アルファであり、オメガである。

イザヤ書 44章6-8節 (旧1133頁) ヨハネの黙示録 1章3-8節(新452頁) 今日は2025年の最後の主日です。今年も世界にはさまざまな出来事がありました。そのたびに私たちは心配の中に生きなければなりませんでした。それにもかかわらず、すべての教会員がお互いに愛し合い、謙虚に教会に仕えながら、今まで生きてきたと思います。確かに心配事が沢山ありましたが、それでも、喜びの中で今年の終わりを迎えるようになり、主なる神に感謝します。今まで私たちを守ってくださり、共に歩んでくださった主に感謝と賛美をささげる年末であるよう祈り願います。このすべての恵みが主からいただいたものであると信じます。 1.苦難の中にも、神の御言葉が共にあります。 ヨハネの黙示録は解釈が難しい聖書です。ほとんどの言葉が象徴的に記され、それらが何を意味するのかが分かりにくいです。しかし、黙示録の中心的な内容はとても明らかです。「この預言の言葉を朗読する人と、これを聞いて、中に記されたことを守る人たちとは幸いである。」(黙示録1:3)主の御言葉を知ろうとする者、その御言葉を守ろうとする者は幸いな者であるというのが黙示録の中心的な内容です。つまり主の御言葉に聞き従う者は祝福されるという意味でしょう。ここでの祝福は、お金持ちになったり、名誉を得たりする世俗の祝福とは異なります。主に選ばれ、お守りと愛のもとに生きる霊的な祝福なのです。主の民が御言葉に聞き従い、その御言葉通りに生きようとするとき、主は祝福を限りなく注いでくださるのです。ヨハネの黙示録は西暦90年頃、記されたと知られています。当時のローマ皇帝はドミティアヌスという人でした。彼は残酷な独裁者で、暴政をしきながら、自分が主であり、神であると宣言しました。ひとえにイエス・キリストだけが主であり、神であると告白するキリスト者たちを残酷に迫害した者です。その時、苦難を受けている教会に慰めと希望を与えてくださるために、主イエスが使徒ヨハネを通してくださった言葉が、この黙示録であるのです。 主イエスの時代、主イエスが復活され、父なる神の右に座しておられ、聖霊なる神をお遣わしくださいましたが、地上のキリスト者は依然として迫害にさらされていました。むしろ、主を信じれば信じるほど、さらに辛くなりました。大勢のキリスト者が信仰を告白したゆえに、殺されてしまいました。それでも、キリスト者は、御言葉に頼り、世に立ち向かって生きました。主の御言葉には脅威と恐怖を圧倒する力があったからです。私たちがこの世に生まれ、生きる間、苦難は常に私たちと近くあります。時には、大きな罪を犯したこともないのに、苦難にあったり、誠実に生きて来たのに、失敗したりすることもあります。逆に他人を苦しめ、自分だけのために生きる人が、安らかに生きることもあり、理不尽と不法が蔓延っている場合も多々あります。しかし、今日の本文を通して主は言われます。「記されたことを守る人たちとは幸いである。」現状と世の理不尽に絶望しないで、変わらない主の御言葉から聞き、主に信頼する者は幸いです。永遠にありそうな世の不条理の終わりに、主なる神の恐ろしい裁きがあるからです。その時は、すぐに来るでしょう。その日が来れば、主はご自分の民のすべての苦難と辛さを慰めてくださり、報いてくださるでしょう。 2.恵みと平和の主が私たちを導いてくださる。 新しい一年を迎えると、期待と共に恐れもあります。来年の今ごろ、私はどう生きているだろうか。生きてはいるだろうか。明日、何が起こるか、私たちは到底予想できません。それが人生の漠然さでしょう。もし、明日、いきなり主が私たちを召されれば、私たちは、主のみもとに帰らなければなりません。私たちが一日を生きていることは、生命力が強いからではなく、毎日、主が私たちの命の延長を許してくださるからです。来年の年末ごろ、私たちは生きてはいるでしょうか。死を考えると本当に怖いです。もちろん、主のみもとに帰るという信仰がありますが、死が恐ろしいのは変わりません。2019年の12月、来日から一年経った時、車の事故にあったことがあります。事故当時、私の車は10メートル以上飛ばされ、車は完全に壊れました。事故にあった際「ああ、これが事故なのか。このまま死ぬのか。」と思いました。もし、運転席が反対側だったら、私は確実に死んだと思います。しかし、主は私を生かしてくださいました。幸いにも、膝の打撲傷で終わり、整形外科でリハビリを受けましたが、後遺症なく、全快しました。私が、その時死なず、今まで生きている理由は何でしょうか。まだ、主からの使命が残ってあるため、命を延ばしていただいたからではないでしょうか。 主なる神は主からいただいた使命を果たさせてくださるために、ご自分の民を生かし、導いてくださり、お守りくださる方です。