新たに生まれる

ヨハネによる福音書3章1~5節(新167頁) 前置き 私たちの「信仰」の証拠とは何でしょうか。教会に通うこ、それとも、受洗したこと、正会員となること、あるいは、教会で奉仕することが、私たちの信仰の証拠なのでしょうか。誰かは教会に通い、洗礼を受けることを信仰の証拠と思うかもしれません。また誰かは教会の正会員となり、長老や執事として教会に仕える働きを信仰の証拠だと思うかもしれません。信仰への追求や深さは人それぞれですから、第三者が一方的に良し悪しを判断することは望ましくありません。しかし、私たちが主と崇めるイエス・キリストは、今日の聖書の御言葉を通して、真の信仰者に求められるものについて語られました。それは新たに生まれることです。今日は、この「新に生まれること」という言葉について、一緒に考えてみたいと思います。 1. 真の信仰とは何か 信仰とは何でしょうか。私たちは、どのような経緯であれ、信仰を持つことになりました。そして、信仰によって、キリスト者というアイデンティティを携えつつ生きることになりました。しかし、多くのキリスト者は、「信仰」というものについて、明確な定義を下していないのかもしれません。信仰への明確な定義がないため、ある人は教会に出席することそのものが、ある人は洗礼を受けたことが(洗礼の本質ではなく、洗礼式という形式的な儀式)、ある人は教会の正会員となったことが、ある人は聖餐式という儀式に参加することが、ある人は長老や執事、教師になることが、自分の信仰を表すしるしであると思うかもしれません。しかし、果たして、それらが、私たちの信仰の本質を証明する手立てとなれるでしょうか。「さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。」(ヨハネ福音3:1) 今日の本文に登場するニコデモという人物はファリサイ派の人で、ユダヤ人の宗教指導者の一人でした。聖書学者の中には、このニコデモが「サンヘドリン(最高裁判所)」のメンバーだったと推測する人もいます。サンヘドリンは祭司(サドカイ派)、律法学者(ファリサイ派)、貴族の長老たちで構成されたユダヤ人の最高権力機関であり、ファリサイ派のニコデモは、そのサンヘドリンの70人の会員の一人だったと思われます。つまり、彼はユダヤ社会の高い階級の人だったと言うことです。 「ある夜、イエスのもとに来て言った。ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」(ヨハネ福音3:2) 社会的にも、宗教的にも、政治的にも、何一つ不足のないニコデモが、なぜ、ユダヤ社会で活動を始めたばかりの若いラビであるイエスを訪ねたのでしょうか。彼は「夜」にイエスを訪ねました。社会的な地位の高い人が若いラビを訪ねるのに、人々の目を気にしていたからでしょうか。しかし「夜」という言葉が持つ意味を含めて解釈すると、彼が持っている名誉や権力、地位の中に真の光がなく、ただ空しさと闇だけを感じていた彼の心の状態を示す象徴ではなかったでしょうか。ニコデモは表面的には最高の宗教家でした。ユダヤ人たちは彼を信仰の模範として尊敬していたでしょう。実際、ニコデモはユダヤ社会で尊敬される人だったようです。しかし、彼は表面的な自分の姿に真の霊的な満足を感じていなかったようです。名誉も、権力も、地位も、いかなる宗教儀式も、彼の内面を満たすことが出来なかったでしょう。彼の人生は成功でしたが、実際には空しかったでしょう。彼は真っ暗な夜道を歩く人のように光を探し求めていたかもしれません。 そういうわけで、彼はユダヤ社会に新しい風を吹き起こしていたイエスを訪ねたでしょう。彼が来ると、イエスは彼の悩みをすでにご存知であるかのように言われました。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」(ヨハネ福音3:3) 悩んでいたニコデモに、主イエスは彼が探していた何かに対する答えをくださいました。それが「新に生まれること」だったのです。先ほど申し上げましたように、キリスト者は信仰についてそれぞれ異なる思いを持っています。教会に出席すること、洗礼を受けたこと、執事や長老となって教会に仕えること、教師になることなど、数多くの信仰の意味をめいめい心の中に持っているかもしれません。しかし、主イエスはニコデモを通して私たちに語られます。「表面的なもので信仰を証明することはできない。真の信仰は、新に生まれることにある。」毎週教会に出席し、洗礼を受け、聖餐に参加し、教会に仕え、キリスト者であることを示しながら生きることは、とても重要です。しかし、ヨハネ福音は、それだけが全てではないとはっきりと示しているのです。あたかもニコデモが名高いファリサイ派の人であるにもかかわらず、霊的不足を感じていたように。 