イエスだけが一緒におられた。

マラキ書3章22-23節(旧1501頁) マルコによる福音書9章2-13節(新78頁) 前置き マルコによる福音書8章、主イエスは「あなたがたは私を何者だと言うのか。」と弟子たちに尋ねられました。世の人々は主を「洗礼者ヨハネ、エリヤ、預言者の一人」と言っていましたが、主は弟子たちの認識を確かめるために質問されたのです。その時、ペトロが答えました。「あなたはメシアです。」彼の答えは正解でした。弟子たちの認識を確かめられた主は、メシアであるご自身が苦難を受けて死ぬことになると予告されました。するとペトロが激しくいさめ、主はそんなペトロに「サタン、引き下がれ。」と厳しく叱られました。なぜ、主の死を止めようとしたペトロは叱られたのでしょうか。信仰告白は宗教的な知識だけの告白ではありません。知識としてのペトロの告白は正しかったですが、信仰としてのペトロの告白は不完全でした。主の御心ではなく、自分の思いを押し立てたからです。真の信仰告白は知識だけで完成するものではありません。知ることと信じることがひとつになり、知識に実践が伴う時、信仰告白は本当の信仰告白として働くようになるのです。 1.高い山の上で変容された主。 「六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。」(マルコ9:2)それから6日後、主イエスはペトロ、ヤコブ、ヨハネを連れて、ある高い山に登られました。時々、聖書では「山」が神の栄光の現れる所として使われます。今日の本文に登場するモーセとエリヤは、それぞれ自分の時代に神の山である「ホレブ」で主と出会い、また、イスラエルの偉大な王であるダビデは、主なる神にエルサレムのシオン山をいただきました。そして、主イエスは洗礼後の試練の時、悪魔によって非常に高い山に連れられ、誘惑を受けられました。このように聖書においての山は「主なる神のご臨在の所、聖なる所、超自然的な所」としてよく解釈されます。(注意:聖書に出てくるすべての山に、そのような意味があるわけではない)「イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。」(9:2-3)ただし、今日の本文に出てくる高い山が、正確にどこにある山なのかは知られていません。 主イエスは山の上に登られた時、この世にはあり得ない輝かしい姿に変容されました。主の服が真っ白に輝くようになったのはイエスの神聖さが表れたという象徴的な意味です。今ではこの世で肉体を持った人間としておられますが、もともと主は本質的に神であり、聖なる方、罪のない方、正しい方であることを示しているのです。また、主は山の上で旧約の代表的な人物であるモーセとエリヤと会われましたが、彼らは旧約の始まりと終わりを意味する偉大な預言者として、旧約マラキ書の最後に記してある人々でした。「わが僕モーセの教えを思い起こせ。私は彼に、全イスラエルのため、ホレブで掟と定めを命じておいた。見よ、私は大いなる恐るべき主の日が来る前に預言者エリヤをあなたたちに遣わす。」(マラキ3:22-23) すなわち、イエス•キリストは神のご臨在の場所で、神聖さを表され、旧約時代の代表的な預言者2人に会われ、ご自分が真の神であり、真の主であることを示してくださったのです。すぐ前の箇所で、自分の思いのためにイエスをいさめたペトロは、このような主の姿を見てどう思うようになったでしょうか?主イエスは、自分ではどうすることもできない超越的で偉大な方であることに気づいたのでしょうか。 2.モーセとエリヤと会われた主 「ペトロが口をはさんでイエスに言った。先生、私たちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」(マルコ9:5)しかし、ペトロはそう簡単に変わりませんでした。数日前に、メシアの苦難と死という主の御心を自分の思いに合わせようとした彼が、今日は神聖さを見せた主イエスとモーセとエリヤの姿を見てうっとりして、ずっと山の上にいるのを願ったからです。ペトロは、実は恐れていたはずです。言葉が出てこないほど驚いていたでしょう。にもかかわらず、そんな中でも彼は数日前と同じく、自分の思いに良いことを選ぼうとしていました。