十字架を仰ぎ見る
民数記 21章4~9節 (旧249頁) ヨハネによる福音書 3章14~17節(新167頁) 前置き 最近、水曜祈祷会では旧約聖書 出エジプト記を輪読し、エジプトでの奴隷生活を終え、約束の地カナンへと導かれたイスラエルの旅路の物語を学んでいます。この旅路は「旧約時代のイスラエルの人々が経験した遠い昔の苦闘」であるため、私たちとは、そんなに関わりのない、他者の物語のように感じられやすいです。しかし聖書は、これら、昔の出来事が、今日を生きる私たちの信仰に大事な教訓を与える「生きた教え」であると証ししています。聖書に記された人物たちの足跡は、単なる昔の歴史ではありません。それは、現在を生きる私たちの人生にも適用できる「私たちの物語」でもあるからです。それゆえに、使徒パウロはこう語ったのです。「これらのことは前例として彼らに起こったのです。それが書き伝えられているのは、時の終わりに直面しているわたしたちに警告するためなのです。」(Ⅰコリント10:11) 今日は聖書の本文を通じて、主の民に残っている罪と主なる神の正義なる裁き、そして、それでも最後に与えられる救いについて学びたいと思います。 1. 主の民に残っている罪 「彼らはホル山を旅立ち、エドムの領土を迂回し、葦の海の道を通って行った。しかし、民は途中で耐えきれなくなって、神とモーセに逆らって言った。なぜ、我々をエジプトから導き上ったのですか。荒れ野で死なせるためですか。パンも水もなく、こんな粗末な食物では、気力もうせてしまいます。」(民数記21:4-5) 皆さんは、初めて、主なるに出会い、キリスト者となった時のことを覚えておられますか。人によって相異はありますが、ある人は大きな感情の変化なく主に出会い、自然に信仰者になり、またある人は、主という絶対者の存在に気づき、畏敬の念を感じながら強烈な体験を伴いつつ信仰者になります。イスラエル民族は、後者にあたるケースでした。主なる神が、数百年にわたって、彼らを支配していた大帝国エジプトを滅ぼし、紅海を割って導き出してくださったからです。このような経験をしたならば、誰も主なる神に逆らうことなどできないはずです。しかし、現実はどうでしょうか。今日の旧約聖書の本文を読むと、イスラエルの民が「主に逆らった」とあります。あれほど圧倒的で恐るべき奇跡をもってイスラエルを解放された主であるにもかかわらず、彼らは主に逆らい、不平を漏らしたのです。私たちはここに、人間の「罪」の本質を垣間見ることができます。 なぜイスラエルは、主に逆らい、不平を漏らしたのでしょうか。それはカナンへの道が険しすぎたからです。最初、エジプトを脱出した彼らは、さっそく「乳と蜜の流れる」カナンの地に着き、安らかに暮らせるだろうと思ったでしょう。しかし、彼らの罪のため、主は暑くて乾燥した荒れ野の道を40年間も歩かせられました。それはイスラエルの信仰を養うための訓練だったのです。しかし、その年月の間、イスラエルは心身ともに疲れ果ててしまったのです。その結果、彼らは「エジプトで奴隷生活をしていたほうがマシだった。」と不満をつぶやきました。「なぜ、わざと私たちを連れ出し、こんなひどい目に遭わせるのか。」彼らの逆らいと不平は、主のお導きに対する不信心から生まれたものでした。そしてその不信心は「自分の思いとは違う」という自己中心的な考えから始まったのです。イスラエルは、主の御旨よりも自分の思いを、先にしてしまったわけです。結局のところイスラエルは「自分の思い通りにしてほしい」との自己中心的な欲望にとらわれてしまいました。その欲望は、紅海を分けられた偉大な主の救いの御業さえも記憶の彼方へと追いやり、主なる神への畏れを消し去ってしまいました。人間の罪は、このような人間の本質的な欲望によって刺激されるのです。 現状に満足できず、主に不平を言う罪の姿は、私たちの生活の中にもありうることです。つまり、今日の本文の主の民イスラエルが罪を犯したように、現代のキリスト者である私たちも、罪を犯し得る存在なのです。「自分の思い通りにしたい」という欲望がある限り、私たちは決して罪から自由になることができません。聖書が主への「従順な生活」を強調する理由は、まさにそこにあります。キリスト者は「義人であると同時に罪人」である存在です。私たちはキリストの救いによって「義」とされましたが、それでもなお、生まれつき、罪の欲望を抱えています。したがって、自分の欲望のために主に逆らう罪の性質は、今も私たちの内に潜んでいます。もちろん、この罪はキリストによってすでに赦されているため、主と私たちの関係を断ち切ることはできません。しかし、この罪のゆえに、私たちは主の御旨に背き、自分が望む誤った方向へと人生の舵を切ってしまいがちなのです。罪は常に私たちと共にあります。私たちもまた、いつであれ今日の本文のイスラエルの民のように、主に逆らいうる存在なのです。私たちが日々悔い改めの人生を歩まなければならない理由は、ここにあるのです。 