私たちのいるべき場所

出エジプト記 2章11~25節(旧95頁) ローマの信徒への手紙14章8~9節(新294頁) 前置き イスラエルの先祖であるヤコブとその一族は、主なる神の御導きにより、ひどい飢饉を避けてエジプトに移住しました。ヤコブの子孫はエジプトで栄え続け、数十万人の民族に成長しました。しかし、ヤコブの時代の友好的なエジプトの王朝が滅び、他の王朝が復権して、ヤコブの子孫イスラエルに大きな試練が迫ってきました。しかし、それはイスラエルを滅ぼすための試練ではなく、それによって目を覚まし、主と先祖の約束の地、イスラエル民族のいるべき場所であるカナンに導かれる主なる神のご計画でした。主の民にはいるべき場所があります。いくら満足し、安らかなところにいるといっても、主のみ旨に適わない場所なら、そこはキリスト者のいるべき場所ではありません。主の民のいるべき場所ではなく、主と関係のない自分の罪の本性が願う場所にいる時、主は試練と苦難を装った御導きによって、ご自分の民の目を覚まさせ、主が備えてくださる場所に立ち戻る準備をさせてくださいます。出エジプト記は「主の民のいるべき場所」についての物語なのです。 1. 主の御業は人間の手によっては成し遂げられない エジプト王のイスラエル民族への弾圧を避け、ナイル川に捨てられた赤ちゃんモーセはファラオの王女に拾われ、エジプトの王宮に入りました。幸いにも、モーセは主の恵みによって実母を乳母に育つことが出来、「ヘブライ人」のアイデンティティを失わずにエジプト人として成人するようになりました。王女の息子モーセは当時の高級学問を学んでエリートとなり、エジプト社会で無視できない存在となりました。モーセはヘブライ人とエジプト人の境界にいる存在でした。おそらく、そんな位置だったモーセは、自分がヘブライ人を政治的に救う人物だと思い込んでいたかもしれません。彼だけがエジプトでの権力とヘブライ人への理解が両立する人だったからです。「モーセが成人したころのこと、彼は同胞のところへ出て行き、彼らが重労働に服しているのを見た。そして一人のエジプト人が、同胞であるヘブライ人の一人を打っているのを見た。モーセは辺りを見回し、だれもいないのを確かめると、そのエジプト人を打ち殺して死体を砂に埋めた。」(出2:11-12) しかし、そんなモーセの情熱が問題となってしまいました。ヘブライ人を助けるために、エジプト人を殺してしまったからです。彼はエジプト人の遺体を沙に隠し、なかったことにしようとしました。 「翌日、また出て行くと、今度はヘブライ人どうしが二人でけんかをしていた。モーセが、どうして自分の仲間を殴るのかと悪い方をたしなめると、誰がお前を我々の監督や裁判官にしたのか。お前はあのエジプト人を殺したように、このわたしを殺すつもりかと言い返したので、モーセは恐れ、さてはあの事が知れたのかと思った」(出2:13-14)モーセが再びヘブライ人のところに行き、争いを仲裁しようとした時、一人がモーセに言い返しました。「誰がお前を我々の監督や裁判官にしたのか。お前はあのエジプト人を殺したように、このわたしを殺すつもりか」誰も知らないと思っていたのに、多くの人がモーセの殺害を知っていたわけです。ヘブライ人ではあるが、後ろ盾の王女によって、エジプト社会の一員となったモーセ。しかし、エジプト人殺害によって彼に敵対していたエジプトの何人かの権力者たちは、彼を攻めようとしたでしょう。だけでなく、ヘブライ人も彼を認めませんでした。そこでモーセは持ちこたえられず、エジプトから逃げてしまいました。モーセは自分の背景と権力を用いてヘブライ人の指導者になり、イスラエルを解放させようとしていたのかもしれません。彼には力と知識があったからです。しかし、彼の自信は、むしろ自分の計画を潰す障害となってしまいました。意気揚々だった彼は、一晩にエジプト人にも、ヘブライ人にも、認められない逃亡者になってしまったのです。 以上を通じて、私たちは主なる神の御業の成就について学ぶことが出来ます。主の御業は人間の情熱や力によって成し遂げられるものではありません。私の大学生の頃、韓国の教会では「高地論」という言葉が流行しました。文字通りに「キリスト者が社会の高い位置を占め、社会を変革する」という思想でした。ところが、二十数年たった今、韓国の教会はその社会でそんなに評判ではありません。一部のことですが、元大統領の不正にかかわった疑惑もあります。恥ずかしい現実です。また、日本の教会にも、高地論のような思想があるかもしれません。数年前、金子道仁という牧師が参議院議員に当選しました。他教派ではかなり人気だったと覚えています。