2. 真の信仰の始まり – 新たに生まれること では「新に生まれること」とは何でしょうか。ニコデモ自身も「新に生まれる」という言葉に戸惑い、こう質問します。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」(ヨハネ福音3:4)「新に生まれること」という表現は、生き返ること、生まれ変わること、あるいは輪廻転生のような意味とは違います。ヨハネ福音における「新に生まれること」は、私たちの霊と肉はそのままで、霊的に新たになるという意味、すなわち私たち自身の生き方と心構えが変わることを意味します。ですから「新に生まれること」は、ニコデモの言葉のように、赤ん坊になって母の胎から新しく生まれることではありません。それでは、私たちはどうすれば「新に生まれる」ことができるのでしょうか。これについて、主イエスは次のように言われました。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。」(ヨハネ福音3:5) 3章3節でイエスは「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」と言われました。そして3章5節では「だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。」と言われました。 したがって「新に生まれること」とは「水と霊によって生まれること」と言えます。まず「水によって生まれること」の意味について考えてみましょう。聖書における「水」とは、大きく二つの意味を持ちます。一つは死、もう一つは清めを意味します。旧約聖書の出エジプト記で、イスラエル民族はエジプトから脱出し、カナンへ向かう途中、紅海を渡る体験をします。これは、エジプトの奴隷の身分だったイスラエルが水(紅海)で死に、清められ、新たなイスラエルへと「新たに生まれる」ことを象徴します。つまり「水によって生まれること」の意味は、罪に汚されていた自分に対しては死に、主の贖いによって、新たな自分として清められ、新しい生き方と心構えに生き始めることを意味します。キリストを信じ、昔の自分が持っていたすべての罪、悪を捨て、主なる神の御心に従って新しい人生を始めることなのです。古い人は偽りを言い、人を憎み、欲望にひかれ、主をないがしろにして生きていたとすれば、水によって新たになった人は、真実を語り、人を愛し、欲望を節制して神中心に生きるのです。水によって死に、清められ、新たに生まれるのです。その新たな人生の象徴として、私たちは洗礼式を執り行うのです。 しかし、洗礼式を行ったからといって、私たちの人生が大幅に変わるとは限りません。新しい心で信仰者の人生を始めたとしても、生きていく中で、再び自分の古い人が出る経験を、誰もがすると思います。だから、ヨハネ福音は「霊によって生まれること」についても語るのです。使徒言行録では、霊(聖霊)を「火」にたとえました。火は垂直に上へと燃え上がります。聖霊がイエス・キリストの贖いによって私たちに来られると、私たちの心を新たにさせ、上におられる方を指して垂直に燃え上がらせます。水によって象徴的に洗い清められた私たちは、火のような聖霊の御導きによって実質的に清めを受けます。聖霊が臨まれると、私たちの心には、主なる神への純粋な愛と善を行おうとする熱望が現れます。まるで火が上に向かって燃え上がるように、私たちの心も火のような聖霊によって、主なる神の御心に向かって自分の欲望を制御し、主の御心に合わせて生きることを願うようになるのです。使徒言行録2章で、気が弱く臆病だったイエスの弟子たちが、聖霊によって新たになり、大胆に福音を宣べ伝えた出来事を思い出しましょう。それこそが、聖霊によって新たに生まれた者たちの人生の変化であり、その活躍の一歩だったのです。 締め括り 「新たに生まれること」とは、主イエスの贖いと聖霊の導きによって、私たちの心と人生が完全に変わることです。今まで自分を世界の中心に置いて生きてきた生き方をやめ、主イエスを自分の世界の中心と生きること。自分の思いのまま生きるのではなく、主の御心を自分の中心に置き、主に従って生きること。それこそが「水と霊によって生まれた者」すなわち「新たに生まれた者」の生き方なのです。私たちは果たして、新たに生まれた者でしょうか。習慣的に教会に通うことに満足してはいませんか。イエス・キリストを信じる私たちは新たに生まれた者でしょうか。私たちにとって大事なのは、表面的な信仰の熱心さではありません。イエス・キリストによって自分は新たになったのかと内面的な自問自答が重要なのです。私たちの信仰の根本は、教会での活動や他人に見せる表面的な姿ではなく、主なる神と私自身の関係にあります。本当に主こそが私たちの人生の理由であり、キリストこそが私たちの真の主であり、聖霊こそが私たちの真の先生であると、心の底から認める人生。そして、そのような人生から湧き出る主と隣人への真実な愛。それらこそが、自分自身が新に生まれた者であることを証明するしるしではないでしょうか。自分は、果たして、主イエスによって、新に生まれた者かどうか、この一週間、自分自身に問いながら、過ごしましょう。

