御言葉にあって生きる

申命記 8章2~3節 (旧294頁) マタイによる福音書 4章1~11節(新4頁) 前置き レントの期間が始まりました。先週の水曜日「灰の水曜日」から、イースター直前の土曜日である「聖土曜日」までの40日間です。聖書において「40」という数字には特別な意味があります。ノアの洪水の際、40日間雨が降り注いだこと、若いモーセがエジプトから逃げ、ミディアンの荒野で40年間を暮らしたこと、そして出エジプトの後に十戒を授かるため、モーセがシナイ山で40日間を過ごしたこと。また、その後、イスラエルの民の40年の荒野での旅、そして何よりも主イエスが荒野で40日間断食し、試練を受けられたことがすべて40とかかわりがあります。このように、新旧約聖書のさまざまな場面で「40」という数字が象徴的に現れます。レントは、まさにこの「40」という数字の霊的な意味を、私たちの日常へと引き寄せる時間です。荒野のようなこの世にあって、自分自身を低くし、ただ、主の御言葉のみから満足を求める霊的な訓練の時間、それがこのレントの意義なのです。 1. 荒野での試練の意味 まずは、主イエスが受けられた荒野での40日間の試練について話しましょう。マタイによる福音書4章1節から2節にはこうあります。「イエスは悪魔から誘惑を受けるため、霊に導かれて荒れ野に行かれた。そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。」主イエスはヨルダン川で洗礼を受けられ、間もなく試練を受けるために荒野へと向かわれました。主イエスが公生涯を始められるにあたって、真っ先にこの試練を受けられたのには理由があります。第一、失敗した「最初のアダム」の歩みとは異なる「第二のアダム」としての資格を証明するためです。最初のアダムは犯罪し、神を裏切り、堕落してしまいました。しかし、主なる神から遣わされた第二のアダムである主イエスは、その始まりからアダムとは完全に区別され、罪の誘惑に打ち勝つ姿を示すことで、救い主としての資格を証明されました。第二、出エジプト時代のイスラエルが犯した「偶像崇拝の罪」を克服される方であることを証明するためです。かつてエジプトを脱出したイスラエルの民は、荒野での40年間、不平不満を漏らした結果、偶像崇拝を犯してしまいました。しかし、主イエスは荒野での40日間を通して、そのイスラエルの失敗を乗り切り、主なる神への完全な服従を見せてくださいました。主イエスは、この荒野での40日間の試練を通して、昔、失敗したイスラエルとは異なり、罪の誘惑に打ち勝ち、不平や偶像崇拝を断ち切るお方であることを救い主としての資格をもって自ら証明されたのです。 レントの40日間は、こうした主イエスの荒野での試練を意味します。私たちはこのレントを通して、主イエスが経験された荒野の40日の意味を自分の生活の中へと取り入れて記念すべきです。私たちは、主イエスのように完全な勝利の40日間を過ごすことはできません。40日間ずっと断食をするには体力の弱い高齢の方々がおられ、社会生活や日常生活を営むためには、元気な若者でも40日間の断食は不可能です。そして、40日間祈りばかりして日常生活を諦めるのもあり得ないことです。しかし、私たちはレントという40日間の期間を通して、イエス・キリストの試練とその勝利の意味を心に刻むことはできます。また、この40日間を通じて、罪のゆえに主を裏切ったイスラエルの過ちを振り返り、自分自身の生き方について反省し、悔い改める時を持つことができます。主イエスの生涯から信仰を学び、かつてのイスラエルの民の失敗から教訓を得るのです。それゆえにレントは、主イエスとイスラエルの民が過ごした「荒野」を私たちの日常へと引き寄せ、自分自身を見つめ直す意義深い時間です。自らを省み、御言葉を黙想し、悔い改めることができる「荒野の生活」のようなレントの期間となりますよう、共にお祈りいたしましょう。 2. 主イエスの試練と苦難を憶えるレント 主イエスの苦難はいつから始まったのでしょうか。オリーブ山で捕らえられ、裁判にかけられ、鞭打たれ、十字架を背負って最終的に釘づけにされて死なれた、あの数時間のことでしょうか。いいえ、キリストの苦難は、御子なる神が人間になることをお決めになったその時から始まったのです。そして、その苦難がこの地上で明らかに現れ始めたのが、まさに荒野での40日間の試練であると言えるでしょう。私たちは、40日間にわたるキリストの試練と苦難を憶えながら、主が受けられた苦難の意味について深く黙想しなければなりません。主イエスの試練は、三つの段階に分けられます。第一、「石をパンに変える誘惑」の試練です。