もしかしたら真っ白に輝く厳めしいイエスが、自分が望んできた強力なメシアの姿だったのかもしれません。その時、ペトロと弟子たちは雲に覆われ、神の声を聞くことになりました。「これは私の愛する子。これに聞け。」(マルコ9:7)マタイによる福音書には、弟子たちがその声を聞いて、ひれ伏して恐れたと記してあります。第二ペトロ1章17-18節にも、この話が記してあります。自己中心的に信仰を誤解し、自分の思いのままにしようとしたペトロは、おそらくこの状況を経験しつつ、神がご自分でイエスの道を導いておられることに、だからこそ、主は人間の手によって左右されない方であることに、改めて気づいたでしょう。 信仰の主導権は私たちにはありません。私たちの信仰の主は、私たちではなく主なる神だからです。今日の本文に、モーセとエリヤの旧約の二人の人物が登場します。「柴の間に燃え上がっている炎の中に主の御使いが現れた。彼が見ると、見よ、柴は火に燃えているのに、柴は燃え尽きない。」(出3:2)エジプトの王女の息子に育ったイスラエル人モーセは、ある出来事によって40歳ごろにエジプトから逃げ出し、80歳までミディアンの羊飼いとして生きました。彼はもはや若者ではありませんでした。40代の頃、血気盛んで権力もあった時には、主なる神は彼をお呼びになりませんでした。しかし、彼が80歳の羊飼いで、弱まった時、主なる神は彼をお呼びになったのです。羊を飼っていた彼が神の山(ホレブ)に偶然登った時、主は燃え上がる柴の炎の中で彼を召されました。その時、主ははじめてモーセにエジプトに行って「我が民を救え」と命じられました。主は燃え上がる柴を通して強くても弱いように、弱いようでも強く、ご自身を示してくださいました。主は人間の認識ではとうてい理解できない方でした。神は熱くて強烈な炎の様子と、弱くて燃え尽きてしまう柴の様子を通して、猛烈ながらも焼き尽くさず、弱いながらも滅びない、逆説を示し、人間の常識を超える神という存在の神秘を見せてくださったのです。 また、数百年後、同じ山(ホレブ)で預言者エリヤも主と出会いました。「主は、そこを出て、山の中で主の前に立ちなさいと言われた。見よ、そのとき主が通り過ぎて行かれた。主の御前には非常に激しい風が起こり、山を裂き、岩を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風の後に地震が起こった。しかし、地震の中にも主はおられなかった。地震の後に火が起こった。しかし、火の中にも主はおられなかった。火の後に、静かにささやく声が聞こえた。」(列王記上19:11-12)当時、邪悪な王アハブと王妃イゼベルに対抗抵抗していたエリヤは、命の脅威のため、神の山に逃げました。エリヤが主の御前に自分の困難を吐き出した時、主は彼に、激しい風、恐ろしい地震、猛烈な火を見せてくださいました。しかし、主はそれらの中にはおられませんでした。むしろ、主はその後の静かにささやく声の中におられたのです。その後、主はエリヤを導き、ご自分の御手によって邪悪な王と王妃を裁かれました。モーセとエリヤは、主の強力な姿を望んでいたかもしれません。しかし、主は二人の考えとは全く異なる姿でご自分を示してくださいました。主はモーセとエリヤの思いではなく、ご自分の思いのままに働かれたのです。主はご自分の民の信仰を主権的に導かれる方です。私たちの信仰の主は私たち自身ではなく、主なる神であります。 3。ただ主だけが一緒におられた。 「弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた。一同が山を下りるとき、イエスは、人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけないと弟子たちに命じられた。彼らはこの言葉を心に留めて、死者の中から復活するとはどういうことかと論じ合った。」(マルコ8-10)神の御声を聞き、恐れてひれ伏した弟子たちが立ち上がった時、雲も神の声も、モーセも、エリヤも消え、ただ主イエスだけが彼らと一緒におられました。厳めしい神の声、輝かしいイエスの姿、偉いモーセとエリヤ。弟子たちはその素晴らしさの中にずっと過ごすことを望んでいたのかもしれません。しかし、神は弟子たちに己の思いではなく、主イエスの御言葉に従順に聞き従うことを命じられました。