主の御名

出エジプト記3章13~15節(旧97頁) ヨハネによる福音書8章58~59節(新184頁) 前置き 1。「わたしはある」という言葉の意味。 「モーセは神に尋ねた。わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、彼らは『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか。」(13) 出エジプト記で、エジプトの奴隷だったイスラエル民族を解放のために、主はモーセを召されました。その時、モーセは神にお聞きしました。「主が私を遣わされたと言ったら、同胞たちが私の言うことを信じてくれるでしょうか? 彼らがあなたについて聞いたら、私はあなたのことをどう言えば良いんですか?」東洋文化圏において、名前はとても大事な意味を持ちます。時代劇を観ると決闘の前に「何々家の誰、何々流の誰」と名乗る場面がよく出てきます。旧約聖書でも、ある存在の名前は大きな意味を持つ場合が多いです。「欺く者」という意味のヤコブが、主と出会った後「神を畏れる者(神に勝つという意味もある)」と名前が変わった物語が代表的です。このように聖書での名前は、ある一人の存在意味を明らかにする大事なものです。つまり、モーセが神の御名をお聞きしたのも、ただの身元確認ではなく、神の存在意味を確かめたいとの理由にあるでしょう。「イスラエルの解放を私に命じられるあなたは一体どなたですか?」という意味でしょう。 「神はモーセに、わたしはある。わたしはあるという者だと言われ、また、イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方が、わたしをあなたたちに遣わされたのだと。」(14節)モーセの問いに主は「わたしはあるという者だ」と答えられました。主のこのお答は不思議で、文法的にも正しくありません。「私は誰である」と答えるのが一般的ですが、主はただ「わたしはある」と答えられたからです。これはヘブライ語「エヘイェ・アシェル・エヘイェ」、ギリシャ語「エゴ・エイミー」の翻訳ですが、直訳で「わたしはわたしだ」に近います。いずれも意味が分かりにくいので、自然に意訳すれば「私は自ら存在する者である。」になると思います。万物には根源があります。人間には親がおり、先祖がいます。この会堂の材料もある山の岩、ある森の木、ある鉱山の金属に由来します。世の中のすべてのものは、自ら存在することが出来ません。しかし、自ら存在する神、「わたしはあるという者だ。」と言われた主なる神は、この世のすべての先におられ、すべてに存在理由を与えられた絶対者なのです。「わたしはある」という名前には「自ら存在する者」主なる神の絶対者としての権威と意味が隠れています。 モーセに現れられた主なる神は、自ら存在する方です。主はすべての存在の根源であり、すべての力と栄光の源です。この神がモーセを召され、遣わされたわけです。そして、主はモーセを用いてイスラエルを解放されました。大帝国エジプトでさえ、自ら存在する方のご意志に逆らうことが出来なかったのです。主が永遠にご自分の民と共におられ、その先祖アブラハムとイサクとヤコブと結ばれた約束どおりに、ご自分の業を成就してくださいました。ですから、主なる神はご自分の約束どおりに、永遠に主の民と共におられるでしょう (わたしは「我が民と共に」ある) 。そして、その約束はイマヌエル(神が私たちと共におられる。)という名の新約聖書のイエス・キリストのもとで成就するでしょう。 したがって、私たちは記憶しなければなりません。 私たちの主は「自ら存在する方、ご自分の御心のままに成し遂げられる方、ご自分の民と永遠に共におられる方」です。私たちはひとりぼっちではありません。「わたしはある」という方が私たちと共におられるからです。 2.イエス・キリストの「わたしはある」 現代を生きる私たちは、古代のヘブライ語やギリシャ語が理解できません。私たちはただ日本語だけで聖書を読んでいます。しかし、原文を理解して読むことができれば、さらに大きい恵みを得るようになるしょう。今日の新約の本文を読んでみましょう。「イエスは言われた。はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から『わたしはある』すると、ユダヤ人たちは、石を取り上げ、イエスに投げつけようとした。」(ヨハネ福音8:58-59) ヨハネ福音8章はイエスに反対するファリサイ派の人々と主イエスの論争の場面です。主イエスは、神が自分たちの父であると言っている、主に反対するユダヤ人たちに「本当に神を父だと思うなら、私に反対しないでむしろ愛するだろう」と言われました。そして「イエスに反対するユダヤ人の先祖であるアブラハムは、主の日を見るのを楽しみにしており、それを見て、喜んだのである」と言われました。するとユダヤ人たちは50歳にもならないイエスがどうやってアブラハムを見たのか問い返します。その時、主イエスは「アブラハムが生まれる前から『わたしはある。』」と答えられました。するとユダヤ人たちは石を取り上げ、イエスを殺そうとしました。 ユダヤ人たちは「アブラハムが生まれる前から『わたしはある。』」という言葉に、なぜ憤ってしまったのでしょうか。 単純に先祖アブラハムを冒涜したからでしょうか。実は日本語では見えない表現のため、ユダヤ人は憤ってしまったわけです。新約本文58節を見ると「わたしはある」という言葉があります。この表現はギリシャ語の「エゴ・エイミー」なのです。先ほど「わたしはある」のヘブライ語は「エヘイェ・アシェル・エヘイェ」であり、これをギリシャ語に訳すると「エゴ•エイミー」になるとお話ししました。「アブラハムが生まれる前から『わたしはある。』」すなわち、今日の旧約本文で主なる神がモーセに言われた「わたしはある」という言葉を主イエスも言われたわけです。「アブラハムが生まれる前から『わたしはある。』」という表現は「アブラハムが生まれる前から、私は自ら存在する者だ」という意味にもなるのです。イエスご自身がまさに父なる神と同一本質で、同等の存在であることを示す表現です。イエスがご自身がすなわち神であるということを宣言される言葉なのです。おそらく当時のユダヤ人なら、イエスの「わたしはある」という言葉に、非常に大きな衝撃を受けたに違いありません。イエスはこの本文でご自分のアイデンティティをはっきり示されたのです。まさに今日の旧約本文でモーセに「わたしはある」とおっしゃった神としてイエスはご自身の存在について明らかに言われたのです。 私たちが主と崇める主イエス・キリストは神です。主イエスは、三位一体の神の一位格、御子なる神です。主イエスは「自ら存在する方」です。イエスの栄光は、父なる神よりけっして劣っていません。同一の本質、同等の全能さを持っておられる方です。今日の旧約本文で「わたしはある」つまり「自ら存在する者」である主は、イスラエルの解放を約束されます。そして主はモーセを通して、実際にその解放を成し遂げられます。私たちの「わたしはある」と言われた方、「自ら存在する者」であるイエス•キリストは、父なる神から与えられた力と栄光で私たちを死と呪いから解放してくださいました。 私たちは教会の頭である主イエスが「自ら存在する者」であることを信じ、主なる神がイスラエルをエジプトから救い出され、乳と蜜の流れる土地に導いてくださったように、イエス•キリストも私たちを罪から救い出され、神の祝福のもとに導いてくださることに希望を置いて生きてまいりましょう。主の御名「わたしはある」すなわち、主はイエス•キリストを通して、今日も私たちと共に「おられます。」これが私たちと共におられるイマヌエル(神が私たちと共にいらっしゃる。)の証しではないでしょうか。 締め括り 主なる神には、数多くの名前があります。その中、聖書で最初に出てくる名前は、今日の「わたしはある」です。 主は私たちがひとりぼっちである時も、我が家族の中にも、我が職場、私たちの社会的な関係の中にも共におられる方です。主は世の中のすべてを満たしておられる全知全能の方です。私たちを一度選ばれた主は絶対に私たちを見捨てられず、いつも「わたしはある」という存在として、私たちの人生の道に共におられるでしょう。この主なる神がモーセを通してイスラエルを救われたのです。そして、この主なる神がイエス・キリストの民である私たち、キリストの教会を通して、主の御心を成し遂げていかれるでしょう。「わたしはある」という名の神、自ら存在する方、私たちと一緒におられるインマヌエルの主、キリストを通して、私たちと共におられる絶対者。主の恵みを憶え、感謝しつつ、この一週間を生きてまいりましょう。

