ルカによる福音書2章8~14節(新103 頁)
前置き
今年も無事に今まで過ごし、クリスマスを迎えています。今日は主イエスのご誕生と再臨を待ち望むアドベント(待降節)の第4主日であり、主イエスのご誕生をお祝いするクリスマス記念主礼拝の日でもあります。クリスマスが近づいてくると、近場のイオンモールや博多駅、天神の街には、華やかな飾り付けがいっぱいになります。日本ではクリスマスが祝日ではありませんが、多くの人々がクリスマス気分を満喫するために家族、恋人、友人と一緒に時間を過ごします。コンビニではクリスマスケーキの注文を受け付けており、あるチキン専門店では「クリスマスはフライドチキンを食べる日」と宣伝しています。しかし、キリスト者である私たちは、クリスマスがただ人々の楽しみのための日ではなく、人類の罪を赦し、永遠の死から救うためにこの地上に来られたイエス・キリストのご誕生を記念する日であるということを忘れてはなりません。今日はルカによる福音書の御言葉「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」を通じてクリスマスの意味について考えてみたいと思います。
1. 主イエスのご誕生の夜
ローマの皇帝アウグストゥスが支配していた時代、皇帝はローマ帝国と植民地のすべての住民に戸籍を登録せよと命じました。イスラエルの昔の王ダビデの子孫だったイエスの両親は戸籍登録のためにダビデの村である「ベツレヘム」へ足を運びました。イエスの母親は臨月の体でイエスが生まれるのを待っていました。その頃、ベツレヘム地域の羊飼いたちが、夜、外で羊を守っていました。ベツレヘムは山地なので、かなり寒いところでした。その夜、羊飼いたちは忽然と現れた主なる神の天使を見るようになりました。彼らが恐れると、天使は言いました。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」(ルカ福音2:10-11) その時、さらに多くの天使の大軍が加わり、いと高き神とその日お生まれになった御子を賛美しました。天使たちが消えると、羊飼いたちは赤ん坊として生まれた救い主(メシア)イエスのご誕生を見るためにベツレヘムに向かいました。
多くの人々が戸籍登録のためにベツレヘムに来ていたので、イエスの両親は泊りを見つけることができませんでした。それでやっと普通の家の馬小屋で一晩を泊まることとなりました。そういうわけで、神の子は寒い冬の夜、王宮ではなく家畜が寒さを避ける馬小屋にお生まれになったのです。なぜ、イエスは華やかなエルサレムの王宮ではなく、小さな村ベツレヘムのみすぼらしい馬小屋に生まれられたでしょうか? 羊飼いたちに現れた天使が言ったように「民全体に与えられる大きな喜び」つまり、救いの福音を伝えてくださるためでした。イエスはお金持ち、権力者、身分の高い者が中心となるこの世の中で、貧しい者、弱い者、病んでいる者にも慰めと愛の良い知らせを伝えてくださるために、最も高いところから、最も低いところに来られたのです。そんな理由で、主なる神の天使たちも貴族や権力者ではなく、当時のイスラエル地域で最も身分の低い階層だった羊飼いたちに一番先に現れたのかもしれません。イエスは人生の思い煩いと疲れの中で苦しんでいるこの世のすべての人々のために最も低いところに来られたわけです。そして、主なる神の栄光と人々の平和のためにご自分のすべてをささげられたのです。クリスマスは、このイエスのご誕生を憶え、記念する日です。主イエスは、私たちと隣人とすべての人々を愛しておられるため、寒くてみすぼらしくて低いところに喜んで来られたのです。
2. 天には栄光
イエスは天には栄光を、地には平和を与えるために来られました。本文には「いと高きところ」と記してありますが、天に解釈しても問題ありません。古代イスラエルの世界観において、天とは、人間が至ることのできない偉大な神の領域を意味しました。天使も、悪魔も、人も、天に至ることは絶対に許されていなかったのです。つまり、天は、主なる神の権勢を意味し、神の存在そのものを意味すると言える象徴だったのです。ところで、主イエスは、その天の神に栄光を帰すためにこの世に来られました。「栄光」とは何でしょうか? 私たちは栄光という漢字語を目にすると、明るく輝く何かを思い起こしやすいです。実際にも、そういうイメージの漢字語です。しかし、聖書が語る栄光はそれとは少し異なります。聖書が語る「栄光」とは「ある存在がその存在として最もふさわしい完全な姿でいるさま」を意味します。例えば、生徒なら、学校で熱心に勉強し、友達と仲良く生活し、自分の未来のために準備することが光栄です。教師なら、生徒を愛し、誠実に教え、指導することが光栄です。牧師なら、聖書の御言葉をありのままに研究して説教を作り、伝え、誠実に牧会することが光栄です。キリスト者なら、イエスを堅く信じて主なる神の御心に聞き従って生きることが光栄です。聖書における栄光とは「ある存在がその存在として最もふさわしい完全な姿でいるさま」を意味する言葉なのです。