そして一瞬、そのすべてが消え、イエスだけが弟子たちと一緒におられるようになったのです。山を下りるとき、主は再びご自分が死に、復活することを教えてくださいました。しかし、もうこれ以上ペトロは主をいさめずにただ聞きながらついていくだけでした。彼の心の中に主の死と復活がどんな意味なのか、自分の思いとは全く異なる主の御心にかすかにでも気づいていたからでしょう。 締め括り 主なる神は、誰よりも強力な方で、ご自分の御心のままに、この世界を支配することがお出来になる存在です。しかし、主はこの世とは全く違う方法で、世界を治められます。当初、弟子たちは現実的な権力と名誉のメシアとしてイエスを理解し、そのイエスの右腕として自分の立場を理解していたかもしれません。しかし、主は権力ではなく、目立ったないが確かなご計画によって、御業を成し遂げていかれました。たまに主の御心が自分の思いと全く異なるのに気づき、がっかりする時もあるかもしれません。しかし、主はご自分の御心、ご計画によって今でも働いておられます。そして、主は今日も移り変わりなく私たちと共に歩んでくださいます。何よりも主は、世のすべてがなくなっても最後まで私たちと一緒にいてくださいます。主イエスだけが私たちと一緒におられるのです。それを信じて、主の一緒に歩んでいく私たちであることを祈り願います。

わたしたちを助けてください

使徒言行録16章9~10節 (新245 頁) 前置き まず、説教の前に申し訳なく思います。説教題と内容が本文を除いて、そんなに関係なくなってしまったと思います。説教を書きながら、内容が変わってしまいました。皆さんのご理解をお願いします。本日の聖書の本文は、主なる神が小アジア、つまり現在のトルコ北部の地域で福音を伝えようと奮闘していたパウロに幻を見せ、マケドニアへ渡って伝道するよう促される場面です。ユダヤ人でありながら、現在のトルコ東南部で生まれ育ったパウロには、その地での伝道に情熱がありました。宣教学的にも、彼の考えは極めて妥当なものでした。にもかかわらず、主は彼が抱いていた小アジア(トルコ北部)伝道の熱意を拒否され、マケドニア(ヨーロッパ東部)地域での伝道を促されました。パウロは自分の思いとは違う、理解しがたい主のご命令にもかかわらず、自分の計画への固執をやめ、さっそく主の御言葉に従い、マケドニアへ旅立ちました。それによって、ついに公式的なヨーロッパでの伝道が始まることになったのです。そしてその結果、遠い将来、キリスト教がローマ帝国の国教となり、ヨーロッパ世界の精神的な基盤として爆発的に成長するという成果につながりました。今日は、使徒言行録16章9節と10節の聖書の箇所を通して、伝道と宣教について、そして、キリスト者のあり方について考えてみたいと思います。 1. 主が見せてくださる幻 「その夜、パウロは幻を見た。その中で一人のマケドニア人が立って、マケドニア州に渡って来て、わたしたちを助けてくださいと言ってパウロに願った。」(使徒言行録16:9)使徒言行録16章で、元々パウロが望んでいた伝道の地域はビティニア州(7節、現在のトルコ北部)でした。パウロは16章以前まで、おもに現在のトルコ南部地域の様々な場所を旅しながら伝道しましたが、北部のビティニア州に行ったことは、まだ、なかったからです。しかし、パウロの考えとは異なり、主は彼がビティニア州ではなく、海を渡ってマケドニア州、つまり現在のギリシャ地域へ行くことを望まれました。前置きでも、お話ししたように、トルコ出身者としてトルコ北部地域で伝道しようとするパウロの計画は間違っていませんでした。それでも、主は彼にビティニア州での伝道をやめ、マケドニア州へ行くことを力強く命じられたのです。主はこれを実現させるために、パウロに特別な幻を見せてくださいました。誰だか分からないマケドニア人がパウロに「マケドニア州へ来て助けてくれ」と願う幻でした。聖書で幻を意味する言葉にはいくつかのものがありますが、今日の聖書の箇所で使われている幻は、「ホラマ」というギリシャ語の言葉です。「ホラマ」は、動詞「ホラオ」の名詞形であり、「ホラオ」は「心で深く悟りながら見る」という意味です。「目で何かを見る」という以上の、「何が正しいかを悟りながら見る」という意味なのです。 「パウロがこの幻を見たとき、わたしたちはすぐにマケドニアへ向けて出発することにした。