創世記30章1-24節(旧48頁)
フィリピの信徒への手紙1章15-18節(新361頁)
前置き
前回の創世記29章で、私たちはヤコブとラバンという二人のずる賢い人たちによって、レアという無辜の女が苦しんだことを聞きました。残念なことに、この世では、ずる賢い指導者によって無辜の人々が苦しめられることがまれではありません。最近のウクライナとロシアの戦争も、そのような脈絡で説明できるものでしょう。世の人々が、ずる賢い指導者の肩を持つことは多いものの、彼らに苦しめられる弱者のためには(ただ同情するだけで)積極的に肩を持つことはあまりありません。だから、弱者はさらに苦しみがちです。米国と欧州がウクライナの肩を持つ理由も、ウクライナのためではなく、自国の利益がかかっているからです。この世は徹底的に力の論理で操られるものです。しかし、主は世の中とは違って、その苦しむ者たちの痛みを憶え、慰めてくださり、一緒にいてくださる方です。主は力の論理ではなく、愛と公平の摂理で世を見守っておられるからです。レアは苦しんでいましたが、彼女には主が一緒におられました。神は彼女に多くの息子をくださり、彼女の痛みに応えてくださいました。神は弱者を大切に愛してくださいます。私たちが弱い時、神に慰められる理由は、その主が弱い私たちを愛しておられるからです。今日は30章の物語を通してヤコブの家族の話をもっと探ってみたいと思います。
1.信仰の不在 – 争いと葛藤をもたらす。
お姉さんや妹さんがおられる女性の皆さんは幼い頃、姉妹たちとどう過ごされましたか? 子供の頃、物心のつく前には、お菓子やおもちゃなどで揉めることもあったと思いますが、多くの場合、お姉さんや妹さんと仲良くされたと思います。ままごと、あやとり、せっせっせ、縄跳びなどの素朴な遊びでも、小さなことにおいても、楽しく幸せに過ごされたと思います。聖書には記してありませんが、おそらくレアとラケルも、そのような子供の時を一緒に過ごしたでしょう。ところが、そうだったはずのレアとラケルは、悲しいことに一人の男のせいで、互いに憎み合う敵(かたき)となってしまいました。その一つの理由は、ラケルの弱い信仰のためでした。もちろん、ラケルが理解できないわけではありません。姉は息子を4人も産んだのに、自分は1人の子供も産めなかったので、劣等感や悲しみに包まれたのは当然のことでしょう。それが人間の本能だからです。しかし、人力で解決できない、妊娠の故に、ラケルはお姉さんを憎むばかりでなく、主なる神にも不信心を犯してしまいました。 「ラケルは、ヤコブとの間に子供ができないことが分かると、姉をねたむようになり、ヤコブに向かって、私にもぜひ子供を与えてください。与えてくださらなければ、私は死にますと言った。 」(1)どうしようもない状況で、神の民に求められるのは忍耐と信仰です。しかし、ラケルはそうしませんでした。
姉レアは愛されない女でした。夫のヤコブはいつもラケルだけを愛しており、父のラバンはレアにそんなに関心が無かったと思われます。 おそらく、彼女は一人ぼっちだったに違いありません。しかし、彼女には主への信仰があり、悲しい時にも賛美し、祈ったと思われます。レアの4番目の息子の名前が「賛美する」という意味のユダであることから、その点が推測できます。その反面、ラケルは何でも自分が望むものを何とか手に入れようとする人だったと思われます。ラケルは、自分の思いのままにならないと、夫に怒り、死ぬと脅かし、かわいそうな姉レアを憎みました。そして、姉に勝つために、自分の召使を通して息子を儲けようとしました。「そのときラケルは、私の訴えを神は正しくお裁き(ディン)になり、私の願いを聞き入れ男の子を与えてくださったと言った。そこで、彼女はその子をダンと名付けた。」(6)「そのときラケルは、姉と死に物狂いの争いをして(ニフタル)ついに勝ったと言って、その名をナフタリと名付けた。」(8) 彼女はすべてにおいて、主への信仰ではなく自分の感情を中心としました。召使が生んだ息子たちの名前も、争いを示唆する表現だからです。問題はそのようなラケルの弱い信仰のせいで、信仰に生きたレアも不信心に陥っていくことです。ラケルの競争心理に巻き込まれ、レアも競って自分の召使を夫に与えたからです。ラケルの不信心は、争いと葛藤だけを残したのです。