彼を支持するキリスト者の中には、彼が高い位置に上がって日本社会に大きい影響を及ぼすだろうと、日本の教会の希望であるかのようなニュアンスで支持する人もいました。私個人も金子さんがとても立派な方だとは思いますが、彼によって日本社会が変革したとは言えません。世界を変えるというのは、特別な一人に託されるものではありません。唯一主なる神だけがご自分の御手を通して、御心によって成し遂げられる事柄です。教会は、そのために主の手と足として用いられるだけで十分です。もし教会が神の御心と関係なく自分で世を変えようとしたら、今日の本文のモーセのように困難な目にあってしまうかもしれません。 2. 主の御業は御心に基づいてのみ成し遂げられる。 だからといって「教会は何もしなくて良いから」という意味ではありません。先の金子道仁さんのような政治家は参議院議員という自分の場所で、また、志免教会のみんなは、めいめい日常の場所で、主に命じられた神と隣人への愛、そして福音伝道に努めていけば良いと思います。そのような日常の中で、主はご自分の御心に基づき、教会を用いられて世界を変えていかれるでしょう。私たちに出来るのは、主の御言葉に聞き従いつつ、日常を生きることだからです。「ファラオはこの事を聞き、モーセを殺そうと尋ね求めたが、モーセはファラオの手を逃れてミディアン地方にたどりつき、とある井戸の傍らに腰を下ろした。」(出2:23-25) エジプトから脱出したモーセは、ファラオの脅威を避け、ミディアン地方へ逃走しました。ミディアンは現在のアラビア半島の北西部を意味しますが、牧畜をしながら、流浪する、アブラハム系の一族の名でもありました。ミディアン地域は砂漠であるため、羊の餌が足りず、頻繁に移動しなければなりません。つまり、モーセは大帝国での落ち着いた生活から離れ、決まった場所なく、移動し続けなければならない不安定なミディアンでの生活へと、その居場所が変わったのでした。 「モーセがこの人のもとにとどまる決意をしたので、彼は自分の娘ツィポラをモーセと結婚させた。彼女は男の子を産み、モーセは彼をゲルショムと名付けた。彼がわたしは異国にいる寄留者(ゲール)だと言ったからである。」(出2:21-22)ミディアンの祭司の配慮で落ち着くようになったモーセは、以後「ツィポラ」という名の妻をめとり、息子「ゲルショム」をもうけました。そうして、モーセはエジプトのエリートからミディアンの平凡な羊飼いへと、その位置が変わったのです。もはやモーセには昔の権力も地位もありませんでした。しかし、皮肉なことに彼がこんなに普通の人になった時、主なる神は彼に現れ、イスラエルの指導者に立ててくださいます。先ほど前置きでお話ししましたように、キリスト者には自分のいるべき場所があります。モーセはエジプトの王子のように育ちましたが、そこは彼の居場所ではありませんでした。モーセは自分の権力と知識でヘブライ人を導こうとしましたが、そこも彼の居場所ではなかったのです。彼の居場所は剣を持った政治的な指導者ではなく、杖を持ったごく平凡な羊飼い、このミディアンでの生活でした。しかし、彼がそうなった時はじめて、主なる神は彼を訪れて来られたのです。 「それから長い年月がたち、エジプト王は死んだ。その間イスラエルの人々は労働のゆえにうめき、叫んだ。労働のゆえに助けを求める彼らの叫び声は神に届いた。神はその嘆きを聞き、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。神はイスラエルの人々を顧み、御心に留められた。」(出2:23-25) そして、昔モーセがやろうとしたイスラエルの指導者の業を、主は改めて彼にお委ねになりました。40歳ごろ、モーセが情熱と血気で目指したイスラエルの解放は、実は神の御業ではありませんでした。それはモーセ自身の業だったのです。しかし、モーセがミディアンの羊飼いとなり、何の力もなくなった時、主なる神はイスラエルの先祖たちとの契約を思い起こされ、80歳の羊飼いモーセを召され、主の御業に招いてくださったのです。つまり、主の御業は主の時に、主のご意志によって成し遂げられるということです。また、主の御業は、人の意志や情熱ではなく、ご計画と約束によって、私たちに与えられるものです。重要なのは「私たち自身の情熱」ではなく「主なる神の御心」ということです。教会のあり方は徹底して主の御心に自分の歩みを合わせることです。そして、その主なる神がご自分の手を差し伸べられる時、教会は喜んで御手の道具として用いられるべきです。 締め括り 「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。」(ローマ書14:8) 前置きで「キリスト者には自分のいるべき場所がある」と申し上げました。モーセは王宮での王子のような生活ではなく、荒野の羊飼いのような生活の中で、主なる神に出会い、真のイスラエルの指導者と召されました。人の目にはみすぼらしいミディアンの荒野が、主の御目にはイスラエルの指導者がいるべき最適な場所だったのです。私たちも時には、今こそ我が教会が動く時、あるいは何とかやらなければならないと気を揉む時があるかもしれません。しかし、そのたびに私たちは思い起こさなければなりません。今現在、自分がいるべき場所はどこか。自分のやるべきことは何か。「自分のために生きるのではなく、主のために生き、死ぬ人生」を憶え、私たちのいるべき場所を憶える一週間を過ごしてまいりましょう。

