イザヤ書5章1~7節(旧1067頁)
ルカによる福音書3章7~18節(新105 頁)
前置き
今日は、アドベントの第3主日です。そして、次の週は、アドベントの第4主日で、クリスマス記念礼拝の日です。志免教会では、アドベントが始まると、各主日に一本ずつろうそくを灯します。この伝統は初代教会から始まったわけではなく、中世時代のヨーロッパの一部の地域で家庭礼拝や夕食、夕方の祈りの際にろうそくに火をつけたことに由来すると言われます。このように4本のろうそくにそれぞれ火をつける行為によって、希望、愛、喜び、平和を祈ったそうです。そういう意味として、1本目のろうそくは希望を、2本目のろうそくは愛を、3本目のろうそくは喜びを、4本目のろうそくは平和を象徴すると言われます。したがって、今日、灯したこの3本目のろうそくは、キリストによる真の喜びを祈るろうそくであります。喜び、本当の喜びとは何でしょうか? 主イエスのご降臨によって私たちは何を喜ぶべきでしょうか。今日はキリスト者の真の喜び、そして神が喜ばれる教会のあり方について考えてみたいと思います。
1. 喜びについて深く考える。
先ほど、3本目のろうそくはキリストによる真の喜びを象徴するものだとお話ししました。それでは、ここで言う喜びとは何でしょうか? 人は本能的に幸せと喜びを追い求める存在です。適切な経済的な豊かさ、家族との仲良し、職場での安定、穏やかな日常、病気なく元気に生活することなど。私たちは波風のない人生を追求し、それを私たちの喜びと思いがちです。そういう意味で、キリストによる喜びについて、私たちはどのように理解していますでしょうか? イエスを信じることによって得る、この世での安らぎと幸せだと考えているのではないでしょうか? 例えば、主が経済的に満たしてくださること、主が自分と家族を守ってくださること、自分が職場で認められるように主が助けてくれること、主が私たちの心配と苦難をすべて消してくださること。それらが主による喜びなのでしょうか? しかし、私たちの人生に試練と苦難があまりにも多いのではないでしょうか。主が真の喜びを与えてくださると聖書は語りますが、私たちの人生においては、喜びよりは悲しみのほうが、さらに多いかもしれません。つまり、私たちが考える喜びと主による喜びは、別の種類の喜びであるかもしれないということです。
「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」(マタイ福音5:11-12) 聖書は、キリスト者の喜びと幸いについて、この世の価値観のように語っていません。もちろん、主なる神も主の民が、この地上での喜びと幸いを享受しながら生きることを望んでおられるでしょう。子供が苦しみの中で生きることを望む親はいないからです。しかし、キリスト者だといっても、この世において苦難と悲しみにあうことはあり得ます。主を信じるからといって、一生を喜びと幸せばかりに生きるわけではないからです。特に信仰を守りながら生きるなら、信仰を守れば守るほど、この世の価値観とぶつかるキリストの価値観によって世に嫌われることも多いです。したがって、私たちは聖書が語る喜び、キリストによる喜びという言葉が、世の人々が考える漠然とした喜び、幸せとは異なるということを認識し、深く考えて生きるべきです。
2. 神の到来に備えているか?
