王のためか、パンのためか。
申命記 8章3節(旧294頁) ヨハネによる福音書 6章1-15節(新174頁) 前置き 「どう生きるべきか」この問いは、古今東西を問わず、人間なら誰もが一度考えたことのある問いだと思います。みんな同じ方向に向かって駆けつけながらも、自分の人生について自ら真剣に問い掛けるべき質問。「私は何のために生きるのか。」皆さんは、この質問にどう答えておられますでしょうか。アメリカの16代大統領であるアブラハム・リンカーンは「40歳を過ぎると、人は自分の顔に責任を持つべき」と言いました。おそらく、リンカーンは「人は40年を生きると、自分が何のために生きているかをわきまえつつ生きるべき」という意味として、この言葉を残したでしょう。もちろん、個人差があるので、早めに気付く人も、遅く気付く人もいると思います。聖書は人の生きる理由についてこう語っています。「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」今日は「キリスト者である私たちはなぜ、生まれてどう生きるべきか。」について話してみたいと思います。 1.パンに対する人間の本性- ヘロデ王 今日の新約本文は5つのパンと2匹の魚の奇跡と言われる有名な物語です。 4つの福音書に記録されているほど、奥深い意味を持っている箇所です。ところで、ヨハネによる福音書を除く3つの福音書では、この5つのパンと2匹の魚の奇跡の物語が出てくる直前にヘロデ王がバプテスマのヨハネを処刑する話が出てきます。なぜ、5つのパンと2匹の魚の物語の直前にヘロデ王の話が出てくるのでしょうか。それは、パンが持っている意味について語るためです。異民族出身の王で正当性が貧弱だったヘロデは、自分のパン、すなわち自分の権力を保つために、イスラエル血統の女性との結婚を望みました。結局、自分の本妻を捨てて、異母兄弟のイスラエル血統の妻と再婚することになります。バプテスマのヨハネは、そのようなヘロデの行為が律法に適わないと、ヘロデとその妻を糾弾します。すると、ヨハネを目の敵にしていたヘロデの妻はヘロデをあおり立て、ヨハネを殺させました。マタイ、マルコ、ルカの福音書では、この物語が出て来ています。 ヘロデがヨハネを殺した理由は、自分の権力のためでした。異民族血統の王が民族的な正当性を手に入れるために、律法に禁じられた結婚をし、ヨハネがその結婚を糾弾したゆえに、ヘロデはヨハネを殺したのです。聖書が語るパンは、単に食べ物に限ったものではありません。ヘロデはパンと象徴される自分の権力を強めるために、つまり、自分の欲望のために、神の預言者を殺したのです。人に適切な権力と富と名誉は要ると思います。聖書を読むと、主なる神もご自分の民に権力と富と名誉を許される場面があります。しかし、権力、富、名誉に心を奪われた者は、必ず主に裁かれました。私は今日、このパンを権力、富、名誉に例えたいと思います。人間には、このパンに執着する本能があります。自分のパンのために、他者を苦しめ、憎み、殺すのです。自分のパンへの執着、そのようなヘロデの行為は、イスラエルの民に大きな痛みと悲しみを与えました。 2.パンに対するイエスの御心。 ところで、神の独り子、イエス・キリストは、このパンについてヘロデと異なる見方を示してくださいます。「イエスはお答えになった。人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きると書いてある。」(マタイ4:4) 主イエスは、人がパンのために生きるのではなく、主なる神の御言葉によって生きるべきと教えてくださいました。パンだけを求める者は、主の御言葉から遠ざかってしまいます。自分の欲望だけを求める者は、主の御言葉に含まれた正義、公平、愛から離れてしまいます。主の御言葉を守りつつ生きれば、人は自分の欲望について行けなくなるからです。主イエスは徹底して人間のパンより、神の御言葉について行かれました。主イエスは、パンを独り占めされず、他者に分け与えてくださいました。ご自分の欲望ではなく、神の御言葉をはるかに大事にされたからです。主イエスは、病んでいる者、飢えている者を助けてくださいました。5つのパンと2匹の魚を用いられ、大勢の群衆に分け与えてくださいました。主イエスはパンの前に、まず治してくださり、御言葉を教えてくださり、最後にパンをくださったのです。