主の御名

出エジプト記3章13~15節(旧97頁) ヨハネによる福音書8章58~59節(新184頁) 前置き 1。「わたしはある」という言葉の意味。 「モーセは神に尋ねた。わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、彼らは『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか。」(13) 出エジプト記で、エジプトの奴隷だったイスラエル民族を解放のために、主はモーセを召されました。その時、モーセは神にお聞きしました。「主が私を遣わされたと言ったら、同胞たちが私の言うことを信じてくれるでしょうか? 彼らがあなたについて聞いたら、私はあなたのことをどう言えば良いんですか?」東洋文化圏において、名前はとても大事な意味を持ちます。時代劇を観ると決闘の前に「何々家の誰、何々流の誰」と名乗る場面がよく出てきます。旧約聖書でも、ある存在の名前は大きな意味を持つ場合が多いです。「欺く者」という意味のヤコブが、主と出会った後「神を畏れる者(神に勝つという意味もある)」と名前が変わった物語が代表的です。このように聖書での名前は、ある一人の存在意味を明らかにする大事なものです。つまり、モーセが神の御名をお聞きしたのも、ただの身元確認ではなく、神の存在意味を確かめたいとの理由にあるでしょう。「イスラエルの解放を私に命じられるあなたは一体どなたですか?」という意味でしょう。 「神はモーセに、わたしはある。わたしはあるという者だと言われ、また、イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方が、わたしをあなたたちに遣わされたのだと。」(14節)モーセの問いに主は「わたしはあるという者だ」と答えられました。主のこのお答は不思議で、文法的にも正しくありません。「私は誰である」と答えるのが一般的ですが、主はただ「わたしはある」と答えられたからです。これはヘブライ語「エヘイェ・アシェル・エヘイェ」、ギリシャ語「エゴ・エイミー」の翻訳ですが、直訳で「わたしはわたしだ」に近います。いずれも意味が分かりにくいので、自然に意訳すれば「私は自ら存在する者である。」になると思います。万物には根源があります。人間には親がおり、先祖がいます。この会堂の材料もある山の岩、ある森の木、ある鉱山の金属に由来します。世の中のすべてのものは、自ら存在することが出来ません。しかし、自ら存在する神、「わたしはあるという者だ。」と言われた主なる神は、この世のすべての先におられ、すべてに存在理由を与えられた絶対者なのです。「わたしはある」という名前には「自ら存在する者」主なる神の絶対者としての権威と意味が隠れています。 モーセに現れられた主なる神は、自ら存在する方です。主はすべての存在の根源であり、すべての力と栄光の源です。この神がモーセを召され、遣わされたわけです。そして、主はモーセを用いてイスラエルを解放されました。大帝国エジプトでさえ、自ら存在する方のご意志に逆らうことが出来なかったのです。主が永遠にご自分の民と共におられ、その先祖アブラハムとイサクとヤコブと結ばれた約束どおりに、ご自分の業を成就してくださいました。ですから、主なる神はご自分の約束どおりに、永遠に主の民と共におられるでしょう (わたしは「我が民と共に」ある) 。そして、その約束はイマヌエル(神が私たちと共におられる。)という名の新約聖書のイエス・キリストのもとで成就するでしょう。 したがって、私たちは記憶しなければなりません。 私たちの主は「自ら存在する方、ご自分の御心のままに成し遂げられる方、ご自分の民と永遠に共におられる方」です。私たちはひとりぼっちではありません。「わたしはある」という方が私たちと共におられるからです。 2.イエス・キリストの「わたしはある」 現代を生きる私たちは、古代のヘブライ語やギリシャ語が理解できません。