失敗した者へ

イザヤ書43章18∼19節(旧1131頁) ローマの信徒への手紙8章28節(新285頁) 前置き 聖書には数多くの失敗者の物語が出てきます。アダム、アブラハム、ヤコブ、モーセ、ダビデといった、多くの聖書の人物が主なる神の御心に適わず、失敗を経験してしまいます。また、イスラエル民族そのものも、主なる神への正しい信仰から離れ、失敗し、アッシリアとバビロンといった帝国によって滅ぼされてしまいました。主イエスの弟子たちも、主を見捨てる失敗を経験します。聖書は、数多くの失敗者の姿をありのままに示しています。しかし、聖書は、主なる神が彼らを決して見捨てられなかったことをも教えてくれます。私たちの人生にも失敗が訪れうるでしょう。しかし、主は失敗したご自分の民を再び立ち上がらせ、導いてくださる方です。ですから、主を信じる者には、失敗さえも恵みとなるのです。今日は、失敗した者を慰め、新たに始めさせてくださる主の恵みについて話してみたいと思います。 1. 失敗した民へ 主の民であるイスラエルは失敗した民族でした。主は創造の際、この世界を完璧に造られました。しかし、最初の人間であるアダムは、自分が主のようになることを願い、悪魔に惑わされて、主を裏切り、禁じられた「善悪の知識の木の実」を取って食べてしまいました。最初の人は主の被造物でしたが、主は彼がご自分の意志に操られる操り人形ではなく、自らの意志によって主に聞き従う自発的な存在になることを望まれました。それが主が人間に自由を与えられた理由です。しかし、アダムは主に逆らい、自分の欲望のために自由を勝手に使い、堕落して主に呪われてしまいました。このようなアダムの子孫は、祖先アダムのように、主の栄光ではなく自分の欲望のために生きる存在となりました。それが、人間の罪の根源なのです。それにもかかわらず、主はアダムの子孫と和解するために、一つの民族を召されましたが、それがイスラエルでした。「今、もしわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたたちはすべての民の間にあって、わたしの宝となる。世界はすべてわたしのものである。あなたたちは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。」(出エジプト記19:5-6)しかし、残念ながらイスラエルは「祭司の王国」になれませんでした。 祭司とは、主なる神と人をつなげる仲介の存在です。旧約聖書において、主なる神は祭司を通してイスラエルの民と会われ、また、イスラエルの民も祭司を通して、主の御前に立ちました。主がイスラエルを「祭司の王国」に召された理由は、イスラエルを用いられ、世のすべての国々が主と出会い、罪赦され、和解することを望まれたからです。しかし、イスラエルは結局、自分の使命を忘却し、他の国々と同じ道を歩んでしまいました。その結果、イスラエルは主を裏切り、不従順となり、偶像崇拝を犯して堕落してしまったのです。その裁きは、アッシリアとバビロンといった帝国によるイスラエルの滅亡でした。このようにイスラエルも自分の罪によって信仰に失敗し、滅びてしまったのです。しかし、主はこの失敗した民であるイスラエルを決して見捨てられませんでした。70年という時間はかかりましたが、彼らに再び故郷へ帰る恵みを与え、赦し、再び始めることを望まれたのです。そのイスラエルに対する主の御心が記された箇所が、まさに今日の旧約の本文なのです。「初めからのことを思い出すな。昔のことを思いめぐらすな。見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。あなたたちはそれを悟らないのか。わたしは荒れ野に道を敷き、砂漠に大河を流れさせる。」(イザヤ書43:18-19) 2. 人間の失敗 私たち人間は、主を知らないまま、罪人として、この世に生まれます。罪人として生まれた私たちには、最初の祖先であるアダムの罪の性質が潜んでいます。世の中には、性善説、性悪説、無善無悪説といった東洋哲学があります。まず、性善説は、人間の本性は生まれながらにして善であると見る立場です。古代中国哲学者の孟子が主張した説で、人間は先天的に善に生まれるが、後天的な環境によって悪を持つとの説です。