イザヤ書53章5節 (旧1149頁)
ヘブライ人への手紙13章12節 (新419頁)
前置き
最近、私たちは使徒信条について学んでいます。古代の教会で使徒信条が造られた理由は、当時の教会を分裂させ、誤った教えを宣べ伝える異端やカルトから、教会のアイデンティティ-を守り、各地の教会が共通的に告白できる信仰の基準を正しく立てるためでした。使徒信条は聖書に直接記された言葉ではありませんが、使徒信条の告白、すべてが聖書に基づき選ばれたものです。使徒信条と呼ばれる理由は、初代教会の指導者であり、イエスの弟子である12使徒の信仰と精神を要約整理した信条だからです。私たちはこの使徒信条を通じて、神とは誰なのか、どのように存在しておられるのか、私たちが信じるべきものは何かを知ることができます。「主は聖霊によってやどり、処女マリヤから生まれ、ポンティオ・ピラトのもとで、苦しみを受け、十字架につけられ」今日は、御子イエスの誕生、苦難について考えてみましょう。
1. 女(乙女マリア)から生まれた神の子
「主は聖霊によってやどり、処女マリヤから生まれ」日本キリスト教会の大信仰問答は、イエス•キリストを「真の神にして、真の人である方」と定義しています。これは宗教改革の遺産を受け継いだ改革教会なら、どこの教会でも共通して告白する「イエスのアイデンティティー」です。改革神学は語ります。「イエスは完全な神である。また、イエスは完全な人である。」古代ギリシャ神話のように、神と人間が半分半分混じった存在、神でもなく人間でもない「半神」ではなく、完全な神でありながら、また完全な人でもある存在ということです。そういう理由で、イエスは、神の御心を誰よりもよく知っておられると同時に、人間の状況をも誰よりもよく知っておられるのです。イエスが神と人の間の仲保者となられた理由は、このように神でありながら人であるからです。今日、私たちが告白した「処女マリアから生まれ」という告白は、このような完全な神でありながら、完全な人でもあるイエスを定義する最も重要な条件の一つです。 私たちはイエスが、ある日突然、人間になりたがって人間になることを決められた方ではなく、普通の子供たちのように人間の母親から生まれ、育ち、働いて、人間の喜怒哀楽をことごとく経験しつつ生き、時が来て公生涯を始められたことを忘れてはなりません。
ただし、イエスは普通の人間のように罪を持った方ではありませんので、特別な方式でお生まれになりました。代々、罪の影響から自由ではなかったアダムの子孫ではなく、創造の時の罪のない人間の姿そのままに生まれるために人間の種ではなく、聖霊の特別な恵みによってお生まれになったのです。ですから、罪もなく、欠点もない全く新しい人間、つまり新しいアダムとして、この世に来られたのです。「女から生まれた」という言葉から、私たちは2つのことが分かります。一つ、先に申し上げたように、イエスは母親の胎から世の中に生まれ、人間の感情と罪と弱さを知り、自ら人間を代表する存在になるために人間そのものへの完全な理解をお持ちになったということ。だから、イエスは私たちの弱さを責める方ではなく、憐れんで助けてくださる方だということです。二つ、「お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に、わたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く。」(創世記3:15) いわゆる原始福音と呼ばれる女の子孫が悪魔の権勢を打ち砕くだろうという、はるか遠い昔からの神の約束が、処女から生まれたイエスの出来事で成就したということです。神の救いはいくら時間かかっても、必ず成し遂げられることがわかります。
2. 苦難を受ける。
そして、もう一つ重要なことは、イエスが苦難をお受けになったという事実です。 イエスは真の神ですが、肉体を持って人間として来られるようになりました。なぜ、神であるイエスが肉体を持たなければならなかったのでしょうか? 「神は霊である。」という有名なヨハネによる福音書の御言葉がありますが、この御言葉のように神は霊であります。「霊」とは人間のような限界と弱さのない、超越的な存在のことでしょう。しかし、御子なる神イエスは、自ら肉体を持って神であるにもかかわらず、人間として来られました。それは人間の弱さと苦しみを共有できるようになったということでしょう。イエスが人間になって人間のところに来られた理由は、罪によって堕落した人間が受けるべき神の厳しい裁きと刑罰を代わりに担うことができる条件を満たされるためです。つまり、御子が人になった理由は、神でありながら人間であって、人間を代表すると同時に罪人が受けるべき死の裁きを、肉体を持ったイエスが代わりに受けてくださるためです。もし、イエスが肉体を持たれなかったら、霊である神、御子は人間に代わって十字架の刑罰を受けることはできなかったでしょう。それなら人間の救いは絶対に成し遂げられなかったでしょう。人間の弱さを直接経験されたイエスが、ご自分の体を苦難に投げつけ、人間に代わって刑罰を受け、その償いによって人間を救うことができるようになったのです。
しかし、私たちは「肉体の痛みや苦しみ」だけをイエスの苦難だと考えてはなりません。すべてを超越する存在である神が、明らかな限界の人間の姿で、この世に来られたという自体が苦難の始まりなのです。神の国で父と子と聖霊が、お互いに尊重し愛しあう完全なお交わりの中から、御子が被造物の姿、すなわち人間になって、この世に来られ、その御子なる神を罪人たちに代わる贖罪の犠牲にするために、この世に人として生まれさせた、その始まりからが、すでに三位一体、何よりもイエスの苦難の始まりであることを憶えるべきです。そして、罪によって汚された世界は、神を愛していません。使徒信条はそんな世の有様を「ポンティオ・ピラトのもとで苦しみを受け」という言葉で表現しました。ポンティオ・ピラトという特定の人だけがイエスを苦しめたという意味ではなく、ポンティオ・ピラトと象徴されるこの世を支配する悪がイエスを嫌い、反対するということです。神の国で毎瞬間、ほめたたえられた御子なる神は、この世に来られてからは、憎しみと敵対の中で生きなければならないようになりました。したがって、イエスが神を憎む、この世に来られたこと自体が、すでに苦難の始まりだということを憶えましょう。
締め括り 愛するから十字架に。
それでは、イエスが肉体を持って、ご自身を憎むこの世に来られた、いちばん大事な理由は何でしょうか? 「それで、イエスもまた、御自分の血で民を聖なる者とするために、門の外で苦難に遭われたのです。」(ヘブライ13:12) それは人間になった神、イエスの犠牲により、罪に苦しんでいる罪人たちを赦され、救ってくださる限りのない愛のゆえです。創世記で神がアダムとエヴァをエデンの園から追い出された時、私たちは神の裁きだけを見受けやすいです。しかし、神は被造物の真の父であることを忘れてはなりません。人間に罰を下された時、神も悲しまれたのではないでしょうか? 何があっても、神の最高の被造物である人間を救うという、主の救いの計画から神の御心が伝わってきます。父なる神は人間を愛し、ご自分の独り子を十字架の犠牲へと導かれました。イエスは、その父なる神の愛を誰よりも深く知っておられ、イエスもまた人間を愛し、ご自分の命をかけられました。「彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」(イザヤ53:5) イエスが人間になられたこと、苦難を受けて亡くなられたこと。そのすべては、まさに罪によって滅ぼされるべき人間を憐れんでくださった神の限りのない愛に基づきます。私たちはその神の愛と御子の贖いを忘れてはなりません。