私たちはただ日本語だけで聖書を読んでいます。しかし、原文を理解して読むことができれば、さらに大きい恵みを得るようになるしょう。今日の新約の本文を読んでみましょう。「イエスは言われた。はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から『わたしはある』すると、ユダヤ人たちは、石を取り上げ、イエスに投げつけようとした。」(ヨハネ福音8:58-59) ヨハネ福音8章はイエスに反対するファリサイ派の人々と主イエスの論争の場面です。主イエスは、神が自分たちの父であると言っている、主に反対するユダヤ人たちに「本当に神を父だと思うなら、私に反対しないでむしろ愛するだろう」と言われました。そして「イエスに反対するユダヤ人の先祖であるアブラハムは、主の日を見るのを楽しみにしており、それを見て、喜んだのである」と言われました。するとユダヤ人たちは50歳にもならないイエスがどうやってアブラハムを見たのか問い返します。その時、主イエスは「アブラハムが生まれる前から『わたしはある。』」と答えられました。するとユダヤ人たちは石を取り上げ、イエスを殺そうとしました。 ユダヤ人たちは「アブラハムが生まれる前から『わたしはある。』」という言葉に、なぜ憤ってしまったのでしょうか。 単純に先祖アブラハムを冒涜したからでしょうか。実は日本語では見えない表現のため、ユダヤ人は憤ってしまったわけです。新約本文58節を見ると「わたしはある」という言葉があります。この表現はギリシャ語の「エゴ・エイミー」なのです。先ほど「わたしはある」のヘブライ語は「エヘイェ・アシェル・エヘイェ」であり、これをギリシャ語に訳すると「エゴ•エイミー」になるとお話ししました。「アブラハムが生まれる前から『わたしはある。』」すなわち、今日の旧約本文で主なる神がモーセに言われた「わたしはある」という言葉を主イエスも言われたわけです。「アブラハムが生まれる前から『わたしはある。』」という表現は「アブラハムが生まれる前から、私は自ら存在する者だ」という意味にもなるのです。イエスご自身がまさに父なる神と同一本質で、同等の存在であることを示す表現です。イエスがご自身がすなわち神であるということを宣言される言葉なのです。おそらく当時のユダヤ人なら、イエスの「わたしはある」という言葉に、非常に大きな衝撃を受けたに違いありません。イエスはこの本文でご自分のアイデンティティをはっきり示されたのです。まさに今日の旧約本文でモーセに「わたしはある」とおっしゃった神としてイエスはご自身の存在について明らかに言われたのです。 私たちが主と崇める主イエス・キリストは神です。主イエスは、三位一体の神の一位格、御子なる神です。主イエスは「自ら存在する方」です。イエスの栄光は、父なる神よりけっして劣っていません。同一の本質、同等の全能さを持っておられる方です。今日の旧約本文で「わたしはある」つまり「自ら存在する者」である主は、イスラエルの解放を約束されます。そして主はモーセを通して、実際にその解放を成し遂げられます。私たちの「わたしはある」と言われた方、「自ら存在する者」であるイエス•キリストは、父なる神から与えられた力と栄光で私たちを死と呪いから解放してくださいました。 私たちは教会の頭である主イエスが「自ら存在する者」であることを信じ、主なる神がイスラエルをエジプトから救い出され、乳と蜜の流れる土地に導いてくださったように、イエス•キリストも私たちを罪から救い出され、神の祝福のもとに導いてくださることに希望を置いて生きてまいりましょう。主の御名「わたしはある」すなわち、主はイエス•キリストを通して、今日も私たちと共に「おられます。」これが私たちと共におられるイマヌエル(神が私たちと共にいらっしゃる。)の証しではないでしょうか。 締め括り 主なる神には、数多くの名前があります。その中、聖書で最初に出てくる名前は、今日の「わたしはある」です。 主は私たちがひとりぼっちである時も、我が家族の中にも、我が職場、私たちの社会的な関係の中にも共におられる方です。主は世の中のすべてを満たしておられる全知全能の方です。私たちを一度選ばれた主は絶対に私たちを見捨てられず、いつも「わたしはある」という存在として、私たちの人生の道に共におられるでしょう。この主なる神がモーセを通してイスラエルを救われたのです。そして、この主なる神がイエス・キリストの民である私たち、キリストの教会を通して、主の御心を成し遂げていかれるでしょう。「わたしはある」という名の神、自ら存在する方、私たちと一緒におられるインマヌエルの主、キリストを通して、私たちと共におられる絶対者。主の恵みを憶え、感謝しつつ、この一週間を生きてまいりましょう。