次に、性悪説は、人間の本性は生まれながらにして悪であると見る立場です。古代中国の荀子が主張した説で、人間は利己的な欲望を持って生まれ、これをそのままにおくと社会的な混乱をもたらすとの説です。善は後天的に習得するという立場です。最後に、無善無悪説は、人間の本性は生まれるときに善でも悪でもないと見る立場です。古代中国の告子の主張で、人間は生まれながらに善または悪の性質を持つのではなく、後天的な環境、教育、修養などによって決定されると見る立場です。このうち、性悪説が聖書が語る人間像に最も近いですが、それでも性悪説は人間に善があり得ると見ています。人間にわずかな希望をおく説なのです。 しかし、聖書は、人間に善などなく、自力で善を行うわずかな可能性もないことを力強く証言しています。「主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって」(創世記6:5)「人の心は何にもまして、とらえ難く病んでいる。」(エレミヤ書17:9) 「正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく、神を探し求める者もいない。皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。」(ローマ書3:10-12)「わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。」(ローマ書7:18)つまり、聖書は罪を犯して堕落してしまった人間存在そのものが失敗であると語っているのです。しかし、私たちは全能なる神に失敗がないことを信じています。最初の人間は自分の罪によって失敗し、その子孫たちも祖先から受け継ぐ罪の性質によって失敗しましたが(罪人)、それにもかかわらず、決して失敗しない主なる神は、人間を失敗から救い出し、正しい人生を歩めるように導いてくださいます。私たち人間は、罪によって失敗した存在として生まれました。しかし、主は人間を失敗の中に放っておかれず、救いの手立てを与えてくださいました。 3. 失敗を恵みへと変えてくださる主 失敗した者をそのままに置かれず、生かし、良い道へと導いてくださるために、主なる神がくださった手立ては何でしょうか。失敗した者、つまり罪人のために、主が成し遂げられた輝かしい御業は罪と失敗から抜け出し、再び始めることができる贖いの根拠を造られたことです。それは、救い主イエス・キリストのご到来です。主は人間を創造されたとき、この世のすべての被造物よりも優れた大事な存在として造られました。人をご自分のために奉仕する奴隷ではなく、子どものような、被造物の中で最も優れた存在として造られたのです。主は、その人間に失敗の可能性があるにもかかわらず、人間自ら主を従うことを望まれたゆえに自由意志をくださったのです。そのような主のご配慮と愛にもかかわらず、人間は罪を犯し、失敗の道へと進んでしまったのです。しかし、主は堕落して死に値する人間を決して見捨てられませんでした。人間を罪と過ち、失敗をそのままにおかれなかった主は、三位一体の一位格である御子なる神に肉体を与え、人としてこの世に遣わされました。 真の神である御子なる神は、一人の女の人の体を通して生まれ、神の人間を完全に仲介できる存在(仲保者)となられました。彼には真の神としての神性と真の人間としての人性があり(神でありながら人間でもあったため)、堕落した他の人間の身代わりとなることができる資格を持っておられました。この御子なる神、すなわちイエス・キリストが、ご自分の血によって、失敗した罪人の身代金を代わりに払い、ご自身の死をもって罪人たちの失敗を挽回させるために、この世に来られたわけです。そして、イエス・キリストは、人の罪を代わりに担って主なる神の裁きを受け、十字架で死に、最終的に復活されました。これによって、罪人の罪は、主イエスの贖いのもとで完全に解決されたのです。これが、先ほど申し上げた失敗した者をそのままにおかれず、生かし、良い道へと導いてくださるための主なる神の御業です。主イエスを信じる者、そのもとにとどまる者は、このイエスによって罪赦され、失敗した者という汚名から解放され、主にあって再び始めることができるという贈り物を受けます。これこそが、キリストによって私たちに与えられた救いであり、恵みなのです。 締め括り 私たちは生きていきながら、失敗を経験します。人生が揺らぐほどの大きな失敗もあり、日常の小さな失敗もあります。失敗に遭うと、挫折したり、絶望したり、落胆したりします。しかし、イエス・キリストのもとにある私たちは、すでに最も大きな失敗である罪から解放された存在です。私たちは、イエス・キリストの救いによって、永遠に死ぬべき罪人という最も大きな失敗から解放され、キリストと共に正しい道へと進んでいる存在です。