主イエスの十字架
詩編 2編1~6節(旧835頁) ヨハネによる福音書 19章13~30節(新207頁) 前置き 先週、「十字架を仰ぎ見る」との題で十字架の説教をしましたが、内容を補充して今日も十字架の説教をしたいと思います。本来、十字架はローマ帝国による残酷な処刑道具で、呪いと苦しみの象徴でした。しかし今日、それは救いと命、そして平和のシンボルとなっています。この劇的な変化は、イエス・キリストが十字架の上で成し遂げられた特別な業によるものです。キリストは全人類の罪をその身に背負い、私たちの身代わりとなって死なれました。この犠牲によって救いが成就し、罪の中にあった私たちは、キリストにあって正しい者と新に生まれる恵みを与えられたのです。主なる神は、呪いの象徴であった十字架を、最高の祝福へと変えられました。本日は、苦難を受けられた主イエスの歩みを通し、十字架が持つ真の意味について深く考えていきたいと思います。 1.呪いを祝福に変える王の十字架。 ユダヤの人々は、救い主として遣わされた主イエスを殺すため、「自称ユダヤ人の王」(ヨハネ福音19:12)として皇帝に反逆したという濡れ衣を着せ、総督ピラトに引き渡しました。しかし、詩編が「聖なる山シオンで、わたしは自ら、王を即位させた」(詩篇2:6)と預言している通り、主イエスこそが神に認められた真の王でした。皮肉なことに、主なる神は異邦の総督ピラトの口を用い、「見よ、あなたたちの王だ」(ヨハネ福音19:14)と公に宣言させられました。これに対し、祭司長たちは「(ローマ)皇帝のほかに王はない」(ヨハネ福音19:15)と答え、自ら、真の王である神のメシアを公式に否定してしまいました。彼らが選んだのは主の御心ではなく、目に見える権力であるローマ皇帝であり、その実体は自分たちの欲望でした。詩編が警告するように、地上の支配者たちが主に逆らう姿を、神の民であるはずの彼ら自身が体現してしまったのです。彼らにとっての「王」とは、主なる神ではなく、自分の都合や既得権益を守ろうとする「己自身」に他なりませんでした。主なる神を拒み、自らを王座に据える人々の愚かな抵抗を、天におられる主は嘲笑い、ピラトを用い、逆説的に主イエスの王権を歴史の中に刻み込まれたのです。 旧約聖書における「油注がれた者(メシア)」はイスラエルの王を指しますが、同時にその王が世から否定され、苦難を受けることも預言されていました。主イエスが受けられた十字架の刑罰は、人間的な目で見れば無残な敗北であり、最大の呪いでした。しかし、主なる神はこの苦しみさえも無駄にはされず、むしろ十字架を通して主イエスが神に認められた真の王であることを証明されました。十字架という「呪いの象徴」が、神の救いという「祝福の象徴」へと大転換を遂げたのは、キリストが全人類の罪を背負い、死に勝利されたからです。世の人々が十字架を愚かなものと否定し、嘲笑ったとしても、主なる神はその十字架を通して祝福を受ける者を探しておられます。最悪の呪いさえも最高の恵みに変えられる主の愛こそが、福音の核心です。この十字架のイエスを王として信じ、受け入れる者には、かつての呪いが消え去り、神の御救いという新しい命の祝福が臨みます。絶望の象徴であった十字架は、今や私たちが主なる神の民として新しく生きるための、希望と栄光のシンボルとなったのです。 2.教会を守る和合の十字架。 主イエスが地上で養われた弟子の集い(教会)は、貧乏人やお金持ち、独立運動家や帝国協力者など、本来ならば相容れない多様な背景を持つ人々がキリストを中心として結ばれた愛と和合の共同体でした。これは神の国が単なる理想ではなく、この地上に既に始まっていることを示す象徴的な歩みでした。しかし、主の受難を前にして、この共同体は最大の危機を迎えます。ユダの裏切り、ペテロの否認、そして弟子たちの逃亡。一見すると、主が築き上げた和合の王国は無残に崩壊したかのように見えました。しかし主は、息を引き取られる、その瞬間まで、この愛の共同体を諦められませんでした。十字架の上から母マリアと愛する弟子を見つめ「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」「見なさい。あなたの母です」と言われた主の言葉は、単なる肉親への親孝行を超えた深い意味を持っています。主はご自身の死を前に、血縁を超えた「信仰による新しい家族」を制定されたのです。