聖書にはこう記されています。「すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」(マタイ4:3)これは、肉体的な情欲の試練を意味します。「パン」は肉体の欲求の象徴です。主イエスは御子なる神ですが、人間の肉体を着て来られたため、私たちと同じく空腹を感じるお方でした。40日間の飢えの中で、強烈な食欲を感じておられたはずです。しかし、主イエスはご自身の肉体的な欲望を、決して神の御言葉より優先させることはされませんでした。それゆえ、こう宣言されたのです。「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」(申命記8:3) 第二に、「神殿の端から飛び降る」試練です。これは「高慢」の試練を意味します。神の御子である主イエスは、すべての被造物の上に立たれるお方です。しかし、人間の肉体を着て来られたがゆえに、人間の限界をも同時に受けられました。最も高きお方が、進んで最も低き者と同然になられたのです。そのような主イエスに対して、神殿の端から飛び降り、天使に支えられ、神であることを示しなさいとの悪魔の誘惑は、大きな試練となったかもしれません。しかし、主イエスはそのような権能を十分持っておられたにもかかわらず、自らを高めることをやめ、謙遜を貫かれました。そしてこう言われました。「あなたたちの神、主を試してはならない。 」(申命記6章16節) 最後に「ひれ伏してわたしを拝め」という試練です。これは「偶像崇拝」と「自己顕示」の試練です。古今東西を問わず、権力、財力、名誉は人間を誘惑する最大の欲望です。もし誰かが、「権力、財力、名誉すべてを本当に与えるから、その代わりに信仰を諦めなさい」と言ってくるなら、誰でも動揺するかもしれません。自分の欲望を満たすために神への信仰が弱くなること、それこそが「偶像崇拝」の本質なのです。そして、その欲望は、結局、人間の世俗的な誇りへと行き着くのです。それに対し、主イエスはこう答えて試練を克服されました。「あなたの神、主を畏れ、主にのみ仕えなさい。」(申命記6章13節) つまり、これら三つの試練は「欲望、高慢、偶像崇拝」に関わるものであり、自分自身が神になろうとする人間の本能を刺激するものであると言えるでしょう。こうした荒野の試練の本質を見事に言い表した新約聖書があります。「すべて世にあるもの、肉の欲、目の欲、生活のおごりは、御父から出ないで、世から出るからです。」(Ⅰヨハネ2章16節) 肉の欲は「欲望」を、目の欲は「高慢」を、そして生活のおごりは「偶像崇拝」の種になるものだと言っても良いでしょう。ヨハネの手紙第一は、これらすべてが父なる神からではなく、世から出たものであると警告しています。主イエスは、ご自身が神であるにもかかわらず、人間の肉体を着て来られ、父なる神の前で謙遜に自らを低くされました。そして、その謙遜さをもって世のものを退け、父なる神のものを求められました。そうして主イエスは、罪人を救える真の正しい者、救い主として、父なる神に認められたのです。荒野での試練と、その克服、そこには、私たち罪人の救いのための、イエス・キリストの決然たるご意志が込められていることを、私たちは決して忘れてはなりません。 3. 御言葉にあって生きる 私たちはここで、主イエスがいかにして試練を克服されたのかをはっきりと知り、それを自分自身の信仰生活に適用する必要があります。それは、主イエスが、ひたすら「神の御言葉」にのみ寄りかかられたということです。今日の旧約本文を読んでみましょう。「あなたの神、主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわち御自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた。主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。」(申命記8:2〜3) 今日の新約本文において、主イエスが誘惑する者(悪魔)を退けられた際、引用された御言葉の一つが、この申命記にあるモーセの言葉「人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」でした。レントは、荒野で試練を受けながらも、最後まで神の御言葉だけに従い、依りかかられた主イエス・キリストの決然たるご意志を、現代を生きる私たちに呼びかける期間です。このレントを通して、今一度主の御言葉を心に刻み、その御言葉に立って信仰を守り抜いていきましょう。