ですから、失敗に遭ったとき、挫折し、絶望し、落胆しながらも、根本的な失敗を解決してくださったイエス・キリストの恵みを覚え、今でも主が私たちと共におられることを思い起こしたいです。むしろ、今の失敗は、人生の養分として、私たちの血と肉となるでしょう。ローマ人への手紙はこう語ります。「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」(ローマ書8:29) 私たちの失敗でさえ、主にあって益となり、私たちに戻ってくるでしょう。キリスト者にとって、失敗はただの失敗ではありません。それは、主によって必ず恵みとなってくるでしょう。

命の水が湧き出る

ゼカリヤ書14章6~9節(旧1494頁) ヨハネによる福音書4章3~14節(新169頁) 戦後、堀田(ほった)綾子は思いも寄らない結核にかかり、十数年の長い闘病生活をすることになりました。長い間の病気による虚無主義で、生の理由を失った彼女は死ぬのを願っていました。そんな時、同じ病気を患っていた幼なじみの前川という男の人は献身的に彼女に仕えました。彼はキリスト者でした。堀田は彼の仕えにより、異性との恋を超える真の愛に気づきました。将来、堀田はこのように彼を振り返りました。「わたしはその時、彼の愛が全身を刺しつらぬくのを感じた。そしてその愛が、単なる男と女の恋ではないのを感じた。私はかつて知らなかった光を見たような気がした。彼の背後にある不思議な光は何だろうと思った。」堀田は前川の信仰と生涯を憶え、病床で文章を書きました。困難な人にキリストによる希望と愛を伝えようと誓いました。それが偉大な小説家三浦綾子の始まりでした。 1.疎外者を探しておられる主 戦争直後の日本は、まるで疲弊な病人のような状態でした。この時期、結核にかかっていた三浦綾子も、戦争のため、疲弊となった戦後日本のように、病を経験していたのです。ところが、日本のキリスト教は、こんなにつらい時代、爆発的に成長しました。慰めと癒しがほしい時代に、アメリカから宣教師たちが来日し、また日本の教会によって、多くの人々がキリスト教の信仰を受け入れたのです。三浦綾子もそんな時代に、一人のキリスト者の献身によってキリストに出会い、偉大な小説家となったわけです。そのためか、三浦綾子の病気と戦後の日本が重なって見えてきます。虚しさと悲しみにさらされていた三浦綾子は友人の前川からの愛により、イエスに出会い、主イエスは弱まった彼女に光を照らしてくださいました。戦後の痛みと虚しさに陥った日本でも、福音によって多くの人々がイエスを信じるようになったのです。主イエスの御心は最も低いところにあります。主はそのような御心をもって三浦綾子を訪れ、彼女に信仰をくださったのです。戦争という悲劇の後、日本に多い信仰者が生まれたのも、そのような主の愛と無関係ではないでしょう。今日の本文、ヨハネによる福音書には、疲弊して苦しんでいる女の人が登場します。 彼女は当時のユダヤ人に不浄に扱われていたサマリア出身で、5人の夫とつぎつぎ離婚し、今では夫でない人と暮らしていました。サマリアは北イスラエルが滅ぼされた時代、アッシリヤ人の政策によって異邦人と混血した地域でした。異邦人を極端に嫌っていたユダヤ人から、サマリアは正統性も純粋性もない不浄な所にされていました。その中でも五回の離婚、結婚関係ではない人と同居している彼女は、どれだけ批判されていたでしょうか。ところが、ダビデの子孫、真のユダヤ人イエス・キリストは、わざわざ彼女の所を訪れてくださいました。主イエスが不浄なサマリアに行かれ、その中でも嫌われる女に手を差し伸べたというのは、常識を破るあり得ないことでした。「そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。」(ヨハネ4:6)近東の正午ごろは40度を上回る暑さで、誰も外に出かけない時です。そんな時、近所から疎外された女は他人の目を避け、その暑い時、密かに水がめを持って出てきたのです。水を汲むために出てきた彼女は井戸のそばにかけておられるイエスと出会いました。主イエスは誰も訪れない、その女に出会い、清めてくださり、御言葉をくださるために来られた神の子でした。 2.不浄な者を探しておられるイエス。 今日の旧約本文は偶像崇拝のゆえに裁かれたイスラエルの民が主からいただいた言葉です。「その日、エルサレムから命の水が湧き出で半分は東の海へ、半分は西の海へ向かい夏も冬も流れ続ける。主は地上をすべて治める王となられる。その日には、主は唯一の主となられ、その御名は唯一の御名となる。」(ゼカリヤ14:8-9)主に裁かれたイスラエルですが、主が裁きを免れる道と恵みとを与えてくださるという祝福と約束です。