三位一体を語る
申命記6章4-5節 (旧291頁) マタイによる福音書3章16-17節(新4頁) 前置き 私たちは「神」を信じています。人間という有限の存在が、神という無限の存在を完全に理解することは決してできませんが、私たちは、聖書に記された限られた神知識を通じて、私たちが信じる方がどのようなお方なのか、どのように存在し、どのように働かれるお方なのかを積極的に学ばなければなりません。「道を歩きながら、あなたがたが拝むいろいろなものを見ていると、知られざる神にと刻まれている祭壇さえ見つけたからです。それで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしはお知らせしましょう。」(使徒言行録 17:23) 使徒パウロはギリシャのアテネを訪れた際、人々が誰なのかも知らない神々をも拝んでいるのを見て、自分が知っている真の神を大胆に宣べ伝えました。私たちはキリスト者として、自分の主である神がどのようなお方なのかをはっきりと認識し、信じるべきです。今日の説教を通じ、三位一体として存在される私たちの主なる神について、改めて学びたいと思います。 1. 三位一体:神の存在様式 「三位一体」という言葉を聞くとき、人は多かれ少なかれ違和感を覚えるものです。「三位一体、三つでありながら一つである」という言葉自体が、物理的にあり得ない話であり、論理的にも唯一の神が三人であるということは理解しがたいからです。また、三位一体という表現そのものも聖書に直接記されているわけではありません。それにもかかわらず、歴史の中で教会は神を三位一体として理解し、信じてきました。なぜなら、聖書全体が「主なる神は、父・子・聖霊という三つの「位格」として存在し、このお三方は本質において同一であるひとりの神である」と絶えず証ししているからです。しかし、三位一体なる神という言葉は依然として理解しがたい概念です。そのため、歴史上多くの人々が誤った仮説を立てて三位一体を語ってきました。その一つである①様態論(モーダリズム)は、 神はおひとりであるが、必要に応じて姿を変えられるとの仮説です。例えば、水が温度によって「蒸気、水、氷」と変化するように、神も父・子・聖霊へと変化すると思います。これは「一体」を強調するあまり、「三位」を軽んじた解釈であり、代表的な誤りです。 もう一つの仮説がありますが、三神論(トリティズム): 一家族が「父、母、子供」で構成されるように、三つの位格が一つの団体のようにおられると思う仮説です。これは「三位」を強調するあまり、「一体」を軽んじた解釈であり、これもまた代表的な誤りです。神は、私たち人間の説明方式では決して説明し尽くせない神秘に満ちたお方です。人間の有限な知性で、無限なる神の存在様式を完璧に理解することは不可能です。それはまるで、小さな紙コップの中に巨大な太平洋の水を全部注ぎ込もうとするようなことです。私たちは、理解できないからといって違和感を抱えるのではなく、神が啓示してくださった御言葉を通じて、この神秘を謙虚に受け入れなければなりません。「三つにいまして一つなる」という賛美歌の歌詞のように、神が三位一体であることを知識ではなく信仰によって理解し、その存在を信じる私たちでありたいと思います。 2. しかし、唯一なる神 三位一体は「三つにいまして一つなる」神の存在様式ですが、それでも聖書はこの神が「唯一」であると語ります。旧約聖書の御言葉を読んでみましょう。「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」(申命記 6:4-5)今日のこの箇所は、イスラエル民族の信仰の土台となる御言葉です。本文の「聞け」という言葉は、ヘブライ語で「シェマ」と言います。「聞く」という意味の「シャマー」の命令形です。神は旧約のイスラエルの民に「あなた は、唯一の神のみを愛せよという私の命令を聞きなさい」と宣言されたのです。この宣言が告げられた当時、つまり、古代近東の世界は多くの神々を拝む多神教社会でした。豊穣の神、戦争の神など、人間の欲望に応じて神々が作られ、拝まれていました。そんな世の中で、主なる神は断固として「私の他に神はない。神は唯一私ひとりである」と宣言されたわけです。「唯一」という言葉は、単なる数字の「一」だけを意味するものではありません。