心の畑

エレミヤ31章33節(旧1239頁) ルカによる福音書8章1~15節(新118頁) 前置き 今日は、主イエスが語られたとても有名な比喩の一つである「種を蒔く人のたとえ」を通して、ルカによる福音書の御言葉を分かち合いたいと思います。この物語を通じて、今を生きるキリスト者である私たちに主からの大事な教訓が与えられますよう祈ります。 1. 主と一緒に福音を伝える 「すぐその後、イエスは神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けられた。十二人も一緒だった。悪霊を追い出して病気をいやしていただいた何人かの婦人たち、すなわち、七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア、ヘロデの家令クザの妻ヨハナ、それにスサンナ、そのほか多くの婦人たちも一緒であった。彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた。」(ルカによる福音書 8:1-3) 主イエスは「種を蒔く人のたとえ」を語られた時、十二名の弟子たち、そして、多くの婦人たちと一緒に福音伝道をしておられました。福音とは「幸福な音」つまり「良い知らせ」を意味します。イエス・キリストが宣べ伝えられた良い知らせとは、この世界を創造されたおひとりの主なる神が人間を見捨てられず、イエス・キリストによって真の救いを与えてくださるという救いの知らせです。旧約聖書、創世記によると、人間は罪(原罪)によって造り主なる神の敵となったと言われます。しかし、新約聖書と旧約聖書には、その神が罪を犯した人間をそのまま見捨てられず、和解して再び神の子に迎え入れることを願っておられると記してあります。つまり、福音とは、神と人間の破れた関係を修復し、造り主である神と被造物である人間の真の和解を宣言する良い知らせのことなのです。その結果、人間は真の造り主である主なる神のことに気づき、その方と和解し、永遠に一緒に歩む恵みをいただけるようになりました。 キリスト教会では、この「良い知らせ」つまり、福音を伝える行為を「伝道」と言います。残念なことに、世の人々において、この伝道というのは単なる布教活動、あるいは宗教を強要することと誤解される場合が多いです。聖書が語る伝道は、そんなものではありません。今日の本文を見ると、主イエスは弟子たちや何人かの婦人たちと一緒におられました。特に主と一緒に伝道した婦人たちがとても印象的です。彼女たちは、主イエスによって、悪霊から解放されたり、心の平和を得たり、助けを受けたりしたゆえに、信仰ができ、主イエスと主の弟子たちに仕えるようになった人々でした。彼女たちは主イエスと一緒に歩み、その方の生き方と御言葉を通じて真理を学び、主なる神と和解する人生をいただいたのです。そして、自分たちの経験と悟りを証とし、人々に仕えることによって福音を伝えました。それこそが真の伝道でした。ですから、真の良い知らせ、すなわち福音伝道とは、主なる神が私たちと共に歩んでくださることを信じ、その恵みの証人となることです。自分の人生を通して主の御言葉と恵みを経験し、それを自然に隣人に伝えることです。人々を教会に強引に連れてくること、カルト宗教のように改宗を狙って布教することが目的ではなく、主なる神が自分と一緒におられることそのものに感謝し、一緒にいてくださる主の恵みが隣人にも開かれていることを生活を通して伝えることです。伝道とは、まさに自分の証しを自分の人生を通して隣人に伝えることです。 2. 私たちの心の畑は? しかし、この真の伝道を行うためには、私たちの心の畑の状態が何よりも大事です。「大勢の群衆が集まり、方々の町から人々がそばに来たので、イエスはたとえを用いてお話しになった。 種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、人に踏みつけられ、空の鳥が食べてしまった。ほかの種は石地に落ち、芽は出たが、水気がないので枯れてしまった。ほかの種は茨の中に落ち、茨も一緒に伸びて、押しかぶさってしまった。また、ほかの種は良い土地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ。」(ルカによる福音書 8:4-8)主なる神は救い主イエスを通して、この世に福音の種を蒔き始められました。そして、主イエスの体なる共同体である教会を通して、今でも福音の種を蒔いておられます。今日の主イエスのたとえは、まさにこの福音の種である主の御言葉が、人の心の中でどのような形で働くのかについてヒントを与えてくれます。①道端:御言葉を聞いても心に留めない心。御言葉が私たちの中に入り込む隙のない、頑なな状態。②石地:御言葉を喜んで受け入れるが、根がないため、試練が来るとすぐに折れてしまう心。御言葉への情熱があるようだが、信仰の根が浅い状態。③茨の中: 御言葉を聞くが、この世の思い煩いや富や快楽に覆いふさがれ実を結べない心。御言葉と欲望が入り混じり、信仰が育たない状態。④良い土地: 御言葉を聞き、それを守り、忍耐して実を結ぶ心。御言葉が心深く根を下ろし、30倍、60倍、100倍の実を結ぶ心。 主なる神は、昨日も今日も明日も変わることなく、主の御言葉を伝えておられる方です。聖書に記してある御言葉を通じて、牧師の説教を通じて、現代ではYouTubeや様々なメディアを通じて、イエス・キリストの良い知らせ、福音を伝えておられます。このようにして、主は福音の種を蒔いておられるのです。そして、その福音の種は過去2000年の間、移り変わりなく、今に至っています。(キリスト教と名乗るカルトや異端の教えは論外) ですから、変わるのは福音の言葉ではなく、その御言葉を聞く人の心なのです。つまり、私たちの心なのです。今、私たちの心は4つの畑のうち、どの畑でしょうか?道端のように、御言葉を聞いても無関心ではないでしょうか?石地のように、御言葉は聞くけれど、信仰の根が浅いため、すぐに倒れてしまうのではないでしょうか?茨の中のように、この世の思い煩いや富、あるいは快楽のため、信仰が育たない状態ではないでしょうか?それとも、主なる神の御言葉を聞いて感謝し、辛い時も、嬉しい時も、主への信仰と感謝とをもって忍耐し、信仰が育つように努める心を持っているでしょうか?私たちは、伝道活動による教会員の数を増やす前に、「私は主の御言葉に聞き従い、毎日成長する信仰生活を過ごしているだろうか?」と、まず顧みるべきではないでしょうか。 3. 良い心の畑を持つ人 今日の新約聖書の冒頭には、良い心の畑を持つ人々が出てきています。彼らは、弟子たちの次に記されている「マリア、ヨハナ、スサンナ、そのほか多くの女たち」です。福音書の後半、主イエスが逮捕され、苦しみを受けられた時、弟子たちは主を裏切ってみんな逃げてしまいましたが、その婦人たちは最後まで主について行き、悲しみました。そして、お墓の主イエスの遺体を守り、主が復活された時、最初に復活されたイエスと会ったのも、弟子たちではなく婦人たちでした。今日の本文によると、この婦人たちは自分の持ち物を出し合って、主イエスと主の人々に仕えたとあります。ここで重要なのは、「自分の持ち物を出し合った」ではなく、「一行に奉仕した」ということです。この婦人たちが聖書に記されている理由は、献金をたくさんしたり、教会に多くのものを提供したりしたからではなく、主への信仰のため、心から教会と人々に仕えたからでした。家父長的な思想が現代に比べてはるかに強かった古代イスラエルの記録に、この女性たちが記されているということは、それだけ、初期の教会の人々が彼女たちの信仰を大切にしていた証拠なのです。そして、彼女たちのそのような素晴らしい信仰は、まさに主なる神が蒔かれた御言葉の種が、彼女たちの良い心の畑に蒔かれ、すくすくと育ち、実を結んだからではないでしょうか? 礼拝に毎週出席し、祈祷会に欠席せず、聖書をたくさん読み、教会の行事に積極的に参加し、大金の献金をすること、もちろん、それらも信仰を表す基準の一つであるかもしれません。しかし、それ以上重要なのは、今日の新約聖書に記された婦人たちのように、人目につかない場所で、主と隣人を愛し、御言葉に聞き従い、その御言葉通りに生きながら仕えることにあるのです。どうせ、私たちの信仰を判断するのは、牧師や教会員ではなく、すべてを見守っておられる主なる神だからです。私たちは果たして、良い心の畑を持って過ごしているでしょうか?私たちもこの婦人たちのように、純粋で心からの気持ちで主と教会、そして私たちの隣人に仕える信仰を持っているでしょうか?そのような信仰を持った私たちであることを祈ります。今日の本文を読んで顧みると自分の信仰が弱く感じられるかもしれませんが、それでも挫折しないようにしましょう。なぜなら、今日の旧約聖書の本文で、主がこのように約束してくださったからです。「しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。 」(エレミヤ書 31:33) 主なる神は、今日も私たちと一緒におられ、その御言葉が主の民の心の中で働くように助けておられます。信仰を諦めない限り、主は私たちの中で黙々と私たちを助けてくださるでしょう。そのことを忘れない私たちでありたいと願います。 締め括り 長年の信仰生活をし、聖書の御言葉や説教に多く触れてきた人々は、それに慣れすぎて信仰と御言葉に無感覚になりがちです。そうして私たちは、知らず知らずのうちに道端や石地や茨の中のような心を持つようになりやすいと思います。だからこそ、私たちは毎日目を覚まし、良い心の畑を待つために、主の御言葉を心に留めて生きるために力を入れるべきでしょう。志免教会につらなる私たちみんなが良い心の畑を持った者として生きることを祈り願います。

