命の水が湧き出る
ゼカリヤ書14章6~9節(旧1494頁) ヨハネによる福音書4章3~14節(新169頁) 戦後、堀田(ほった)綾子は思いも寄らない結核にかかり、十数年の長い闘病生活をすることになりました。長い間の病気による虚無主義で、生の理由を失った彼女は死ぬのを願っていました。そんな時、同じ病気を患っていた幼なじみの前川という男の人は献身的に彼女に仕えました。彼はキリスト者でした。堀田は彼の仕えにより、異性との恋を超える真の愛に気づきました。将来、堀田はこのように彼を振り返りました。「わたしはその時、彼の愛が全身を刺しつらぬくのを感じた。そしてその愛が、単なる男と女の恋ではないのを感じた。私はかつて知らなかった光を見たような気がした。彼の背後にある不思議な光は何だろうと思った。」堀田は前川の信仰と生涯を憶え、病床で文章を書きました。困難な人にキリストによる希望と愛を伝えようと誓いました。それが偉大な小説家三浦綾子の始まりでした。 1.疎外者を探しておられる主 戦争直後の日本は、まるで疲弊な病人のような状態でした。この時期、結核にかかっていた三浦綾子も、戦争のため、疲弊となった戦後日本のように、病を経験していたのです。ところが、日本のキリスト教は、こんなにつらい時代、爆発的に成長しました。慰めと癒しがほしい時代に、アメリカから宣教師たちが来日し、また日本の教会によって、多くの人々がキリスト教の信仰を受け入れたのです。三浦綾子もそんな時代に、一人のキリスト者の献身によってキリストに出会い、偉大な小説家となったわけです。そのためか、三浦綾子の病気と戦後の日本が重なって見えてきます。虚しさと悲しみにさらされていた三浦綾子は友人の前川からの愛により、イエスに出会い、主イエスは弱まった彼女に光を照らしてくださいました。戦後の痛みと虚しさに陥った日本でも、福音によって多くの人々がイエスを信じるようになったのです。主イエスの御心は最も低いところにあります。主はそのような御心をもって三浦綾子を訪れ、彼女に信仰をくださったのです。戦争という悲劇の後、日本に多い信仰者が生まれたのも、そのような主の愛と無関係ではないでしょう。今日の本文、ヨハネによる福音書には、疲弊して苦しんでいる女の人が登場します。 彼女は当時のユダヤ人に不浄に扱われていたサマリア出身で、5人の夫とつぎつぎ離婚し、今では夫でない人と暮らしていました。サマリアは北イスラエルが滅ぼされた時代、アッシリヤ人の政策によって異邦人と混血した地域でした。異邦人を極端に嫌っていたユダヤ人から、サマリアは正統性も純粋性もない不浄な所にされていました。その中でも五回の離婚、結婚関係ではない人と同居している彼女は、どれだけ批判されていたでしょうか。ところが、ダビデの子孫、真のユダヤ人イエス・キリストは、わざわざ彼女の所を訪れてくださいました。主イエスが不浄なサマリアに行かれ、その中でも嫌われる女に手を差し伸べたというのは、常識を破るあり得ないことでした。「そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。」(ヨハネ4:6)近東の正午ごろは40度を上回る暑さで、誰も外に出かけない時です。そんな時、近所から疎外された女は他人の目を避け、その暑い時、密かに水がめを持って出てきたのです。水を汲むために出てきた彼女は井戸のそばにかけておられるイエスと出会いました。主イエスは誰も訪れない、その女に出会い、清めてくださり、御言葉をくださるために来られた神の子でした。 2.不浄な者を探しておられるイエス。 今日の旧約本文は偶像崇拝のゆえに裁かれたイスラエルの民が主からいただいた言葉です。「その日、エルサレムから命の水が湧き出で半分は東の海へ、半分は西の海へ向かい夏も冬も流れ続ける。主は地上をすべて治める王となられる。その日には、主は唯一の主となられ、その御名は唯一の御名となる。」(ゼカリヤ14:8-9)主に裁かれたイスラエルですが、主が裁きを免れる道と恵みとを与えてくださるという祝福と約束です。主は、ご自分の民の不浄を決して許されない方ですが、しかし、罪を謙虚に悔い改め、主に立ち帰れば、必ず赦してくださる方です。