主の体なる共同体

前置き 本日は、志免教会の2026年度の定期総会の日です。年に一度の総会ですので、私たちはこの集いが持つ意味を深く理解した上で、総会に臨むべきだと思います。我が教会の主人は、教会の信徒ではありません。私たちが月に一度告白している「日本キリスト教会信仰告白」は、この教会が主イエスのものであり、主の体であると告白しています。つまり、総会とは、教会の頭であられるキリストの御心に従い、その体である教会を健全に建て上げていくために、年に一度開かれる志免教会全会員による集会であるのです。そのような意味を込めて、本日は教会の主であられるイエス・キリストと、その体なる共同体である「教会」について話したいと思います。 1. 御言葉による回復の始まり 本日の旧約の本文であるエゼキエル書は、バビロンによって滅ぼされたイスラエルの民が、バビロン捕囚という苦難の時代を迎えた頃、預言者エゼキエルに与えられた主なる神の啓示を記録した書物です。本文によれば、主は預言者エゼキエルに、ある幻をお見せになります。それは、死の谷に散らばっている数多くの「枯れた骨」が生き返るという幻でした。この幻は、当時のイスラエルが置かれていた霊的な状態を象徴しています。主はエゼキエルにこう問われました。「人の子よ、これらの骨は生き返ることができるか。」この問いかけと共に、主は骨に命が吹き込まれる幻を見せてくださいます。主がこの死に枯れた骨を再び生き返らせる幻を示された理由は、たとえイスラエルが滅びたとしても、彼らに対する主の関心と愛は決して絶えず、いつか再び新たに立ち上がらせてくださることをあらかじめ示してくださるためでした。これは、私たちの共同体にとっても、恵みと希望の幻として理解することができます。私たちの共同体がいかに弱く小さくとも、主の愛と関心は変わることなくこの共同体に注がれており、主の御心に従ってさらなる命を得ることができるという希望を与えてくれるのです。 「わたしは命じられたように預言した。わたしが預言していると、音がした。見よ、カタカタと音を立てて、骨と骨とが近づいた。わたしが見ていると、見よ、それらの骨の上に筋と肉が生じ、皮膚がその上をすっかり覆った。しかし、その中に霊はなかった。」(エゼキエル書 37章7-8節)この「枯れた骨の幻」は、共同体が回復するための原理を示しています。その第一段階は「御言葉による連結」です。数多くの枯れた骨が自ら動いたのではありません。主の御言葉が宣べ伝えられたとき、初めて動き出したのです。同じく、共同体の結束は、人間的な親睦によって成るものではなく、御言葉の働きによって始まります。この時「骨と骨とが近づいた」ことは、それぞれ異なる賜物を授かった肢が、他の肢と結びつき、節々をつなぎ合わせて、初めて完全な「体の構造」が形作られることを意味します。しかし、骨の上に筋と肉が生じ、外見が整ったとしても、聖書は「その中に霊はなかった」と厳かに警告します。これは、いくら立派な組織を備えた共同体といっても、主なる神の生命の息(聖霊)がなければ、それはただ「傷のない遺体」に過ぎないからです。したがって、私たちは外的な形の回復に留まってはなりません。聖霊に導かれる「存在の回復」へと進む必要があります。御言葉によってつながり、聖霊の導きによって歩むこと。これこそが、枯れた骨のような共同体が生き返る唯一の道なのです。 2. 命を与える聖霊 それでは、主なる神の「霊」はどう得られるのでしょうか。「主はわたしに言われた。霊に預言せよ。人の子よ、預言して霊に言いなさい。主なる神はこう言われる。霊よ、四方から吹き来れ。霊よ、これらの殺されたものの上に吹きつけよ。そうすれば彼らは生き返る。わたしは命じられたように預言した。すると、霊が彼らの中に入り、彼らは生き返って自分の足で立った。彼らは非常に大きな集団となった。」(エゼキエル書 37章9-10節)神はエゼキエルに「霊に向かって預言せよ」と命じられます。ここで「霊」と訳されているヘブライ語「ルアハ」は、風、呼吸、そして「聖霊」を意味します。これは、創世記において主が土で人を形作り、その鼻に吹き入れられた、まさにあの「命の息」と同じものです。いかに骨が正しくつながり、肉に覆われたとしても、聖霊の息吹がなければ、その体は動くことができません。