それは、主なる神の絶対的な主権、唯一の創造主であり、支配者であることを意味します。三位一体において、私たちが決して見失ってはならないのは、この神の「単一性」です。 世の中には数多くの偶像があります。近くには他宗教の神々があり、また八百万の神という概念もあります。それはあらゆる場所に神が宿っているという汎神論的な思想です。また、自分の欲望そのものが神(偶像)となることもあるでしょう。しかし、三位一体教理の教えは、それらすべての「他の神々」の存在を否定します。「ひとえに主なる神という存在だけが、あなたが崇めるべき唯一の神である」。重要なのは「神は三人なのか一人なのか」という数字へのこだわりではなく、聖書が証しする「父・子・聖霊」こそが、私たちが信じるべき唯一の神であるということです。「おひとりの神」という言葉を数学的にのみ捉えないようにしましょう。その言葉には「万物の支配者、唯一かつ真の神」という意味が込められているからです。三位一体の神は、父・子・聖霊としておられる唯一の創造主、支配者、絶対者であることを信じましょう。 3. 三位の愛と協力 このように単一性を示される三位一体の神ですが、「父・子・聖霊」はそれぞれ固有の権能を持ち、お互いに協力しながら御業を成し遂げていかれます。新約聖書の御言葉を読んでみましょう。「イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。 そのとき、これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者と言う声が、天から聞こえた。」(マタイ 3:16-17) 三位一体の神は、主イエスが公生涯を始められる時も共におられました。「御子」は、洗礼を受けることで救いの御業の始まりを告げられました。「聖霊」は、キリストの上に降り、その公生涯全体に力を注ぎ、主なる神の臨在を可視的に確証されました。「御父」は、主イエスが誰であるか、誰が壮大な救いの計画を司るのかを、天からの御声によって宣言されました。このように三位一体なる神は、それぞれが同等の力と権能を持ちながらも、一つの目的のために自らを低くし、謙虚に協力して、人類の救いという御業を始められたのです。 私たちは、ここから「三位の関係」を見つけることが出来ます。天地創造の前から、父・子・聖霊は、お互いに至高の愛をもって愛し、尊重し、喜び合う完全な共同体として存在してこられました。三位一体の核心は「区別されるが分離されず、一つであるが混雑ではない」という点にあります。父・子・聖霊はそれぞれ固有の御業をなさいますが、常に共に働かれます。御子が十字架を背負われたとき、御父と聖霊は傍観しておられたわけではありません。御父は独り子をいけにえにする苦しみを耐え忍ばれ、御霊は御子が最後まで従順に聞き従えるように支えられました。これを神学では「ペリコーレシス」すなわち「相互内在」と言います。三つの位格がお互いの中におられ、お互いの栄光を現し、お互いを高め合う完全な調和なのです。そして、この関係は、三位の相互への完全な愛があるからこそ可能なのです。この神の愛を、私たちは「アガペー」と呼びます。三位一体なる神は、三位が同一の本質を持ち、優劣のない完全な方々です。しかし、この三位はお互いを尊重し愛し合い、完全な関係を築かれておられます。三位一体なる神は、その完全な相互尊重と愛の関係の中で、これからも永遠に協力し、聖なる御業を成し遂げていかれるでしょう。 締めくくり 私たちは、この三位一体なる神の存在様式から、教会の生き方を学ばなければなりません。 お互いに愛し協力し、各々の欲望と目標があるにもかかわらず、互いに尊重し、主の御言葉に歩調を合わせて、頭なるキリストの御心に聞き従わなければなりません。 そのようにキリストにおいて、一つになった共同体というアイデンティティを持って、主なる神のみ旨にふさわしく、正しい信仰のために努力していかなければなりません。 そして、その信仰は、最終的に、神への真の愛に帰結しなければなりません。 三位一体の神学は、単に知識にとどまるものではありません。 それはキリスト者の生き方の根本であり、一生学ぶべき人生の原則なのです。 三位一体信仰への正しい理解を持って信仰生活を営んでいく志免教会のみんなでありますよう祈り願います。

