詩編89編27〜30節 (旧927頁)
ヨハネによる福音書20章17節 (新209頁)
前置き
信仰者は「神を信じ仰ぐ者」です。他宗教者も「誰かを信じる」という心で宗教生活をしているでしょうが、キリスト教の「信仰」はそれとは少し異なります。他宗教の信仰が「自分自身が信じるという意志を決めて誰かを信じる。」ことであれば、キリスト教の信仰は「御父の計画、御子の救い、聖霊の働きによって、人に信仰が与えられ、その三位一体のお導きによって神を信じる。」ということになります。つまり、他宗教とキリスト教の信仰の違いは「その信仰の主体が誰なのか?」にあります。言うまでもなく、キリスト教における信仰の主体は三位一体なる神です。「聖霊によらなければ、だれも、イエスは主であるとは言えないのです。」(Ⅰコリント12:3) 私たちはあたかも自分が教会に来て、自分の意志で神を信じるようになったと考えがちですが、聖書は明らかに信仰は、聖霊(神)によって私たちに与えられたと語っています。そして、教会は歴史的に、その神への信仰について非常に大事に考えてきました。そのように、各地の古代の教会が神への共通した信仰を告白し、それが整えられつつ生まれたのが「信仰告白」なのです。今日はその信仰告白の中でも最も有名で一般的な信条である「使徒信条」について話してみましょう。
1. 使徒信条に関する知識
私たちは、ほぼ毎週の礼拝の時に「使徒信条」によって信仰を告白します。使徒信条は、私たちの信仰の対象についての告白なので、非常に重要な教会の伝統だと言えます。ところで、教会のもう一つの伝統である「主の祈り」は、新約聖書にも記されており、イエスご自身が教えてくださった祈りなので、当たり前に大事に扱うべきでしょうが、使徒信条は聖書にも記されてもいないのに、なぜ、私たちは使徒信条を大事に告白しているのでしょうか? その理由は「イエスに直接教えられた使徒たちの信仰を継承した告白」だからです。イエスが12弟子を召し出された理由は、主の福音を、この世に宣べ伝え、主の教会を建てていく指導者を養われるためでした。使徒信条と書いてあるので、使徒たちが自分で作ったという説もありますが、現代の学者たちは、そんな可能性は低いと推測しています。でも、こういう伝説的な物語が伝わっていますので、聞いてみましょう。「ある日、各地で情熱に伝道していたイエスの弟子たち(12使徒)が一ヶ所に集まった。使徒たちは、教会が信じ、伝えるべき神はどのような方なのか、互いに語り合った。その時、12使徒が神について一言ずつ告白して語り、それらを集めると立派な信仰告白が出来た。それで、人々は、それを使徒たちが告白したと言い、使徒信条と呼ばれるようになった。」
本当に素晴らしい物語だと思いますが、実際に使徒信条は、このように作られたわけではありません。初代教会当時には、数多くのカルトや異端が生まれましたが、彼らの偽った教えを拒否し、使徒から継承した三位一体なる神への正しい信仰を共有し、公に告白するために使徒信条が生まれたのです。使徒信条は、主イエスが使徒たちに教えてくださった、聖書の御言葉に基づいて書かれ、古代の教会によって公に認められたものです。キリスト教では使徒信条の他にも、いくつかの信条があります。信条とは、ラテン語の「私は信じる」を意味するCREDOという言葉に由来し、自分が誰を信じるのかを人前で公に告白する信念を意味します。したがって、私たちは使徒信条を通して、イエスご自身に教えられ、その意志を受け継いだ使徒の信仰を継承し、その信仰の対象である三位一体なる神への信仰を公に告白するのです。使徒信条の他にも、ニカイア・コンスタンティノポリス信条を始め、カルケドン信条、アタナシウス信条、エフェソ信条、その他に多くの信条があり、三位一体またはイエスの神聖を告白します。そして、近くには日本キリスト教会の信仰告白もあります。私たちは主に召される終わりの日まで、使徒信条によって、私たちが誰を信じているのかを告白します。今まで習慣的に使徒信条を唱えてきたなら、これからは、その意味を吟味しつつ自分の信仰として告白していきたいと思います。
2. 全能な創造主
使徒信条はまず、全能の創造主なる神について告白します。「わたしは天地の造り全能の父なる神を信じます。」聖書の一番最初の言葉に当たる創世記1章1節には、こう書いてあります。「初めに、神は天地を創造された。」聖書の一番最初の言葉に創造についての内容が出てくる理由は、この世界の根源と支配権について説明するためです。この世の学問は、世界が偶然の宇宙的な爆発(ビッグバン)によって作られたと主張します。宇宙も、太陽も、月も、星も、地球も、動物も、植物も、人間までも、偶然の宇宙的な出来事によって生まれたということです。そのため、この世は万物の霊長である人間が世界の支配者だと大げさに言います。人間は自力でこの世界を開拓し支配する存在だと言うのです。しかし、聖書ははっきり語ります。「神こそがこの世界の主である」この世のすべてのものの源は神であり、その神こそ全能な方であり、この世界の統治者であると言うのです。創造は、ただ作って放っておくことを意味するものではありません。無から有を創り上げることから始め、無秩序に秩序を与えて被造物が生きられるように治めること、この世の救いと裁きの権能を持った絶対者が、この世界を導くこと。それがまさに創造の持つ意味なのです。したがって、創造主という言葉は唯一無二の絶対者という意味でもあります。