共同体を真に生かす動力は、人間の情熱や優れたプログラムではなく、ただ聖霊の働きにあります。「霊よ、四方から吹き来れ。」という御言葉は、主の恵みが特定の階層や場所に限られるものではないことを示しています。 聖霊の働きは、四方から吹いてこなければなりません。私たちの共同体の隅々にまで、疎外された人や、乾ききった心に、聖霊という命の息吹の風が吹く必要があります。祈りの風、賛美の風、悔い改めの風が四方から吹き荒れるとき、共同体は初めて真に呼吸し始めるのです。「霊が彼らの中に入り、彼らは生き返って自分の足で立った。彼らは非常に大きな集団となった。」(エゼキエル書 37章10節) 命の息が入り、死んでいた骨に肉が付き、立ち上がった者たちを、聖書は「非常に大きな集団(軍隊)」と呼んでいます。一人ひとりでいた時は、ただ転がっているだけの枯れた骨に過ぎませんでしたが、聖霊にあって一つに結び合わされ、命の息を授かったとき、彼らは主の御心のために戦う力強い軍隊となったのです。主の体なる共同体は、単に私たちだけで慰め合い、交わりあうために存在しているのではありません。世に向かって出て行き、闇の権勢と戦い、死にゆく魂を救い出す「霊的な軍隊」とならなければならないのです。それこそが、命の息を授かった者の使命です。私たちがもつこの総会も、枯れた骨のように弱い私たちに、主の御言葉と聖霊の命の息を注いで立ち上がらせ、導いてくださる「聖霊の導き」をいただくための時間となるべきです。 3.主イエスが頭となる共同体 それでは、エゼキエルの幻を新約聖書の御言葉に適用してみましょう。コロサイの信徒への手紙1章18節は、共同体のアイデンティティを最終的に確かめてくれます。「また、御子はその体である教会の頭です。御子は初めの者、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、すべてのことにおいて第一の者となられたのです。」(コロサイの信徒への手紙 1章18節) エゼキエルが見た「非常に大きな集団」が一糸乱れぬ動きをすることができた理由、また枯れた骨が連結されて一つの「体」を保つようになった根拠が、まさにここにあります。それは、主なる神が(新約的な表現で)イエス・キリストが「頭」であられるからです。体のすべての肢は、頭の命令に従います。いかにきれいな手があっても、頭の制御を離れて勝手に動くのであれば、それは病んでいるのです。我が共同体の頭は誰でしょうか。牧師でしょうか。いいえ、ただ主イエス・キリストのみが、この共同体の頭であられます。我が教会がいかに霊的に熱くなり、多くの人々が集まるようになったとしても、「頭」なるキリストの制御を受けないのであれば、その共同体は無秩序に陥ってしまうのです。 新約聖書の本文は、主イエス・キリストが「初め(根本)」であり、「死者の中から最初に生まれた方」であると宣言しています。エゼキエル書の枯れた骨が生き返ることができた根拠は、主なる神のご命令にありました。そして、新約の教会が主の救いにあずかり、新たに生まれた共同体として立つことができる根拠は、復活の初穂となられた主イエス・キリストにあります。我が共同体が、たとえ絶望的な状況の中にあるとしても、再び立ち上がることができる理由。それは、私たちの頭であるイエス・キリストが死に打ち勝ち、復活されたからです。「こうして、すべてのことにおいて第一の者となられたのです。」キリストの共同体である教会の目的は明らかです。それは、頭である主イエスが、我が教会を通して現されることです。我が共同体が数的に成長し、感情的に熱くなり、あらゆる面で上手くいくこと自体が目的ではありません。私たちを通して主イエスの栄光が現され、それによって主が世でほめたたえられること。それこそが、主の体なる共同体の存在理由なのです。 締めくくり 私たちのすべての務めと交わり、そして決断の中心に、主イエス・キリストがおられるべきです。頭なる主イエスの御心が、体なる教会の爪先にまで行き渡るとき、私たちは初めて健やかな一つの体となります。家庭で、職場で、そしてこの会堂において、主の体なる肢として互いに励まし合い、聖霊の命の息に満たされ、世を生かすキリストの民として歩んでいきましょう。本日の総会は、このように主の体なる志免教会が、これからの1年の歩みの方向を話し合う日です。ただキリストのみが私たちの総会の議長となってくださり、私たちに正しい道を指し示してくださるよう、共にお祈りいたしましょう。