心の畑

エレミヤ31章33節(旧1239頁) ルカによる福音書8章1~15節(新118頁) 前置き 今日は、主イエスが語られたとても有名な比喩の一つである「種を蒔く人のたとえ」を通して、ルカによる福音書の御言葉を分かち合いたいと思います。この物語を通じて、今を生きるキリスト者である私たちに主からの大事な教訓が与えられますよう祈ります。 1. 主と一緒に福音を伝える 「すぐその後、イエスは神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けられた。十二人も一緒だった。悪霊を追い出して病気をいやしていただいた何人かの婦人たち、すなわち、七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア、ヘロデの家令クザの妻ヨハナ、それにスサンナ、そのほか多くの婦人たちも一緒であった。彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた。」(ルカによる福音書 8:1-3) 主イエスは「種を蒔く人のたとえ」を語られた時、十二名の弟子たち、そして、多くの婦人たちと一緒に福音伝道をしておられました。福音とは「幸福な音」つまり「良い知らせ」を意味します。イエス・キリストが宣べ伝えられた良い知らせとは、この世界を創造されたおひとりの主なる神が人間を見捨てられず、イエス・キリストによって真の救いを与えてくださるという救いの知らせです。旧約聖書、創世記によると、人間は罪(原罪)によって造り主なる神の敵となったと言われます。しかし、新約聖書と旧約聖書には、その神が罪を犯した人間をそのまま見捨てられず、和解して再び神の子に迎え入れることを願っておられると記してあります。つまり、福音とは、神と人間の破れた関係を修復し、造り主である神と被造物である人間の真の和解を宣言する良い知らせのことなのです。その結果、人間は真の造り主である主なる神のことに気づき、その方と和解し、永遠に一緒に歩む恵みをいただけるようになりました。 キリスト教会では、この「良い知らせ」つまり、福音を伝える行為を「伝道」と言います。残念なことに、世の人々において、この伝道というのは単なる布教活動、あるいは宗教を強要することと誤解される場合が多いです。聖書が語る伝道は、そんなものではありません。今日の本文を見ると、主イエスは弟子たちや何人かの婦人たちと一緒におられました。特に主と一緒に伝道した婦人たちがとても印象的です。彼女たちは、主イエスによって、悪霊から解放されたり、心の平和を得たり、助けを受けたりしたゆえに、信仰ができ、主イエスと主の弟子たちに仕えるようになった人々でした。彼女たちは主イエスと一緒に歩み、その方の生き方と御言葉を通じて真理を学び、主なる神と和解する人生をいただいたのです。そして、自分たちの経験と悟りを証とし、人々に仕えることによって福音を伝えました。それこそが真の伝道でした。ですから、真の良い知らせ、すなわち福音伝道とは、主なる神が私たちと共に歩んでくださることを信じ、その恵みの証人となることです。自分の人生を通して主の御言葉と恵みを経験し、それを自然に隣人に伝えることです。人々を教会に強引に連れてくること、カルト宗教のように改宗を狙って布教することが目的ではなく、主なる神が自分と一緒におられることそのものに感謝し、一緒にいてくださる主の恵みが隣人にも開かれていることを生活を通して伝えることです。伝道とは、まさに自分の証しを自分の人生を通して隣人に伝えることです。 2. 私たちの心の畑は? しかし、この真の伝道を行うためには、私たちの心の畑の状態が何よりも大事です。「大勢の群衆が集まり、方々の町から人々がそばに来たので、イエスはたとえを用いてお話しになった。 種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、人に踏みつけられ、空の鳥が食べてしまった。ほかの種は石地に落ち、芽は出たが、水気がないので枯れてしまった。ほかの種は茨の中に落ち、茨も一緒に伸びて、押しかぶさってしまった。また、ほかの種は良い土地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ。」(ルカによる福音書 8:4-8)主なる神は救い主イエスを通して、この世に福音の種を蒔き始められました。そして、主イエスの体なる共同体である教会を通して、今でも福音の種を蒔いておられます。今日の主イエスのたとえは、まさにこの福音の種である主の御言葉が、人の心の中でどのような形で働くのかについてヒントを与えてくれます。