主イエスに倣って、御言葉にあって生きる私たちの人生を改めて誓うレントでありますよう祈り願います。 締めくくり 今年のレントが始まりました。40日間、私たちの信仰を顧みる時間になることを願います。私たちはキリスト者でありながら、自分の欲望が制御できず、主の御言葉に従順に聞き従えない時も良くあるでしょう。主イエスは、ご自身が神であられるにもかかわらず、自らを低くされ、謙遜に主なる神に聞き従われました。そして、父なる神の御言葉にのみを拠り所とし、試練に打ち勝ち、堂々と救い主としての道を進まれました。私たちもまた、そのイエス・キリストの御心を憶え、自分を低くして、主なる神だけに従う信仰を貫いていくましょう。このレントの時期、主なる神の豊かな恵みが主の教会の上に降り注がれますよう祈り願います。

乗り越える力をくださる。

コリントの信徒への手紙一 10章1~13節(新311頁) ※写真:コリントの遺跡 前置き 本日の本文は、第一コリント10章の言葉です。特に13節の言葉「 あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」は、苦難の中にある人に慰めを与える主なる神の恵みを思い起こさせます。しかし、今日の本文を正しく理解するためには、まず、当時のコリント教会がどのような状況に置かれていたのか、その背景と文脈をしっかりと把握しておく必要があります。今日の説教のタイトルだけを見ると「私たちに力をくださる味方なる主」についてのメッセージとして受け取りやすいです。しかし、本文は盲目的に味方になってくださる主を語っていません。むしろ、キリスト者の生活にあり得る「間違い」を指摘し、その間違いを乗り越えようとする者を主が助けてくださると語っているのです。今日の本文を通じて、主は私たちにどのようなメッセージを届けてくださいますでしょうか。聖書の御言葉を通じて、学びたいと思います。 1. 自由と放縦(わがまま) 本日の本文ではありませんが、第一コリント8章で、パウロはキリスト者の自由について警告しています。「ただ、あなたがたのこの自由な態度が、弱い人々を罪に誘うことにならないように、気をつけなさい。」(一コリント 8:9) パウロが力を入れて警告した理由は、当時のコリント教会の中に、自由と放縦の区別がつかないまま、自分勝手に振る舞う者たちがいたからです。様々な淫らな行為、信徒の間の世の裁判所における争い、そして偶像崇拝など、キリスト者にあってはならない問題が教会員の間で行われていました。おそらく「すべてのことが許されている。」(一コリント 10:23)というパウロの教えを誤解した結果ではないかと思われます。このような放縦は、信仰を始めたばかりの人々にとって大きなつまずきとなりました。キリスト者は主イエスの救いによって真の自由を得たため、もはや迷信や強迫観念に縛られる必要はありません。昔の過ちから解き放たれ、新しい出発ができる真の自由が、キリストによって私たちに与えられました。しかし、この自由が決して「放縦」へと流れてはなりません。真の自由とは、常に信仰の弱い人々や教会全体の秩序に配慮する「愛」の中で実践されるべきものです。自由と放縦の違いとは何でしょうか。フランスの哲学者サルトルは無神論者であったため、信仰的な観点からは多少の距離がありますが、彼が残した「人間は自由という刑に処されている。」という名言は、私たちにも有意義だと思います。 このサルトルの言葉が意味するところは、自由とはわがままにする権利ではなく、自分の選びによる影響までも完全に引き受けなければならない「重荷」であるということです。ここに、自由と放縦の境界線があります。放縦とは、他者を排除したまま自分の欲望のみに溺れる無責任な状態を指しますが、真の自由とは、自らを制御し、自分の選びに伴う重みを耐え忍ぶことなのです。イエス・キリストがキリスト者を罪から救い、永遠の命を与え、自由になれる恵みを与えてくださった理由は、主なる神の民として、主の御心に従い、この地に御国をもたらすことにあります。御国がこの地にもたらされるということは、主の愛と恵みがこの世界に溢れ出るための「窓口」になるということです。そのために、私たちは主に与えられた自由を、御心を成し遂げるための道具として用いなければなりません。もちろん、キリスト者の自由は、サルトルが言うような「刑」とは異なります。主がくださる自由は、真の解放を意味するからです。しかし、もし、その自由が私たちの放縦のための道具へと成り下がるならば、その自由は私たちを縛りつける刑として残った方が、ましなのかもしれません。キリスト者は自由な存在です。しかし、私たちの自由は、主の御心が成し遂げられるために用いられる「責任ある自由」でなければなりません。