マケドニア人に福音を告げ知らせるために、神がわたしたちを召されているのだと、確信するに至ったからである。」(使徒言行録16:10)幻を通じて、主の御心に気づいたパウロは、ためらわずに自分の計画を撤回し、マケドニアへ渡ることを決心します。パウロは、主の幻の前で、長年抱いてきた自分の計画を完全に諦めたわけです。パウロは主からの幻(ホラマ)を見て悟り(ホラオ)、自分の情熱と計画を押さえ、主の御心に従うために思い切って計画を変更したのです。私たちはここで、主が見せてくださる幻の重要な意味について、学ぶことができます。主の幻は、ただ単に超自然的な現象が目に見えてくることだけを意味しません。聖書に記されている物語は、聖書が書かれる以前にあった出来事の記録です。その時代には、現代のように誰もが気軽に聖書を読むことができませんでした。主がパウロに幻を見せてくださった理由は、単純に神秘的で超自然的な現象を見せるためではなく、その中に込められた主の御心、つまり、生ける神の御言葉を悟らせて従わせるためでした。そういう意味として、主からの幻は神の御言葉と言い換えることもできるでしょう。聖書を読む時、「幻を見る」という表現が出てきたら、いつでもまず「主の御心(神の御言葉)を悟る」と理解していただきたいと思います。 2. 伝道と宣教の意味について 本日の聖書の本文以降、パウロは、ただちにこれまでの計画を変更し、マケドニア地域へ渡るために力を尽くしました。主の御言葉に従ってその地へ渡ったパウロは、多くの人々と出会い、新しい伝道活動を続けていきます。しかし、数多くの苦難と迫害もまた彼を待っていました。普通の人なら、「わざわざ主に言われた通りにしたのに、こんなに苦しくなるなんて」と愚痴をこぼすような出来事も多々あったかもしれません。しかし、主なる神の御心だけを望み、黙々と歩んだパウロは、様々な地域で伝道し、教会を打ち立て、多くの魂をキリストへと導き、成功的に伝道活動を続けていきました。主なる神の計画と導きの中で、従順に聞き従いつつ活動したパウロの苦労によって、マケドニア州にキリストの福音が広がっていくことになったのです。このようなパウロの従順と苦労の中で、彼がマケドニア地域に蒔いた福音の種は、しっかりと根を下ろしました。その結果、数百年がたった西暦4世紀末、キリスト教はローマ帝国の国教となり、キリストの福音は地中海世界の精神的な基盤にまで成長していきました。そして当然のように、パウロが元々伝道しようとしていたトルコ北部地域のビティニア州にまでも福音が伝えられていったことでしょう。実際に、福音はトルコをはるかに越えて極東の日本にまで届きました。主なる神の御心に従い、自分の計画を諦めたパウロ。彼の決断が、数百年後にさらに大きな実を結び、元々計画していた以上にキリストの教会を成長させる力となったことを、パウロは天国で確認し、喜んでいるに違いありません。 私たちは、伝道と宣教という言葉をよく口にします。しかし「知らない人にイエスと福音を伝えるのが伝道と宣教」という漠然とした固定観念のため、伝道と宣教を心の重荷のように感じがちです。しかし、伝道と宣教が「主の御言葉に従い、自分の固定観念や計画を落ち着け、主のご計画に合わせて生きようとする生き方」から始まることだとすれば、もう少しでも伝道と宣教への負担が軽くなれるのではないでしょうか。もちろん、伝道と宣教は明らかに難しいことです。知らない人に福音を伝えるには大きな勇気が必要だからです。しかし、主の御心に従おうとする生き方、謙遜に自分の考えを主の御心に合わせようとする心をもってキリスト者にふさわしく生きるなら、いつか必ず主が伝道の機会を与えてくださると信じます。伝道と宣教のある人生のために、今私たちが従わなければならない主の御言葉は何でしょうか。伝道のある人生のために、今私たちが諦めなければならないものは何でしょうか。主なる神の御心への従順な生き方と、自分の固定観念や欲望を落ち着けること、その中で主なる神は、さらに多くの御業を私たちの人生において成し遂げてくださるでしょう。私たちの伝道と宣教の始まりは、主の御言葉への従順な生き方と、自分の固定観念や欲望を落ち着けることからだと、あえて申し上げたいと思います。 締め括り 今日は、韓国釜山のUN平和教会の兄弟姉妹に志免教会で一緒に礼拝を捧げるために来ていただきました。