①道端:御言葉を聞いても心に留めない心。御言葉が私たちの中に入り込む隙のない、頑なな状態。②石地:御言葉を喜んで受け入れるが、根がないため、試練が来るとすぐに折れてしまう心。御言葉への情熱があるようだが、信仰の根が浅い状態。③茨の中: 御言葉を聞くが、この世の思い煩いや富や快楽に覆いふさがれ実を結べない心。御言葉と欲望が入り混じり、信仰が育たない状態。④良い土地: 御言葉を聞き、それを守り、忍耐して実を結ぶ心。御言葉が心深く根を下ろし、30倍、60倍、100倍の実を結ぶ心。 主なる神は、昨日も今日も明日も変わることなく、主の御言葉を伝えておられる方です。聖書に記してある御言葉を通じて、牧師の説教を通じて、現代ではYouTubeや様々なメディアを通じて、イエス・キリストの良い知らせ、福音を伝えておられます。このようにして、主は福音の種を蒔いておられるのです。そして、その福音の種は過去2000年の間、移り変わりなく、今に至っています。(キリスト教と名乗るカルトや異端の教えは論外) ですから、変わるのは福音の言葉ではなく、その御言葉を聞く人の心なのです。つまり、私たちの心なのです。今、私たちの心は4つの畑のうち、どの畑でしょうか?道端のように、御言葉を聞いても無関心ではないでしょうか?石地のように、御言葉は聞くけれど、信仰の根が浅いため、すぐに倒れてしまうのではないでしょうか?茨の中のように、この世の思い煩いや富、あるいは快楽のため、信仰が育たない状態ではないでしょうか?それとも、主なる神の御言葉を聞いて感謝し、辛い時も、嬉しい時も、主への信仰と感謝とをもって忍耐し、信仰が育つように努める心を持っているでしょうか?私たちは、伝道活動による教会員の数を増やす前に、「私は主の御言葉に聞き従い、毎日成長する信仰生活を過ごしているだろうか?」と、まず顧みるべきではないでしょうか。 3. 良い心の畑を持つ人 今日の新約聖書の冒頭には、良い心の畑を持つ人々が出てきています。彼らは、弟子たちの次に記されている「マリア、ヨハナ、スサンナ、そのほか多くの女たち」です。福音書の後半、主イエスが逮捕され、苦しみを受けられた時、弟子たちは主を裏切ってみんな逃げてしまいましたが、その婦人たちは最後まで主について行き、悲しみました。そして、お墓の主イエスの遺体を守り、主が復活された時、最初に復活されたイエスと会ったのも、弟子たちではなく婦人たちでした。今日の本文によると、この婦人たちは自分の持ち物を出し合って、主イエスと主の人々に仕えたとあります。ここで重要なのは、「自分の持ち物を出し合った」ではなく、「一行に奉仕した」ということです。この婦人たちが聖書に記されている理由は、献金をたくさんしたり、教会に多くのものを提供したりしたからではなく、主への信仰のため、心から教会と人々に仕えたからでした。家父長的な思想が現代に比べてはるかに強かった古代イスラエルの記録に、この女性たちが記されているということは、それだけ、初期の教会の人々が彼女たちの信仰を大切にしていた証拠なのです。そして、彼女たちのそのような素晴らしい信仰は、まさに主なる神が蒔かれた御言葉の種が、彼女たちの良い心の畑に蒔かれ、すくすくと育ち、実を結んだからではないでしょうか? 礼拝に毎週出席し、祈祷会に欠席せず、聖書をたくさん読み、教会の行事に積極的に参加し、大金の献金をすること、もちろん、それらも信仰を表す基準の一つであるかもしれません。しかし、それ以上重要なのは、今日の新約聖書に記された婦人たちのように、人目につかない場所で、主と隣人を愛し、御言葉に聞き従い、その御言葉通りに生きながら仕えることにあるのです。どうせ、私たちの信仰を判断するのは、牧師や教会員ではなく、すべてを見守っておられる主なる神だからです。私たちは果たして、良い心の畑を持って過ごしているでしょうか?私たちもこの婦人たちのように、純粋で心からの気持ちで主と教会、そして私たちの隣人に仕える信仰を持っているでしょうか?そのような信仰を持った私たちであることを祈ります。今日の本文を読んで顧みると自分の信仰が弱く感じられるかもしれませんが、それでも挫折しないようにしましょう。なぜなら、今日の旧約聖書の本文で、主がこのように約束してくださったからです。「しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。 」(エレミヤ書 31:33) 主なる神は、今日も私たちと一緒におられ、その御言葉が主の民の心の中で働くように助けておられます。信仰を諦めない限り、主は私たちの中で黙々と私たちを助けてくださるでしょう。そのことを忘れない私たちでありたいと願います。 締め括り 長年の信仰生活をし、聖書の御言葉や説教に多く触れてきた人々は、それに慣れすぎて信仰と御言葉に無感覚になりがちです。そうして私たちは、知らず知らずのうちに道端や石地や茨の中のような心を持つようになりやすいと思います。だからこそ、私たちは毎日目を覚まし、良い心の畑を待つために、主の御言葉を心に留めて生きるために力を入れるべきでしょう。志免教会につらなる私たちみんなが良い心の畑を持った者として生きることを祈り願います。