私たちが自らの自由に責任を持たないならば、その無節制な自由によって、誰かが必ず試練に陥り、傷つき、教会を離れてしまうことになるからです。 2. 放縦ではなく謙遜と節制を パウロは、自由を放縦へと誤用した例として、かつての出エジプト時代のイスラエルの民について言及しています。「しかし、彼らの大部分は神の御心に適わず、荒れ野で滅ぼされてしまいました。」(一コリント 10:5) 出エジプト記の記録によれば、主なる神はモーセを通してイスラエルの民をエジプトの奴隷から救い出し、約束の地カナンへと導かれました。彼らは昼は雲の柱、夜は炎の柱の下で、主の徹底したお守りの中にありました。紅海を分けて彼らを救い出した奇跡、追撃するエジプト軍を退けられた奇跡、天から降るマナと岩から湧き出た水の奇跡、これらはすべて、主のお守りの中でイスラエルが享受した「恵み」でした。(一コリント 10:1-4) しかし、これほどの恵みをいただきながらも、彼らは主の御前で偶像崇拝、不平不満、淫行といった深刻な罪を犯してしまいました。エジプトの奴隷という身分から脱し、主の民という「自由人」の身分に新たに生まれたにもかかわらず、主が与えてくださった真の自由の意味を悟らぬまま、肉体と罪の欲望に従う「放縦」に陥ってしまったのです。結局、彼らの荒れ野での歩みには、主の救いだけでなく、懲らしめと苦難の歴史も刻まれることとなりました。ある意味で、罪は「放縦」から生まれるものであるかもしれません。創世記において、主は最初の人間に「禁断の木の実」以外のすべての果実を食べる自由を与えられました。しかし、最初の人間はそれ以上のものを求めたあまり、放縦となり、ついには主が禁じられた「禁断の木の実」にまで手を伸ばしてしまったのです。 「彼らの中のある者がしたように、偶像を礼拝してはいけない。… 彼らの中のある者がしたように、みだらなことをしないようにしよう。みだらなことをした者は、一日で二万三千人倒れて死にました。また、彼らの中のある者がしたように、キリストを試みないようにしよう。試みた者は、蛇にかまれて滅びました。彼らの中には不平を言う者がいたが、あなたがたはそのように不平を言ってはいけない。… これらのことは前例として彼らに起こったのです。… だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい。」(一コリント 10:7-12) 今日の本文は、かつてのイスラエルの民の例をあげ、現代を生きる私たちも、自由と放縦を混同し、主の御前で罪を犯してはならないと訴えています。ここにおられる皆さんは、清い心で真実な信仰の歩みを切望しておられることと信じます。しかし、私たちの日常にも、このような放縦な心が芽生えることがあります。キリストに出会い、信仰者として生きていても、知らず知らずのうちに放縦に流れ、主の御前で罪を犯し得るのだということを、常に念頭に置いて生きなければなりません。「だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい。」聖書がこのように警告しているのも、そのためです。幸いなことに、私たちは主の御言葉によって、自分が自由と放縦を取り違えていないか、罪を犯していないか、いつでも自らを省みる機会を与えられています。謙遜と節制を伴う自由を持ち、日々悔い改め、慎み深く自らの歩みを振り返りながら生きていきましょう。謙遜と節制の信仰によって、放縦ではなく、真の自由を享受しながら歩んでいきましょう。 3. 主が助けてくださる人 「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」(一コリント 10:13)自由と放縦をわきまえ、謙遜と節制の生活を営む人に対し、主は「耐えられる試練」すなわち試練を乗り越える力を与えてくださいます。主は何もしようとせず、何の努力もせず、ただ受け身に生きる人を盲目的に助ける方ではありません。もちろん、私たちの「救い」に限られては、人間の努力は無用です。私たちの救いは、ただキリストによってのみ成し遂げられるからです。聖書は、自力で自分を救うことのできない弱き民を助ける主について証していますが、それはあくまで「救い」についてです。日常生活において何もしないまま、ただ天を仰いで祝福だけを願い、無気力に生きる人を正当化する言葉ではありません。私たちは、自分の人生において、自由が放縦へと流れないように、善い行いのために努力し、励むべきです。主はそのような人に、さらに成長できる恵みと力を与えてくださるでしょう。古代ギリシャの諺に「天は自ら助くる者を助く」という言葉があります。