わたしがあなたと共にいる。

イザヤ書41章10節(旧1126頁) マタイによる福音書28章20節(新60頁) 前置き 歴史の中で人類は、偉大な業績を成し遂げてきました。文明を築き、文字を造り、哲学を発展させ、科学を進歩させてきました。文明の発展に伴い、巨大な鉄の塊を海に浮かべ、空に飛ばして船と飛行機を発明し、今では宇宙にまで進出できる技術を持つようになりました。医学の発展は、人間の寿命を飛躍的に延ばしました。地球上のすべての生命体の中で、人間だけがこのような目覚ましい発展を成し遂げたゆえに、人間は本当に偉大な存在ではないかと思います。しかし、同時に人間はあまりにも悲惨な存在でもあります。文明や科学が発展しても、依然として未来への不安を拭い去ることができず、寿命は延びましたが、依然として憎み合い、対立しあい、傷つけ合います。富んだ者は富んだ者としての不安の中で生き、貧しい者は貧しい者としての不安の中で生きています。そして結局、両者とも死をもって終わりを迎えます。人間は偉大な存在ですが、その終わりが必ず訪れるため、結局は滅びるしかない悲惨な存在なのです。これが、偉大であるにもかかわらず完全ではあり得ない人間の限界です。このような人間の限界をご存知である主なる神は、聖書全体の御言葉を通して「人間よ、あなたたちは不完全である。しかし、私は完全である。完全な私が、あなたたちを助け、永遠に共に歩んでいく」と絶えず語りかけておられます。今日の本文の言葉も、人間と永遠に共に歩むことを望んでおられる主なる神の御言葉であります。 1. 共にいることを望んでおられる主 「恐れることはない、わたしはあなたと共にいる神。たじろぐな、わたしはあなたの神。勢いを与えてあなたを助け、わたしの救いの右の手であなたを支える。」(イザヤ書41:10) イザヤ書には、主なる神の民でありながらも、主を侮り、異教の神々を拝み、偶像礼拝によって主を裏切ってしまったイスラエルの民への裁きの宣言が書いてあります。そして、その後のイスラエルへの赦しと回復を預言する御言葉も記してあります。(1-39章にはイスラエルの罪と裁き、40-66章にはイスラエルの救いと回復の御言葉が記されています。) それを通して、主はご自分の民の罪は裁かれますが、主の民そのものは愛しておられることが分かります。主は人間を愛しておられます。主の創造は、ご自身の形(創世記1:27)に似せて造られた人間と共にいるための偉大な始まりでした。しかし、主の権威を認めようとしない人間の罪の性質によって、人間は堕落し、主から遠ざかってしまいました。イスラエルの民が主を裏切り、偶像を崇拝するようになった理由も、主から遠ざかろうとする人間の罪の性質から生じたものでした。歴史が始まって以来、人間は常に自分自身が歴史の主導者になろうとしてきました。原始部族では最も強い者が支配者となり、強い部族は弱い部族を占領し、そうして生まれた国々が互いに戦争を繰り返し、その中で最も強い国によって帝国が生まれました。そして、その帝国でさえも互いに征服しようと対立したのです。 歴史の中で名を馳せた人物や帝国は、人(皇帝)を中心にして自らを高め、主なる神を排除する偶像礼拝の道を歩んできました。結局、罪の本性を持った人間は、主なる神を主として認めず、人間自らが主と神になろうとする偶像礼拝を本能的に行って生きる存在なのです。私たちの中にもそのような性質が残っており、時には主の御前で罪を犯すことがあります。それでも、神はこのように罪を犯す人間を遠く捨てて放っておかれず、赦し、近くにいてくださることを、そして共にいてくださることを望んでおられるお方です。旧約聖書のイスラエルの民が主の御言葉に聞き従わず、自ら異教の偶像を拝み、主から遠ざかった時も、彼らに裁きを下されましたが、滅ぼすことまではなさらず、再び立ち上がれるように導いてくださいました。今日の旧約聖書の本文は、まさにその主の御心を聖書の読み手に隠すことなく示しています。このイザヤ書の御言葉は、ただ昔のイスラエルの民に与えられただけの御言葉ではありません。たとえ数千年前に記されたものであっても、今も生きており、今日を生きる主の民である私たちにも、主の御心がどのようなものであるかを教えてくれるのです。主は私たちを愛しておられるお方です。主なる神は私たちへの愛のゆえに、ご自身の独り子までも十字架のいけにえとされ、私たちを赦してくださったお方です。主なる神が共にいてくださるということは、すなわち主なる神の愛の象徴なのです。 2. 私たちは決してひとりぼっちではない 「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイによる福音書28:20)今日の新約聖書の本文にも、主の民と世の終わりまで、共にいてくださるというイエス・キリストの約束が記されています。旧約聖書全体を貫く「主なる神が人間と共にいるのを望んでおられる」という主の約束が、唯一の救い主であるイエス・キリストの贖いによって完全に成就されました。主なる神は、この世のすべての人類が救われ、共にいることを望んでおられますが(Ⅰテモテ2:4)、旧約時代には、おもにイスラエルの民と主を信じるようになった異邦人に限られた約束でした。なぜならば、旧約時代には、人間のすべての罪を贖い、彼らの代表となる仲介者、つまり、仲保者がいなかったからです。ということで、すべての民族に主なる神の民となる道が開かれていませんでした。主の御心は、すべての人類が主なる神の赦しを受け、主と共に歩むことでしたが、仲保者がいなかったため、人間は自力では、主を知ることも、主に近づくこともできなかったのです。しかし、仲保者であるイエス・キリストの登場は、民族、文化、国家、人種といったすべての壁を打ち砕き、誰もが主なる神の救いの御言葉を聞き、信じることができる霊的な革命となったのです。 「これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。」(Ⅱコリント5:18)このように、イエス・キリストの存在は、主なる神と人間の間の壁を打ち砕き、和解し、共にいるための鍵となります。したがって、イエス・キリストが私たちと共にいてくださるなら、それはすなわち主なる神と私たちが共にいることと同じだと言っても過言ではないでしょう。そして、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」という主イエスの約束により、主イエスを通して神は私たちと常に共におられるようになったのです。キリストを通して主なる神を信じるようになった私たちは、決してひとりぼっちではありません。旧約のイザヤ書でも、新約のマタイによる福音書でも、主なる神は私たちと共にいると約束してくださいました。何よりも、人類を赦し、和解させるために遣わされた救い主イエスの存在によって、その約束は永遠に保証される、移り変わりのない契約となったのです。ですから、私たちが孤独を感じる時も、神などいないと感じられる時も、苦難の時も、喜びの時も、いかなる喜怒哀楽の瞬間にも、主なる神は私たちと常に共にいてくださり、私たちの人生の中で永遠に生きておられるのです。主が共にいてくださることを信じ、孤独と苦しみに負けず、主なる神への信仰をもって生きていることを願います。主なる神は今日も、キリストを通して私たちと共にいてくださり、私たちを助けてくださることを望んでおられるからです。その信仰の中で、主は働いてくださいます。 締め括り 前置きでお話ししたように、人間は偉大な存在でありながら不完全な存在です。しかし、完全であられるキリストが私たちと共にいてくださるなら、私たちは真の意味として、主にあって偉大な存在となることができます。それは、私たち自身を自ら高める偶像礼拝のような偉大さの追求ではなく、キリストが共にいてくださるゆえに、主なる神が認めてくださる神による真の偉大さであります。本日の礼拝は、敬愛する某姉妹が志免教会で守られる最後の公式な礼拝となります。この姉妹は、ここ数十年間、志免教会の一員として心から主に仕えてこられました。しかし、肉体の弱さのため、これ以上教会に出席することが難しくなりました。それでも、主なる神を信じ、志免教会と共に歩んでこられた彼女の人生は、キリストのみもとで、主なる神の恵みによって偉大な歩みでした。彼女はいつも謙遜に仕え、無牧時代にも教会を愛し、支えてくださいました。たとえ教会に来て礼拝をささげることが難しくなっても、主なる神はこれからも姉妹と常に共にいてくださり、彼女の道を導いてくださるでしょう。今日のこの説教は、この姉妹にささげる慰めのメッセージとなることを願い、作成しました。主なる神が彼女と志免教会の皆さんと、永遠に共にいてくださることを信じます。世の中のすべての人々が私を捨て去っても、主だけは私と常に共におられ、導いてくださることを信じ、これからも歩んでいく志免教会でありますよう祈り願います。

イエスだけが一緒におられた。

マラキ書3章22-23節(旧1501頁) マルコによる福音書9章2-13節(新78頁) 前置き マルコによる福音書8章、主イエスは「あなたがたは私を何者だと言うのか。」と弟子たちに尋ねられました。世の人々は主を「洗礼者ヨハネ、エリヤ、預言者の一人」と言っていましたが、主は弟子たちの認識を確かめるために質問されたのです。その時、ペトロが答えました。「あなたはメシアです。」彼の答えは正解でした。弟子たちの認識を確かめられた主は、メシアであるご自身が苦難を受けて死ぬことになると予告されました。するとペトロが激しくいさめ、主はそんなペトロに「サタン、引き下がれ。」と厳しく叱られました。なぜ、主の死を止めようとしたペトロは叱られたのでしょうか。信仰告白は宗教的な知識だけの告白ではありません。知識としてのペトロの告白は正しかったですが、信仰としてのペトロの告白は不完全でした。主の御心ではなく、自分の思いを押し立てたからです。真の信仰告白は知識だけで完成するものではありません。知ることと信じることがひとつになり、知識に実践が伴う時、信仰告白は本当の信仰告白として働くようになるのです。 1.高い山の上で変容された主。 「六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。」(マルコ9:2)それから6日後、主イエスはペトロ、ヤコブ、ヨハネを連れて、ある高い山に登られました。時々、聖書では「山」が神の栄光の現れる所として使われます。今日の本文に登場するモーセとエリヤは、それぞれ自分の時代に神の山である「ホレブ」で主と出会い、また、イスラエルの偉大な王であるダビデは、主なる神にエルサレムのシオン山をいただきました。そして、主イエスは洗礼後の試練の時、悪魔によって非常に高い山に連れられ、誘惑を受けられました。このように聖書においての山は「主なる神のご臨在の所、聖なる所、超自然的な所」としてよく解釈されます。(注意:聖書に出てくるすべての山に、そのような意味があるわけではない)「イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。」(9:2-3)ただし、今日の本文に出てくる高い山が、正確にどこにある山なのかは知られていません。 主イエスは山の上に登られた時、この世にはあり得ない輝かしい姿に変容されました。主の服が真っ白に輝くようになったのはイエスの神聖さが表れたという象徴的な意味です。今ではこの世で肉体を持った人間としておられますが、もともと主は本質的に神であり、聖なる方、罪のない方、正しい方であることを示しているのです。また、主は山の上で旧約の代表的な人物であるモーセとエリヤと会われましたが、彼らは旧約の始まりと終わりを意味する偉大な預言者として、旧約マラキ書の最後に記してある人々でした。「わが僕モーセの教えを思い起こせ。私は彼に、全イスラエルのため、ホレブで掟と定めを命じておいた。見よ、私は大いなる恐るべき主の日が来る前に預言者エリヤをあなたたちに遣わす。」(マラキ3:22-23) すなわち、イエス•キリストは神のご臨在の場所で、神聖さを表され、旧約時代の代表的な預言者2人に会われ、ご自分が真の神であり、真の主であることを示してくださったのです。すぐ前の箇所で、自分の思いのためにイエスをいさめたペトロは、このような主の姿を見てどう思うようになったでしょうか?主イエスは、自分ではどうすることもできない超越的で偉大な方であることに気づいたのでしょうか。 2.モーセとエリヤと会われた主 「ペトロが口をはさんでイエスに言った。先生、私たちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」(マルコ9:5)しかし、ペトロはそう簡単に変わりませんでした。数日前に、メシアの苦難と死という主の御心を自分の思いに合わせようとした彼が、今日は神聖さを見せた主イエスとモーセとエリヤの姿を見てうっとりして、ずっと山の上にいるのを願ったからです。ペトロは、実は恐れていたはずです。言葉が出てこないほど驚いていたでしょう。にもかかわらず、そんな中でも彼は数日前と同じく、自分の思いに良いことを選ぼうとしていました。もしかしたら真っ白に輝く厳めしいイエスが、自分が望んできた強力なメシアの姿だったのかもしれません。その時、ペトロと弟子たちは雲に覆われ、神の声を聞くことになりました。「これは私の愛する子。これに聞け。」(マルコ9:7)マタイによる福音書には、弟子たちがその声を聞いて、ひれ伏して恐れたと記してあります。第二ペトロ1章17-18節にも、この話が記してあります。自己中心的に信仰を誤解し、自分の思いのままにしようとしたペトロは、おそらくこの状況を経験しつつ、神がご自分でイエスの道を導いておられることに、だからこそ、主は人間の手によって左右されない方であることに、改めて気づいたでしょう。 信仰の主導権は私たちにはありません。私たちの信仰の主は、私たちではなく主なる神だからです。今日の本文に、モーセとエリヤの旧約の二人の人物が登場します。「柴の間に燃え上がっている炎の中に主の御使いが現れた。彼が見ると、見よ、柴は火に燃えているのに、柴は燃え尽きない。」(出3:2)エジプトの王女の息子に育ったイスラエル人モーセは、ある出来事によって40歳ごろにエジプトから逃げ出し、80歳までミディアンの羊飼いとして生きました。彼はもはや若者ではありませんでした。40代の頃、血気盛んで権力もあった時には、主なる神は彼をお呼びになりませんでした。しかし、彼が80歳の羊飼いで、弱まった時、主なる神は彼をお呼びになったのです。羊を飼っていた彼が神の山(ホレブ)に偶然登った時、主は燃え上がる柴の炎の中で彼を召されました。その時、主ははじめてモーセにエジプトに行って「我が民を救え」と命じられました。主は燃え上がる柴を通して強くても弱いように、弱いようでも強く、ご自身を示してくださいました。主は人間の認識ではとうてい理解できない方でした。神は熱くて強烈な炎の様子と、弱くて燃え尽きてしまう柴の様子を通して、猛烈ながらも焼き尽くさず、弱いながらも滅びない、逆説を示し、人間の常識を超える神という存在の神秘を見せてくださったのです。 また、数百年後、同じ山(ホレブ)で預言者エリヤも主と出会いました。「主は、そこを出て、山の中で主の前に立ちなさいと言われた。見よ、そのとき主が通り過ぎて行かれた。主の御前には非常に激しい風が起こり、山を裂き、岩を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風の後に地震が起こった。しかし、地震の中にも主はおられなかった。地震の後に火が起こった。しかし、火の中にも主はおられなかった。火の後に、静かにささやく声が聞こえた。」(列王記上19:11-12)当時、邪悪な王アハブと王妃イゼベルに対抗抵抗していたエリヤは、命の脅威のため、神の山に逃げました。エリヤが主の御前に自分の困難を吐き出した時、主は彼に、激しい風、恐ろしい地震、猛烈な火を見せてくださいました。しかし、主はそれらの中にはおられませんでした。むしろ、主はその後の静かにささやく声の中におられたのです。その後、主はエリヤを導き、ご自分の御手によって邪悪な王と王妃を裁かれました。モーセとエリヤは、主の強力な姿を望んでいたかもしれません。しかし、主は二人の考えとは全く異なる姿でご自分を示してくださいました。主はモーセとエリヤの思いではなく、ご自分の思いのままに働かれたのです。主はご自分の民の信仰を主権的に導かれる方です。私たちの信仰の主は私たち自身ではなく、主なる神であります。 3。ただ主だけが一緒におられた。 「弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた。一同が山を下りるとき、イエスは、人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけないと弟子たちに命じられた。彼らはこの言葉を心に留めて、死者の中から復活するとはどういうことかと論じ合った。」(マルコ8-10)神の御声を聞き、恐れてひれ伏した弟子たちが立ち上がった時、雲も神の声も、モーセも、エリヤも消え、ただ主イエスだけが彼らと一緒におられました。厳めしい神の声、輝かしいイエスの姿、偉いモーセとエリヤ。弟子たちはその素晴らしさの中にずっと過ごすことを望んでいたのかもしれません。しかし、神は弟子たちに己の思いではなく、主イエスの御言葉に従順に聞き従うことを命じられました。そして一瞬、そのすべてが消え、イエスだけが弟子たちと一緒におられるようになったのです。山を下りるとき、主は再びご自分が死に、復活することを教えてくださいました。しかし、もうこれ以上ペトロは主をいさめずにただ聞きながらついていくだけでした。彼の心の中に主の死と復活がどんな意味なのか、自分の思いとは全く異なる主の御心にかすかにでも気づいていたからでしょう。 締め括り 主なる神は、誰よりも強力な方で、ご自分の御心のままに、この世界を支配することがお出来になる存在です。しかし、主はこの世とは全く違う方法で、世界を治められます。当初、弟子たちは現実的な権力と名誉のメシアとしてイエスを理解し、そのイエスの右腕として自分の立場を理解していたかもしれません。しかし、主は権力ではなく、目立ったないが確かなご計画によって、御業を成し遂げていかれました。たまに主の御心が自分の思いと全く異なるのに気づき、がっかりする時もあるかもしれません。しかし、主はご自分の御心、ご計画によって今でも働いておられます。そして、主は今日も移り変わりなく私たちと共に歩んでくださいます。何よりも主は、世のすべてがなくなっても最後まで私たちと一緒にいてくださいます。主イエスだけが私たちと一緒におられるのです。それを信じて、主の一緒に歩んでいく私たちであることを祈り願います。