わたしがあなたと共にいる。

イザヤ書41章10節(旧1126頁) マタイによる福音書28章20節(新60頁) 前置き 歴史の中で人類は、偉大な業績を成し遂げてきました。文明を築き、文字を造り、哲学を発展させ、科学を進歩させてきました。文明の発展に伴い、巨大な鉄の塊を海に浮かべ、空に飛ばして船と飛行機を発明し、今では宇宙にまで進出できる技術を持つようになりました。医学の発展は、人間の寿命を飛躍的に延ばしました。地球上のすべての生命体の中で、人間だけがこのような目覚ましい発展を成し遂げたゆえに、人間は本当に偉大な存在ではないかと思います。しかし、同時に人間はあまりにも悲惨な存在でもあります。文明や科学が発展しても、依然として未来への不安を拭い去ることができず、寿命は延びましたが、依然として憎み合い、対立しあい、傷つけ合います。富んだ者は富んだ者としての不安の中で生き、貧しい者は貧しい者としての不安の中で生きています。そして結局、両者とも死をもって終わりを迎えます。人間は偉大な存在ですが、その終わりが必ず訪れるため、結局は滅びるしかない悲惨な存在なのです。これが、偉大であるにもかかわらず完全ではあり得ない人間の限界です。このような人間の限界をご存知である主なる神は、聖書全体の御言葉を通して「人間よ、あなたたちは不完全である。しかし、私は完全である。完全な私が、あなたたちを助け、永遠に共に歩んでいく」と絶えず語りかけておられます。今日の本文の言葉も、人間と永遠に共に歩むことを望んでおられる主なる神の御言葉であります。 1. 共にいることを望んでおられる主 「恐れることはない、わたしはあなたと共にいる神。たじろぐな、わたしはあなたの神。勢いを与えてあなたを助け、わたしの救いの右の手であなたを支える。」(イザヤ書41:10) イザヤ書には、主なる神の民でありながらも、主を侮り、異教の神々を拝み、偶像礼拝によって主を裏切ってしまったイスラエルの民への裁きの宣言が書いてあります。そして、その後のイスラエルへの赦しと回復を預言する御言葉も記してあります。(1-39章にはイスラエルの罪と裁き、40-66章にはイスラエルの救いと回復の御言葉が記されています。) それを通して、主はご自分の民の罪は裁かれますが、主の民そのものは愛しておられることが分かります。主は人間を愛しておられます。主の創造は、ご自身の形(創世記1:27)に似せて造られた人間と共にいるための偉大な始まりでした。しかし、主の権威を認めようとしない人間の罪の性質によって、人間は堕落し、主から遠ざかってしまいました。イスラエルの民が主を裏切り、偶像を崇拝するようになった理由も、主から遠ざかろうとする人間の罪の性質から生じたものでした。歴史が始まって以来、人間は常に自分自身が歴史の主導者になろうとしてきました。原始部族では最も強い者が支配者となり、強い部族は弱い部族を占領し、そうして生まれた国々が互いに戦争を繰り返し、その中で最も強い国によって帝国が生まれました。そして、その帝国でさえも互いに征服しようと対立したのです。 歴史の中で名を馳せた人物や帝国は、人(皇帝)を中心にして自らを高め、主なる神を排除する偶像礼拝の道を歩んできました。結局、罪の本性を持った人間は、主なる神を主として認めず、人間自らが主と神になろうとする偶像礼拝を本能的に行って生きる存在なのです。私たちの中にもそのような性質が残っており、時には主の御前で罪を犯すことがあります。それでも、神はこのように罪を犯す人間を遠く捨てて放っておかれず、赦し、近くにいてくださることを、そして共にいてくださることを望んでおられるお方です。旧約聖書のイスラエルの民が主の御言葉に聞き従わず、自ら異教の偶像を拝み、主から遠ざかった時も、彼らに裁きを下されましたが、滅ぼすことまではなさらず、再び立ち上がれるように導いてくださいました。今日の旧約聖書の本文は、まさにその主の御心を聖書の読み手に隠すことなく示しています。このイザヤ書の御言葉は、ただ昔のイスラエルの民に与えられただけの御言葉ではありません。たとえ数千年前に記されたものであっても、今も生きており、今日を生きる主の民である私たちにも、主の御心がどのようなものであるかを教えてくれるのです。