これは聖書の言葉ではありませんが、信仰生活においても有意義な格言だと思います。私たちの救いを除くあらゆる事柄において、主は自ら助けようとする者を助けてくださるということを忘れないようにしましょう。 締めくくり 2月も半ばを過ぎようとしています。今年が始まってから、すでに50日近くが経ちました。年のはじめに決心した思いが、少しずつ薄れ始めている頃ではないかと、自省させられます。このような時こそ、私たちはもう一度自らの信仰を振り返り、生き方を見つめ直しながら、より良い明日のために自らを顧みるべきだと思います。自由と放縦をわきまえ、謙遜と節制の生き方をもって日常の信仰に励みましょう。私たちの信仰は、特別な瞬間だけでなく、何の変化もない日常の暮らしの中でこそ、より一層輝くべきものです。そのような生を歩む私たちに、主なる神は、祝福を与えてくださるでしょう。

信仰による約束

創世記15章6節 (旧19頁) ローマの信徒への手紙 4章1‐25節(新278頁) 前置き 世界の多くの宗教は、人の行いに価値を与える傾向があります。神々の気に入られるために供物を捧げ、極楽に入るために苦しい修練を耐え忍び、功を認められるために自分の命をかけたりすることもあります。行いを通して自分の特別さを神々に示そうとするからです。ユダヤ人もそうでした。主なる神に委ねられた律法を行う選ばれた唯一の民族という独り善がりのため、自分を高め、異邦人を排除しました。世界の多くの宗教は、このような行いを通して自分らの正しさを神に示し、そんな自分の正しさによって、救いを得るという話を前面に押し出しています。ローマ書は、このような行いによる人間の義を断固として否定しています。人間は最初から罪を持っており、宗教人でさえ、罪人という軛から自由ではないと語っています。ローマ書は、ひとえに主イエスへの信仰による義だけが、人間を自由にする唯一の手立てだと教えているのです。今日はローマ書4章を通じて、なぜ信仰なのか、果たして信仰というのは何かについて話しましょう。 1.信仰の始まり、アブラハム アブラハムは75歳の時、主に召されました。今では75歳は割と元気な年齢ですが、古代においては非常に高齢で、死に近い年齢だったのです。主はアブラハムに、まるで、若者に命令するかのように、「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように。」(創世記12:1-2)と信じがたい言葉をくださいました。 「すべてが終わった。」と断念する時、主はすべての始まる命令をくださったのです。アブラハムは非常に驚きました。しかし、さらに驚くべきことは、「わたしはあなたを大いなる国民にする。」という言葉でした。それは、75歳で子供のいないアブラハムにとんでもない約束でした。子供のいないアブラハムは甥のロトや僕エリエゼルに遺産を譲ろうとしていました。そんな、子供のいない絶望の時に、主はアブラハムに現れ、希望の言葉をくださったわけでした。「あなたから生まれる者が跡を継ぐ。天を仰いで、星を数えることが出来るなら、数えてみるがよい。あなたの子孫はこのようになる。」(15:4-5)古代社会において、後継ぎがないというのは、滅亡を意味しました。 しかし、主は滅びる直前のアブラハムの家が、夜空の星のように復興し、アブラハムが信仰の先祖になると言われました。それは、死んだアブラハムを生き返らせると同じような宣言だったのです。アブラハムが人間の弱さのため、諦め、挫折していた時、主は彼を信仰に招いてくださいました。主なる神は、人間アブラハムに義がないのをご存じでおられましたが、それでも、彼に信仰に招いてくださったのです。結局、アブラハムは主に頼り、信仰を通して、主のお招きに応じました。その瞬間、アブラハムは義と認められました。何もしないで、ただ主の招きに信仰によって応じただけなのに、主は彼の小さな信仰をご覧になって、義と認めてくださったのです。アブラハムは決して実現できない大きなことが全能なる神によって成し遂げられると信じました。その小さな信仰が、信仰の主であるキリストを私たちにもたらす偉大な種となりました。今日ローマ書がアブラハムの話を例え話に挙げる理由は、彼が自分の思いではなく、主の約束を信じたからです。「人間には出来ないことも、神には出来る」(ルカ18:27)アブラハムは、主に希望を置いて信じました。それが彼の信仰であり、この信仰によって、アブラハムは信仰の父となったのです。 2.律法の前に信仰によって結ばれた約束。 ここで、誰かは信仰について「それでも、信じるということも、結局、人間の行いではないか。」