私の福音

詩編33編8-15節 (旧863頁) ローマの信徒への手紙16章25-27節(新298頁) 前置き ローマの信徒への手紙は、キリスト教のとても大事な教えを終始一貫訴えています。人の罪と、その破壊力についての知識、それでも人間への変わらない主なる神の愛、罪人のために独り子を遣わして自らが犠牲になられた御業、そして、その独り子を通して、私たちに与えてくださった救い、最後に主なる神と共に生きる生き方など。多くの部分において、私たちに福音にあって生きる方法を教えています。今日は、そのローマの信徒への手紙から、福音への私たちのとるべき生き方について聞いてみたいと思います。 1.福音 パウロは、自分がなぜローマ書を書いたのかを、今日の本文を通して教えています。 「神は、わたしの福音すなわちイエス・キリストについての宣教によって、あなたがたを強めることがおできになります。」パウロは福音を「他の誰かの福音」ではなく、自分の福音、即ち「私の福音」と語っています。福音は、この地上のものではありません。天の主から地の人に与えられるメッセージです。また、この福音はキリストのみによって与えられるものです。福音とは、主なる神が主イエスを通して、この地上に真の救いをくださると伝える「良い知らせ」です。だから、主以外の誰かが「私の教えのみが福音である。」と発言するなら、それは偽りなのでしょう。なのに、パウロはなぜ「わたしの福音」という言葉をわざわざ使っているのでしょうか。それは福音が自分にとって、いかに大事なものなのかを積極的に表す告白だからです。自分の人生をかけて、世の人々に伝えても全く惜しくない、大切なものが、まさにこのキリストによる福音であるという意味です。つまり「わたしの福音」は、キリストの福音へのパウロの堅い信仰告白だったのです。 2.パウロ(私)の福音 パウロは、ユダヤ人の若い人材でした。彼は有名なラビであるガマリエルの弟子であり、ローマ市民権者でもありました。ローマ市民権者なのにユダヤ人として深い信心を兼ね備えた素晴らしい知識人。そんな彼がユダヤ教の信仰のゆえに、異端であるイエス一党を処断するために立ち上がりました。そんなある日、深い信仰をもってイエス一党を捕まえるために出た旅で、パウロは人生が変わる不思議な経験をすることになりました。「サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。 サウロは地に倒れ、サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのかと呼びかける声を聞いた。」(使徒9:3-4) 神と民族を愛していた青年パウロは、イエス一党を捕まえるために出た旅で、そんなにも嫌っているイエスに出会ったのです。「主よ、あなたはどなたですかと言うと、答えがあった。わたしは、あなたが迫害しているイエスである。」(使徒9:5) 偽り者、異端、呪われた者と思っていたイエスが現れ、パウロの知識と信念を揺さぶりました。その瞬間、パウロの心に驚くべき変化が起こりました。彼が幼い頃から学んできた神の言葉が絶えず証してきた真のメシアが、自分がそんなに迫害してきたイエスであることを認識したからです。その時はじめて、パウロは神の福音が何かに気付きました。「この福音は、世々にわたって隠されていた、秘められた計画を啓示するものです。その計画は今や現されて、永遠の神の命令のままに、預言者たちの書き物を通して、信仰による従順に導くため、すべての異邦人に知られるようになりました。」(25-26) キリストの福音は昔からすべての民族に伝えようとされた神の御計画でした。そして、それはキリストを通して、この世に与えられるべき救いと恵みの神の命令でもありました。その日、パウロはキリストに出会い、今までの知識を超え、神の福音を悟ることになりました。 福音は宗教的な知識に限るものではありません。福音とは、主なる神の御心が人の心の中で生き生きと働くものです。