ヨハネによる福音書14章16-26節(新197頁) 、16章13-14節(新200頁)
前置き
ここ数回の説教を通じて、使徒信条が記された理由と使徒信条が持つ意味について考えてみました。私たちが信じる主なる神という存在は、被造物である人間が完全に理解できる対象ではありません。聖書に記された神についての知識も、神という存在のごく一部だけを教えているので、私たちは神について完全に理解することができません。しかし、少なくとも、聖書に記された神という存在とその方の本質については正しく知って信じなければならないと思います。使徒信条は、私たちに、神という存在への極めて限られた知識ではありますが、聖書に記された神について教えているのです。今日、私たちは残りの使徒信条「わたしは、聖霊を信じます。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、からだの復活、永遠のいのちを信じます。」について学びます。これを通じて、聖霊なる神について、教会との関係について考えてみましょう。
1.聖霊なる神を信じる。
毎年「ペンテコステ」になると、教会では聖霊なる神について語ります。神は三位一体「御父と御子と聖霊」として存在するというのが伝統的な教会の教えであり、聖書にも、これを裏付ける言葉がたくさんあります。しかし、御父や御子に比べて聖霊はその比重が低く感じられる傾向があると思います。使徒信条でも非常に短く書いてあるだけです。しかし、聖霊なる神の御業は、御父、御子に負けないほど重要です。なぜなら、現在、この地上で教会を導きながら、御父と御子の業を成し遂げていかれる方が、この聖霊なる神であるからです。「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。」(ヨハネ福音14:16~17) イエスは完全な神でありながら完全な人間である方です。つまり、神の権威と権能を持っておられますが、また人間でもあるため、肉体を持っておられます。そういうわけで、物理的に私たちといつも一緒におられることはできません。聖書によると、イエスの肉体は、御父の右におられるからです。そのため、イエスは宇宙のどこにでも存在することが出来る聖霊のお働きを通して私たちと一緒にいてくださいます。
そんな理由で、イエスはヨハネによる福音書14章を通して、別の「弁護者(助け主)」聖霊を遣わしてくださると言われたのです。 一つの肉体を持っておられるイエスは、その肉体を通して、人間の代表になってくださいます。神であるにもかかわらず「肉体を持つ」とご自分で制限を加えられたのです。ご自身が絶対的な神だから体を複数にし、自然の摂理も無視して何でもするのではなく、主が定められた人間という範囲内で自らを完全な一人の人間とされたのです。それは、完全に人間の代表になってくださるための主のご意志なのです。だから、一つの肉体を持っておられるイエスは、多数の場所におられません。そのため、イエスはすべての所におられる聖霊の御業を通して、今もご自分の御業を全世界において果たしておられるのです。イエスは肉体を持っておられるため、一つの場所、父なる神の右におられますが、宇宙のどこにでもいることが出来る聖霊によって、すべての所で主の民を助けてくださるのです。聖霊は一ヶ所にだけいるイエスに代わって、この地上のどこでもイエスの御業を成し遂げていかれます。聖霊を軽んじてはならない理由は、御父と御子と同じ権威と権能を持って御父と御子の業をしておられるからです。したがって、私たちは聖霊への堅い信仰を持って信仰生活をしなければなりません。三位一体なる神は、お互いに協力しあって神の御業を成し遂げられます。父、子だけが重要なのではなく、父と子と共に働かれる聖霊も、私たちの信仰の対象として崇められるべき方です。
2. 聖なる公同の教会を導いてくださる聖霊。
「聖なる公同の教会、聖徒の交わり」私たちが信じるこの聖霊なる神は、御父と御子の業を成し遂げられる方です。キリスト教の重要な信条の一つである「ニカイア·コンスタンティノポリス信条」は、聖霊についてこう教えています。「聖霊は、父と子から出て、父と子とともに礼拝され、栄光を受け、また預言者をとおして語られました。」聖霊は、御父と御子から出て、共に礼拝と栄光を受けるべき神だということです。ところで、聖霊は「予言者を通して」語られました。御父と御子の言葉を預言者を通して宣べ伝えられた方が、聖霊なる神だということです。そんな意味として、神の御言葉を語る説教の言葉も、その根源は聖霊によるのです。もちろん、歴史的に牧師や司祭が説教を用いて自分の思想や知識を主張する誤った場合も少なからずあったのですが、ひとえに御言葉の本義だけが伝えられ、その御言葉によって三位一体なる神の恵みが現れ、教会に役に立つ説教が語られるのであれば、それはきっと聖霊が語らせてくださった正しい説教なのでしょう。御言葉が伝えられるということは、そこに教会が建てられたということであり、そういう意味として教会は聖霊のお導きによって建てられるとも言えるでしょう。ですから、聖霊は教会を建てられる方です。