ですので、私たちは一歩一歩を導かれる主の愛と恵みとを信じ、感謝しつつ生きるべきです。黙示録が記された時代、多くのキリスト者が殺されてしまいましたが、それにもかかわらず、主の教会は生き残って迫害と苦難をたくましく乗り越え、福音を宣べ伝えました。主は苦難の中でも恵みと平和とによって、主の教会を導いてくださったのです。「今おられ、かつておられ、やがて来られる方から、また、玉座の前におられる七つの霊から、更に、証人、誠実な方、死者の中から最初に復活した方、地上の王たちの支配者、イエス・キリストから恵みと平和があなたがたにあるように。」(黙示録1:4-5) この世は恐ろしいところです。しかし、私たちは使命を達成するまで、命を保たせてくださる主と共に生きています。永遠におられる父なる神、七つ(完全さ)として表現された聖霊と、世の王たちの支配者であるイエス・キリストが私たちと共に、永遠に歩んでくださるからです。 3.主はアルファであり、オメガである。 なぜ、キリスト者が苦難の中におり、また死の恐怖にさらされる時にも、主は私たちの命を守り、最後まで生き残らせ、使命を果たすように導いてくださいますでしょうか。それは、主こそがアルファであり、オメガ、つまり、万物の始まりであり、終わりであるからです。「神である主、今おられ、かつておられ、やがて来られる方、全能者がこう言われる。私はアルファであり、オメガである。」(黙示録1:8) ギリシャ語で「始まり」を意味する「アルケー」は「開始」という意味と同時に「根本」という意味をも持っています。また、ギリシャ語で「終わり」を意味する「テロス」は「終わり」という意味と同時に「完成」という意味をも持っています。つまり、アルファとオメガという言葉は、創造から終末までを意味するものであり、創造と終末が持っている永遠さと無限さの主である神が、私たちの主であることを古代ギリシャ風に示したものです。聖書はこれを旧約でも強調しています。「イスラエルの王である主、イスラエルを贖う万軍の主は、こう言われる。私は初めであり、終わりである。私をおいて神はない。」(イザヤ44章6節) イザヤ書44章は偶像崇拝、悪行などにより神に見捨てられ、バビロンに捕えられたイスラエル民族が、主によって解放され、主に再び機会をいただいた時、宣言された希望の言葉です。 当時のバビロンは強い帝国でしたが、さらに強力なペルシャに滅ぼされました。しかし、その強力なペルシャでさえ、主の御手に用いられました。「ペルシアの王キュロスはこう言う。天にいます神、主は、地上のすべての国を私に賜った。この主がユダのエルサレムに御自分の神殿を建てることを私に命じられた。あなたたちの中で主の民に属する者はだれでも、上って行くがよい。」(歴代誌下36:23) 天地万物の始まりと終わりである主なる神は、どんな強力な存在でも逆らえない偉大な方です。巨大なペルシャの皇帝キュロスさえも、主のご命令の前では、取るに足らない被造物に過ぎなかったのです。神は王の中の王であり、神の中の神であられたからです。ところで、この大いなる神は今日の御言葉によって、イエス・キリストを通して、弱い民を選ばれ、罪から解放させ、彼らを王として、父である神に仕える祭司として生きさせてくださると約束されました。これは大いなる神が小さな民をお選びくださり、彼らのアルファとオメガになられ、最後まで一緒におられるという大事な意味です。キリスト者が出会う苦難と死は、キリスト者自らの力では乗り切ることの出来ない恐ろしいものです。しかし、その苦難と死さえも、主の御手の中にあることを信じれば、私たちは主によって克服するようになるでしょう。 締め括り 今年の終わりが近づいています。今年、たくさんの出来事がありました。しかし、私たちは無事に年末を迎えるようになりました。何一つ主の恵みでなかったことがありますでしょうか。主に感謝します。私たちの心配と不安の中で一緒におられた主が私たちを助けてくださり、無事に終わりを迎えさせてくださいました。誰かには、まだ苦難と心配が残っているかもしれませんが、アルファであり、オメガである主は、変わりなく私たちの歩みにともにいてくださるでしょう。 その主に希望をおいて、今年を終わり、喜びの新年を迎えたいと思います。2026年にも主による平和と祝福が私たちの上にありますよう祈り願います。

インマヌエル