全能という言葉は文字的には「全てが可能である」という意味になりますが、神の全能については、すべてが可能であるという意味とは違います。実は神にもできないことがあります。例えば、神はご自分の力を超える被造物を創ることができません。神は嘘をつくことができません。神は悔い改めない悪人を救うことができません。神は罪を犯すことができません。神はまた別の神を求めることができません。等々、神の全能は、私たちが考える「何でも秩序を無視して全てが可能である。」という意味ではありません。それでは、神の全能とはどういう意味でしょうか? それは主なる神ご自身が造られた創造の秩序に逆らわない範囲で、主がご計画なさった、すべての善い計画を差支えなく、成し遂げていかれるという意味です。力ある者が自分の力をコントロールすることこそ真の力なのです。神は創造の時にご自分が造られた世界の秩序を尊重し、その中で被造物を導き、何よりも創世記で約束された罪人の救いを、主イエス·キリストを通して、間違いなく成し遂げていかれるでしょう。主なる神が、ご計画なさった善い計画を必ず成し遂げていかれること、その計画の中にある私たちの救い、罪人の救い、この世の救いは、全能なる神の御業によって必ず成就するでしょう。私たちはこの全能なる神を主として信じます。
3. 父なる神
使徒信条は、この「全能なる創造主」が私たちの父であると語ります。父の一般的なイメージは、私たちを生んだ存在、養う存在、守る存在と言えるでしょう。しかし、すべての人がそう思うわけではないでしょう。誰かには立派な父がいるかもしれませんが、別の誰かにとっては、父は家庭を破壊する存在であるかもしれません。また、誰かにとっては、あまりにも早く亡くなってしまい、親しく感じられないかもしれません。また、誰かにとっては、父が一生の重荷のような存在であるかもしれません。しかし、聖書が語る父なる神という存在は、造り、守り、導き、救いの主体となる完全で善良なイメージの方です。だから、私たちは父なる神に肉体の父のイメージを投影してはなりません。この完全で善良な父なる神は、被造物と徹底的に区別される存在です。神には罪も、弱さも、足りなさもありません。このような欠点のない神が欠点だらけの人間の父になるというのはありえないことです。
しかし、新約聖書のヨハネによる福音書は、こう述べています。「わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る」(ヨハネ福音20:17) この父なる神は、もともと私たちの実の父ではありません。もちろん、私たちに命を与え、生まれさせてくださった方は、確かに神ですが、罪によって神を父と呼べないのが、みじめな人間のありさまです。しかし、この父なる神の独り子であるイエス·キリストが私たちを呼び出され、ご自分の命を身代金とし、私たちを神の子に変えてくださいました。だから、父なる神は、「イエスの父である神」を意味する言葉です。しかし、私たちはイエスの償いによって、私たちもイエスのように、神を父だと呼ぶことができるようになりました。ヘブライ語の旧約聖書には父という単語が1200回余り出てきます。しかし、神を父として描いたケースは、たった15回しかありません。イエスは、その神を私たちの父であると宣言してくださいました。私たちと徹底的に区別された全能の造り主、父なる神、その神がキリストによって私たちの父になってくださったのです。
締め括り
私たちは、この全能の創造主、父なる神を信じています。これは聖書の御言葉に基づいた変わらない真理です。人には、この世に自分一人だけ残されたかように感じられる時があります。家族がおり、友達がいるにもかかわらず、根源的な孤独を感じるということです。しかし、その度に私たちは自分を創造して生まれさせてくださった父なる神がおられることを憶え、自分は一人ではないという信仰で生きていくべきです。詩編には、このような言葉があります。「彼はわたしに呼びかけるであろう。あなたはわたしの父、わたしの神、救いの岩と。わたしは彼を長子とし、地の諸王の中で最も高い位に就ける。とこしえの慈しみを彼に約束し、わたしの契約を彼に対して確かに守る。わたしは彼の子孫を永遠に支え、彼の王座を天の続く限り支える。」(詩篇89:27-30) この言葉はダビデ王にくださった主からの言葉ですが、今の新約教会にも有効な言葉だと思います。私たちはこの父なる神を信じています。使徒信条は、この父なる神が私たちの父であると告白しているのです。