主は、ご自分の民の不浄を決して許されない方ですが、しかし、罪を謙虚に悔い改め、主に立ち帰れば、必ず赦してくださる方です。そして、彼らにまた命の水とをくださる方です。今日の新約本文で主はユダヤ人に蔑視されたサマリア人、その中でも、さらに軽蔑された井戸の女を訪れてくださいました。王宮でも、神殿でもない不浄な地に来られたのです。そして、彼女に「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で父を礼拝する時が来る。まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。」と希望の言葉を通して、その女を礼拝者として招かれました。 主は不浄な者を断られる方ではありません。自分の罪を認め、悔い改める者、主なる神に希望をおく者に、喜んで新しい機会を与え、再出発するように助けてくださる方です。すべての人に嫌われたサマリアの女は、不浄な出身という人種的な差別、不浄な女という社会的な差別、自分自身を批判する罪悪感に苦しんでいましたが、だからこそ、主イエスはさらに彼女を訪れられたわけです。エルサレムからガリラヤに行く時、通常ユダヤ人たちは地中海側の道、或いは東側のヨルダン川に沿って北に上がっていきました。つまり、わざわざサマリアを避けて行ったということです。しかし、主イエスはわざわざサマリアを通られました。なぜでしょうか。まさにこの女に出会うためでした。主はわざわざ最も疎外された所、最も不浄な所を探し訪れる方です。不浄を清める主の力を通して、どうしようもない罪人を赦され、彼らが疎外から脱出し、主を礼拝することが出来るよう新たに生まれ変わらさせてくださるためです。主イエスは不浄を清め、新にしてくださる命の水そのものでした。 3.主なる神と和解させてくださるイエス 神が主イエスを遣わされた理由は、主イエスにより、人の中から湧き出る命の水を通して、神から遠ざかった存在が霊的な渇きを癒し、罪を洗い、イエス・キリストを通して御父の御前に立つことが出来るよう、道をくださり、力をくださるためです。主イエスを通して、人を招かれる理由は、その人が主なる神に礼拝できるようにしてくださるためです。礼拝という言葉はπροσκυνέω(プロスクィネオ)というギリシャ語の翻訳です。プロスは「 – に向かって」で、クィネオは「口付ける」という意味です。併せて「誰かに口付ける、誰かにひれ伏す」という意味になります。ところで、面白いのは、クィネオの語源である「クィオン」の意味です。クィオンは犬という意味ですが、クィネオという言葉は主人の手を舐める犬の姿に由来したそうです。 この原文の意味から思ったのですが、主イエスが来られ、命の水をもって私たちを清めてくださった理由は、主なる神の手に口付けることが出来る清い存在として、私たちを生まれ変わらせてくださるためではないかとのことでした。もし、野良犬が手をなめたとしたらいかがでしょうか。噛まれるかもと心配するでしょう。しかし、愛犬が手をなめるとどうですか。頭を撫でて可愛がるでしょう。イエス・キリストを信じるということ、命の水である主によって清められたということは、いつ主なる神に近づいても拒まれない存在となるということではないしょうか。私たちが礼拝できるというのは、この主なる神との関係に壁がなくなるということです。主イエスは、疎外される者、不浄な者を召され、新たにされ、御父と和解させてくださる命の主です。私たちがどんな人生を生きてきたにせよ、主は私たちと一緒におられ、私たちを清めてくださり、ご自分を通して父なる神に堂々と礼拝することが出来るようにしてくださいます。 締め括り 今日も主イエスは疎外された者、不浄な者、罪人を探しておられます。そして、キリストの中にある命の水を惜しげもなく注いでくださる方です。主の命の水を通して霊的な渇きが癒され、主の命の水を通して霊的な清めが成し遂げられます。そのような新たになることにより、罪人は天の御父の御前に堂々と進むことが出来ます。今日の新約の本文で、サマリアの女を助けてくださったイエス・キリストは、今でも私たちと一緒におられます。疎外を感じる時、罪悪感の時、一人ぼっちとなったような時、私たちと喜んで一緒におられる主イエスを憶え、主の慰めと愛に寄り掛かり、主と共に歩む志免教会であることを祈り願います。

ほかの福音はない

