詩編132編8~12節(旧974頁) / ヨハネの黙示録1章4~8節(新452頁)
前置き
今日からアドベントが始まります。アドベントは、メシア、イエス・キリストのご誕生(初臨)と再びの到来(再臨)を憶える待降節を意味する言葉です。その語源は「到着」を意味するラテン語「アドベントゥス」に由来します。毎年、アドベントになると、私たちは主なる神が、この世の唯一の救い主としてお遣わしくださったイエス·キリストの降臨(到着)を喜びたたえます。罪によって永遠に死ぬしかない罪人たちを憐れんでくださり、ご自分の子供にしてくださるために、父なる神は 独り子イエス·キリストをこの地上に遣わしてくださいました。そんな理由で、イエスは真の神であるにも関わらず、また真の人間になって、この世に到着されたのです。そして、罪に束縛された人間を赦し救ってくださるために、ご自分の命を贖いの献げ物としてささげ、罪人に代わって死んでくださいました。このように人間のために死に、その後、主なる神の力によって復活されたイエスは、父なる神のご計画に従い、教会と世の真の王になられたのです。したがって、アドベントは赤ちゃんイエスを待ち望むとともに、今や私たちの真の王になられ、私たちの救いを完成してくださった再臨の王なるイエスを待ち望む期間でもあります。今年も恵みに満ちたアドベントの期間を過ごし、私たちの王でおられるキリストを憶え、感謝と平和のクリスマスを過ごしたいと思います。
1.最もつらい時に共におられる王。
西暦1世紀末、ローマ皇帝ドミティアヌスが治めていた時代、イスラエルはローマ帝国の植民地でした。ローマ帝国では、キリスト教への誤解が悪意的な噂となり、皇帝をはじめ、多くの人々がキリスト教を嫌い、迫害するようになりました。イエスの弟子である使徒ヨハネは、そのような迫害の中で、牧会していたエフェソ地域から追い出され、パトモスという小さな離島に流刑されることになりました。パトモス島は険しい山地と強制労働のための採石場のある荒れ果てている島でした。福音書に登場するヨハネはまだ若い青年として描かれていますが、この時期のヨハネは、すでに高齢となっており、一日一日が大変で特に信仰の兄弟姉妹との連絡も途絶えてしまった孤独な生活を暮らさなければなりませんでした。そんな絶望に落ちてしまうような、ある日、ヨハネのところに、主なる神の聖霊が臨まれました。そして、その聖霊を通じて主イエス·キリストがヨハネに語り始められました。「神である主、今おられ、かつておられ、やがて来られる方、全能者がこう言われる。わたしはアルファであり、オメガである。」(黙示録1:8)教会への世の帝国の迫害、肉体の衰退、同僚たちとの別れ。何の希望も喜びもなく、人生の中で最も絶望的で苦しい一日一日を過ごしていたヨハネに、真の神であるイエス·キリストの御言葉が臨んだわけです。
今年、わたしはキリスト教会の教師になってから13年目を迎えました。その中、今年のように、苦しくて悲しい年はなかったです。体も心も疲れ、この道が本当に自分の道なのかと何度も悩んだ記憶があります。年初から、いつも元気だった義理の父がすい臓がんにかかり、心の病によって関係が崩れた姉妹もいました。志免教会員の中にも病気で苦しんでいる方がおられ、教会から離れた方々もおられます。志免教会は伝道所への変更を計画していますし、中会の規模もどんどん小さくなっており、先輩の牧師たちも高齢によって引退を考慮しています。将来を考えると真っ暗で、一寸先も見えません。毎日毎日が心配で、祈っても心が平和にならない一年でした。ところで、おそらく使徒ヨハネは今年の私よりも、100倍以上、大変で苦しく、絶望の時を過ごしたでしょう。教会の存続が不透明な時代だったからです。しかし、変わらない事実がありました。それはヨハネがどんな状況に置かれていても、主イエス・キリストは常に彼を見守っておられ、彼の人生と共におられることでした。そして、主が王の中の王であることには何の変わりもないということを教えてくださいました。おそらく日本キリスト教会の牧師として生きる限り、今の状況から改善される可能性は低いかもしれません。しかし、最もつらい時にもかかわらず、主イエスが私の王として見守り、助けておられることは変わらないでしょう。 最もつらい時に、私の王であるイエスは私と共におられるでしょう。
2.主なる神がお遣わしになった真の王。