弟子が主の母を自らの家に引き入れたとき、崩壊寸前の共同体は、キリストのご命令によって再び一つに結ばれました。 もし、この和合のご命令が「美しい別れの言葉」で終わっていたならば、それは切ない悲劇に過ぎなかったでしょう。しかし、主が母を弟子に託された真の理由は、間もなく訪れる「復活」と「聖霊の降臨」にあります。主は死に支配されるお方ではなく、三日目に復活し、聖霊を通して母とも弟子とも永遠に共におられることを約束されていました。つまり、十字架での家族の制定は、復活した主を頭とする「永遠の教会」の完成を予告した契約だったのです。十字架は、神と人、そして人と人とを和解させる強力な和合の象徴となりました。この主イエスの夢は、現代の私たち、ここ大分中央教会においても引き継がれています。私たちは住む場所も、出身も、抱える事情もそれぞれ異なりますが、イエス・キリストの十字架という一点において、主を家族とする一つの体に結ばれました。主が命を懸けて守り抜こうとされたこの和合の御命令に従い、互いに愛し合い、助け合うことこそが、復活の主を証しする教会の姿です。十字架の愛の中で一つとなり、和合の共同体として歩み続けること、それこそが主の切なる願いなのです。 3.神の御心と信徒の救いを成し遂げる成就の十字架。 十字架の上で、主イエスが発言された「成し遂げられた」という言葉には「負債を完全に返済した」という法的な意味が含まれています。聖なる神による罪の判決(死)は、誰も免れることができず、罪ある人間にはその負債を支払う力も資格もありませんでした。そこで、罪のない神である主イエスが自ら人間となり、人間が支払うべき死の報いを、ご自身の犠牲によって完全に償われたのです。これは、いわば裁判官が自ら被告席に立ち、罪人の身代わりに刑罰を受けるという、本来あり得ない驚くべき出来事でした。主は十字架の苦しみを通し、神の義を満足させると同時に、人類の罪の負債を「完済」されました。肉体的な苦しみを超えて、死とは無縁の神が自ら死を選ばれたという事実こそが、この「成し遂げられた」業の重みを示しています。私たちの救いは、主が罪の代価を一点の曇りもなく支払い終えてくださったという、神の法的な宣言に基づいているのです。この圧倒的な恵みによって、私たちはもはや罪の奴隷ではなく、神の前に正しい者として立つ権利を回復したのです。 「成し遂げられた」という言葉のさらに深い意味は、三位一体なる神が味わわれた「関係の断絶」という、想像を絶する苦難の終結にあります。本来、父・子・聖霊は永遠に一つであり、罪とも死とも無縁なお方です。しかし、罪人を救うために御子イエス・キリストが罪を背負われたとき、聖なる父なる神は御子を捨てなければなりませんでした。三位一体の交わりが引き裂かれるという、人間には計り知れない霊的な痛みがそこにありました。この救いの計画は、十字架の瞬間だけでなく、永遠の昔から神の内に定められていたものでした。つまり、御子の受難は、人類に罪が生じたその時から神にとっての「永劫の苦しみ」として存在していたと言えるでしょう。主は十字架での死を通し、この気が遠くなるほど長い間続いてきた神の苦難の計画を、ついに完全に終わらせ、成就されました。主の十字架は、主なる神の御心を完全に満たすと同時に、人間に完全な救いをもたらす偉大な完成となったのです。神においても人間においても「完全な成し遂げ」を与えた、この主イエス・キリストの苦難こそが、私たちに臨む福音の核心であり、最大の慈しみであると言えるでしょう。 締め括り 十字架は、特別なものではありません。十字架は、お守りのようなものでもありません。十字架が私たちを救うわけではありません。救いは、ひとえにイエス・キリストのみの事柄だからです。しかし、十字架には、私たちを救ってくださった主なる神の恵みが潜んでいます。私たちは、十字架を眺めるとき、イエス・キリストの苦難と愛が自然に思い起こされます。重要なことは、今でもこの十字架の恵みが、私たちの間に生き生きと働いているということです。この十字架の恵みは、主が再び来られる日まで、変わることなく永遠に続くでしょう。呪いの十字架をこのように祝福の十字架に変えてくださった主イエス・キリストの愛と恵みを覚えていく一週間でありますよう祈ります。主の苦難が私たちの喜びとなり、主の死が私たちの命となりました。主の恵みに溢れる一週間になることを祈り願います。