志免教会が属する日本の代表的な長老教会である日本キリスト教会と、UN平和教会が属する韓国の代表的な長老教会である大韓イエス教長老会(合同)は、両方ともアメリカ北長老教会の宣教師たちの伝道によって打ち立てられました。つまり、両教会は同じルーツを持つ兄弟のような教会です。また、大会レベルでも公式的に宣教協約を結んでいる姉妹教会でもあります。日本と韓国は、きわめてつらい過去を共有する最も近くありながら最も遠くある国だと言われる関係です。しかし、少なくとも、キリストの教会だけは、主イエスの救いと愛によって一つとなった最も近い関係であります。両国が歴史観や価値観の違いで、互いに誤解や対立をすることがあっても、両国の教会だけは主にあって一つとなり、慰めあい、赦しあい、共に歩みつつあることを願います。主からの幻を見たパウロが従順に聞き従いと自分の計画のさっそく諦めたように、キリストの御言葉への従順な従いと自分の固定観念や欲望を落ち着けることで、志免教会とUN平和教会が、主が与えてくださる幻(御言葉)のままに生きていくことを心から祈り願います。

信仰の戦い

エフェソの信徒への手紙6章10-20節(新359頁) 前置き エフェソの信徒への手紙のおもなテーマは「教会とは何か」です。「天地創造の前から神にあらかじめ定めされ、キリストによって救われ、その御旨に適って生きるキリストの体なる共同体」これが教会の意義です。したがって、教会は神の御心によってキリストの民となった、キリストと共に歩まなければならない存在です。この世の思想、生き方ではなく、キリストの御心と生き方に聞き従わなければならない存在です。この地にいるが天に属している存在、それがキリストの体なる共同体、教会のあり方なのです。今日の本文は、その教会を成すキリスト者の信仰生活においての「信仰の戦い」について語ります。今日の本文を通じて、教会の生き方について考えてみましょう。 1. 血肉の戦いではなく、霊の戦いを 「わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。」(エフェソ6:12) 戦いは控えるべきというのが常識です。聖書も隣人への愛、さらには敵への愛までも命じます。できるだけ、忍耐してどんな形でも戦わないのが望ましいです。しかし、聖書が勧める戦いがあります。それは霊の戦いです。今日の本文6章11節は、その戦いが血と肉の戦いではなく、悪の諸霊を相手にすることだと語ります。天にいる悪の諸霊、つまり悪魔を意味します。悪魔とは何でしょうか。昔のヘブライ人のある文献には、悪魔が堕落した天使であると記してあります。そして、彼らは主なる神に逆らう存在だと説明します。彼らは主なる神の座を奪い取るために、堕落して主を裏切り、悪魔になったとあります。このような悪魔の働きは創世記のアダムとエヴァを誘惑した蛇、ヨブ記のサタンのような存在から現れます。新約聖書にも悪魔についての記録があるほどです。実に悪魔はいると思います。しかし、私たちは悪魔が私たちの人生を操り、強制的に私たちを犯罪させる存在だと考えてはなりません。「悪魔の誘惑」という言葉があるように、確かに神に逆らう者、悪魔は人間を罪へと誘惑します。しかし、その罪を選ぶのは悪魔ではなく、人間そのものです。 古代のヘブライ人は、天使と悪魔が本当にいる霊的な存在ではあるが、それと共に人間も、神に従う者が即ち天使のような者であり、神に逆らう者が即ち悪魔のような者であると考えました。第3の存在である天使や悪魔だけでなく、人間そのものが、生き方によって天使にもなれ、悪魔にもなれるという思想だったのです。だから、霊の戦いとは、ある意味で、悪魔という霊的な存在との戦いだけでなく、悪と罪に誘惑され、神に逆らうようになり得る人間自分自身との戦いとも言えるでしょう。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハネ福音書16:33) 主イエスは「わたしは既に世に勝っている。(悪の権勢に勝利している)」と言われました。つまり、主と悪の戦いは、すでに終わり、結果は決まっています。主イエスが勝利され、この世はそのイエスの支配のもとにあるのです。したがって、主の民である私たちも、主によって、すでに勝利したのです。