聖書の御言葉と教理をよく理解しているのも重要です。しかし、そのすべてを知っているとしても、その中に隠れている主の心が分からなければ、それは殻に過ぎないのです。教会で学んだ神の御心に私たちの心を従わせ、御心に従順に生きていくこと。神の御心を隣人に伝えること。それこそが、私たちが追い求めるべき福音、キリストを通して私たちに託された福音なのです。今、この福音は誰の福音なのでしょうか。それは今、私たちの福音となっていますでしょうか。昔の預言者と使徒たちの福音ではないでしょうか。本当に私たちの人生の中で、私たちを変え、隣人に良い影響を与え、真の私たちの人生の原動力となっている福音でしょうか。福音はほかの誰でもなく「私の福音」にならなければなりません。 3.イエス・キリストの福音 しかし「私の福音」の主人は私自身ではありません。それはイエス・キリストのものです。「わたしの福音すなわちイエス・キリストについての宣教によって、あなたがたを強めることがおできになります…その計画は…信仰による従順に導くため、すべての異邦人に知られるようになりました」(16:25-26から)私たちを強め、導き、御心に従わせる福音は、ひとえにキリスト・イエスによってのみ生まれるものです。福音の権勢はキリストのみから出るという意味です。あまりにも伝道が難しい日本、その中でも小さな群れである志免教会を考えると、私たちは現実的な壁に直面し、挫折しやすいです。しかし、それにも関わらず福音は変わりません。福音の源である主イエスが変わらないお方だからです。聖書は一度も数字で、大きさで、教会を測ったことがありません。聖書に出てくる数値や規模は、神の民の集まりを意味するものであり、その大きさを重んじるわけではありません。 むしろ主なる神は、少数でも主イエスに希望を置いて従う真の信仰者を喜ばれるのです。 大事なのは、イエス・キリストが「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。 だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。」(マタイ28:18-19)と宣言されたということです。福音は「私のもの」である前にキリストのものです。主は教会の大きさと規模に関係なく、御自分を保証に福音を伝えることを命じられました。大事なのはキリストの福音を宣べ伝えることです。なぜなら、福音の真の所有者であるイエス御自身が福音に対して責任を負ってくださるからです。主の教会は、目に見える建物や団体ではありません。主の教会は、キリストの福音を告白する目に見えない主の民の集まりなのです。したがって、主はその教会を通して絶えずに福音を伝えて行かれるでしょう。私たちは、そのイエスに従い、現状にがっかりするよりは、折が良くても悪くても福音を伝えるべきでしょう。それこそが福音に対する私たちの在り方ではないでしょうか。 締めくくり 「全地は主を畏れ、世界に住むものは皆、主におののく。主が仰せになると、そのように成り、主が命じられると、そのように立つ。主は国々の計らいを砕き、諸国の民の企てを挫かれる。主の企てはとこしえに立ち、御心の計らいは代々に続く。いかに幸いなことか、主を神とする国、主が嗣業として選ばれた民は。主は天から見渡し、人の子らをひとりひとり御覧になり、御座を置かれた所から、地に住むすべての人に目を留められる。人の心をすべて造られた主は、彼らの業をことごとく見分けられる。」(詩篇33:8-15)この言葉は、主なる神が世界を判断されることを示しています。世が主の教会を判断するのではなく、教会の主である神が世を判断されるのです。したがって、目の前の状況に恐れず、主イエスの福音の権勢を信じてまいりましょう。主イエス・キリストが、神に栄光を帰すために、御自分の福音を成し遂げて行かれるからです。

女性、教会を支える柱