マタイによる福音書 1章18~25節 (新2頁) 前置き 今日の礼拝は、全人類の救い主であられる主イエス・キリストのご降誕を記念するクリスマス記念礼拝です。毎年迎えるクリスマスですが、今年、私たちが向き合う降誕の意味はさらに格別です。アメリカと中国の貿易戦争、終わらないウクライナとロシアの戦争、日本と中国の対立、そして隣国の韓国では権力掌握のための戒厳令があり、今は裁判中であります。その他、世界の各地で数多くの大小様々な紛争がありました。世界は依然として混乱しており、個人の生活にもそれぞれの苦しみと霊的な渇きがあると思います。このような時、キリスト者である私たちが改めて貫く真理はたった一つです。それは「主が私たちと共におられる」というインマヌエルの約束です。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」インマヌエルを訳すると「主が私たちと共におられる」という意味になります。この言葉はキリスト教信仰の核心とも言える重要な教えです。今日はこの御言葉を通じて、主なる神が私たちと共に歩んでおられること、そして主イエス・キリストのご降誕の意味について話してみたいと思います。 1. 苦しみの中に共におられる神 主イエスのご誕生は、人間的に考えると、一人の人間の「苦しみ」から始まりました。本日の本文に登場する主イエスの父ヨセフはダビデの子孫でした。そして妻のマリアも系図上、同じくダビデの子孫でした。ダビデはイスラエル史上、最も偉大な王と言われる者でしたが、長い年月が流れる中で、その子孫はかなり衰退し、王族とは呼べない普通のイスラエルの民になっていました。しかし、ヨセフとマリアは偉大な王の子孫にふさわしく、気品があり善良な人々でした。彼らは貧しかったですが、他人に恥じることのない人々でした。ところが、ある日、あまりにも苦しい出来事が起きてしまいました。婚約した二人のうち、マリアが結婚の前に妊娠してしまったからです。当時のユダヤ社会において、婚約した女性が夫以外の誰かの子を身ごもると、石打ちにされて死ぬこともある重い罪になりました。それだけでなく、夫の立場からも屈辱的なことでした。ヨセフにとってこの状況は理解しがたい裏切りであり、人生最大の危機でした。しかし、19節は、このヨセフを「正しい人」と語っています。正しい人である彼は、マリアのことを表沙汰にして彼女を懲らしめずに、ただ密かに縁を切ろうとしました。ところが、その瞬間、主なる神の啓示が与えられました。 「このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。」(20節)ヨセフはマリアに対しては裏切られた気持ちを、自分に対しては無力な気持ちを感じていたでしょう。その時、夢に現れた主の御使いは驚くべきことを言いました。「マリアの子は不義の子ではない。主なる神が聖霊を通してくださった特別な方なのだ。」婚約者の不貞と誤解していたヨセフは、夢で啓示を聞いた瞬間、さっぱりした気持ちで婚約者を見直すことになったでしょう。おそらく以前、彼女は受胎の経緯をヨセフに打ち明けたはずです(ルカ1:26-38)。しかし、ヨセフはそれが信じられなかったでしょう。ところが、主なる神が自分の妻を通して偉大な人物を聖霊によって宿されたというのですから、もはや以前ほど戸惑ってはなかったでしょう。主はヨセフの苦しみと戸惑いをすでにご存知でおられる方でした。ヨセフの苦しみは心痛かったのですが、主の摂理の中でその苦しみはメシアの誕生という恵みへと繋がりました。時には、到底理解できない苦難が襲ってきます。経済の危機、不和、病気など、私たちを苦しめることがあり得ます。しかし、主はそれらの苦難の中に共におられ(インマヌエル)より良い結果へと私たちを導いてくださるでしょう。ヨセフの夢に現れたように、主はご自分の民の苦しみの中で語られます。「恐れるな、わたしがあなたと共にいる。」 2. インマヌエル — 主が私たちと共におられる インマヌエルとはヘブライ語で「主が私たちと共におられる」という意味です。「イン(イム)」は「共に」「ヌ」は「私たち」「エル」は「神」意味します。「イン(イム)」と「ヌ」がくっついて「インマヌ」と変わり、そこに神を意味する「エル」が付いて「インマヌエル」となるのです。それでは、「主が私たちと共におられる」ということには、どのような意味が込められているのでしょうか。新約聖書のローマの信徒への手紙にはこのような言葉があります。「滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替えたのです。そこで神は、彼らが心の欲望によって不潔なことをするにまかせられ、そのため、彼らは互いにその体を辱めました。」(ローマ1:23-24) 聖書はこの世界を主なる神が創造されたと創世記を通して証ししています。しかし、創造の中心である最初の人間の罪によって、人間は堕落のほだしに陥り、それによってこの世界も罪の影響で汚されたと証ししています。