わたしたちを助けてください

使徒言行録16章9~10節 (新245 頁) 前置き まず、説教の前に申し訳なく思います。説教題と内容が本文を除いて、そんなに関係なくなってしまったと思います。説教を書きながら、内容が変わってしまいました。皆さんのご理解をお願いします。本日の聖書の本文は、主なる神が小アジア、つまり現在のトルコ北部の地域で福音を伝えようと奮闘していたパウロに幻を見せ、マケドニアへ渡って伝道するよう促される場面です。ユダヤ人でありながら、現在のトルコ東南部で生まれ育ったパウロには、その地での伝道に情熱がありました。宣教学的にも、彼の考えは極めて妥当なものでした。にもかかわらず、主は彼が抱いていた小アジア(トルコ北部)伝道の熱意を拒否され、マケドニア(ヨーロッパ東部)地域での伝道を促されました。パウロは自分の思いとは違う、理解しがたい主のご命令にもかかわらず、自分の計画への固執をやめ、さっそく主の御言葉に従い、マケドニアへ旅立ちました。それによって、ついに公式的なヨーロッパでの伝道が始まることになったのです。そしてその結果、遠い将来、キリスト教がローマ帝国の国教となり、ヨーロッパ世界の精神的な基盤として爆発的に成長するという成果につながりました。今日は、使徒言行録16章9節と10節の聖書の箇所を通して、伝道と宣教について、そして、キリスト者のあり方について考えてみたいと思います。 1. 主が見せてくださる幻 「その夜、パウロは幻を見た。その中で一人のマケドニア人が立って、マケドニア州に渡って来て、わたしたちを助けてくださいと言ってパウロに願った。」(使徒言行録16:9)使徒言行録16章で、元々パウロが望んでいた伝道の地域はビティニア州(7節、現在のトルコ北部)でした。パウロは16章以前まで、おもに現在のトルコ南部地域の様々な場所を旅しながら伝道しましたが、北部のビティニア州に行ったことは、まだ、なかったからです。しかし、パウロの考えとは異なり、主は彼がビティニア州ではなく、海を渡ってマケドニア州、つまり現在のギリシャ地域へ行くことを望まれました。前置きでも、お話ししたように、トルコ出身者としてトルコ北部地域で伝道しようとするパウロの計画は間違っていませんでした。それでも、主は彼にビティニア州での伝道をやめ、マケドニア州へ行くことを力強く命じられたのです。主はこれを実現させるために、パウロに特別な幻を見せてくださいました。誰だか分からないマケドニア人がパウロに「マケドニア州へ来て助けてくれ」と願う幻でした。聖書で幻を意味する言葉にはいくつかのものがありますが、今日の聖書の箇所で使われている幻は、「ホラマ」というギリシャ語の言葉です。「ホラマ」は、動詞「ホラオ」の名詞形であり、「ホラオ」は「心で深く悟りながら見る」という意味です。「目で何かを見る」という以上の、「何が正しいかを悟りながら見る」という意味なのです。 「パウロがこの幻を見たとき、わたしたちはすぐにマケドニアへ向けて出発することにした。マケドニア人に福音を告げ知らせるために、神がわたしたちを召されているのだと、確信するに至ったからである。」(使徒言行録16:10)幻を通じて、主の御心に気づいたパウロは、ためらわずに自分の計画を撤回し、マケドニアへ渡ることを決心します。パウロは、主の幻の前で、長年抱いてきた自分の計画を完全に諦めたわけです。パウロは主からの幻(ホラマ)を見て悟り(ホラオ)、自分の情熱と計画を押さえ、主の御心に従うために思い切って計画を変更したのです。私たちはここで、主が見せてくださる幻の重要な意味について、学ぶことができます。主の幻は、ただ単に超自然的な現象が目に見えてくることだけを意味しません。聖書に記されている物語は、聖書が書かれる以前にあった出来事の記録です。その時代には、現代のように誰もが気軽に聖書を読むことができませんでした。主がパウロに幻を見せてくださった理由は、単純に神秘的で超自然的な現象を見せるためではなく、その中に込められた主の御心、つまり、生ける神の御言葉を悟らせて従わせるためでした。そういう意味として、主からの幻は神の御言葉と言い換えることもできるでしょう。聖書を読む時、「幻を見る」という表現が出てきたら、いつでもまず「主の御心(神の御言葉)を悟る」と理解していただきたいと思います。 2. 伝道と宣教の意味について 本日の聖書の本文以降、パウロは、ただちにこれまでの計画を変更し、マケドニア地域へ渡るために力を尽くしました。主の御言葉に従ってその地へ渡ったパウロは、多くの人々と出会い、新しい伝道活動を続けていきます。しかし、数多くの苦難と迫害もまた彼を待っていました。普通の人なら、「わざわざ主に言われた通りにしたのに、こんなに苦しくなるなんて」と愚痴をこぼすような出来事も多々あったかもしれません。しかし、主なる神の御心だけを望み、黙々と歩んだパウロは、様々な地域で伝道し、教会を打ち立て、多くの魂をキリストへと導き、成功的に伝道活動を続けていきました。主なる神の計画と導きの中で、従順に聞き従いつつ活動したパウロの苦労によって、マケドニア州にキリストの福音が広がっていくことになったのです。このようなパウロの従順と苦労の中で、彼がマケドニア地域に蒔いた福音の種は、しっかりと根を下ろしました。その結果、数百年がたった西暦4世紀末、キリスト教はローマ帝国の国教となり、キリストの福音は地中海世界の精神的な基盤にまで成長していきました。そして当然のように、パウロが元々伝道しようとしていたトルコ北部地域のビティニア州にまでも福音が伝えられていったことでしょう。実際に、福音はトルコをはるかに越えて極東の日本にまで届きました。主なる神の御心に従い、自分の計画を諦めたパウロ。彼の決断が、数百年後にさらに大きな実を結び、元々計画していた以上にキリストの教会を成長させる力となったことを、パウロは天国で確認し、喜んでいるに違いありません。 私たちは、伝道と宣教という言葉をよく口にします。しかし「知らない人にイエスと福音を伝えるのが伝道と宣教」という漠然とした固定観念のため、伝道と宣教を心の重荷のように感じがちです。しかし、伝道と宣教が「主の御言葉に従い、自分の固定観念や計画を落ち着け、主のご計画に合わせて生きようとする生き方」から始まることだとすれば、もう少しでも伝道と宣教への負担が軽くなれるのではないでしょうか。もちろん、伝道と宣教は明らかに難しいことです。知らない人に福音を伝えるには大きな勇気が必要だからです。しかし、主の御心に従おうとする生き方、謙遜に自分の考えを主の御心に合わせようとする心をもってキリスト者にふさわしく生きるなら、いつか必ず主が伝道の機会を与えてくださると信じます。伝道と宣教のある人生のために、今私たちが従わなければならない主の御言葉は何でしょうか。伝道のある人生のために、今私たちが諦めなければならないものは何でしょうか。主なる神の御心への従順な生き方と、自分の固定観念や欲望を落ち着けること、その中で主なる神は、さらに多くの御業を私たちの人生において成し遂げてくださるでしょう。私たちの伝道と宣教の始まりは、主の御言葉への従順な生き方と、自分の固定観念や欲望を落ち着けることからだと、あえて申し上げたいと思います。 締め括り 今日は、韓国釜山のUN平和教会の兄弟姉妹に志免教会で一緒に礼拝を捧げるために来ていただきました。志免教会が属する日本の代表的な長老教会である日本キリスト教会と、UN平和教会が属する韓国の代表的な長老教会である大韓イエス教長老会(合同)は、両方ともアメリカ北長老教会の宣教師たちの伝道によって打ち立てられました。つまり、両教会は同じルーツを持つ兄弟のような教会です。また、大会レベルでも公式的に宣教協約を結んでいる姉妹教会でもあります。日本と韓国は、きわめてつらい過去を共有する最も近くありながら最も遠くある国だと言われる関係です。しかし、少なくとも、キリストの教会だけは、主イエスの救いと愛によって一つとなった最も近い関係であります。両国が歴史観や価値観の違いで、互いに誤解や対立をすることがあっても、両国の教会だけは主にあって一つとなり、慰めあい、赦しあい、共に歩みつつあることを願います。主からの幻を見たパウロが従順に聞き従いと自分の計画のさっそく諦めたように、キリストの御言葉への従順な従いと自分の固定観念や欲望を落ち着けることで、志免教会とUN平和教会が、主が与えてくださる幻(御言葉)のままに生きていくことを心から祈り願います。