ラテヤの信徒への手紙1章6~10節(新342頁) 前置き 現代は「多様性の時代」です。時代の移り変わりにつれて、かつて絶対的だったものの影響力は薄くなり、新しく多様なものが次々と生まれています。私たちが生きる日本社会にも、かつては日本人だけが共有する絶対的な価値観や感情があったはずです。しかし、現代のグローバル化は、そうした日本特有の価値観や感情とはまた異なる思想や文化をこの社会にもたらしました。その結果、社会には多様性が生まれたのです。新しく生まれた様々な価値観が昔の伝統的な価値観と衝突しながら、世の中は変わっていきます。もちろん、昔の伝統的な価値観が全て正しいとは言えません。多様性によって、悪い仕来りは消え去り、新しくて良い価値観が生まれるべきです。差別がなくなり、他者の存在が認められ、その中でこの世は平和になるべきです。しかし、一方で、決して変わってはならない伝統的な価値観もあります。多様性を認めながらも、必ず守るべきものは守らなければなりません。私はここで、日本だけでなく、世界において決して変わってはならない、最も伝統的で唯一の価値観について話したいと思います。それは、キリストの福音です。 1. 福音に対する一つの見解 「キリストの恵みへ招いてくださった方から、あなたがたがこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、わたしはあきれ果てています。」(ガラテヤ1:6)皆さんは、すでに福音についてある程度、神学的に理解しておられると思います。「キリストによる救い、永遠の命、罪の赦し」など、長年、教会に通いながら福音について知識を蓄えてきました。ところで、今日の本文6節も福音への知識を加えてくれます。「キリストの恵みへ招いてくださった方」私は福音にこの一つも加えたいです。「キリストの恵みによって私たちを招かれた主なる神と共に歩むこと」つまり、キリストを通じた神のお呼び出しによって神と共に歩むようになったこと、それこそ「良い知らせ」である福音の中身であり、救いではないでしょうか。人間の最も根本的な罪は何でしょうか。人をいじめること、人の物を盗むこと、人を傷つけること、これらのことでしょうか。もちろん、それらも罪なのですが、最も根本的な罪は「真の主である神を知らないこと、知ろうともしないこと、その方から離れること」と言えます。上に並べたいくつかの罪は「神を知らない人の霊的状態」から生まれる罪の結果だからです。すなわち、根本的な罪は神を離れ、神無しに、自分自身が人生の主となることです。 初めての人間アダムの堕落は、神がいなくても構わないという発想から始まりました。善悪を知る樹の実を食べて神のようになれという誘惑に負けてしまったからです。それは「神なしで自ら何かをする」という望ましくない意志から始まったのです。この世は「自発的に、自己主導的に人生を開拓していく」ことを強要しています。神の存在を否定する世なので、自らが主人として生きることを勧めるのです。そのため、主なる神を知らない人たちは「自分の努力で救いを得る」という誘惑に陥りやすいです。「多くの善行、莫大な寄付、情熱的な宗教行為、周期的な奉仕、深遠な悟り」などなど、キリスト以外のものを通して救いを得ようとするのです。そして、自分自身が救いの主体となり、一生自分中心的に救いを探してさまようのです。しかし、聖書ははっきり述べています。「キリストの恵みへ招いてくださった方」、人間の行為や努力ではなく、キリストの救いと神の御導きによってのみ、一方的で圧倒的に救いを得ることが出来るということを。これはガラテヤ書を書いたパウロの思想でもありました。「救いは人間の内から生まれない。ひとえに、人間の外からのキリストの恵みによってのみ与えられる。」福音は「キリストの恵みによって私たちを招かれた主なる神と共に歩むこと」です。 そこに真の救いがあります。それ以外はほかの福音は偽りとなってしまいます。 2.ガラテヤでおこったこと 「キリストの恵みへ招いてくださった方から、あなたがたがこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、わたしはあきれ果てています。」(ガラテヤ1:6) さて、今日の本文の舞台となるガラテヤ地方の教会で、何が起こっていたのでしょうか。パウロが伝えた「キリストの恵みによる福音」つまり、私たちの行いではなく、キリストへの信仰のみによって救いを得るという教えが、否定されていたのです。当時、イスラエル地方や小アジア(現在のトルコ)を巡回しながら律法を教える教師たちがいました。彼らはユダヤ出身でユダヤ教の影響、つまり「律法の行いを守ることによって義とされる」という教えを強く受けた人々でした。彼らはガラテヤ地方の教会に来て、こう教えたのです。「イエスを信じるだけでは不十分だ。律法の行いも守らないと、真の救いは得られない。」パウロが伝えた福音は、あまりにも明快でした。「神が与えてくださった唯一の救い主イエスを信じる信仰によってのみ、救いを得る」これこそが、真の福音です。しかし、当時の哲学や神学の影響を受け、複雑で深遠な教えを求めていた巡回教師たちは「キリストを信じるだけで救われる」という明快すぎる教えに満足できませんでした。