そのような罪の性質を持った人間は、神を主と認めず、自らが主となって自分の欲望に従って世界を乱し、神ではない他の存在を偶像として自分勝手に生き、結局滅ぼされることになりました。主なる神は罪の性質を持つ人間への裁きとして「彼らが心の欲望によって不潔なことをするにまかせられ」つまり、罪人のままに放っておかれました。ということで、この世は常に悪へと走り、正義よりも不義が満ちる世界となったのです。 しかし、主が私たちと共におられるというのは、もはやこの世界を汚れの中に放っておかれるのではなく、積極的に関わって正しく導いていかれるという強い意志の表明なのです。主はそのために、ご自分の独り子をこの世に遣わしてくださったのです。21節で主の御使いはマリアが身ごもった子の名前を教えます。「その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」「イエス」は「神は救いである」という意味です。インマヌエルの目的は人間と世界の「救い」なのです。世の中の人々はクリスマスを単なる西洋の祭りだと思います。しかし、クリスマスの本質は、人類の最も根本的な問題である「罪」を解決するために、神ご自身が人間の間に来られたということです。人間は自分自身を救うことができません。自分の罪を解決する力が人間にはないからです。ですから、主なる神はインマヌエル、すなわち私たちの傍らに、ご自分の独り子(三位一体)を遣わされ、罪人の代わりに罪の償いにされたのです。クリスマスは、主なる神が他人事のように「頑張れ」とただ励ます日ではありません。泥沼のような私たちの人生の中に直接関わってくださり、私たちの手を握って救い出してくださったことを記念する日なのです。主が私たちと共におられる理由は、私たちの救いに積極的に関わってくださるためです。主が私たちと共におられるというインマヌエルの約束には、このような意味が隠されているのです。 3. 御言葉の成就 インマヌエルは神の御言葉の成就の結果です。本文22節と23節は、これらすべての出来事が偶然ではなく、主の緻密な計画と約束の成就であることを示しています。「このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばる。」(マタイ1:22-23) 旧約聖書にはこのような言葉があります。「それゆえ、わたしの主が御自らあなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。」(イザヤ7:14) この言葉は、周辺諸国の武力挑発によって混乱の中にあるイスラエルを助け救うという主なる神の救いの御言葉でしたが、その当時だけに限らない、ご自分の民に向けた主の御心が込められた救いの宣言でもあります。 また、この言葉は数百年という年月を経て、ヨセフとマリアを通して再び主の民に与えられた救いの宣言でもあります。そして、この言葉はイエス・キリストのご誕生によって成し遂げられました。主なる神は聖書の御言葉を通じて私たちに「わたしはあなたを離れない。共にいてあなたを守る」と約束されました。「インマヌエル」という言葉は、主なる神の変わることのない誠実さを象徴しています。世の約束は状況によって変わり、人の心は葦のように揺れ動きますが、主の約束は永遠に変わりません。インマヌエルはただの感情的な慰めではありません。それは「宇宙の創り主がご自分の民の味方となり、彼らの傍らに立っておられる」という厳然たる事実なのです。24節でヨセフは眠りから覚め、主の御使いに命じられた通りにマリアを迎え入れました。主なる神の約束を信じたからこそ、彼は恐れを乗り越え、従順に従うことができました。私たちもこのインマヌエルの約束を信じる時、世に打ち勝つ大胆さを主からいただくことでしょう。 締めくくり 私たちは毎年12月になると、クリスマスを準備し、クリスマス記念礼拝を捧げます。人生の中で数十回も迎えてきたクリスマスであるため、その感激はそれほど大きくないかもしれません。あまりにも慣れ親しんでいるからです。しかし、主なる神は独り子イエス・キリストをこの地上に遣わされることによって、主の民の人生に深く関わられました。そして、その御業を誰よりも喜んでおられるでしょう。主イエスを自分の救い主と告白し、その方によって神を信じる者は、主なる神の責任ある守りによって永遠に導かれることでしょう。年一度のクリスマスですが、私たちはこの期間を通して、なぜ主イエスが人間になられたのか、なぜ私たちの罪のために代わりに死んでくださったのか、なぜ私たちは毎年このクリスマスを記念すべきなのかを、憶え、振り返る機会となることを願います。

主イエスの御働き