と疑問を抱くかもしれません。しかし、聖書が語る信仰は、人が主体となる、行いとしての信仰ではありません。聖書が語る信仰は、まるで農夫が蒔いた種のようなものです。種は小さいですが、農夫に養われ、土の重さにうち勝ち、芽を出します。そして少しずつ育っていきます。種を蒔いた農民は種が死なないように水と肥しをやり、雑草を取ってくれます。とうとう種は、小さい木になります。そして、小さな木は大きい木となり、美味しい実を結ぶようになります。主は農夫として、小さな種のような弱い信仰が、一抱えの木のような堅い信仰になるまで守られ、育ててくださいます。私たちが「主を信じている。」と自覚する時は、農夫のような神が、私たちの信仰という種を、既に木のように養ってくださった時です。信仰は、主が与えてくださるものです。人間の情熱や努力によって生じるものではありません。 聖書が示す「義」とは、神の養いのもとに生きることであり、それは人間の行いによるものではなく、主なる神の恵みによって与えられるものです。アブラハムは、律法が与えられる数百年も前に、ただ神を信じたことによって義と認められました。彼は完璧な人間ではありませんでした。主に相談せず独断で子を設けるという大きな失敗を犯し、信仰が揺らぐこともありました。しかし、主は彼を見捨てず、99歳の彼に「割礼」を命じられます。この割礼は、失敗した彼を赦し、主が一方的に約束を守り抜くという「印」であり、すでにあった信仰を裏付けるものでした。同様に、後の時代に与えられた律法も、人を義とするための道具ではありません。律法はあくまで主の民としての生活のガイドラインであり、自らの罪を自覚するためのものです。アブラハムが100歳にして約束の子イサクを授かった原動力は、彼の立派な行いではなく、主から与えられた「信仰」でした。割礼や律法という形に囚われるのではなく、ただ主を信じる信仰だけが、私たちを主の御前に立たせる唯一の道なのです。 3.約束を守られる神。 創世記15章17節には、主とアブラハムが契約を結ぶ場面が描かれています。古代近東には「双方束縛的契約」という、切り裂いた動物の肉の間を契約者が通り、もし約束を破れば自分もこの動物のように切り裂かれて死ぬと誓う慣習だったのです。しかし、この場面で肉の間を通り過ぎたのは、アブラハムではなく、「煙を吐く炉と燃える松明」に象徴される「主なる神」のみでした。しかも、アブラハムは契約の準備において、切り裂くべき鳥を切り裂かない不完全さを犯していました。それにもかかわらず、主はお独りでその間を通り過がれました。これは、主がご自身の責任だけでなく、アブラハムが負うべき責任や罪責までも、ご自身が引き受けるという驚くべき誓いです。アブラハムが失敗しても、主ご自身がその報いを担い、約束を成就させられるという一方的な愛の宣言だったのです。なぜ人は行いではなく「信仰」によってのみ義とされるのでしょうか。それは、主とアブラハムが結んだ約束が、形式的な義務ではなく「信頼関係」に基づいているからです。主は不完全なアブラハムを信頼し、正しい者(義)として受け入れられました。この主の深い信頼に対し、人間側がなし得る唯一の応答が、まさに「信仰」なのです。 律法や割礼といった人間の行いや手柄では、この主との深い信頼の約束を守ることはできません。ローマ書4章13節が語るように、約束は律法ではなく「信仰による義」に基づいています。私たちの信仰とは、単なる主観的な思い込みではなく、神が結んでくださった約束を有効にする「唯一の鍵」なのです。主イエスの十字架の死は、単なる同情によるものではありません。それは、アブラハムと結ばれた「命を懸けた契約」を神ご自身が守り抜かれた結果です。アブラハムもその子孫も、絶えず罪を犯し、契約を守り抜くことができませんでした。しかし、主はご自分の民を諦めませんでした。本来、霊である神は死ぬことができません。しかし、主なる神は死ぬことができないご自分を制約し、アブラハムとの約束を果たしてくださるために、肉体を持ってこの地上に来られました。そして、かつて契約の場で切り裂かれた動物のように、自らが十字架で切り裂かれ、死んでくださいました。主イエスは、人間が負うべき死の報いを身代わりに受け、守りきれなかった律法の精神を完全に全うされたのです。主イエスの十字架は、主の誠実さと愛の究極の証しです。キリストこそが、主の約束の達成者であり、私たちはこの方を信じることを通してのみ、主なる神との約束の民として義に留まることができるのです。 締めくくり なぜキリストだけが救い主なのか。それは、主イエスこそが主なる神とアブラハムの間に結ばれた「約束の実」だからです。かつて主がアブラハムを招かれたように、今、主はキリストを通して私たちを招き、限りのない信頼を示しておられます。信仰とは、この主なる神の信頼に応える「双方の約束」です。主は律法や他の手段ではなく、ただ信仰による契約を立てられました。したがって、この招きに信仰を持って答える時、私たちはキリストにあって主の民として義とされ、永遠の命を得るのです。キリストのみが救いの正解である理由は、その方が主なる神の約束の達成者であり、主の愛と信頼を私たちにつなげてくださる唯一の道だからに他なりません。私たちの信仰と主なる神の御働き、主イエスの御業を正しく理解する私たちであることを祈り願います。