2. イスラエルへの主の裁きと救い 「主は炎の蛇を民に向かって送られた。蛇は民をかみ、イスラエルの民の中から多くの死者が出た。」(民数記21:6) 主なる神とモーセへのイスラエルの民の逆らいと不平の罪への報いは、彼らに対する主の裁きとして現れました。つまり「炎の蛇」を送られ、イスラエルを噛ませられたのです。ここで言う「炎の蛇」は「火を吹く蛇」を意味するわけではありません。おそらく、荒れ野に生息する猛毒の毒蛇を指さすことでしょう。民数記21章の背景は、現在のヨルダン南部フェイナン地域と推定されますが、古代から銅の鉱山として有名であり、周辺地域からは蛇形をした銅の遺物も発見されたそうです。今日の本文の背景となった場所は、もともと毒蛇が多い地域だったわけでしょう。主はその地域の蛇を用いて、主に逆らったイスラエルを裁かれたでしょう。主なる神は万物の創造主であり、その御言葉に従うことこそが被造物の在り方です。しかし、主の民に召されたイスラエルは、自分の在り方を忘却し、主に反抗したのです。主はそれを赦されなかったのです。それで、荒れ野の炎の蛇が、イスラエルを襲ったわけです。 新約時代に生きる私たちは、キリストの執り成しによって、主の激しい裁きと刑罰から自由な身となりました。しかし、キリストによる贖いが成される前であった旧約時代には、主の民であっても、主に背くならば主の激しい裁きを受けることがありました。出エジプト記32章33節には、次のような恐ろしい言葉が記されています。「主はモーセに言われた。わたしに罪を犯した者はだれでも、わたしの書から消し去る。」(改革派神学の観点からは、この言葉は救いの取り消しではなく、神の戒めとして解釈される。)しかし、旧約の神は、ただ無慈悲に裁くだけの方ではありませんでした。主の民が罪ゆえに裁きを受けたとしても、その中に「逃れる道」をも備えてくださったのです。それこそが、今日の本文に登場する「青銅の蛇」なのです。「民はモーセのもとに来て言った。わたしたちは主とあなたを非難して、罪を犯しました。主に祈って、わたしたちから蛇を取り除いてください。モーセは民のために主に祈った。主はモーセに言われた。あなたは炎の蛇を造り、旗竿の先に掲げよ。蛇にかまれた者がそれを見上げれば、命を得る。モーセは青銅で一つの蛇を造り、旗竿の先に掲げた。蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぐと、命を得た。」 主なる神は、自分の罪を悔い改め、主に立ち帰る者に、回復の恵みを注いでくださいます。イスラエルの民が罪を犯しましたが、主はその昔、アブラハムと結ばれた契約を覚え、彼らを滅ぼし尽くす代わりに「青銅の蛇」という救いの手立てをくださいました。死ぬはずであった罪人が、主の約束を信じて青銅の蛇を仰ぎ見たとき、主はその「信仰」をご覧になり、癒やしを与えられました。そして、この青銅の蛇は、イエス・キリストの十字架をあらかじめ示す「影」でもあります。旧約の民が青銅の蛇を見て命を得たとするならば、今日、私たちは十字架にかけられたキリストを仰ぎ見ることによって、永遠の命を得るのです。イエス・キリストは、アブラハムよりもさらに力強い契約を、十字架において神と結ばれました。新約の十字架は、旧約における神とアブラハムの契約が、キリストにおいて完全に成就した証しなのです。旧約の信仰者たちがかすかに見ていた救いの光が、今やキリストを通じて、私たちに完全な姿で現されました。私たちが十字架のイエスを信じ、ただ主のみに依り頼むとき、主は、青銅の蛇を仰ぎ見たイスラエルに与えられたものよりも、さらに豊かで永遠なる天の平安を、私たちに注いでくださることでしょう。私たちは今日、その十字架を通して、罪人を最後まで見捨てず、諦められない救い主イエスを仰ぎ見るのです。 締め括り 私たちの内には、今なお罪の本性が残っています。時には、自分の欲望とは異なる主のお導きを前にして、イスラエルの民のように不平を漏らしてしまうこともあるでしょう。私たちは自分自身を救うことのできない、徹底して弱い存在です。しかし、主は私たちを悲惨な状態の中に放っておかれません。旧約の民が「青銅の蛇」を仰ぎ見て命を得たように、私たちにも、唯一の生きる道である「イエス・キリスト」の十字架を与えてくださいました。この十字架は、単なる救いの機会ではありません。私たちを必ず生かすという、主の決して折れることのない御意志の現れなのです。十字架は私たちを裁くためのものではなく、私たちを生かすための、最も強力な愛の確証です。このレント、私たちの不信心よりもはるかに大きい主のまことを信頼しましょう。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。 神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。 」(ヨハネ福音3:16‐17)