しかし、聖書は私たちにまだ残っている悪と罪の本性につまづかないよう、それと戦って勝つことを命じます。勝利者として、勝利者にふさわしい人生を勧めているのです。だから、霊の戦いは自分自身の罪との戦いです。誘惑と勝利の中で、私たちが取るべき生き方を選んで生き続けること、それが霊の戦い、信仰の戦いなのです。 2. 神の武具を身に着けなさい。 「悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。」(エフェソ書6:11,13) 今日の本文は、霊の戦いに勝利する人生のために「神の武具」を身に着けろと命じます。「真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい。なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。」(14-17)、神の武具は次の通りです。真理の帯、正義を胸当て、平和の福音の履物、信仰の盾、救いの兜、そして最も重要な(聖)霊の剣、すなわち神の御言葉なのです。このような武具は、古代ローマの兵隊の姿と似ています。①真理とは変わらない主の御心を意味します。ひとえに神だけが勝利者であり、真の主であるという変わらない事実のことです。ローマ軍兵の帯は腰を支えて強い力で武器を振るうようにする武具です。真理に立って主の御心に頼る時、強い信仰の力を発するようになります。 ②正義(義、正しさ)とは、キリストによる天地創造の摂理に忠実な模様です。つまり、神に属している欠けることのない完全さを意味します。人間はたとえ罪によって不完全であっても、主イエスの義によって完全な者と見なされ、神に認められるという意味です。胸当ては心臓を守る鎧のことです。私たちは生まれつき罪人ですが、キリストの義は私たちを正しい者と認めさせます。③平和とは、神と隣人との和解を意味します。平和の福音の履物は、キリストの福音によって、神と隣人を愛し、真の和解を成し遂げさせます。隣人を憎むということは、血肉の戦いを意味します。しかし、キリストの平和が私たちと共にある時、私たちは隣人を愛することで血肉の戦いを避け、霊の戦いだけに集中できるようになります。④また、大事な私たちの武具は信仰の盾です。盾は矢と刃物を防ぐ防具です。世は私たちに否定的で不信心の思想を絶えず伝えます。しかし、主への堅い信仰の盾があるなら、私たちは決して欺かれず、主の御心だけに従って生きるようになるでしょう。 ⑤救いの兜、兜は勝利を象徴します。ローマ時代、戦争に勝利した将軍は、月桂冠をかぶって行進しました。キリストの救いによって、私たちはすでに勝利した存在です。時々、人生の辛さや試練によって自分自身が負け犬のように感じられる時もありますが、主による私たちの勝利を忘れてはなりません。自分の状況を見る前に、主がどんなお方なのかを憶えましょう。主イエス•キリストはすでに勝利した方です。⑥最後、最も重要な武具は、私たちの武器、聖霊の剣です。今日の本文は、聖霊の剣が、神の言葉であると語ります。神の言葉は強いです。この世は教会を敗北者だと非難していますが、主の言葉は、教会が勝利者であると応援しています。この世は教会が失敗したと言いますが、主の言葉は教会が成功したと言います。自分の考え、世の考えに呑み込まれ迷っている時に、主の御言葉は、私たちの考えを新たにし、神の御心どおりに進むように導きます。したがって、神の御言葉は私たちの唯一の信仰の武器、聖霊の武器なのです。以上、6つの神の武具を通して、私たちはすでに勝利された、主に従ってこの世を生きていくのです。 3. 祈りによって生きる勝利の人生。 そして、本文は神の武具による信仰の人生に、祈りが伴うと語ります。祈りは神と私たちの会話です。ひざまずいて両手を合わせて敬虔にすることも祈りですが、私たちの人生のすべてにおいて、神に助けを求め、神の御心を待ち望み、主の御言葉通りに生きようとすることこそ祈りです。神とつながり、神の後をついていくことが、まさに祈りの人生なのです。このような人生を通してキリスト者は勝利を保ち、その共同体である教会も勝利することになるでしょう。「また、わたしが適切な言葉を用いて話し、福音の神秘を大胆に示すことができるように、わたしのためにも祈ってください。」