そして、彼らにまた命の水とをくださる方です。今日の新約本文で主はユダヤ人に蔑視されたサマリア人、その中でも、さらに軽蔑された井戸の女を訪れてくださいました。王宮でも、神殿でもない不浄な地に来られたのです。そして、彼女に「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で父を礼拝する時が来る。まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。」と希望の言葉を通して、その女を礼拝者として招かれました。 主は不浄な者を断られる方ではありません。自分の罪を認め、悔い改める者、主なる神に希望をおく者に、喜んで新しい機会を与え、再出発するように助けてくださる方です。すべての人に嫌われたサマリアの女は、不浄な出身という人種的な差別、不浄な女という社会的な差別、自分自身を批判する罪悪感に苦しんでいましたが、だからこそ、主イエスはさらに彼女を訪れられたわけです。エルサレムからガリラヤに行く時、通常ユダヤ人たちは地中海側の道、或いは東側のヨルダン川に沿って北に上がっていきました。つまり、わざわざサマリアを避けて行ったということです。しかし、主イエスはわざわざサマリアを通られました。なぜでしょうか。まさにこの女に出会うためでした。主はわざわざ最も疎外された所、最も不浄な所を探し訪れる方です。不浄を清める主の力を通して、どうしようもない罪人を赦され、彼らが疎外から脱出し、主を礼拝することが出来るよう新たに生まれ変わらさせてくださるためです。主イエスは不浄を清め、新にしてくださる命の水そのものでした。 3.主なる神と和解させてくださるイエス 神が主イエスを遣わされた理由は、主イエスにより、人の中から湧き出る命の水を通して、神から遠ざかった存在が霊的な渇きを癒し、罪を洗い、イエス・キリストを通して御父の御前に立つことが出来るよう、道をくださり、力をくださるためです。主イエスを通して、人を招かれる理由は、その人が主なる神に礼拝できるようにしてくださるためです。礼拝という言葉はπροσκυνέω(プロスクィネオ)というギリシャ語の翻訳です。プロスは「 – に向かって」で、クィネオは「口付ける」という意味です。併せて「誰かに口付ける、誰かにひれ伏す」という意味になります。ところで、面白いのは、クィネオの語源である「クィオン」の意味です。クィオンは犬という意味ですが、クィネオという言葉は主人の手を舐める犬の姿に由来したそうです。 この原文の意味から思ったのですが、主イエスが来られ、命の水をもって私たちを清めてくださった理由は、主なる神の手に口付けることが出来る清い存在として、私たちを生まれ変わらせてくださるためではないかとのことでした。もし、野良犬が手をなめたとしたらいかがでしょうか。噛まれるかもと心配するでしょう。しかし、愛犬が手をなめるとどうですか。頭を撫でて可愛がるでしょう。イエス・キリストを信じるということ、命の水である主によって清められたということは、いつ主なる神に近づいても拒まれない存在となるということではないしょうか。私たちが礼拝できるというのは、この主なる神との関係に壁がなくなるということです。主イエスは、疎外される者、不浄な者を召され、新たにされ、御父と和解させてくださる命の主です。私たちがどんな人生を生きてきたにせよ、主は私たちと一緒におられ、私たちを清めてくださり、ご自分を通して父なる神に堂々と礼拝することが出来るようにしてくださいます。 締め括り 今日も主イエスは疎外された者、不浄な者、罪人を探しておられます。そして、キリストの中にある命の水を惜しげもなく注いでくださる方です。主の命の水を通して霊的な渇きが癒され、主の命の水を通して霊的な清めが成し遂げられます。そのような新たになることにより、罪人は天の御父の御前に堂々と進むことが出来ます。今日の新約の本文で、サマリアの女を助けてくださったイエス・キリストは、今でも私たちと一緒におられます。疎外を感じる時、罪悪感の時、一人ぼっちとなったような時、私たちと喜んで一緒におられる主イエスを憶え、主の慰めと愛に寄り掛かり、主と共に歩む志免教会であることを祈り願います。