創世記1章27節 (旧2 頁) 使徒言行録16章14-15節(新245頁) 前置き 本日、婦人会総会があります。婦人会総会に際し、教会における女性の使命について聖書の御言葉から聞きたいと思います。女性はとても重要な存在です。今日の旧約本文である創世記1章27節はこう述べています。「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。」この言葉は女性に対する偏見を破る宣言です。主なる神は男性だけでなく、女性をも、男性と同様にご自分の似姿に創造されました。これは男性と女性が、いずれも存在論的に同等であり、神の形を反映する大事な存在であるという意味します。 創世記2章によると、主は女性を男性の「助ける者」として創造されたとあります。ここで「助ける」というヘブライ語の「エゼル」は、劣等な存在が優越な存在を補助するという意味ではありません。この言葉は、主が苦しんでいるご自分の民を助けてくださる時にも使われる表現です。つまり、女性は男性には見えてこない共同体の欠点を発見し、満たし、完全にする「決定的な助力者」として造られた存在なのです。教会においても初代教会の設立以来、女性は教会共同体の基盤を磨き、教会を支える心強い柱として仕えてきたのです。 1. 女性の霊的な敏感さ 今日、新約聖書の本文に登場するリディアという人物を通じて、主が女性をどのように用いて、御国を広げていかれたかを考えてみましょう。使徒言行録16章で、使徒パウロがアジアを離れ、福音伝道のためにマケドニア(ヨーロッパ)のフィリピに到着した際、真っ先に出会ったのは、川岸にいる婦人たちでした。その中に「リディア」という女性もいましたが、使徒言行録16章14節は、彼女をこのように紹介しています。「ティアティラ市出身の紫布を商う人で、神をあがめるリディアという婦人も話を聞いていたが、主が彼女の心を開かれたので、彼女はパウロの話を注意深く聞いた。」リディアは成功したビジネスウーマンでした。当時、紫色の布地は王族や貴族だけが身に着けることができる非常に高価な贅沢品でしたが、彼女はその紫布の商売をしていたのです。そのような事業を営んでいたということは、彼女が社会的な能力を備えた人であった証拠となります。しかし、聖書が強調するリディアの偉さは、彼女の財力や能力によるものではありませんでした。まさに、彼女の「傾聴する姿勢と霊的な敏感さ」にありました。 主なる神は、パウロがフィリピに到着するやいなや、彼を通してリディアに御言葉を伝えられました。そして、彼女はパウロが宣べ伝えた神の福音を注意深く聞き、即座に反応したのです。これこそが、教会を支える女性たちの第一の特徴である「傾聴する姿勢と霊的な敏感さ」です。歴史的に、教会の女性たちは、主の御言葉に対し、男性より敏感に反応してきました。祈りの場に積極的に加わり、御言葉の説教を傾聴し、その御言葉に反応して、生活の場に適用するのに、女性は常に先頭に立ってきました。婦人会員が持つこの「傾聴する姿勢と霊的な敏感さ」は、教会共同体の生命力を保たせる柱となります。神学の理論よりも強力なものは、御言葉を純粋に受け入れ、生活の中で実践しようとする熱い信仰の心なのです。リディアという一人の女性が、マケドニアのフィリピ教会という「ヨーロッパ宣教の幕開け」を助けたように、今日、我が教会を支えている目に見えない力は、主の御言葉を聞いて従順に聞き従う婦人会員の深い信仰から始まっていると言っても過言ではないでしょう。 2. 女性の歓待と仕え リディアの信仰は、御言葉を聞くだけにとどまりませんでした。彼女はすぐに行動をもって、自らの信仰を証明しました。15節を見ると、彼女は自分だけでなく家族全員が洗礼を受けるように勧め、家族が洗礼を受けた後、パウロ一行にこう申し出ています。「私が主を信じる者だとお思いでしたら、どうぞ、私の家に来てお泊まりください。」そして聖書は、彼女が「招待し、無理に承知させた。」と語っています。ここに教会を支える女性の第二の特徴である「歓待と仕え」を見出すことができます。リディアは、自身のプライベートな空間である家を、宣教の拠点として喜んで提供しました。彼女のような献身があったからこそ、フィリピ教会というヨーロッパ最初の信仰共同体が誕生したでしょう。彼女の家は、単なる宿泊所ではなく、礼拝の場所であり、信徒たちが交わりする「歓待と仕えの場」となったのです。もちろん、すべての女性が自分の家を教会のために開放し、共有すべきという意味ではないありません。聖書が記された古代中東と、現代の日本における「家」への考え方は異なっているからです。