2.恋なすびについて。
そしてラケルの不信仰は、今日の恋なすびの物語で、その極みを見せてくれます。「小麦の刈り入れのころ、ルベンは野原で恋なすびを見つけ、母レアのところへ持って来た。ラケルがレアに、あなたの子供が取って来た恋なすびを私に分けてくださいと言うと、レアは言った。あなたは、私の夫を取っただけでは気が済まず、私の息子の恋なすびまで取ろうとするのですか。それでは、あなたの子供の恋なすびの代わりに、今夜あの人があなたと床を共にするようにしましょうとラケルは答えた。」(14-15)恋なすびとは、中東で育つ、男の性機能と女の不妊治療に良い植物と言われます。今日の本文でレアの息子ルベンが、その恋なすびを取ってきたのですが、ラケルはそれが姉の手に入るかと気になって自分が取ろうとしました。レアの恋なすびを横取りし、レアの妊娠を防ぎ、自分が使おうと、ねたんで手に入れようとしたわけです。ところで、面白いことは、姉の恋なすびを取るために、ヤコブと自分の夫婦関係の順番を売ったということです。当時でも今でも中東には一夫多妻制が存在します。そして、夫には妻たちと順番を定めて床を共にする義務があり、妻たちにも夫に定期的な夫婦関係を要求する権利があると言われます。それは誰にも譲れない大事な妻たちの権利であり、神に与えられた大切な行為とされていると言われます。ところで、ラケルは姉へのねたんで、その権利を恋なすびと引き換えてしまったのです。
ラケルは、姉への妬みに目がくらみ、神にいただいた大事な妻の権利をおろそかにしてしまいました。ある学者は「ラケルがヤコブとの夫婦関係を売ったことは、エサウが長子の権利を売ったことに比べられるほどの深刻なことだった」と主張しています。結論的に、恋なすびを手に入れたにもかかわらず、ラケルは子どもを儲けることが出来ませんでした。皮肉なことにラケルがヤコブをレアに譲った日、レアはまた子どもを身ごもることになったのです。ラケルの不信心は姉を憎むようにし、姉のものを欲しがるようにし、神に与えられた大事な権利である夫婦関係までも投げ捨てるようにする、大きな罪になりました。しかし、その結果は気の毒にも、姉にだけ子供ができ、自分には何も出来ない正反対の状況になったということです。ヤコブの祖父アブラハムは「信仰」によって義とされました。ここで信仰とは、すべてが主の御心通りに成し遂げられると信じ、主のお導きを待ち望むことを意味します。もちろん、これは「全てのことが主の御手の中にあるから、自分は何もしなくていい。」という意味ではありません。世の流れの中でも主の導きがあることを信じ、有益な時も、無益な時も、主に感謝し、託された人生を誠実に生きることを意味します。主の民が信仰を持って生きる限り、主は必ずご自分の時に民の信仰に答えてくださるからです。残念なことにラケルにはそれができず、ヤコブの家族は彼女の不信心によって争いと葛藤に巻き込まれたわけです。
3.人間の葛藤に揺るがない主の摂理。