弱い者を慰め、御言葉を教え、その次に食べ物を与えられたのです。 主イエスは人間の欲望のために、満足のために、奇跡を起こされたわけではありません。主は神の慰めと、教えの結果として食べ物をくださったわけです。ヘロデが自分のパンを得るために他者に害を及ぼし、苦しめたとは違って、主イエスは、他者に仕え、癒しと慰めを与えるために、ご自分のパンを分けてくださったのです。イエス・キリストは、いつもご自分の権力と富と名誉ではなく、人々の痛みと苦しみと悲しみに眼差しを注がれました。そして、父なる神の愛と御心が、この世に成し遂げられることを望まれました。主イエスはそのような主の御心が、主を信じる者たちに共有されることを望んでおられたのです。その結果として、主イエスは男だけでも、5000人にもなる多くの人々を満足させるほど、豊かな食べ物を施されました。王としての権力のために、罪のない人を殺したヘロデとは違って、ご自分の民のためにパンを分け与えてくださった主は、さながら、マナを通して、イスラエルに食料をくださった旧約の主なる神を象徴するかのように、民を助け、生かしてくださったのです。 3.私たちが選ぶべきパンは? 人間は常に二つの心を抱いて生きると思います。自分の欲望を追いかけるヘロデの心、他者への愛を追い求める主イエスの心。この二つの心が一塊となり、ある時は善を行なったり、ある時は悪を行なったりして生きるのです。主なる神は、今日も私たちの目の前に、二つのパンを置かれ、どっちのパンを選ぶか見ておられると思います。私たちが選ぶべきパンは、ヘロデのパンでしょうか。それとも、主イエスのパンでしょうか。ヨハネによる福音書には、主イエスの弟子たちとイスラエルの群衆が登場します。主イエスは飢えた群衆に与えるパンのために弟子たちを試み、彼らがどのように群衆を助けるかを見詰められました。弟子たちは、お金が足りないと困った顔をしましたが、それでも5つのパンと2匹の魚を持ってきて、主に差し上げました。彼らの力は弱かったのですが、彼らは主イエスに頼りました。そして、主イエスは彼らの小さい信仰に答えて、多くの群衆に食料をくださいました。私たちが持っているひとかけらのパン、小さな力を用いても、主イエスを信じ、主の御言葉に聞き従うならば、私たちを通して主なる神の偉大な御業が表されると信じます。 今日の本文の群衆は弱くて病んでいる群れでした。自分たちが食べるパンでさえ、用意できない貧しい群れでした。彼らにはパンが必要でした。そこで、主イエスは、彼らを哀れみ、喜んでお助けになりました。しかし、満腹した群衆は、イエスの御心に気付かず、続いて、食べ物を与える王としてイエス・キリストを無理やりに自分たちの王にしようとしました。「人々はイエスのなさったしるしを見て、まさにこの人こそ、世に来られる預言者であると言った。 イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた。」(ヨハネ6:14-15) 主は貧しい人を愛しておられますが、貧しい人だからといって、皆が御心を知るわけではありません。彼らは貧しさの中、満腹になったあまり、主の本当の御心が理解できませんでした。主のパンを食べた彼らは、自分の所に帰り、主がいかに自分たちを助けてくださったのかを宣べ伝え、彼らも他者のためのパンのような存在として生きるべきだったのです。ですが、彼らは、ただパンだけに満足して、自分の在り方について、気づけなかったのです。主はそのような彼らから離れ、退かれました。 締めくくり 真の王であるイエス・キリストは、自己中心的なヘロデ王とは異なり、ご自身の権力や欲望のためではなく、ご自分の民に愛と生命を与えてくださるために自らパンとなられた方です。私たちキリスト者は、自分の権力や富に執着し、他者からパンを奪い取ろうとするヘロデの道ではなく、主の御心に従って自分のパンを分かち合い、他者を生かす「命のパン」となられたキリストの道を選び取るべきです。小さな存在である私たちが主の御手に用いられるひとかけらのパンとなる時、隣人に希望と救いの御言葉を伝えることができるでしょう。今日も私たちは、自己中心的な「王」の道と、愛と奉仕の「パン」の道のどちらを選ぶのかという決断の前に立たされています。主イエスの民である、志免教会の兄弟姉妹は、命のパンである主イエスの道に沿って生きるべきではないでしょうか。