私たちが喜びの中にいても、悲しみの中にいても、変わらない事実。それは主イエス·キリストが私たちの王として共におられるということです。今日のヨハネの黙示録の本文は、イエス·キリストを「地上の王たちの支配者」と語っています。王たちの支配者とは、言い換えると「王の中の王」であり、これは結局、植民地や属州の王を征服し、その上に立っている「皇帝」を意味する言葉です。実は「王たちの支配者、王の中の王」は、当時の中東地域の帝国やローマ帝国などの皇帝を意味する表現として使われたそうです。したがって、王たちの支配者は結局、皇帝、つまり真の王を意味する表現です。私たちは「王」と言われる時、征服して支配する存在を思い浮かびがちです。あるいは、暴力的で権威的な存在を思い出すかもしれません。実際、この世の国々の王たちには、そんな者が多かったのです。しかし、主なる神が私たちにくださった真の王イエスは、暴力と権威ではなく、愛と恵みによって、ご自分の民を治められる方です。以前にもお話ししたと覚えていますが、旧約聖書の創世記にはこんな言葉があります。「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。神は彼らを祝福して言われた。産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」(創世記1:27-28)
ここに書いてある「支配する」という言葉は、ややもすると「権力で抑えつけて治める」と理解される可能性があります。しかし、現代の神学者たちは、この言葉を単に「暴力的に支配する」という意味として理解してはならないと言います。むしろ、支配される被造物、民を正しく導き、面倒を見るという意味として理解した方が文脈的に正しいと主張します。そのような意味で、私たちを支配し、導いてくださる真の王イエスは、主の民を正しい道に導き、愛によって面倒を見てくださる方だと理解できるでしょう。世の中の王たちは自分の権力と安らぎのために民を死に追いやります。この世の多くの王、皇帝、指導者たちが自分の権力のために戦争を起こし、何も知らない民を戦争の弾除けに死なせたのです。そして、彼らは言いました 「これは国家と民族(実は支配者の権力)のための意味ある死だ。」しかし、真の王であるイエスは、ご自分の民の命のためにご自分の命を惜しげもなく捧げました。主イエスはこう言われました。「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」(ヨハネ福音10:11) 主イエスは「王」の概念を権力のための支配者ではなく、愚かで弱い民を最後まで守る、良い羊飼いのような存在だと言われたのです。主なる神が私たちに主イエスを遣わされ、愛をもって正しい道に導いてくださった理由は、主イエスという真の王を私たちにくださるためでした。
3.私たちの真の王である主イエスが来られる。
クリスマスは、その真の王であるイエスのご到来を喜びながら記念する日であり、アドベントはそのクリスマスまでの4週間、主イエスの「初臨」と「再臨」を憶え、教会が大事に記念する期間です。主イエスは私たちを押さえつけ、思いのままに利用する邪悪な王ではなく、私たちを贖い、愛をもって守ってくださるために来られた良い羊飼いとしての王です。時には、この世での苦しみと悲しみによって全てをあきらめたい時がやって来るかもしれませんが、主イエスはそのような弱い私たちのそばにおられ、私たちが試練を乗り越えて主に従い、真の平和と喜びで生きるように勇気と力をくださる方です。私たちは毎年、このイエスのご到来を憶え、感謝し、アドベントの時期を過ごします。神は、この真の王であるイエスが、永遠に私たちと一緒におられ、助けてくださることを望んでおられます。そのため、神は旧約聖書を通じてご自分が遣わしてくださる真の王の永遠な王位についてこのように言われたのです。「主はダビデに誓われました。それはまこと。思い返されることはありません。あなたのもうけた子らの中から王座を継ぐ者を定める。あなたの子らがわたしの契約と、わたしが教える定めを守るなら、彼らの子らも、永遠にあなたの王座につく者となる。」(詩篇132:11-12)
締め括り
試練の連続で、終わりそうになかった今年も、もう12月に入ります。来年も新しい心配事が志免教会を襲ってくるかもしれません。けれども、絶対に忘れてはならないことがあります。それは私たちの王であるイエス・キリストが、私たちを離れられず、いつも一緒におられるという事実です。天の王座を捨てて地の馬小屋に来られたイエス。天の栄光を捨てて、地の貧しさを選ばれたイエス。全世界の真の王であるイエスが貧しい大工の息子としてお生まれになった理由。それはこの地で苦しみ、悲しんでいる数多くの主の民と重荷を担い、慰めてくださるためです。クリスマスまで約4週間。私たちの真の王である主イエスが、私たちと一緒に歩んでおられることを憶え、苦しい時も悲しい時も主に頼りつつ真の平和を祈る12月になることを願います。 主の御誕生を喜びながら、このアドベントの時を過ごしてまいりましょう。