信仰の戦い

エフェソの信徒への手紙6章10-20節(新359頁) 前置き エフェソの信徒への手紙のおもなテーマは「教会とは何か」です。「天地創造の前から神にあらかじめ定めされ、キリストによって救われ、その御旨に適って生きるキリストの体なる共同体」これが教会の意義です。したがって、教会は神の御心によってキリストの民となった、キリストと共に歩まなければならない存在です。この世の思想、生き方ではなく、キリストの御心と生き方に聞き従わなければならない存在です。この地にいるが天に属している存在、それがキリストの体なる共同体、教会のあり方なのです。今日の本文は、その教会を成すキリスト者の信仰生活においての「信仰の戦い」について語ります。今日の本文を通じて、教会の生き方について考えてみましょう。 1. 血肉の戦いではなく、霊の戦いを 「わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。」(エフェソ6:12) 戦いは控えるべきというのが常識です。聖書も隣人への愛、さらには敵への愛までも命じます。できるだけ、忍耐してどんな形でも戦わないのが望ましいです。しかし、聖書が勧める戦いがあります。それは霊の戦いです。今日の本文6章11節は、その戦いが血と肉の戦いではなく、悪の諸霊を相手にすることだと語ります。天にいる悪の諸霊、つまり悪魔を意味します。悪魔とは何でしょうか。昔のヘブライ人のある文献には、悪魔が堕落した天使であると記してあります。そして、彼らは主なる神に逆らう存在だと説明します。彼らは主なる神の座を奪い取るために、堕落して主を裏切り、悪魔になったとあります。このような悪魔の働きは創世記のアダムとエヴァを誘惑した蛇、ヨブ記のサタンのような存在から現れます。新約聖書にも悪魔についての記録があるほどです。実に悪魔はいると思います。しかし、私たちは悪魔が私たちの人生を操り、強制的に私たちを犯罪させる存在だと考えてはなりません。「悪魔の誘惑」という言葉があるように、確かに神に逆らう者、悪魔は人間を罪へと誘惑します。しかし、その罪を選ぶのは悪魔ではなく、人間そのものです。 古代のヘブライ人は、天使と悪魔が本当にいる霊的な存在ではあるが、それと共に人間も、神に従う者が即ち天使のような者であり、神に逆らう者が即ち悪魔のような者であると考えました。第3の存在である天使や悪魔だけでなく、人間そのものが、生き方によって天使にもなれ、悪魔にもなれるという思想だったのです。だから、霊の戦いとは、ある意味で、悪魔という霊的な存在との戦いだけでなく、悪と罪に誘惑され、神に逆らうようになり得る人間自分自身との戦いとも言えるでしょう。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハネ福音書16:33) 主イエスは「わたしは既に世に勝っている。(悪の権勢に勝利している)」と言われました。つまり、主と悪の戦いは、すでに終わり、結果は決まっています。主イエスが勝利され、この世はそのイエスの支配のもとにあるのです。したがって、主の民である私たちも、主によって、すでに勝利したのです。しかし、聖書は私たちにまだ残っている悪と罪の本性につまづかないよう、それと戦って勝つことを命じます。勝利者として、勝利者にふさわしい人生を勧めているのです。だから、霊の戦いは自分自身の罪との戦いです。誘惑と勝利の中で、私たちが取るべき生き方を選んで生き続けること、それが霊の戦い、信仰の戦いなのです。 2. 神の武具を身に着けなさい。 「悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。」(エフェソ書6:11,13) 今日の本文は、霊の戦いに勝利する人生のために「神の武具」を身に着けろと命じます。「真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい。なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。」(14-17)、神の武具は次の通りです。真理の帯、正義を胸当て、平和の福音の履物、信仰の盾、救いの兜、そして最も重要な(聖)霊の剣、すなわち神の御言葉なのです。このような武具は、古代ローマの兵隊の姿と似ています。①真理とは変わらない主の御心を意味します。ひとえに神だけが勝利者であり、真の主であるという変わらない事実のことです。ローマ軍兵の帯は腰を支えて強い力で武器を振るうようにする武具です。真理に立って主の御心に頼る時、強い信仰の力を発するようになります。 ②正義(義、正しさ)とは、キリストによる天地創造の摂理に忠実な模様です。つまり、神に属している欠けることのない完全さを意味します。人間はたとえ罪によって不完全であっても、主イエスの義によって完全な者と見なされ、神に認められるという意味です。胸当ては心臓を守る鎧のことです。私たちは生まれつき罪人ですが、キリストの義は私たちを正しい者と認めさせます。③平和とは、神と隣人との和解を意味します。平和の福音の履物は、キリストの福音によって、神と隣人を愛し、真の和解を成し遂げさせます。隣人を憎むということは、血肉の戦いを意味します。しかし、キリストの平和が私たちと共にある時、私たちは隣人を愛することで血肉の戦いを避け、霊の戦いだけに集中できるようになります。④また、大事な私たちの武具は信仰の盾です。盾は矢と刃物を防ぐ防具です。世は私たちに否定的で不信心の思想を絶えず伝えます。しかし、主への堅い信仰の盾があるなら、私たちは決して欺かれず、主の御心だけに従って生きるようになるでしょう。 ⑤救いの兜、兜は勝利を象徴します。ローマ時代、戦争に勝利した将軍は、月桂冠をかぶって行進しました。キリストの救いによって、私たちはすでに勝利した存在です。時々、人生の辛さや試練によって自分自身が負け犬のように感じられる時もありますが、主による私たちの勝利を忘れてはなりません。自分の状況を見る前に、主がどんなお方なのかを憶えましょう。主イエス•キリストはすでに勝利した方です。⑥最後、最も重要な武具は、私たちの武器、聖霊の剣です。今日の本文は、聖霊の剣が、神の言葉であると語ります。神の言葉は強いです。この世は教会を敗北者だと非難していますが、主の言葉は、教会が勝利者であると応援しています。この世は教会が失敗したと言いますが、主の言葉は教会が成功したと言います。自分の考え、世の考えに呑み込まれ迷っている時に、主の御言葉は、私たちの考えを新たにし、神の御心どおりに進むように導きます。したがって、神の御言葉は私たちの唯一の信仰の武器、聖霊の武器なのです。以上、6つの神の武具を通して、私たちはすでに勝利された、主に従ってこの世を生きていくのです。 3. 祈りによって生きる勝利の人生。 そして、本文は神の武具による信仰の人生に、祈りが伴うと語ります。祈りは神と私たちの会話です。ひざまずいて両手を合わせて敬虔にすることも祈りですが、私たちの人生のすべてにおいて、神に助けを求め、神の御心を待ち望み、主の御言葉通りに生きようとすることこそ祈りです。神とつながり、神の後をついていくことが、まさに祈りの人生なのです。このような人生を通してキリスト者は勝利を保ち、その共同体である教会も勝利することになるでしょう。「また、わたしが適切な言葉を用いて話し、福音の神秘を大胆に示すことができるように、わたしのためにも祈ってください。」(19) 神の武具によって信仰を守り、神の言葉の剣で罪と悪に勝ち、祈りによって神とつながり、祈りによって兄弟姉妹を助ける人生。それがエフェソ書が勧める教会の望ましい生き方ではないでしょうか? それがまさに勝利の人生ではないでしょうか? 締め括り キリスト者がこの世を生きることは、とてもたいへんな道のりの連続です。絶えない人生の試練がやってきます。けれども、自分の状況ではなく、主なる神がどのようなお方なのか憶えて生きましょう。自分は弱くても、神は変わることなく勝利者であることを憶えて、信仰の人生を生きてまいりましょう。そのような人生のために、今日の本文は神の武具と祈りの人生を話しているのです。私たちはすでにキリストによって勝利した者です。それが教会という共同体の意義なのです。したがって、最後までキリストの勝利を信じ、主に従って生きる私たちであることを祈ります。

