わたしがあなたと共にいる。
イザヤ書41章10節(旧1126頁) マタイによる福音書28章20節(新60頁) 前置き 歴史の中で人類は、偉大な業績を成し遂げてきました。文明を築き、文字を造り、哲学を発展させ、科学を進歩させてきました。文明の発展に伴い、巨大な鉄の塊を海に浮かべ、空に飛ばして船と飛行機を発明し、今では宇宙にまで進出できる技術を持つようになりました。医学の発展は、人間の寿命を飛躍的に延ばしました。地球上のすべての生命体の中で、人間だけがこのような目覚ましい発展を成し遂げたゆえに、人間は本当に偉大な存在ではないかと思います。しかし、同時に人間はあまりにも悲惨な存在でもあります。文明や科学が発展しても、依然として未来への不安を拭い去ることができず、寿命は延びましたが、依然として憎み合い、対立しあい、傷つけ合います。富んだ者は富んだ者としての不安の中で生き、貧しい者は貧しい者としての不安の中で生きています。そして結局、両者とも死をもって終わりを迎えます。人間は偉大な存在ですが、その終わりが必ず訪れるため、結局は滅びるしかない悲惨な存在なのです。これが、偉大であるにもかかわらず完全ではあり得ない人間の限界です。このような人間の限界をご存知である主なる神は、聖書全体の御言葉を通して「人間よ、あなたたちは不完全である。しかし、私は完全である。完全な私が、あなたたちを助け、永遠に共に歩んでいく」と絶えず語りかけておられます。今日の本文の言葉も、人間と永遠に共に歩むことを望んでおられる主なる神の御言葉であります。 1. 共にいることを望んでおられる主 「恐れることはない、わたしはあなたと共にいる神。たじろぐな、わたしはあなたの神。勢いを与えてあなたを助け、わたしの救いの右の手であなたを支える。」(イザヤ書41:10) イザヤ書には、主なる神の民でありながらも、主を侮り、異教の神々を拝み、偶像礼拝によって主を裏切ってしまったイスラエルの民への裁きの宣言が書いてあります。そして、その後のイスラエルへの赦しと回復を預言する御言葉も記してあります。(1-39章にはイスラエルの罪と裁き、40-66章にはイスラエルの救いと回復の御言葉が記されています。) それを通して、主はご自分の民の罪は裁かれますが、主の民そのものは愛しておられることが分かります。主は人間を愛しておられます。主の創造は、ご自身の形(創世記1:27)に似せて造られた人間と共にいるための偉大な始まりでした。しかし、主の権威を認めようとしない人間の罪の性質によって、人間は堕落し、主から遠ざかってしまいました。イスラエルの民が主を裏切り、偶像を崇拝するようになった理由も、主から遠ざかろうとする人間の罪の性質から生じたものでした。歴史が始まって以来、人間は常に自分自身が歴史の主導者になろうとしてきました。原始部族では最も強い者が支配者となり、強い部族は弱い部族を占領し、そうして生まれた国々が互いに戦争を繰り返し、その中で最も強い国によって帝国が生まれました。そして、その帝国でさえも互いに征服しようと対立したのです。 歴史の中で名を馳せた人物や帝国は、人(皇帝)を中心にして自らを高め、主なる神を排除する偶像礼拝の道を歩んできました。結局、罪の本性を持った人間は、主なる神を主として認めず、人間自らが主と神になろうとする偶像礼拝を本能的に行って生きる存在なのです。私たちの中にもそのような性質が残っており、時には主の御前で罪を犯すことがあります。それでも、神はこのように罪を犯す人間を遠く捨てて放っておかれず、赦し、近くにいてくださることを、そして共にいてくださることを望んでおられるお方です。旧約聖書のイスラエルの民が主の御言葉に聞き従わず、自ら異教の偶像を拝み、主から遠ざかった時も、彼らに裁きを下されましたが、滅ぼすことまではなさらず、再び立ち上がれるように導いてくださいました。今日の旧約聖書の本文は、まさにその主の御心を聖書の読み手に隠すことなく示しています。このイザヤ書の御言葉は、ただ昔のイスラエルの民に与えられただけの御言葉ではありません。たとえ数千年前に記されたものであっても、今も生きており、今日を生きる主の民である私たちにも、主の御心がどのようなものであるかを教えてくれるのです。主は私たちを愛しておられるお方です。主なる神は私たちへの愛のゆえに、ご自身の独り子までも十字架のいけにえとされ、私たちを赦してくださったお方です。主なる神が共にいてくださるということは、すなわち主なる神の愛の象徴なのです。 