キリスト教では、年に2回、レントとアドベントという期間を定め、大事に守っています。レントはイースター(復活節)前の約40日間、キリストの苦難を憶え、謹んで悔い改めながら過ごす期間です。アドベントは、クリスマス前の 4 週間、主のご到来を喜びつつ待ち望む期間です。そのため、レントは「自分の罪に対する悲しみと悔い改め」で過ごす多少重い雰囲気の期間、アドベントは「主イエスのご誕生と再臨を喜びと感謝」で過ごす明るい雰囲気の期間と考えがちです。しかし、中世の、ある時期にはアドベントもかなり重い雰囲気の期間として守られたそうです。その理由はアドベントがイエスの誕生のみならず再臨も憶える期間だったからです。主イエスが再臨されるということは「この世への主の審判」がやってくるという意味を持ちます。イエスが再び来られると、善人と悪人、生者と死者を問わず、あの世とこの世のすべての存在が、主の御前に立ち、裁かれるでしょう。それは、神を信じる存在もイエスによって裁かれるという意味です。もちろん、すでに救われた主の民は、その審判にあたって、むしろ主の民であることを認められ、永遠の生命に入ることになるでしょうが、とにかくすべての存在はキリストの審判の下に置かれることになるのです。
だから、キリストが再臨されるということは本当に喜びばかりのことなのか? キリストを信じていると言いながらも、実は主の民として認められていないのではないか? 自分は主の再臨の時、本当に認められるだろうかという自らを反省する思いが広がり、そのため、アドベント期間を重い雰囲気で過ごしたわけではないかと思います。もちろん、その後の時代は、再びキリストのご誕生を記念する明るい期間に変わったと言われますが、主の再臨と救いという点においては、今を生きる私たちも一度考えてみる必要があると思います。私たちはアドベント期間を過ごしながら、二つのことを記憶すべきです。一、救い主イエス・キリストが人間として生まれ、私たちの間に来られたことへの感謝。二、審判者イエスがこの世に再び来られ、世のすべての存在を裁かれることへの畏れ。私たちはイエスの再臨を信じていますが、その方の再臨については非常に遠い未来のことだと思っているかもしれません。そいうことで、今の私たちの生活に正しくない部分があっても「いつかは良くなるだろう」という安逸な心で生きやすいです。しかし、聖書を語ります。「見よ、わたしは盗人のように来る。裸で歩くのを見られて恥をかかないように、目を覚まし、衣を身に着けている人は幸いである。」(ヨハネの黙示録16:15) だから、アドベントはただ喜びばかりで過ごせる期間ではないと思います。再臨の主の御前の私たちの人生は本当に大丈夫でしょうか? 私たちは主のご到来を本当に喜ぶことができますでしょうか?
3. 主が喜ばれる実を結ぶ人生。
今日の旧約本文と新約本文には「木と実」という繋がりがあります。旧約本文は、神の民イスラエルをブドウ畑に比喩します。良い実を結んで神の喜びになるために呼び出されたブドウ畑のようなイスラエルが、むしろ神を裏切って偶像を崇拝し、悪行を犯す悪い実を結ぶことになります。これによって神の民にふさわしくない生き方をとり、神に糾弾される場面です。そして、新約本文は洗礼者ヨハネが旧約本文を一部引用してイエス当時のイスラエルの民に悔い改めの実を結びなさいと力強く勧める場面です。つまり、主の民が悔い改めにふさわしい実を結び、主の民らしく生きることが神にとって、喜びであるということでしょう。もちろん、罪人に生まれ、イエスによって救われた私たちが、自力で完全な神の喜びになることはあり得ないことですが、主イエスの救いと聖霊の導きのもとに教会を成していく私たちの悔い改めと正しい生き方を、主なる神は喜びとして見なしてくださるのではないでしょうか? そして、その主の喜びを私たちの喜びとして生きることが、私たちに与えられるキリストによる真の喜びではないでしょうか?
このアドベント期間を通して、私たちは自分の信仰をもう一度顧み、悔い改めるべきことは悔い改め、感謝すべきことは感謝しながら、良い実を結ぶ人生について深く考えて過ごしたいと思います。特にアドベント3主日目は「キリストによる真の喜び」を象徴する3本目のろうそくに火をつけますが、今週がキリスト者である私たちにとって「真の喜び」とは何かを考える時間であったらと思います。私たちの救いのために来られた救い主イエスのご到来を喜び、その方の救いを感謝し、その方によって悔い改め、主の民にふさわしい人生を生きることこそが、主なる神の喜びであり、そして、その神の喜びのために主の御心のままに生きようとするのが私たちの喜びになるべきではないでしょうか。 それが私たちに与えられる「本当の喜び」ではないかと思います。主の喜びを自分の喜びにするために、私たちは主が喜ばれる生き方で生活し、そのような人生の中で真の喜びを見つけなければなりません。主の御言葉通りに生きるために力を尽くし、私たちの罪を毎日悔い改め、より良い生き方のために努力し、隣人を愛し、善を行いつつ生きる人生。それこそが実を結ぶ人生であり、そのような実を結ぶ人生そのものが神と私たちの喜びになることを祈ります。
締め括り
イエスのご誕生と再臨を記念するアドベントの期間。私たちを救ってくださるためにお生まれになったイエス・キリストを喜び感謝し、いつか世のすべての存在を裁かれるために、再び来られるイエス・キリストを畏れ、待ち望みながら、この時期を過ごすことを願います。私たちの人生を通して、主なる神が喜ばれ、その主なる神の喜びによって、私たちもまた喜ぶことができるように。真の喜びのアドベントでありますように祈り願います。