アメイジング・グレイス(驚くべき主の恵み)
ヨハネによる福音書3章16~17節 (新167頁) 前置き 今日のタイトルは「アメイジング・グレイス」です。英語そのままなので「なんで、英語?」と思う方もおられるでしょう。「アメイジング・グレイス」は日本語で「驚くべき恵み」という意味です。私が敢えてこの英語の発音を説教のタイトルにした理由は「ただの恵み(グレイス)」と「驚くべき恵み(アメイジング・グレイス)」を分けて、覚えやすく説き明かすためです。私たちキリスト者は、ただの恵みの中に生きているのではなく、主なる神の驚くべき恵の中に生きています。キリスト教の神学における神の恩寵は、世のすべての被造物に与えられる「一般恩寵」と、主に選ばれた者らに与えられる「特別恩寵」に分けることが出来ると言われます。主は、ご自分のことを知らず信じない者たちにも、ご自身の民と同じように、太陽の光や雨といった自然の恵みを与えてくださいます。しかし、主の民には、それ以上の特別な救いの恵みを与えてくださいます。本日は、この主の特別な恵みについて、ヨハネによる福音書の言葉を通じて分かち合いたいと思います。 1. 神が世を愛された。 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ福音書 3:16) ヨハネによる福音書3章16節は、キリスト教において最も知られている聖句の一つです。それだけに、この言葉は教会で語られるメッセージの中心となるべき核心的な真理を含めており、キリスト者なら、心に深く刻み、日々告白して生きるべき信仰の根幹をなす言葉です。この言葉が伝えている最も重要なメッセージは、この世を創造された唯一の造り主なる神が、罪によって滅びるほかないこの世をあまりにも愛され、その愛の証明として、ご自分のかけがえのない独り子を世にくださったということです。また、この独り子イエス・キリストを救い主と信じ、頼りにするすべての者に、神の裁きから救われ、滅びることなく、永遠の生命を得られるという約束をもくださったことです。これこそ、福音(良い知らせ、すなわちイエス・キリストによる救い)の核心的な真理であり、聖書の最も簡潔な要約であると言えます。私たちはこの言葉から、三つのことが分かります。 まず、神についてです。 神のことについて、私たちは完全に知ることができません。聖書に記された言葉その程度が、私たちが知り得る限界です。しかし、聖書は、この神が世を愛されたと語ります。神は絶対的な存在であり、世界の創造者です。聖書は、世にある数多くの神々は偽りであり、断然この神のみが唯一にして真の神であると力を入れて述べています。次に、世についてです。 聖書に出てくる世は、ギリシャ語で「コスモス」と言います。これは「秩序、調和」などを意味します。古代ギリシャ人は、宇宙が秩序と調和によって成り立っていると思いました。そのため、コスモスを「宇宙、世」という意味としても使いました。そして、このコスモスには、その宇宙に住んでいる「居住者」(すなわち人間)という意味をもあります。したがって、「神が世を愛された」という言葉は「神が人間を愛された」と言い換えることができるでしょう。最後に、愛についてです。 ここで語られた愛は、ギリシャ語「アガペー」の翻訳です。アガペーは、人間が与えられない愛で、最も善意で、温かく、自己犠牲的で、完全無欠な愛、神の限りない愛を指します。上記の三つのことを通して、私たちに推論できるのは。「絶対者である神は、人間を最も完全に愛しておられる方ということです。 2. 独り子をお与えになった 聖書は、人間を最も完全に愛してくださる絶対者なる神の極めて深い愛のゆえに、「独り子をお与えになった」と語ります。ここで私たちは、三位一体という神のあり方について考えることになります。三位一体は信者でない方々も耳にしたことのある言葉でしょう。三位一体とは、唯一の神である方が、父、子、聖霊の三つの位格(人格)として同時におられるという意味です。どうして、唯一の神でありながら三つ位格として存在し得るのかは、人間の知識では到底理解しがたいかもしれません。しかし、聖書が、明確に唯一の神でありながら父と子と聖霊として存在すると証ししているため、私たちは限った知識で理解しようとするより、神ご自身が聖書を通して自らをそのように示されたと理解し、信仰をもって受け入れるべきです。ある学者たちは、この概念は知識ではなく神秘として理解すべきだと語ることもありました。とにかく、この三位一体から出てきた概念が「独り子」なのです。独り子は、かけがえのない神の御子イエス・キリストのことです。その方は肉体をとって人となり、罪によって聖なる神から離れた人間に代わって十字架にかかり、その贖いを通して人間を救ってくださいました。したがって、独り子をお与えになったという神の御業は、人間に対する創造主なる神の最も偉大な愛の証拠なのです。 