2. 私たちは決してひとりぼっちではない 「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイによる福音書28:20)今日の新約聖書の本文にも、主の民と世の終わりまで、共にいてくださるというイエス・キリストの約束が記されています。旧約聖書全体を貫く「主なる神が人間と共にいるのを望んでおられる」という主の約束が、唯一の救い主であるイエス・キリストの贖いによって完全に成就されました。主なる神は、この世のすべての人類が救われ、共にいることを望んでおられますが(Ⅰテモテ2:4)、旧約時代には、おもにイスラエルの民と主を信じるようになった異邦人に限られた約束でした。なぜならば、旧約時代には、人間のすべての罪を贖い、彼らの代表となる仲介者、つまり、仲保者がいなかったからです。ということで、すべての民族に主なる神の民となる道が開かれていませんでした。主の御心は、すべての人類が主なる神の赦しを受け、主と共に歩むことでしたが、仲保者がいなかったため、人間は自力では、主を知ることも、主に近づくこともできなかったのです。しかし、仲保者であるイエス・キリストの登場は、民族、文化、国家、人種といったすべての壁を打ち砕き、誰もが主なる神の救いの御言葉を聞き、信じることができる霊的な革命となったのです。 「これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。」(Ⅱコリント5:18)このように、イエス・キリストの存在は、主なる神と人間の間の壁を打ち砕き、和解し、共にいるための鍵となります。したがって、イエス・キリストが私たちと共にいてくださるなら、それはすなわち主なる神と私たちが共にいることと同じだと言っても過言ではないでしょう。そして、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」という主イエスの約束により、主イエスを通して神は私たちと常に共におられるようになったのです。キリストを通して主なる神を信じるようになった私たちは、決してひとりぼっちではありません。旧約のイザヤ書でも、新約のマタイによる福音書でも、主なる神は私たちと共にいると約束してくださいました。何よりも、人類を赦し、和解させるために遣わされた救い主イエスの存在によって、その約束は永遠に保証される、移り変わりのない契約となったのです。ですから、私たちが孤独を感じる時も、神などいないと感じられる時も、苦難の時も、喜びの時も、いかなる喜怒哀楽の瞬間にも、主なる神は私たちと常に共にいてくださり、私たちの人生の中で永遠に生きておられるのです。主が共にいてくださることを信じ、孤独と苦しみに負けず、主なる神への信仰をもって生きていることを願います。主なる神は今日も、キリストを通して私たちと共にいてくださり、私たちを助けてくださることを望んでおられるからです。その信仰の中で、主は働いてくださいます。 締め括り 前置きでお話ししたように、人間は偉大な存在でありながら不完全な存在です。しかし、完全であられるキリストが私たちと共にいてくださるなら、私たちは真の意味として、主にあって偉大な存在となることができます。それは、私たち自身を自ら高める偶像礼拝のような偉大さの追求ではなく、キリストが共にいてくださるゆえに、主なる神が認めてくださる神による真の偉大さであります。本日の礼拝は、敬愛する某姉妹が志免教会で守られる最後の公式な礼拝となります。この姉妹は、ここ数十年間、志免教会の一員として心から主に仕えてこられました。しかし、肉体の弱さのため、これ以上教会に出席することが難しくなりました。それでも、主なる神を信じ、志免教会と共に歩んでこられた彼女の人生は、キリストのみもとで、主なる神の恵みによって偉大な歩みでした。彼女はいつも謙遜に仕え、無牧時代にも教会を愛し、支えてくださいました。たとえ教会に来て礼拝をささげることが難しくなっても、主なる神はこれからも姉妹と常に共にいてくださり、彼女の道を導いてくださるでしょう。今日のこの説教は、この姉妹にささげる慰めのメッセージとなることを願い、作成しました。主なる神が彼女と志免教会の皆さんと、永遠に共にいてくださることを信じます。世の中のすべての人々が私を捨て去っても、主だけは私と常に共におられ、導いてくださることを信じ、これからも歩んでいく志免教会でありますよう祈り願います。