御父のまなざし

ルカによる福音書 15章11‐24節(新139頁) 前置き キリスト教会が主とあがめる神という存在はどのようなお方でしょうか。今日は、難しい「三位一体」のような神学の話しではなく、神という存在が私たちの人生においてどのようなお方なのかについて、実存的な話をしてみたいと思います。神という存在を最も直観的に表す言葉は、万物の「父」と言えるでしょう。もちろん、神は人間のような性別がない方であるため、人間の基準で言う生物学的な父とは異なる存在です。すべてを創造し、司る絶対者としての「父」と理解するのが正しいでしょう。古代のヘブライ人は、この神を万物の「父」と理解していました。性別を超えて、すべてのものの創造主と信じていたのです。そして、現代の教会が主とあがめる神のひとり子イエス・キリストも、その神を父と呼ばれました。今日は、この父なる神について、そしてその方が人間をどのように思っておられるのかについて、話してみたいと思います。 1. 放蕩息子のたとえ話 今日の本文であるルカによる福音書15章には、父にかかわる主イエスの有名なたとえ話が出てきます。あらすじは下記のようです。ある人に二人の息子がいました。ある日、次男が父のところに来てこう言いました。「お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください。」彼の発言は、このたとえ話の時代においてはありえない非常に失礼な要求でした。父がまだ生きているのに遺産を求めるのは、父を死んだものと扱うことと同じだったからです。しかし、父は次男の要求を聞き入れました。そして、次男は父から受け取った財産を持って遠い異国へ旅立ちました。彼は、そこで放蕩な暮らしをしたあげく、持っていた全財産をすべて使い果たしてしまいました。お金が尽きると友人も皆去ってしまい、ついには豚の世話をするようになり、豚が食べるイナゴ豆で腹を満たすほど悲惨な身の上になります。その時になってはじめて、この息子は「父の家には十分な食べ物があるのに、私はここで飢え死にそうだ。父のところへ帰ろう。私はもう父の息子と呼ばれる資格などないから、ただ雇人の一人として受け入れてくださいと願おう」と決心します。そうして、次男は父の家へ帰る長い道のりを歩み始めました。 ところが、驚くべき場面が繰り広げられます。次男がまだ遠くにいるのに、父がくたびれた息子を見て哀れに思い、走り寄って首を抱きしめ、口づけをしたからです。父はなぜ何の知らせもなく手ぶらで帰ってくる息子の帰還を知っていたのでしょうか。その理由は、父が毎日毎日、息子の帰還を待っていたからでしょう。息子は父に「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。」と言いした。しかし、父は息子の言葉が終わらないうちにしもべたちに言います。「急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。」そして、祝宴を開きました。父はこの放蕩息子を咎めるどころか、愛をもって赦したのです。主イエスは、このたとえ話を通して、この世の人々に対する万物の父である神の御心を教えてくださいました。聖書はこのたとえ話を通して、人間が決して一人ぼっちではなく、神という真の父の極めて深い関心と愛を受けている貴い存在であることを教えてくれます。 2. 御父の心 今日の本文の、この「父」という存在を通して、私たちは「父なる神」の御心を垣間見ることができます。それは三つに分けて考えることができます。第一に「待ち望む心」です。父は息子が去った後も、毎日毎日息子の帰還を待ち望んでいました。私たちが人生の様々な理由で神を離れたり、世の中でさまよったりする時、父なる神は私たちを待っておられます。私たちのすべての不完全さや過ちにもかかわらず、私たちが帰ってくることを切に願われ、待ち望まれる心です。第二に「愛と赦しの心」です。息子が帰ってきた時、父は息子の以前の過ちを問いませんでした。むしろ、走り寄って抱きしめ、口づけをして歓迎しました。現在の私たちが取るに足りない姿であっても、真の父である神は私たちを愛し、赦してくださいます。父が息子と再会した喜びで宴を開いたようにです。第三に「回復を望む心」です。父は帰還した次男に一番良い服を着せ、指輪をはめ、履物を履かせました。それは再び息子としての尊厳と権威を回復させたという意味でしょう。神は私たちがどのような状況にあっても、再び私たちを神の子として完全に回復させることを望んでおられます。私たちの傷を癒やし、人生を新たにしてくださることを望まれる心を持っておられます。 キリスト者として長年生きてきた方も、まだキリスト者になっていない方も、父なる神のことを誤解しやすいです。自分とはあまりにも遠く離れておられる神、親しく接することのできない難しい存在、言動に間違いがあれば激怒する方など、近づきがたい方だと思いやすいです。しかし、今日の本文に現れる父の姿、すなわち神の姿は、私たちが漠然と想像しがちな権威と威厳の神とは全く違う暖かい父として描写されています。聖書は神について、自分から離れていった人間に怒りを覚えるよりも、絶えず待ち望み、愛し、赦し、回復させてくださる真の父のような存在として描いています。以前、教会に通っていたが信仰が弱まってしまい、教会を離れた人、キリスト教の神という存在について誤解している人、信仰生活の中、人にがっかりして神にまでも信頼できなくなった人、神がまったく自分と関係なく、遠くにおられる方だと思い、遠ざかってしまった人を、神は変わらず待ち望み、昨日も、今日も、明日も待っておられる温かくて愛に満ちているお方です。神は世のすべての人に神との和解の機会を与え、待っておられる真の父なのです。 3. 父なる神に立ち返る方法 この父なる神に立ち返るための、たった一つの方法は、神がこの世に遣わしてくださった唯一の救い主であるイエス・キリストを受け入れ、信じることです。聖書によれば、人間は皆、罪によって神を離れてしまったと言われます。しかし、神は人間と和解することを切に願っておられ、人間の罪を赦し、受け入れてくださる窓口としてイエス・キリストを遣わし、人間の罪を赦される手立てとして、十字架のいけにえにし、神と人間の間の隔てを打ち壊してくださいました。イエス・キリストは罪のない方ですが、人間の罪を赦してくださるために、十字架においてご自身を捧げられ、三日目に復活されることによって死に打ち勝ってくださったのです。私たちが救いを受け、神と和解する唯一の方法は、今も私たちを呼んでおられる父なる神の御心を受け入れ、父が遣わされた唯一の救い主イエス・キリストを信じ、拠り頼むことです。この信仰を通して、私たちは神の子となり、永遠の命を得、神と完全な関係を結びつけることになるのです。これがキリスト教が語る救いの最も基本的な教えであり、私たちを待っておられる父なる神のもとへ立ち返れる唯一の方法なのです。お金でも、権力でも、名誉でも得られない父との和解、それはただ、その方が遣わされたイエス・キリストの導きによってのみ出来ます。父なる神は今日も私たちを愛しておられます。その方は今日もあなたを愛しておられます。 締め括り 時々、この世の人生が孤独に感じられることがあります。誰も自分の味方になってくれず、自分だけが一人ぼっちになっているかのように感じられる時もあります。親も、家族も、友人も、同僚も自分を理解してくれないと感じられる時もあります。しかし、そのような時でさえ、父なる神は私たちを理解してくださり、助けてくださることを望んでおられ、愛のまなざしで私たちを見つめておられます。そして、私たちに助けを与えたいと望んでおられます。今日の聖書の本文のように、神は私たちを待っておられる、暖かい真の父です。父なる神は今日もあなたを見守っておられます。その父がイエス・キリストを通して常に私たちとともにおられることを忘れずに生きることを祈り願います。