イザヤ書61章1〜4節 (旧1162頁) マルコによる福音書 1章29~45節 (新61頁) 前置き 主イエスは洗礼者ヨハネの洗礼と荒野での試練を期して、公生涯すなわちキリストとしての人生を始められました。その後、主イエスは神の国の到来を告げ知らせ、弟子たちを呼び出し、救いのための本格的な旅に出られました。その最初のしるしは、汚れた霊に取り付かれた人から悪霊を追い出してくださることでした。悪霊が追い出すしるしの意味は、死の支配にある世に、主なる神のご統治が到来することの象徴でした。「しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。」(マタイ12:28)つまり、悪霊を追い出された最初の御働きは、罪のため、滅びるべきこの世に主イエスによる新しい希望がもたらされるという象徴でした。今日の本文も、そのような新しい希望のための主イエスの御働きを描いています。今日の本文を通して主イエスの御働きについて話してみましょう。 1.主イエスという方。 主イエスはどんなお方でしょうか。キリスト教の教理では、このイエスが真の神でありながら、真の人であると教えています。それでは、まず、真の人間であるイエスについて話してみましょう。主イエスの時代のイスラエルには、イエスという名前が珍しくなかったと言われます。旧約の有名な人物の一人であるヨシュアに由来した名前だったからです。ヨシュアは「神の救い」という意味です。ヨシュアという名前は、時には「ホセア」や「イエス」とも呼ばれましたが、それらも「神の救い」という意味を持っていました。以後、主イエスは罪人の贖いのために十字架で処刑されましたが、ユダヤ教では、イエスが神に呪われて死んだと信じていました。そういうわけで、ユダヤ教では、イエスという名前を不浄に思い、タブー視したそうです。主イエスはベツレヘム出身のヨセフとマリアの長男でしたが、二人の祖先は共通して、ダビデ王だったと言われます。そのため、聖書は主イエスをダビデの子孫であると証しています。主イエスは公生涯が始まる時まで、家族と一緒に暮らし、大工を生業と生きてこられました。主イエスは30歳になった時から、ナザレを離れ、公生涯を始められたのです。 また、イエスは初めからおられた神でもあられます。私たちが三位一体と呼んでいる神は、御父、御子、聖霊の三位がおひとりの神としておられる方です。この三位一体は、世界が造られる前からおられ、世界の創造、維持、終末までの、すべてを司られる神です。三位一体なる神は、各自、限りの無い権能を持っておられますが、自ら謙虚になられ、お互いに協力し合い、神の摂理に従って、この世を治めておられる方です。そのような神のご統治は、今でも移り変わりなく、これからも永遠に続くでしょう。御父は、すべてをご計画される方です。御子は父なる神の御言葉、すなわち神のご意志でいらっしゃり、神の計画をこの世に啓示される方です。そして、聖霊は、その御父のご計画を御子の啓示によって、この世に成し遂げられる方です。主イエスが真な神でありながら、真の人間であるという意味は、神の全能さと人の弱さをすべて知っておられ、神と人の間で完全な執り成しがお出来になるということを意味します。イエスの御働きは、これらの真の神でありながら、真の人であるという、神と人への完全な知識にあって、この世を新たにしつつ、回復させる救いのお働きなのです。 2.イエス・キリストの御働き それでは、主イエスは、どんなお働きをなさったのでしょうか。私たちは今日の本文を通して、主イエスが3つのお働きをなさったことが分かります。一つ目に、イエスが癒しをなさったということです。 「シモンのしゅうとめが熱を出して寝ていたので、人々は早速、彼女のことをイエスに話した。 イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした。」(1:30-31)主イエスの時代のユダヤ地域は、邪悪な王の支配とローマ帝国の圧政のゆえに、力と富のある人々には住みやすい所でしたが、貧しくて弱い人々には、ますます苦しくなる所でした。神は旧約聖書を通して、常に貧しくて弱い者たちの世話を見なさいと命じられました。また、貧富の格差を無くし、誰もが神のご支配のもとで平和に生きる世界を追求するイスラエルをお望みになりました。しかし、イエスの時代は、そのような神の御意志とは、遠ざかっていました。王と総督は自分の力と富だけを貪り、宗教指導者たちも変わるところがありませんでした。 主イエスが、この地上に来られ、病人を癒し、悪霊を追い出し、弱者と一緒におられたというのは、そのような世の風潮に真正面から抵抗する行為でした。主イエスは貧しい弟子の家族を癒してくださることから、あらゆる病人を治され、人を苦しめる悪魔を追い出され、罪人を清めてくださいました。 