そこで、彼らは「別の教え」を付け加えようとしたのです。その結果が、「イエスを信じるだけでは不十分だ。律法の行いも守らなければ救いは得られない」という教えになったのです。これはキリストの一方的で圧倒的な救いの御業を否定し、人間の努力や行いが必要だという考え方でした。それは、福音の核心そのものを否定する偽りでした。 「ほかの福音といっても、もう一つ別の福音があるわけではなく、ある人々があなたがたを惑わし、キリストの福音を覆そうとしているにすぎないのです。しかし、たとえわたしたち自身であれ、天使であれ、わたしたちがあなたがたに告げ知らせたものに反する福音を告げ知らせようとするならば、呪われるがよい。わたしたちが前にも言っておいたように、今また、わたしは繰り返して言います。あなたがたが受けたものに反する福音を告げ知らせる者がいれば、呪われるがよい。」(ガラテヤ1:7∼9)パウロは、このガラテヤの教会に送った手紙を通して「神がくださった、たったお一人の救い主イエスを信じることによってのみ救われる」という真の福音、これ以外のいかなるものも偽りの教えであると、繰り返し「呪い」という厳しい表現をあげて、断固として警告しました。キリストのみによる救いを否定するいかなる教えも(それが、どんなに美辞麗句であり、もっともらしく聞こえる教えであっても)明確な偽りであり、正しくないものであると警告したのです。例えば、日本においても、キリスト教系の異端があります。九州地方では「原始福音・キリストの幕屋」がよく知られています。彼らは旧約聖書の「幕屋」の構造や祭儀を、人間の「魂」と「救いのプロセス」にたとえて、キリスト教の根源に立ち返るべきと主張し、自分らの福音を「原始福音」と呼んでいます。しかしながら、彼らの教えは、この「幕屋」に偏りすぎてしまい、イエス・キリストの十字架と復活による救いというキリスト教の最も核心となる教えから逸れているのです。それが問題です。 3.福音には多様性がない その外にも、韓国からの統一教会や新天地なども、主イエスの福音を歪めて悪質な教えを伝え、人々を惑わしています。先ほど、現代は多様性の時代だと申し上げました。数々の外国人が来日して暮らしており、様々な外からの文化が入っています。伝統的な価値観と新しく多様な価値観が衝突し、新しい価値観が生まれる時代です。しかし、そんな時代にあっても、私たちは昔から受け継いできた守るべき伝統を、必ず守っていきなければなりません。特にキリスト者にとっては、変わらない福音「キリストの恵みによって私たちを招かれた主なる神と共に歩むこと」を、この多様性の時代にあっても、必ず堅く守って生きるべきです。キリスト以外のいかなる存在にも救いの権限を許されなかった主なる神の御心を憶え、他の存在、行い、熱心、献金、活動などによるのではなく、ひとえにキリスト・イエスへの信仰と、その方のお赦しによってのみ、私たちの救いが成し遂げられるということを忘れてはなりません。少なくとも、福音には多様性がないということを心に刻み、信仰生活を続けていきたいと思います。時々、異端の人々が、家に訪問して、声をかけることがあります。そんな時、戸惑ったり、冷たく対応したりするのではなく「私はおひとりイエス・キリストによってのみ救われることを確信する日本のキリスト教会の教会員として神さまと共に歩んでいます。」と、私たちの信仰をはっきり示してはいかがでしょうか。今日、パウロが自分の福音への思いをはっきり語ったように、私たちも偽りを恐れず、真の福音を大胆に伝える勇気をもっていきたいと思います。 締め括り 最近、日本と韓国の社会で大きく物議を醸した統一教会の教祖、韓鶴子(ハン・ハクチャ)さんが韓国で逮捕されました。理由は政治と宗教の癒着による不正のためです。 2022年7月にも統一教会問題によって安倍晋三元首相が銃撃で亡くなる事件がありました。韓鶴子さんは裁判を受けながら、自分が「平和の母」だと主張しました。そして、神の一人娘だとも主張しました。世界中の数十数百万の人々が統一教会の偽りの教えにだまされ、金銭と時間と健康を無駄遣いにしてしまいました。私たちは絶対に、そのような偽りにだまされてはなりません。私たちに許された唯一の救い主、唯一の頭は、主なる神から遣わされたイエス·キリストおひとりだけであり、日本キリスト教会志免教会はひたすらその方だけを私たちの頭として信じているのです。その他に福音はありません。福音は唯一です。「キリストの恵みによって私たちを招かれた主なる神と共に歩むこと」「神が与えてくださった、たったお一人の救い主イエスを信じることによってのみ救われる」という変わらない福音を堅くつかみ、正しい信仰生活を営んでいく志免教会の兄弟姉妹でありますよう祈り願います。