わたしの父

イザヤ書49章13-15節 (旧1143頁) ヨハネによる福音書20章15~18節 (新209頁) 前置き 私たちは祈りを始めるとき、ごく自然に「父なる神様」と、その御名を呼びます。あまりにも当たり前の習慣なので、なぜそう呼ぶのか、深く意識することはないかもしれません。私たちが神を「父」と呼ぶのは、聖書がそのように教えているからです。しかし、忘れてはならない、とても重要な事実があります。それは、罪人としてこの世に生まれた私たちには、本来、神を父と呼ぶ資格がなかったということです。考えてみてください。神は完璧に聖なるお方であり、そこには一片の罪も存在しません。しかし、人間は生まれながらにして罪と無縁ではいられない存在です。聖と罪、全く相容れないはずの両者が、どうして「父」と「子」という親しい関係になれるのでしょうか。本日は、罪人である私たちが、聖なる神を「父」と呼べるようになったのはなぜか、その恵みの理由を探ってみたいと思います. 1.なぜ、神を父と呼ぶのか。 日本キリスト教会の小信仰問答 問31にはこういう質問があります。「問31:どうして神を父と呼ぶのですか?」「答:創造主はキリストの父ですから、キリストを信じて神の子とされている私たちも、父と呼ぶことを許されるのです。」私たちは、どうして神を父と呼んでいるのでしょうか? この世を創造された造り主だからでしょうか。自分に命をくださった方だからでしょうか。自分が神を父親として決めたからでしょうか? ある意味で、以上の質問はすべて一理あるかもしれません。しかし、それらが私たちが神を父と呼べる根本的で、決定的な理由だとは言えません。私たちが神を父と呼べる、最も根本的かつ決定的な理由は、神が私たちの救い主であるイエス·キリストの父であるからです。「しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした。あなたがたが子であることは、神が、アッバ、父よと叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります。」(ガラテヤ4:4-6) もちろん、人間も神の被造物だから、広い意味で神を父と見なすことができます。しかし、問題は、人間が「すでに神に呪われ、見捨てられた存在」であるということです。 「こうしてアダムを追放し、命の木に至る道を守るために、エデンの園の東にケルビムと、きらめく剣の炎を置かれた。」(創3:24) 初めに神を裏切った人間は、取り返しのつかない死の呪いを受けました。そして、自力では二度と真の命を手に入れることが出来ない、惨めな存在となってしまったのです。しかし、神は一つの希望の約束をくださいました。「お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に、わたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く。」(創3:15) 先ほど読みましたガラテヤ書の言葉には「神は、その御子を女から…お遣わしになりました。」とありました。この言葉は創世記3章15節を引用した表現です。「エデンの園の東のケルビムと剣の炎」は象徴的に人間が自力では死に勝つ命を得ることが出来なくなったという意味です。しかし、ケルビムと剣の炎をお創りになった神ご自身が人間のところに来られ、その人間を連れて命の木への導かれるとすれば、話は違います。イエス·キリストは罪人を救い、命の木、つまり神による真の命に、私たちを導いてくださるために来られた救い主です。そして、このキリストと一緒にいる時、私たちは真の命に進むことができるようになるのです。私たちが神を父と呼ぶ理由は、まさしく、このためです。私たちが神を父と呼べるようにしてくださるキリストが、私たちのかしらになって、ご自分の父のみもとへ導いてくださるからです。 2.「キリストと父との関係」 それでは、キリストと父なる神は、どのような関係を結んでおられるでしょうか。日本キリスト教会 大信仰問答「問38 父なる神と子なる神と…の関係はどういうものでありますか。(一部抜書)」「答:…父は何ものよりも成らず、造られず、生まれざる永遠の子孫者、子は父より永遠において生まれたもの。(一部抜書)」御子の永遠の生まれは、創造や出生とは違う概念です。ギリシャ語には「ギノマイ」という言葉があります。その本来の意味は「存在するようにする。創造する。なる。」などです。しかし、文法的に使って「創造するようにする原因、ある存在を存在するようにする原因、あるものの発生的な根源」などを含む奥深い表現です。つまり「御父から御子が永遠において生まれた。」という表現は、創造されたとか、生まれたとかの意味ではなく、御子の存在性が永遠において御父の中にあるという意味で、創造された存在ではなく、御父と共に永遠において存在してこられた方であるという意味に解釈するのが正しいです。用語が本当に難しいですが、イエスは時空間が出来るずっと前から父と一緒に存在してこられた真の神であるという意味です。ヨハネによる福音書はこう語ります。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。」(ヨハネ1:1-2) つまり、イエスは神によって造られた普通の被造物とは異なる、最初から神の子として存在しておられた真の神の子であるという意味です。最初から父とおられ、父と創造も共になさった存在であるということです。私たちのような人間は神の被造物として神とは本質的に違う創造された存在です。しかし、主イエスは父と永遠に一緒におられ、最初から御子として存在された方です。そのため、キリスト教の神学では、イエスのことを神の唯一の真の実子であり、キリスト者はキリストによって神に養子縁組された養子だと表現しているのです。これを通じてキリスト者が神の被造物であるため、神を父と呼ぶのではないということが分かります。真の神の実子であるキリストによって神の子とみなされた存在であるということです。真の神の子キリストの犠牲と御救いによって、神を父と呼べない者たちが、神を父と呼べるようになったわけです。もちろん、旧約にも神はご自分の民を父親、あるいは母親の観点から扱われることもあります。「女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。たとえ、女たちが忘れようとも、わたしがあなたを忘れることは決してない。」(イザヤ49:15) しかし、ここでは神がイスラエルの民の創造者として彼らを子供のように考えておられるということであって、イエスのように存在そのものが完全な実子であるという意味ではありません。旧約においての神の子の概念と新約においての神の子の概念は、まったく違う意味を持っていることを忘れないようにしましょう。 3.堂々と神を父と呼べる者たち。 ですから、主は言われたのです。「言っておくが、およそ女から生まれた者のうち、ヨハネより偉大な者はいない。しかし、神の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。」(ルカ7:28) 洗礼者ヨハネは旧約最後の預言者でした。イエスのご到来からは、新約の時代であり、イエスを主と崇める私たちは新約の民です。私たちの中で最も小さな者でも、神はイエス•キリストによって、旧約最後の偉大な預言者である洗礼者ヨハネより、さらに優れた存在として認めてくださるという意味です。ヨハネの時代、すなわち旧約時代には、キリストによって神の養子となったという概念がありませんでした。しかし、新約の民はイエス•キリストによって神の子と認められたのです。養子だからといって、神が私たちのことをニセ息子として思っておられるわけではありません。私たちはよく「キリストは教会の頭、教会はキリストの体」という表現を口にします。つまり、私たちはキリストのものとなった存在です。神は御子イエスを愛されるように、その体となった教会と教会に連なる一人一人をも愛しておられます。まるで、神がキリストを愛しておられるように、キリストの民をも愛しておられるのです。言葉だけ養子であって、実際はキリストに負けないほど私たちは愛されているのです。そんなに愛されていなかったら、父なる神は、独り子を十字架のいけにえとして犠牲されなかったでしょう。私たちはキリストによって、キリストのように神に愛される神の本当の子供になったのです。したがって、私たちは、いつでもどこでも神の子として堂々と立つのが出来るのです。 締め括り コラムデオという言葉をご存知ですか。この言葉はラテン語で「神の前で」という意味です。罪を持った人間は神の御前に立つ瞬間、神聖によって滅ぼされます。しかし、このコラムデオという言葉の裏には「キリストと共に神の前で」という意味が含まれています。神の真の子イエス•キリストによって、主の体となった私たちは、主と共に神の御前に堂々と立つことが出来ます。主イエスを通じて、神の子として生きることが出来るのです。イエスが、この地上に肉となって来られた理由は、まさに私たちを神の子にして神の前に堂々と立たせてくださるためです。そして、私たちは、そのキリストを信じて神の子、キリスト者と呼ばれるようになったのです。「イエスは言われた。…わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る。」(ヨハネ20:17) イエスが復活された朝、以上のように主は言われました。主のご誕生は、まさに私たちに真の父をくださるためです。なぜ神であるキリストが、この地上に来られたのだろうか、なぜ、私たちは神を父と呼べるのだろうか、今日の言葉を通じて、もう一度考えてみる機会になることを願います。

しばらく休むがよい

創世記2章1~3節 (旧2頁) マルコによる福音書 6章30~44節(新72頁) 前置き 人間は忙しい日常を過ごしながらも、適切に休むことを通して生きる力を得る存在です。なぜなら、休みとは単なる余暇活動ではなく、世界を造られた主なる神の摂理の一部であり、主ご自身が被造物に与えてくださった聖なる権利だからです。今日は、聖書の御言葉を通して、キリスト者の人生における「休み」という賜物が、どれほど深く、豊かな意味を持っているのかを話してみたいと思います。 1. 日曜日は教会へ 「日曜日は教会へ」という言葉があります。これは休日である日曜日は教会に来て主なる神に礼拝しょうという教会からの呼びかけです。日曜日が法定祝日ではない日本では会社に出勤する会社員や部活のために登校する生徒をよく見かけます。日曜日が法定祝日ではない国は、イスラム圏や中国の他、いくつかあります。(もちろん、法定祝日ではないが、日本では休日と認識されています。)一方、欧米の諸国では、日曜日を法定祝日としています。日曜日が休日に定められた歴史は遠くローマ帝国時代にまで遡ります。ローマ帝国で日曜日が正式な休日として定着したことには、ローマ帝国の第44代皇帝コンスタンティヌス1世の影響が大きかったです。彼はキリスト教を公認した何年後の西暦321年に「尊厳なる太陽の日を公休日とする」と勅令を出しました。それは当時ローマに存在した太陽神崇拝の日と、その日を礼拝日としていたキリスト者の状況を考慮した政治的な措置でした。皇帝はキリスト教と太陽神崇拝者の要求を政治的に合わせるために太陽の日を公休日にし、そこから日曜日に休む文化がローマ全域に広まったのです。そのため、人々は、その日を「日曜日」と呼ぶようになったのです。 では、この日曜日に礼拝を行うという初代教会の伝統は、どこに由来したのでしょうか?それは、ユダヤ教の「安息日」でした。旧約聖書「創世記」によれば、神は6日間で天地を創造され、7日目に安息されたと書いてあります。それで、ユダヤ教は、この7日目にあたる土曜日を安息日と定め、すべての労働を止め、安息日として守り続けてきました。ユダヤ教の影響を受けたキリスト教はイエス・キリストが復活された安息日の翌日(日曜日)を記念し、その日曜日を「主の日」すなわち「主日」と呼びました。初代のキリスト者たちは、ユダヤ教からの迫害を避け、またユダヤ教との区別のために、次第に日曜日に集まって礼拝を捧げるようになったのです。そして、西暦313年、コンスタンティヌス1世が発布した「ミラノ勅令」により、キリスト教はローマ帝国で公認されました。このような経緯から、コンスタンティヌス1世が太陽神を崇拝する日をキリスト教が礼拝する主日と重ね合わせ、キリスト教の影響により、休日となったのです。したがって「日曜日」は、主なる神に礼拝する日です。ローマ帝国の太陽神「ソル・インヴィクトゥス(無敵の太陽)」を祀る日だったものが、福音によって唯一の主なる神を礼拝する日として新たに生まれ変わったのです。日曜日が「休みの日だから」教会の礼拝に行くわけではありません。「神に礼拝する日だから」休むのです。「日曜日は教会へ」という言葉は、単に休みの日だから教会に来なさいという意味を遥かに超えています。もともと、日曜日が主に礼拝する日であるからこそ、その礼拝のために休み、教会へ来るべきという深い意味が込められているのです。 2.休みの神学 休みにも神学があります。多くの人は、休みをただ働かずにいること、あるいは遊ぶ行為だと考えがちです。特に、労働を重んじる東アジアでは、休みを否定的に考えることも少なからずあるでしょう。現代では休みへの認識が高まったため、十分な休日が確保されていますが、かつて日本が高度成長期を迎え、発展を遂げていた時代には、1ヵ月に一度、二度しか休まずに働き続ける人々もいたと言われます。その結果、過労死で亡くなる人も多かったでしょう。ひょっとすると、この時代の富みは、十分に休むこともなく働き続き、疲れに倒れていった世代の苦労の対価であるかもしれません。私たちはこの発展の実を享受していますが、その裏で犠牲になった方々の苦労を、忘れないで生きるべきでしょう。休みがなければ、労働の価値も光を失います。休みは人間の生において最も重要な価値の一つであり、必ず守るべき人間尊厳の物差しでもあるのです。「第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。」(創世記2章2節) 休み(安息)の神学は、神ご自身の安息から始まります。創造の御業を6日間で完成された神は、第七日に安息されました。神には休みが要りません、被造物に休みの模範を見せてくださったのです。この休みは、創造摂理の大事な要素であり、すべての被造物に与えられた主による権利なのです。 休み(安息)の神学には、三つの重要な教えがあります。①創造秩序の回復:主なる神が創造の時になさったように、労働と安息のバランスを取り、主の創造摂理に従うことです。主は天地創造を終えられた後、安息を通して「わたしが休んだように、あなたがたも休むように」と無言の啓示をくださったのです。②主なる神への信頼:休息は「一日働かなくても主が私を養ってくださる」という信仰告白です。絶え間ない生産性と効率性を追求するこの世で、休息を守ることは、自分の人生の主権が自分ではなく、主なる神にあるということを認める行為なのです。人間は必然的に経済に依存して生きざるを得ません。お金は常に足りなく、お金稼ぎためには絶えず何かをしなければなりません。しかし、一週間のうち一日を完全に休んでも、主が自分の人生を守ってくださるという信頼を通して、主が自分の主人であることを休息によって証明するのです。③社会的な正義と平等:旧約聖書の安息日の戒めは、奴隷、家畜、さらには土地まで休ませることで、すべての被造物が労働から解放されて安息する権利があることを教えています。これは、弱者や貧しい人々を大切にする社会的な正義の基礎となるものです。 3.キリストは休みをくださる方 新約の本文を読んでみましょう。「さて、使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した。イエスは、「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と言われた。出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。」(マルコ6:30〜31)6章7節では、主イエスが弟子たちを二人ずつ組して、伝道の旅に立つことを命じられました。どれくらいの期間だったかは分かりませんが、8節から9節で「旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、ただ履物は履くように、そして「下着は二枚着てはならない」と命じられた。」とあるように、弟子たちはかなり過酷な旅路を経験したに違いありません。30節で、彼らは戻ってきて、主イエスに事の次第を報告しました。その時、イエスは彼らを休ませられたのです。主ご自身は多用の中、苦しむ人々を助けておられましたが、旅から戻った弟子たちには休息を取るようにと勧められたのです。この箇所に直接つながっているのが今日の新約本文の後半に出てくる五つのパンと二匹の魚の奇跡です。弟子たちの休みと、その奇跡が直結していることに深い意味を感じます。主から休みをいただいた弟子たちは、その後、主と共に、この世から傷つき、苦しんでいる大勢の人々のための偉大な奇跡に加わることになったのです。 そして、その結果、成人男性だけで5,000人(女性、高齢者、子供まで含めると3万人以上と推定)が食べ、なお12のかごが残ったのです。この奇跡は、旧約聖書の出エジプト記に出てくるマナの奇跡を思い起こさせるしるしです。主なる神は、出エジプト後にイスラエル民族を荒野の険しい道へと導かれながらも、彼らにマナという日用の糧をくださいました。それはイスラエル民族がエジプトの奴隷として生きていた時の「働かなければ死ぬ」という奴隷の考え方から脱し、彼らの真の主である神が命と死を支配しておられる絶対者であることを悟らせてくだあるためでした。そのため、主は6日間は、毎朝マナを集めるように働かせましたが、安息日には6日目に二倍のマナを与え、彼らを休ませてくださいました。このように、主イエスもまた疲れ、重荷を負った人々を呼び集められ、食べ物を与えてくださることで、旧約における神の御業を思い起こさせ、彼らに安息をくださったのです。そして、先に休みを得た弟子たちは、群衆への主イエスの「休ませる」という御業に直接かかわり、主の証人となりました。主イエスは人々を休ませてくださる方です。休みを通して神の御業に気付かさせ、ご自分の民のために、最後まで責任を持って導かれるお方であることを教えてくださるのです。 締め括り 休みは、単なる肉体のリラックスや遊びではありません。それは、日々の忙しさから離れ、自分自身を顧み直し、心身共に回復するための霊的な行為です。肉体的な疲れがなくても、人生の重荷が精神的な疲れとなって私たちを苦しめることがあります。そのような時こそ、私たちは意識的に休み、心の安らぎを求める必要があります。休みの間、祈りと黙想によって分自身を顧み、健全な信仰において人生を満たしていくべきです。休みは、主なる神の摂理の一つです。適切な休みは、私たちが健全に、そして豊かに人生を過ごせるために不可欠です。私たちは皆、神が与えられた休みという恵みに感謝し、適切に休みつつ生きるべきです。