「重い皮膚病を患っている人が、イエスのところに来てひざまずいて願い、御心ならば、わたしを清くすることがおできになりますと言った。 イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、よろしい。清くなれと言われると、 たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった。 」(1:40-42)主イエスのお癒しは、真の王でいらっしゃる神が、イエスを通して、弱者と一緒におられることを積極的に示す行為でした。最も高いところから来られた主イエスは、最も低いところに自ら臨まれて、慰めてくださり、癒してくださって、主なる神が民の間におられることを証明されました。 二つ目に、主イエスは宣教されました。 「イエスは言われた。近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」(38)今日の本文に宣教と訳された言葉は、ギリシャ語で「ケリュッソ」と言いますが「宣言する、述べ伝える、告げる。」などを意味します。つまり、今日の本文の「宣教する」は、主イエスの説教、あるいは宣言として訳することが出来ます。この「ケリュッソ」という言葉から、キリストによる救い、罪の赦し、恵みなどを述べ伝えるという意味の「ケリュグマ」が由来しました。主イエスが病人を癒され、悪霊を追い出された理由は、神の国がこの地上に臨んだということを宣言する宣教のためでした。主イエスは、この宣教のために、神から人間となられたわけです。ただ、癒しばかり、悪霊の追い出しばかり、糧の配りばかりで、主イエスのお働きが終わったなら、主の御働きは中途半端になってしまったに違いありません。主が癒してくださった理由は、その癒しと伴う宣教を通して、人々が主イエスを信じて、神を知り、神の国に民へと導いてくださるためだったのです。 三つ目に、イエスは教えてくださいました。「だれにも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい。」(44)主イエスは癒されるために、主のところに来た重い皮膚病を患っている人を清めてくださり、それから彼が何をすべきかを教えてくださいました。主はレビ記の御言葉に基づいて、回復された人の在り方を教えてくださったのです。主は旧約聖書の言葉をないがしろになさらず、その言葉に応じ、祭司のところに行ってモーセが定めたものを献げ、人々に証明してと命じられました。主は聖書の御言葉を生活の中で適用するように、導かれ、治った人が御言葉のように行なうことを望まれたのです。主イエスは癒しと共に御言葉を教えてくださる方です。癒しを通して体と生活を新たにしてくださり、御言葉の教えを通して、信仰を強めてくださいます。主イエスは今でも聖書の説教と、個人の黙想を通して、御心を教え、信徒の行くべき道を教えてくださるのです。 締め括り 「主はわたしに油を注ぎ、主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして、貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み、捕らわれ人には自由を、つながれている人には解放を告知させるために。」(イザヤ61:1) イザヤ書は、かつて神に油注がれたメシアが到来し、貧しくて弱い者たちを救い、慰めてくださると予告しました。主イエスがこの地に来られ、御働きを行われたのは、このようなメシアの到来を実際に証明することでした。主はお癒しを通して、弱い者を立ててくださり、宣教なさることを通して、主の救いを知らせてくださいました。そして教えてくださることを通して、信者の在り方を教えてくださいました。この主の3つの御働きが、キリストの教会が貫くべき働きであると思います。教会は主の体なる共同体です。世を愛された主のご意志を受け継ぐ群れなのです。だからこそ、主イエスが再び来られる日まで、主に倣って、教会は働きつづくべきです。

アドベントの意味