新約聖書ヨハネの手紙第一4章16節は「神は愛である」と宣言しています。今日の本文にも、神が世を愛されたとあります。真に、主なる神は愛の神でおられます。しかし、その愛は盲目的で正義のない愛ではありません。親の健全な愛は、時にはおしかりとして現れることもあります。聖書はそれを裁き(審判)と表現します。裁きの根源は神の正義であり、神の正義は神の愛の一部でもあります。それゆえ、キリストの愛に力づけられて罪を悔い改める者には愛の救いが、キリストの救いをないがしろにして罪を悔い改めない者には正義の裁きが待っています。しかし、愛の神は、人間が自力で正義を果たすのができないことを誰よりもよく知っておられます。それゆえに、主なる神は罪はないが、神の正義を完全に満たせる存在を遣わされ、罪によって滅びる人間を救うようにしてくださいました。独り子イエス・キリストは、真の神でありながら、真の人間としてこの世に来られました。そして、ご自身が神の裁きへと進み、罪人のために代わりに死んでくださることで、神の愛と正義を成し遂げてくださったのです。聖書は、このイエス・キリストを自分の救い主と信じる者には、神の愛と救いが惜しみなく与えられると証ししています。 3. 主なる神の特別恩寵(アメイジング・グレイス) 今日の本文は、このように締めくくられています。「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」この世(人間)を愛された神は、その愛の証拠として、ご自身の独り子を十字架の犠牲にかけられました。そして、その独り子の贖いと執り成しによって、人間に主なる神の赦しと救いを与えてくださったのです。誰かが過去、どんな罪を犯したとしても、現在、罪によって汚されているとしても、将来、自分も知らないうちに罪を犯すとしても、自分の罪を真に悔い改め、神の御前で新しい人生を誓うならば、主なる神はキリストの恵みによってその人を赦し、新しい人生を歩めるように導いてくださるでしょう。今日の話を始める際、お話しした「特別恩寵」が、まさにそれなのです。神は世のすべての存在に、太陽の光と雨と空気を、ただで与えられます。彼が悪い人であろうが、善い人であろうが、差別なくすべての人に与えてくださいます。これが「一般恩寵」です。しかし、そのすべての人々が主なる神の赦しを受け、救いを得るわけではありません。神が遣わされた独り子イエス・キリストの贖いを信じ、自分の罪を悔い改め、主に頼ってその方の民として生きようとする人には、キリストの執り成しによって神の子として、新しい人生を始めることができます。それこそが、特別な恩寵「アメイジング・グレイス」なのです。 犯罪を犯して社会から見捨てられた者も、キリストを通して真に自分の罪を悔い改め、自分によって苦しんだ人々に謝罪し、信仰にあって新しく生きようとするならば、神は主イエス・キリストの執り成しを通して、喜んで彼らを赦してくださるでしょう。幼い頃の傷のために世に出ることができず、部屋に引きこもっている者も、キリストに依り頼み、神に近づくならば、神は彼に改めて始める力を与えてくださるでしょう。若い頃の過ちで風俗街を転々としていた者も、事業の失敗に挫折してホームレスとなった者も、イエス・キリストに寄りかかって神に近づくならば、主なる神は彼らを差別せず温かく受け入れ、再び始める心と機会を与えてくださるでしょう。主なる神の驚くべき恵みは、今日も主イエス・キリストを通して私たちに限りなく与えられています。日差しと雨と空気がこの世の自然を豊かにするように、独り子イエス・キリストの恵みによって、誰もが神の前で再び始めることができるのです。主なる神は、彼らが滅びることなく、この地上で、また天の国で、そしていつか到来する神の世界で、永遠の生命を享受して生きることができるように、最後まで共に歩んでくださるでしょう。それこそが、神の特別な恩寵、驚くべき恵み「アメイジング・グレイス」なのです。 締め括り 最後に、今日の本文をもう一度読んで終わりたいと思います。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」今日、私の話だけでは、この一行の御言葉が持つ豊なメッセージをすべて解き明かすことはできないと思います。しかし、この御言葉を通じて、私たちに与えられた最も大事な教え、すなわち、神が人間を愛しておられること、その人間を救ってくださるために独り子を遣わされたこと、その独り子を信じ頼る者には滅びではなく永遠の生命が与えられることは、もう一度お伝えしたいと思います。長きにわたり信仰生活を営んでこられた方々、キリスト教信仰に興味を持ち始められた方々、長い間求道者として歩んでこられた方々、今日の御言葉の中に隠されている神の愛を今一度深く考える機会となれば幸いです。主なる神は、キリストを通して私たちを永遠に愛し、導いてくださるでしょう。