三位一体を語る

申命記6章4-5節 (旧291頁) マタイによる福音書3章16-17節(新4頁) 前置き 私たちは「神」を信じています。人間という有限の存在が、神という無限の存在を完全に理解することは決してできませんが、私たちは、聖書に記された限られた神知識を通じて、私たちが信じる方がどのようなお方なのか、どのように存在し、どのように働かれるお方なのかを積極的に学ばなければなりません。「道を歩きながら、あなたがたが拝むいろいろなものを見ていると、知られざる神にと刻まれている祭壇さえ見つけたからです。それで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしはお知らせしましょう。」(使徒言行録 17:23) 使徒パウロはギリシャのアテネを訪れた際、人々が誰なのかも知らない神々をも拝んでいるのを見て、自分が知っている真の神を大胆に宣べ伝えました。私たちはキリスト者として、自分の主である神がどのようなお方なのかをはっきりと認識し、信じるべきです。今日の説教を通じ、三位一体として存在される私たちの主なる神について、改めて学びたいと思います。 1. 三位一体:神の存在様式 「三位一体」という言葉を聞くとき、人は多かれ少なかれ違和感を覚えるものです。「三位一体、三つでありながら一つである」という言葉自体が、物理的にあり得ない話であり、論理的にも唯一の神が三人であるということは理解しがたいからです。また、三位一体という表現そのものも聖書に直接記されているわけではありません。それにもかかわらず、歴史の中で教会は神を三位一体として理解し、信じてきました。なぜなら、聖書全体が「主なる神は、父・子・聖霊という三つの「位格」として存在し、このお三方は本質において同一であるひとりの神である」と絶えず証ししているからです。しかし、三位一体なる神という言葉は依然として理解しがたい概念です。そのため、歴史上多くの人々が誤った仮説を立てて三位一体を語ってきました。その一つである①様態論(モーダリズム)は、 神はおひとりであるが、必要に応じて姿を変えられるとの仮説です。例えば、水が温度によって「蒸気、水、氷」と変化するように、神も父・子・聖霊へと変化すると思います。これは「一体」を強調するあまり、「三位」を軽んじた解釈であり、代表的な誤りです。 もう一つの仮説がありますが、三神論(トリティズム): 一家族が「父、母、子供」で構成されるように、三つの位格が一つの団体のようにおられると思う仮説です。これは「三位」を強調するあまり、「一体」を軽んじた解釈であり、これもまた代表的な誤りです。神は、私たち人間の説明方式では決して説明し尽くせない神秘に満ちたお方です。人間の有限な知性で、無限なる神の存在様式を完璧に理解することは不可能です。それはまるで、小さな紙コップの中に巨大な太平洋の水を全部注ぎ込もうとするようなことです。私たちは、理解できないからといって違和感を抱えるのではなく、神が啓示してくださった御言葉を通じて、この神秘を謙虚に受け入れなければなりません。「三つにいまして一つなる」という賛美歌の歌詞のように、神が三位一体であることを知識ではなく信仰によって理解し、その存在を信じる私たちでありたいと思います。 2. しかし、唯一なる神 三位一体は「三つにいまして一つなる」神の存在様式ですが、それでも聖書はこの神が「唯一」であると語ります。旧約聖書の御言葉を読んでみましょう。「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」(申命記 6:4-5)今日のこの箇所は、イスラエル民族の信仰の土台となる御言葉です。本文の「聞け」という言葉は、ヘブライ語で「シェマ」と言います。「聞く」という意味の「シャマー」の命令形です。神は旧約のイスラエルの民に「あなた は、唯一の神のみを愛せよという私の命令を聞きなさい」と宣言されたのです。