しかし、リディアが追い求めた精神、すなわち「自分が持っているものを最大限に用いて教会に仕える」というその心は、この時代を生きる婦人の皆さんにとっても、意義深い模範となるのではないかと思います。 伝統的に、女性は「歓待」と「仕え」において優れた賜物を持っています。教会の中で行われる数多くの奉仕、新しい方を歓迎し、病んでいる信徒を見舞い、共同体の食事を用意し、次世代を養育する働きの中心には、常に女性たちがいました。このような仕えは、決して些細なことではありません。それは建物の土台を築くことと同じです。講壇でかっこよく説教する牧師や、指導者として小会を成り立つ長老、行政や財務を担当する執事、そのような人々だけが教会に仕えているわけではありません。最も重要なことは、いかなる務めがあってもなくても、自らの心から湧き上がる歓待と仕えの心から教会は成長していくということです。リディアの「歓待と仕え」は、パウロの働きにとって大きな慰めと力になりました。このように、他者を温かく受け入れ、立てていく女性たちの母性的な奉仕は、冷ややかなこの世を変える強力な道具となりました。教会が単なる建物としての組織を超えて、真の「霊的な家族」になれる理由は、リディアのように自らの人生と心を開き、隣人を抱く女性たちの献身があるからに他なりません。 3. 忍耐と忠実さ 聖書全体に流れる女性のもう一つの特徴は、危機の瞬間に見せる「揺るぎない忠実さ」です。建物を支える柱は、普段はその姿を見えませんが、嵐が吹き荒れるときにはその価値が明らかになります。主イエスの公生涯の間にも、数多くの女性たちが自分の持ち物をもって主に仕えました。しかし、彼女たちの真価が発揮されたのは、ゴルゴダの丘においてでした。主イエスが捕らえられ、十字架にかけられたとき、勇ましく「死んでも主を身捨てはしません」と豪語していた男性の弟子たちのほとんどは、恐怖にかられて逃げ出してしまいました。しかし、十字架の下を最後まで守り抜いたのは、女性たちでした。彼女たちは、武装した兵士たちの脅威よりも、主への愛の方が大きかったために、その場を離れなかったのです。また、復活の朝、空になった墓を真っ先に訪ね、復活の最初の証人となったのも女性でした。彼女たちはまだ夜も明けきらぬ早朝、深い悲しみの中でも、主の体に香油を塗るために歩み出しました。その愛の足どりが、人類史上、最も喜ばしい知らせを一番に受け取るという祝福へとつながったのです。 リディアが中心となって立てたフィリピ教会もまた、同様でした。パウロがフィリピの牢獄に閉じ込められたとき、フィリピ教会の信徒たちは、最後までパウロを助け、祈りと金銭的な支えをもってパウロと共に歩みました。このような忍耐と忠実さは、今日の我が教会の中でも変わることなく流れています。教会に試練がやってくる時、共同体が分裂の危機に瀕するとき、真っ先にひざまずき、切に祈る人々の大多数が女性信徒たちです。雨風の中でも黙々とその場を守り、その重さを耐え抜く柱のように、女性の変わることのない忍耐と愛、そして忠実さと祈りは、教会を崩れさせないための「最後の砦」となります。主なる神は、このような女性の強さをすでにご存じであり、この教会を、男性だけの教会ではなく、男女を網羅する主の民のための「キリストの体なる教会」としてお立てになったのです。 締めくくり 私たちは、創世記の創造の原理とリディアの生涯を通して、女性が教会にとっていかに重要な存在であるかについて話しました。今日の説教のタイトル通り、女性は教会を支える重要な「柱」です。主なる神は女性を、男性に従属する存在としてではなく、神の形を共有するパートナーとして召してくださいました。そして、リディアのような女性を通して、ヨーロッパ伝道の第一歩を踏み出させてくださったのです。かつての志免教会の女性先達たちも、志免の地での伝道のために、心と身を尽くして仕えてこられたことでしょう。婦人会の皆さんは単なる教会の補助役ではありません。皆さんは、この教会を支える「霊的な柱」そのものなのです。ですから、誇りを持って信仰生活に励みましょう。志免教会の兄弟の皆さんも、常に婦人たちを尊重し、共に歩んでいきましょう。そのような歩みの上に、主なる神が豊かに祝福してくださると信じます。