ところで、私たちの姿もラケルとあまり違っていないかもしれません。私たちに罪がある限り、ラケルのように不信心から完全に自由になることが出来ないからです。人間は誰もが不信心を持っており、その不信心の根源は、人間の中心にある罪からもたらされるからです。信仰の完成期である今の皆さんは、罪を警戒し、常に悔い改めておられるでしょうが、若い頃を思い起こされると、これまでの私たちの欲望と罪の歩みが振り返られるでしょう。もしかしたら、今でも私たちは、このラケルのような者であるかも知れません。しかし、にもかかわらず、一つの希望があります。それは、私たちの信仰が弱くても、私たちが他人との争いを起こしても、私たちが欲望に浸っても、主の御前で恥ずべき罪を犯しても、いかなる状態であっても、神の摂理に全く影響を及ぼせないということです。レアとラケルがあれほど揉め、争ったにもかかわらず、神の御目に、それらのことはヤコブの子供たちが増える過程であり、神の計画が成就していく道のりであるにすぎませんでした。 当時はヤコブの家の大騒ぎだったのかもしれませんが、結局、そのすべての葛藤と対立が、イスラエル民族を形成していく最も早い道のりになったのです。神は実に人間の不信心さえも、主のご計画を成し遂げるための道具として用いられる全能な方であるのです。神の摂理は人間が持っているいかなる罪、争い、障害にも全く揺れ動かないものだからです。
私たちは今後も神に召される日まで、罪を犯し続けるかもしれません。自分が意識して犯す罪でなくても、知らず知らず犯す罪がきっとあるはずです。知らず知らず隣人ともめ、知らず知らず神に逆らう時もあるかもしれません。しかし、そのすべての私たちの失敗にもかかわらず、主なる神のご計画とご意志と摂理は決して変わること無く成就されていくでしょう。ここに私たちの希望があるのです。なぜ、死ぬべき罪人である私たちがキリストの功績によって、正しい者として、救われた者として認められるのでしょうか? 私たちの罪と愚かさが、キリストの御救いにちっとも影響を及ぼせないからです。狭い私たちの視野からヤコブの家を見れば、めちゃくちゃと見えるでしょう。神の民としての価値が無いと思われるかも知れません。しかし、広い神の視野から見ると、ヤコブの家の無茶苦茶なさまは、かえってイスラエルという民族の基礎を固める絶好の機会と見えるでしょう。私たちの人生も同様です。差し当り、私たちの人生がめちゃくちゃに見えるかも知れない時でも、神の御目には私たちの人生が一番良い方向に進んでいる状況であるかも知れません。神は私たちの状況によって影響を受けられず、むしろ私たちの状況を超えて、私たちを一番良い方向に導いていくことが出来る方でいらっしゃるからです。ですから、今日の悲しみや辛さにつまづかないようにしましょう。神への希望を持って生きて行きましょう。それがまさに私たちの持つべき信仰なのです。
締め括り
「他方は、自分の利益を求めて、獄中の私をいっそう苦しめようという不純な動機からキリストを告げ知らせているのです。だが、それがなんであろう。口実であれ、真実であれ、とにかく、キリストが告げ知らされているのですから、私はそれを喜んでいます。これからも喜びます。」(フィリピ1:17-18)おそらく、当時のキリスト者の中には、パウロへの妬みで競争心を持った人々がいたようです。彼らは福音伝道のためにローマ帝国によって投獄されたパウロを侮辱し、苦しめるために、競って伝道活動を行ったようです。しかし、パウロは、彼らの行為に怒るどころか、かえって先のことを深く考えて喜んだのです。パウロは、自分への彼らの妬みと競争心が、福音伝道のための神の道具になると思ったわけです。私たちは、このようなパウロの目線から世界を見つめるべきです。教会、もしくは、私たちの人生に遺憾なこと生じる可能性は高いです。しかし、そのすべては神のご計画や御導きに何の悪い影響も及ぼすことが出来ません。私たちは変わらず主の御心通りに導かれ、主は最後まで私たちを御心のまま、導いていかれるでしょう。神の摂理に揺れ動きは決してありません。私たちはこの神の民として生きているのです。だから、私たちに困難がある時、恐れないようにしましょう。ただ、神を信じ、祈り、主の摂理を待ち望みましょう。主はすべてのことを必ず正しく成し遂げていかれるからです。