イザヤ書65章17-25節(旧1168頁) ペトロの手紙二3章8-13節(新439頁) 前置き アドベント即ち待降節の時になると、多くの教会がクリスマス飾り、4本のロウソクなどを用意し、主イエスのご降誕を祝います。また、クリスマスまでの約1ヶ月間、天の玉座から低い地上の飼い葉桶までおいでになった赤ん坊イエスを待ち望みつつ、聖書の黙想と祈り、教派によっては断食などを通して、 イエスのご誕生を記念します。それゆえに、多くの人々がこの待降節を主イエスのご誕生だけのための準備期間として理解しがちだと思います。しかし、待降節が持つ大事な意味は、単に受肉してお生まれになった初臨のイエスだけでなく、いつか再び臨まれる再臨の主イエスをも共に記念することにあります。したがって、待降節は主イエスのご誕生とともに、再臨される主イエスを記念する期間でもあります。昔、主イエスはなぜこの地上にお生まれになり、将来、主イエスはなぜこの地上にまたおいでになられるのでしょうか。今日はアドベントの意味を通して、おいでになったイエスと、おいでになるイエスについて話してみましょう。 1.待降節の起源と意味 現代は、太陽暦を使用して1年を数えています。しかし、古代と中世の教会はキリストの生涯、特にクリスマスとイースターを中心とした教会暦によって1年を数えたと言われます。教会暦によると、待降節が始まる主日が1年の初日だったそうです。つまり教会暦は主イエスのご誕生を期して1年間を始めたということです。日本の教会では待降節をアドベントと呼んでいます。待降節、つまり「主のご到来を待つ期間」という良い漢字語の表現があるのに、なぜ人々は、あえて外来語を使用しているのでしょうか。「アドベント」は「到来」を意味するラテンAdventus(アドベントス)に由来します。主イエスのご到来を記念しようという意味で、外来語をそのまま借用したので、今でもアドベントという表現を使っているのです。というわけで、アドベントの意味を知らずに、漠然と使っている人が多いでしょう。しかし、大丈夫です。アドベントは外来語ですが、その意味だけは待降節とまったく変わりがないからです。大事なのは、救いと平和の主イエス・キリストが、この地上にご到来なさったこと、それを憶えるにあるのではないでしょうか。 もともと待降節は、キリストの神性が、公に現れたことを記念する公現祭の準備期間だったと言われます。公現祭とは、貧しい大工の息子として、お生まれになった赤ん坊イエスのところに、東方からの占星術学者たちが訪れ、主イエスの出生が、実はいと高き神の子の顕現であることを、この世に公に現したことを記念する日なのです。待降節は、この公現祭を記念する期間だったのです。そのような待降節が時の経つにつれてクリスマスを記念する日と変わったわけです。教会は、最初はキリストのご誕生だけを記念して待降節を過ごしましたが、西暦6-7世紀頃に再臨のイエスへの待ち望みの意味も付け加えて、今の待降節はイエスの初臨と再臨を共に記念する意味を持つようになったと言われます。とにかく、待降節はイエスのご到来を記念する重要な期間です。日本ではクリスマスがハロウィンのように外国からの祭りとして、軽く取り扱われているようです。しかし、主の教会は、待降節の期間を通して、御救いのために初めて臨まれた主、また御裁きのために再び臨まれる主を憶えつつ慎んで過ごすべきでしょう。かつて、この地上に来られ、罪によって苦しんでいる人間を愛し、赦してくださった主の御救いと平和を憶え、また、やがて、再び来られる主の公平な御裁きを待ち望みつつ、この期間を過ごしましょう。 2.キリストの初臨 – 約束のメシアがおいでになる。 キリストのご誕生が大事な理由は、旧約のメシア信仰の成就という大きな意味を持っているからです。旧約のイスラエルには、神のメシアが、いつか到来し、この世を裁き、主の民を救ってくださるという信仰がありました。彼らは、メシアが来て、人間では成就できない真の癒しと慰めを与えくださると信じたのです。貧しい者、病んでいる者、縛られている者、閉じ込められている者、絶望に陥った者に、力を与え、導いてくださる存在が、まさにこのメシアだと信じていたわけでした。「主はわたしに油を注ぎ、主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして、貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み、捕らわれ人には自由を、つながれている人には解放を告知させるために。」(イサヤ61:1)このようにメシア信仰は、主なる神がこの世で苦しんでいる民を見捨てられず、いつか必ず救ってくださるという、神への信頼と希望、この世の悪への抵抗という意味を持っていました。 教会が主イエスのご誕生を大切にする理由は、この旧約のメシア信仰がイエス・キリストによって成就されたと信じているからです。 イエスは永遠な神ご自身が、人間になって来られた存在です。元々神は人間と全く別の存在で、神学的には絶対他者と呼ばれる方です。創り主なる神が、被造物である人間になるのは有り得ないことであり、神と人間の間には絶対に共有できない神性と人性という雲泥の差があります。しかし、神は人間を赦し、救われるために神性とともに、人性を持って自ら人間になってくださいました。