父なる神の計画、御子の贖い、聖霊の働きによって、教会は建てられるのです。教会の頭であるイエスは聖霊の働きを通して、教会を見守って導いてくださいます。このような一つの聖霊によって建てられたこの世のすべての教会は「一つの公同の教会」です。頭なるイエス·キリストがおひとりで、世の中のどこにもおられるおひとりの聖霊が導いてくださるキリストの体なる一つの教会なのです。聖霊のお導きによってイエス·キリストの体となった一つの公同の教会は、国家、民族、文化、風習、思想を乗り越え、イエス·キリストによって教えられた「使徒的な教え(使徒信条)」という一つの最も重要な価値によって連結される普遍的な教会であるのです。ですから、教派が違っても同じ使徒的な教えを追求するなら、仲良く交わるのが正しいでしょう。 聖霊によって導かれ、キリストの体となったこの教会は「聖なる公同体」です。使徒信条は、これを「聖徒の交わり」と語ります。聖なるという言葉の意味は「特別に区別された存在」という意味です。教会自体が善を行い、正しい行動をしたから、聖なる存在となったという意味ではなく、御父の計画と御子の贖いと聖霊の導きによって、主の民として、この世と区別され、キリストの民として生きる存在となったという意味です。頭であるキリストが聖なる方なので、その体である教会も聖なる者と見なされたのです。このような教会を建てて導かれる方が聖霊なのです。
3. 信仰を与えてくださる聖霊。
このように聖霊のお導きのもとに主イエスの体として区別された教会は、聖霊がキリストの御言葉によってくださる「信仰」にあって生きるようになります。「しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。」(ヨハネ福音16:13~14) 聖霊なる神は、御父と御子と同一本質で、同じ権能を持っておられますが、いつも謙虚に父と子の御言葉に従って神の御業を果たしていかれます。そのため、聖霊が私たちと一緒におられるならば、私たちは何よりも御父と御子の言葉に集中して生きるようになります。「聖霊は、自分から語るのではなく、聞いたことを語られる。」すなわち、聖霊は聖書にあるキリストの御言葉を通じて主の民に語られます。新しい何かではなく、以前からずっと存在してきた、主なる神の御言葉のみが伝えられるように導かれます。そして、その御言葉によって語らせてくださいます。したがって、健全な教会なら、神の御言葉が記してある聖書を中心として御言葉を宣べ伝えることに努めます。「異言、予言、啓示」これらも時には教会の活動に必要ですが、最も重要なことは私たちに与えられた聖書の御言葉によって、使徒的で普遍的な教えが宣べ伝えられることです。
そして、その使徒的で普遍的な教えによって、教会は保たれていかなければなりません。毎週の説教はいつも変わりなく、時には退屈であるかもしれません。説教者の立場からも、説教のテーマはほとんど変わりがありません。何年前にした説教と大きい変わりのない説教が今年また語られる場合もあります。しかし、新しい内容の説教ではないけれど、常に大事に伝えられなければならない、繰り返しの説教の中で、聖霊なる神は働かれます。繰り返しで退屈な説教を通して、聖霊はご自分の言葉を語られるのではなく、謙虚に御父と御子の言葉を語らせてくださいます。この聖霊の謙虚さによって、私たちは主の御言葉に少しずつ染まっていき、その御言葉から小さな信仰の芽が生えてくるのです。その信仰によって私たちは「父の計画とイエスの贖いによって、私たちの罪が赦されたこと、イエスの復活によって私たちも復活し、永遠に生きること」を知り、信じるようになるのです。聖霊の謙虚さが私たちの正しい信仰の養分になってくるということです。
締め括り
聖霊は三位一体のおひとりの神です。父と子に比べてあまり語られない理由は、聖霊が御言葉を通して、父と子のことを伝えておられるからです。つまり、ご自分のことはあまり語られないということでしょう。だから、聖霊は謙虚な方です。この聖霊は教会を建てて導かれる方です。世の中のすべての所におられる聖霊のお働きによって、父の右におられるイエス·キリストはご自分の御業をすべて果たしていかれます。したがって、私たちも御父、御子と共にこの謙虚によって教会を導いていかれる聖霊なる神を憶えて生きていきたいと思います。長い使徒信条の説教が終わりました。私たちがほぼ毎週告白するこの使徒信条を憶え、私たちが誰を信じ、何を追い求めければならないのか、もう一度顧みる時間であれば幸いです。正しい信仰の告白の中に正しい信仰生活が生まれることを憶えて生きていきたいと思います。