持つべきでしょう。マルコによる福音書10章でイエスはこう言われました。「イエスは言われた。あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。彼らが、できますと言うと、イエスは言われた。確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。」(マルコ10:38-39) 実は私たちにはイエスの飲む杯を飲み、イエスの受ける洗礼を受けることができません。「イエスの飲む杯を飲み、イエスの受ける洗礼」この言葉は、十字架で救いの献げ物として死んでくださるイエスだけに与えられた贖い主の務めだからです。しかし、主によって救われ、主の民となった存在は、罪人を救う贖いの十字架を負うことはできませんが、主の民として主の道に聞き従うための自分に与えられた十字架を背負うことは出来ます。つまり、主イエスが言われた「あなた方の杯と洗礼」とは、主の民にふさわしく生きる生き方のことです。 私たちは主イエスの道に従わなければなりません。キリストによって永遠の死を避けた私たちは、これからキリストに従って主の救いの生涯を憶え、その方が私たちに与えてくださった私たち自身の十字架を背負って行かなければなりません。弟子たちは皆逃げてしまいましたが、それでも、イエスについていった、その若者を憶えましょう。
3。亜麻布を脱ぐ
亜麻布を捨てて逃げてしまった若者は、後、どうなったでしょうか? おそらく、彼は逃げることによって救った命を無駄にしなかったでしょう。復活されたイエスにまた出会い、その方の民として福音を伝える人生を生きようと誓ったはずです。事実かどうかわかりませんが、誰かはこの若者がマルコによる福音書の著者であるマルコ自身かもしれないと言いました。彼が誰であれ、彼は確かにイエスに出会い、イエスによって新しい人生を送るようになったでしょう。この若者はイエスによって亜麻布を脱ぎました。彼は亜麻布が意味する死から救われたのです。そして、彼がまとっていた死の亜麻布はイエスが代わりにまとって墓に入られました。しかし、復活されたイエスは、最後にその亜麻布を脱がれました。ヨハネによる福音書にこう書いてあります。「続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。」(ヨハネ福音20:6)イエス·キリストは私たちの亜麻布を脱がせ、また復活されることによって、主ご自身を包んでいた亜麻布をも脱がれました。つまり、イエスが復活され、亜麻布を脱がれたように、主によって亜麻布を脱ぐようになった私たちも主による復活を得るようになったのです。今日の本文は、亜麻布という物を通じて、主が私たちの変わりに死に、復活されたことについて証しているのです。
締め括り
「彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」(イザヤ53:5) キリスト教の最も根本的で重要な教えは、罪ない神の子イエス·キリストが罪によって滅ぼされるべき罪人の代わりに死に、復活し、救ってくださったということです。今日の本文は、その教えを亜麻布という物を通じて私たちに語りました。私たちがイエス·キリストを信じる理由は、ひとえにキリストだけが私たちの罪を赦し、代わりに死んで復活された方だからです。今日の本文を通じてもう一度私たちの救い主であるイエスの愛と恵みを憶えたいと思います。