それでは、「神の栄光」とは何でしょうか。創造主である神が、この世のすべての被造物に絶対者として讃美と礼拝を受けられることです。その方おひとりだけが真の主だからです。しかし、この世は罪によって創造主から離れてしまいました。特に人間は本能的に主の支配のもとにいるのを嫌い、自ら主のようになろうとする性質を持っています。このような世の中で神がこの世の人々から讃美と礼拝をされ、絶対者として崇められるのはあり得ないことです。しかし、主イエスのご到来とその方の救いを伝える福音により、罪人たちも「創造主」神の存在が認識できるようになりました。そして、主の恵みによって特別に選ばれた者たちは、神を信じる信仰が与えられ、その方の民として生きるようになります。このような神の民によって人々は神について聞くようになり、神を信じる人々がさらに増えていきます。その中で最初の教会も打ち立てられたわけでしょう。主イエスの存在によって神と完全に遠ざかってしまったこの世の人々は、神に近づくようになります。そして、主イエスはご自分の犠牲と恵みとで罪人の罪を赦してくださいます。したがって、神と人をつないでくださる主イエスの存在のため、神が神として主の民に賛美と礼拝され、神らしくおられるようになります。
3. 地には平和。
このイエスは、また地には平和を与えてくださる方です。聖書の御言葉に基づいて正確に言えば「地上にいる御心に適う人への平和」です。先に申し上げたように、古代イスラエルの世界観において、地は人間の領域を意味します。神の創造通りの罪ない人間ではなく、罪によって堕落した罪人としての人間が生きるところです。そのため、地は憎しみと妬み、対立と葛藤、競争と戦争が絶えないところです。「PAX ROMANA」という言葉があります。「ローマの平和」を意味するラテン語です。このローマの平和は、みんなの平和ではありませんでした。ローマが平和であるためには、周辺の国々を征服して植民地にしなければなりませんでした。沖縄はもともと琉球王国で、日本に属する地域ではありませんでした。しかし、日本の平和のために薩摩藩が征伐し、日本に編入してしまいました。今でも日本国内の米軍部隊の8割が沖縄県内に集中しているそうです。日本の平和のために、沖縄は軍事基地化されているのです。誰かの平和のために誰かが犠牲になるのは、真の平和ではありません。それは戦争と競争の結果による弱肉強食の発露です。この世は平和を望んでいません。誰もが平和であれば、権力者は自分の利権を享受できないからです。そのため、権力者は口先では平和を語りながら、実際には平和を望んでいないのです。
しかし、主イエスは違います。この世は既得権者のために弱者を犠牲にし、偽りの平和を語ります。しかし、この世のすべてのものの主であるイエスは、むしろ弱い者のためにご自分を犠牲にされました。「敵を愛しなさい、隣人を愛しなさい。罪人の救いのために私は死ぬ。」自分の欲望ではなく、他者の平和のために、主イエスは喜んで十字架で死んでくださったのです。このような主イエスの生き方が、その方の民である私たちにも求められています。人はもともと神と敵として生まれます。しかし、神の敵には永遠の裁きが与えられるだけです。しかし、イエスは罪人を救い、神の敵ではなく子供であり民であるように身分を変えてくださいました。そのために主イエスは、私たちの罪を担い、私たちに代わって十字架で死んでくださったのです。イエスがこの世に来られ、人間の罪を完全に赦し、神の敵という身分を完全に抹消してくださるのです。イエスによって神と私たちの間に平和が生まれたのです。そのため、私たちはこの神の民としてキリストが伝えてくださった真の平和を世の中に伝えながら生きるべきです。神と隣人を愛し、力ある何人かの平和ではなく、皆の平和のために生きていかなければなりません。神はこの世のすべての人がご自分の御心に適う者になることを望んでおられます。世のすべての人がそうなりますように主イエスは今でも執り成しておられます。
締め括り
クリスマスの本当の主人公はイエス·キリストです。クリスマスという言葉そのものも、キリストを礼拝するという意味のラテン語に由来しました。神の真の栄光のために、そして、この世のすべての人々の真の平和のために主イエスはお生まれになりました。クリスマスを通じて、家族、親戚、友人と幸せな時を過ごされますように祈ります。しかし、何よりも大事なこと、主イエスこそが私たちの罪を赦し、救ってくださるために、この世のすべての人々を愛し、慰めてくださるために、神と罪人の間の真の和解のために来られたことを憶えつつ、このクリスマスを迎えましょう。