これはご自分の創造の秩序を自らくつがえされた神の特別な恵みです。このような例えはいかがでしょうか。(神の受肉とは比較できませんが、あえて例えれば) 人間が虫になるのは有り得ないことです。もし誰かが虫を助けるために、自ら虫のような存在になれば、それは映画に出てきそうなことでしょう。ところが、神は罪によって堕落した虫のような人間の救いために、自ら人間になって来られたのです。さながら映画のような出来事がイエス•キリストのご誕生によって、この地に起こったわけです。自ら人間になって来られた神であるイエスは、ご自分の命を捨ててまで、人間に代わって死に、復活して罪を赦してくださいました。そして、この世の終わりの日まで、ご自分を信じる者たちのために執り成してくださるでしょう。真のメシア主イエス•キリストは人間を愛し、被造の世界を神に導いてくださる、たったお独りの方です。 キリストのご誕生は、そのメシアであるイエスの最初の歩みなのです。 3.キリストの再臨 – 最も完全かつ新しい創造 それでは、待降節はなぜ、このようなイエスのご誕生だけでなく、イエスの再臨をも記念するのでしょうか。今日の旧約の本文を読んでみましょう。「見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。初めからのことを思い起こす者はない。それはだれの心にも上ることはない。代々とこしえに喜び楽しみ、喜び躍れ。わたしは創造する。見よ、わたしはエルサレムを喜び躍るものとして、その民を喜び楽しむものとして、創造する。わたしはエルサレムを喜びとし、わたしの民を楽しみとする。泣く声、叫ぶ声は、再びその中に響くことがない。」(イサヤ65:17-19)私たちは、神が永遠な方であることを聖書を通じて学び、すでに知っています。ここで永遠とは何でしょうか。哲学では「永遠」と「不滅」という概念があります。私たちは、よく永遠を不滅と混同したりします。 永遠は「限りなく長く存在する。」という「不滅」とは異なる概念です。永遠とは、「最初から最後まですべてが完全に支配される。」という意味を持っています。 私たちは創世記を通じて、神がこの世をお造りになったことを学びました。ところで、聖書は、その神が終わりの日に、この世を再び新たに創造されることをも示しています。つまり、昔の創造と新しい創造の間のすべてを、神が司っておられるのです。その中には空間、時間の全ても含まれているのです。それがまさに聖書が語る永遠の本当の意味なのです。 主イエスの再臨とは、この新しい創造が完成する日のことです。神の初ての創造は、人間の罪によって汚されてしまいました。神は人間を被造物の頭としてくださいました。ところが、その頭である人間という存在が堕落し、神の被造の世界も堕落してしまったのです。イエス•キリストは初臨して、ご自分の犠牲を通して人間と被造の世界を救う手立てを備えてくださいました。そして、その象徴として主の教会を建ててくださったのです。教会の頭なるイエスは再び来られて、必ず救いを成し遂げてくださるでしょう。その時、主に逆らう邪悪な者は裁かれ、主に従う正しい者は救われるでしょう。「神の日の来るのを待ち望み、また、それが来るのを早めるようにすべきです。その日、天は焼け崩れ、自然界の諸要素は燃え尽き、熔け去ることでしょう。しかしわたしたちは、義の宿る新しい天と新しい地とを、神の約束に従って待ち望んでいるのです。」(ペトロ二3:12-13)すなわち、御裁きと御救いは、キリストによる新しい創造の一面に過ぎないものです。再び来られる主は、神がご計画なさった最も完全な創造を成し遂げられるでしょう。そして、その新しく創造された世で、主の民である私たちは、至高の喜びと愛とを持って主と永遠の中に、一緒に生きるでしょう。私たちが待降節を通して、主の再臨を待ち望む理由は、主の再臨に新しい創造という意味が隠れているからです。 締め括り 待降節を通して、初臨と再臨のイエス•キリストを憶える時を過ごしましょう。この世での私たちの人生がいつも幸せだとは限りません。人にはいつか必ず死ぬことが定まっており、喜びより悲しみが多いのが、この世の有様です。しかし、主イエスは、悲しみと死を圧倒する真の喜びと生命が、ご自分の中にあると教えてくださるために、いと高き天から低い地上に来られました。そして、いつか父なる神の右から、ご自分の中にある真の喜びと生命を完全に成し遂げてくださるために、まさに新しい創造のために必ず再び来られるでしょう。このような、かつて臨まれたイエスと、また、いつか臨まれるイエスを記念し、待降節とクリスマスを過ごしたいと思います。愛と救い、平和と新しい創造の主イエス•キリストが、私たちと共におられ、限りのない祝福を与えてくださることを祈り願います。