この宣言が告げられた当時、つまり、古代近東の世界は多くの神々を拝む多神教社会でした。豊穣の神、戦争の神など、人間の欲望に応じて神々が作られ、拝まれていました。そんな世の中で、主なる神は断固として「私の他に神はない。神は唯一私ひとりである」と宣言されたわけです。「唯一」という言葉は、単なる数字の「一」だけを意味するものではありません。それは、主なる神の絶対的な主権、唯一の創造主であり、支配者であることを意味します。三位一体において、私たちが決して見失ってはならないのは、この神の「単一性」です。 世の中には数多くの偶像があります。近くには他宗教の神々があり、また八百万の神という概念もあります。それはあらゆる場所に神が宿っているという汎神論的な思想です。また、自分の欲望そのものが神(偶像)となることもあるでしょう。しかし、三位一体教理の教えは、それらすべての「他の神々」の存在を否定します。「ひとえに主なる神という存在だけが、あなたが崇めるべき唯一の神である」。重要なのは「神は三人なのか一人なのか」という数字へのこだわりではなく、聖書が証しする「父・子・聖霊」こそが、私たちが信じるべき唯一の神であるということです。「おひとりの神」という言葉を数学的にのみ捉えないようにしましょう。その言葉には「万物の支配者、唯一かつ真の神」という意味が込められているからです。三位一体の神は、父・子・聖霊としておられる唯一の創造主、支配者、絶対者であることを信じましょう。 3. 三位の愛と協力 このように単一性を示される三位一体の神ですが、「父・子・聖霊」はそれぞれ固有の権能を持ち、お互いに協力しながら御業を成し遂げていかれます。新約聖書の御言葉を読んでみましょう。「イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。 そのとき、これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者と言う声が、天から聞こえた。」(マタイ 3:16-17) 三位一体の神は、主イエスが公生涯を始められる時も共におられました。「御子」は、洗礼を受けることで救いの御業の始まりを告げられました。「聖霊」は、キリストの上に降り、その公生涯全体に力を注ぎ、主なる神の臨在を可視的に確証されました。「御父」は、主イエスが誰であるか、誰が壮大な救いの計画を司るのかを、天からの御声によって宣言されました。このように三位一体なる神は、それぞれが同等の力と権能を持ちながらも、一つの目的のために自らを低くし、謙虚に協力して、人類の救いという御業を始められたのです。 私たちは、ここから「三位の関係」を見つけることが出来ます。天地創造の前から、父・子・聖霊は、お互いに至高の愛をもって愛し、尊重し、喜び合う完全な共同体として存在してこられました。三位一体の核心は「区別されるが分離されず、一つであるが混雑ではない」という点にあります。父・子・聖霊はそれぞれ固有の御業をなさいますが、常に共に働かれます。御子が十字架を背負われたとき、御父と聖霊は傍観しておられたわけではありません。御父は独り子をいけにえにする苦しみを耐え忍ばれ、御霊は御子が最後まで従順に聞き従えるように支えられました。これを神学では「ペリコーレシス」すなわち「相互内在」と言います。三つの位格がお互いの中におられ、お互いの栄光を現し、お互いを高め合う完全な調和なのです。そして、この関係は、三位の相互への完全な愛があるからこそ可能なのです。この神の愛を、私たちは「アガペー」と呼びます。三位一体なる神は、三位が同一の本質を持ち、優劣のない完全な方々です。しかし、この三位はお互いを尊重し愛し合い、完全な関係を築かれておられます。三位一体なる神は、その完全な相互尊重と愛の関係の中で、これからも永遠に協力し、聖なる御業を成し遂げていかれるでしょう。 締めくくり 私たちは、この三位一体なる神の存在様式から、教会の生き方を学ばなければなりません。 お互いに愛し協力し、各々の欲望と目標があるにもかかわらず、互いに尊重し、主の御言葉に歩調を合わせて、頭なるキリストの御心に聞き従わなければなりません。 そのようにキリストにおいて、一つになった共同体というアイデンティティを持って、主なる神のみ旨にふさわしく、正しい信仰のために努力していかなければなりません。 そして、その信仰は、最終的に、神への真の愛に帰結しなければなりません。 三位一体の神学は、単に知識にとどまるものではありません。 それはキリスト者の生き方の根本であり、一生学ぶべき人生の原則なのです。 三位一体信仰への正しい理解を持って信仰生活を営んでいく志免教会のみんなでありますよう祈り願います。