大祭司の祈り

民数記6章24~26節 (旧221頁) ヨハネによる福音書 17章1~26節(新202頁) 前置き ヨハネによる福音書17章は「大祭司の祈り」と呼ばれる箇所です。祈っておられる主イエスを通じて、いと高き主なる神と罪に汚された人間の間に立ち、神の怒りをしずめ、主の民を清める旧約の大祭司の姿が重なって見えてくるからです。特に主イエスは3つの部分に分かれている17章のお祈りを通して、1-5節主イエスご自身のための祈り、6-19弟子たちのための祈り、20-26全人類のための祈りを父なる神にささげておられます。今日は本文の言葉を通して、主イエス・キリストが私たちをいかに愛しておられるのか、主イエスが私たちにとって、どのようなお方なのかについて話したいと思います。 1.主ご自身のための祈り。 主イエスは、主の民と人類のために祈る前に、まずご自身のためにお祈りになりました。愛の主が、なぜ他人ではなく、先にご自分のために祈られたでしょうか?今日の本文では、主イエスが御父にご自分に栄光を求める場面が出てきます。私たちは、この栄光を誤解してはなりません。これは自分の欲望を満たす世俗的な意味としての栄光ではありません。ヨハネによる福音書での栄光は「御子の本質」のことです。主イエスの栄光は「主イエスの本質」つまり、主イエスが存在する理由にあります。主イエスは、罪に汚され、死ぬに決まっているご自分の民を救われるために来られました。つまり、主イエスの栄光は救いのための十字架での死でした。その過酷で、屈辱的な苦難が主イエスの「自分らしくいる様」つまり栄光だったのです。ところで、主イエスは天地創造の前から、すでにその栄光を持っておられたようです。「父よ、今、御前でわたしに栄光を与えてください。世界が造られる前に、わたしが御もとで持っていた、あの栄光を。」(ヨハネ17:5) ここで、私たちは創造の前から民を罪から救うために御子の犠牲が定まっていたというのが分かります。御子イエスが十字架で罪人のために死ぬことが、創造の前からの御子の栄光であるという意味です。主イエスは、このような栄光という名の苦難を乗り切るために、まず父なる神に祈られたのです。「あなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになりました。そのために、子はあなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです。」(ヨハネ17:2) 主イエスは、この苦難の終わりにご自分の民に与えられる永遠の命のために世界を治める真の王として復活されるでしょう。父なる神は、ご自分の死によって栄光を輝かせられた主イエスを復活させられ、主イエスの栄光を完成してくださるでしょう。主イエスのご自身のための祈りは、父なる神の栄光、ご自分の栄光、そして、民の救いのための祈りだったのです。 2.弟子たちのための祈り 辞書を引いてみると弟子という言葉について「先生に教えを受ける人」と書いてあります。つまり、教育を受ける人です。教育とは、心と体の知識を得るため、すなわち知るための行為です。弟子は「知るために」先生に従う人です。それでは、主イエスの弟子は果たして何を知るべきでしょうか。「永遠の命とは、唯一の真の神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」(ヨハネ福音17:3) 使徒ヨハネは真の神と主イエスを知るべきだと語りました。ところで、この「知る」ことによって、何が得られますでしょうか。聖書は永遠の命を得ると教えます。主イエスのお教えを受けた者は、神がどなたなのか、主イエスがどんな方なのか、知ることになります。そして、それを知る結果は永遠の命です。これは主イエスの弟子だけが得られる恵みです。十二弟子だけが主イエスの弟子ではありません。主を信じ、その方を知る人みんなが主の弟子になるのです。 ヨハネ17:3での「知ること」は、単純な知識のことではありません。聖書において「知ること」は、夫婦関係のように密接な関係を結ぶことを意味します。神との関係を結び、信頼するのが、神を知ることです。「神を知ること」とは、すなわち「神を信じる」と言い換えることが出来ます。永遠の命とは、唯一の真の神と、神から遣わされたイエス・キリストを信じることです。そのために、主イエスは2番目に弟子の信仰のために祈られたのです。「わたしはあなたから受けた言葉を彼らに伝え、彼らはそれを受け入れて、わたしがみもとから出て来たことを本当に知り、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じたからです。」(ヨハネ17:8)「わたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。」(ヨハネ17:11) 主は、キリストに御言葉を教えて頂き神様とイエス・キリストが誰なのかを知り、信じるようになった弟子たちを、神様が最後まで守ってくださることを祈り願われたのです。 3.全人類のための祈り また、主はご自分の民だけでなく、すべての人類のためにも祈ってくださいました。「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります。」(ヨハネ17:21) 主イエスは、主を信じない人をみんな地獄に投げられ、主を信じる人だけを憐れむ方ではありません。この世界のすべての人々が主を知り、神を信じることが、主イエスの夢だといっても過言ではないでしょう。「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。」(テモテ一2:4) なぜなら、世界のすべての人々が主イエスを信じる潜在性を持っているからです。神がお選びくださらなかったら、誰がキリスト者になれたでしょうか。主なる神が信仰をくださったので、私たちが主イエスを信じるようになり、そのイエスを信じることによって、神を知ることになったことを忘れてはならないでしょう。主なる神は、世界のすべての人々が主イエスを信じることを望んでおられます。神の御心は信者と未信者を問わず、イエス・キリストを通して、全ての人々に開かれています。主は今日も彼らのために教会の頭として、教会を通して福音を宣べ伝えさせておられます。 締め括り 今日の旧約本文に、大祭司アロンが神の代わりにイスラエルの民に祝福を伝える場面が出てきます。「主があなたを祝福し、あなたを守られるように。主が御顔を向けてあなたを照らし、あなたに恵みを与えられるように。主が御顔をあなたに向けて、あなたに平安を賜るように。」(民数記6:24~26) アロンと比べられない真の大祭司である主イエスは、今でも父なる神にご自分の民のために祈ってくださいます。神と人間の間を執り成す大祭司は、神の祝福を民に伝え、民の祈りを神に伝える非常に大事な存在です。主なる神はイエス・キリストを通して私たちに祝福をくださいます。そのような神の御心をイエス・キリストが知っておられ、御心が成し遂げられるように祈られたのです。また、民からの願いや祈りも主イエスを通して、神様に捧げられるでしょう。イエス・キリストは私たちの大祭司です。主は今現在も御父の右から大祭司としてお祈りくださるでしょう。その恵みに感謝する志免教会の兄弟姉妹でありますよう祈り願います。