主は私たちを愛しておられるお方です。主なる神は私たちへの愛のゆえに、ご自身の独り子までも十字架のいけにえとされ、私たちを赦してくださったお方です。主なる神が共にいてくださるということは、すなわち主なる神の愛の象徴なのです。 2. 私たちは決してひとりぼっちではない 「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイによる福音書28:20)今日の新約聖書の本文にも、主の民と世の終わりまで、共にいてくださるというイエス・キリストの約束が記されています。旧約聖書全体を貫く「主なる神が人間と共にいるのを望んでおられる」という主の約束が、唯一の救い主であるイエス・キリストの贖いによって完全に成就されました。主なる神は、この世のすべての人類が救われ、共にいることを望んでおられますが(Ⅰテモテ2:4)、旧約時代には、おもにイスラエルの民と主を信じるようになった異邦人に限られた約束でした。なぜならば、旧約時代には、人間のすべての罪を贖い、彼らの代表となる仲介者、つまり、仲保者がいなかったからです。ということで、すべての民族に主なる神の民となる道が開かれていませんでした。主の御心は、すべての人類が主なる神の赦しを受け、主と共に歩むことでしたが、仲保者がいなかったため、人間は自力では、主を知ることも、主に近づくこともできなかったのです。しかし、仲保者であるイエス・キリストの登場は、民族、文化、国家、人種といったすべての壁を打ち砕き、誰もが主なる神の救いの御言葉を聞き、信じることができる霊的な革命となったのです。 「これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。」(Ⅱコリント5:18)このように、イエス・キリストの存在は、主なる神と人間の間の壁を打ち砕き、和解し、共にいるための鍵となります。したがって、イエス・キリストが私たちと共にいてくださるなら、それはすなわち主なる神と私たちが共にいることと同じだと言っても過言ではないでしょう。そして、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」という主イエスの約束により、主イエスを通して神は私たちと常に共におられるようになったのです。キリストを通して主なる神を信じるようになった私たちは、決してひとりぼっちではありません。旧約のイザヤ書でも、新約のマタイによる福音書でも、主なる神は私たちと共にいると約束してくださいました。何よりも、人類を赦し、和解させるために遣わされた救い主イエスの存在によって、その約束は永遠に保証される、移り変わりのない契約となったのです。ですから、私たちが孤独を感じる時も、神などいないと感じられる時も、苦難の時も、喜びの時も、いかなる喜怒哀楽の瞬間にも、主なる神は私たちと常に共にいてくださり、私たちの人生の中で永遠に生きておられるのです。主が共にいてくださることを信じ、孤独と苦しみに負けず、主なる神への信仰をもって生きていることを願います。主なる神は今日も、キリストを通して私たちと共にいてくださり、私たちを助けてくださることを望んでおられるからです。その信仰の中で、主は働いてくださいます。 締め括り 前置きでお話ししたように、人間は偉大な存在でありながら不完全な存在です。しかし、完全であられるキリストが私たちと共にいてくださるなら、私たちは真の意味として、主にあって偉大な存在となることができます。それは、私たち自身を自ら高める偶像礼拝のような偉大さの追求ではなく、キリストが共にいてくださるゆえに、主なる神が認めてくださる神による真の偉大さであります。本日の礼拝は、敬愛する某姉妹が志免教会で守られる最後の公式な礼拝となります。この姉妹は、ここ数十年間、志免教会の一員として心から主に仕えてこられました。しかし、肉体の弱さのため、これ以上教会に出席することが難しくなりました。それでも、主なる神を信じ、志免教会と共に歩んでこられた彼女の人生は、キリストのみもとで、主なる神の恵みによって偉大な歩みでした。彼女はいつも謙遜に仕え、無牧時代にも教会を愛し、支えてくださいました。たとえ教会に来て礼拝をささげることが難しくなっても、主なる神はこれからも姉妹と常に共にいてくださり、彼女の道を導いてくださるでしょう。今日のこの説教は、この姉妹にささげる慰めのメッセージとなることを願い、作成しました。主なる神が彼女と志免教会の皆さんと、永遠に共にいてくださることを信じます。世の中のすべての人々が私を捨て去っても、主だけは私と常に共におられ、導いてくださることを信じ、これからも歩んでいく志免教会でありますよう祈り願います。