(19) 神の武具によって信仰を守り、神の言葉の剣で罪と悪に勝ち、祈りによって神とつながり、祈りによって兄弟姉妹を助ける人生。それがエフェソ書が勧める教会の望ましい生き方ではないでしょうか? それがまさに勝利の人生ではないでしょうか? 締め括り キリスト者がこの世を生きることは、とてもたいへんな道のりの連続です。絶えない人生の試練がやってきます。けれども、自分の状況ではなく、主なる神がどのようなお方なのか憶えて生きましょう。自分は弱くても、神は変わることなく勝利者であることを憶えて、信仰の人生を生きてまいりましょう。そのような人生のために、今日の本文は神の武具と祈りの人生を話しているのです。私たちはすでにキリストによって勝利した者です。それが教会という共同体の意義なのです。したがって、最後までキリストの勝利を信じ、主に従って生きる私たちであることを祈ります。

御父のまなざし

ルカによる福音書 15章11‐24節(新139頁) 前置き キリスト教会が主とあがめる神という存在はどのようなお方でしょうか。今日は、難しい「三位一体」のような神学の話しではなく、神という存在が私たちの人生においてどのようなお方なのかについて、実存的な話をしてみたいと思います。神という存在を最も直観的に表す言葉は、万物の「父」と言えるでしょう。もちろん、神は人間のような性別がない方であるため、人間の基準で言う生物学的な父とは異なる存在です。すべてを創造し、司る絶対者としての「父」と理解するのが正しいでしょう。古代のヘブライ人は、この神を万物の「父」と理解していました。性別を超えて、すべてのものの創造主と信じていたのです。そして、現代の教会が主とあがめる神のひとり子イエス・キリストも、その神を父と呼ばれました。今日は、この父なる神について、そしてその方が人間をどのように思っておられるのかについて、話してみたいと思います。 1. 放蕩息子のたとえ話 今日の本文であるルカによる福音書15章には、父にかかわる主イエスの有名なたとえ話が出てきます。あらすじは下記のようです。ある人に二人の息子がいました。ある日、次男が父のところに来てこう言いました。「お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください。」彼の発言は、このたとえ話の時代においてはありえない非常に失礼な要求でした。父がまだ生きているのに遺産を求めるのは、父を死んだものと扱うことと同じだったからです。しかし、父は次男の要求を聞き入れました。そして、次男は父から受け取った財産を持って遠い異国へ旅立ちました。彼は、そこで放蕩な暮らしをしたあげく、持っていた全財産をすべて使い果たしてしまいました。お金が尽きると友人も皆去ってしまい、ついには豚の世話をするようになり、豚が食べるイナゴ豆で腹を満たすほど悲惨な身の上になります。その時になってはじめて、この息子は「父の家には十分な食べ物があるのに、私はここで飢え死にそうだ。父のところへ帰ろう。私はもう父の息子と呼ばれる資格などないから、ただ雇人の一人として受け入れてくださいと願おう」と決心します。そうして、次男は父の家へ帰る長い道のりを歩み始めました。 ところが、驚くべき場面が繰り広げられます。次男がまだ遠くにいるのに、父がくたびれた息子を見て哀れに思い、走り寄って首を抱きしめ、口づけをしたからです。父はなぜ何の知らせもなく手ぶらで帰ってくる息子の帰還を知っていたのでしょうか。その理由は、父が毎日毎日、息子の帰還を待っていたからでしょう。息子は父に「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。」と言いした。しかし、父は息子の言葉が終わらないうちにしもべたちに言います。「急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。」そして、祝宴を開きました。父はこの放蕩息子を咎めるどころか、愛をもって赦したのです。主イエスは、このたとえ話を通して、この世の人々に対する万物の父である神の御心を教えてくださいました。聖書はこのたとえ話を通して、人間が決して一人ぼっちではなく、神という真の父の極めて深い関心と愛を受けている貴い存在であることを教えてくれます。 2. 御父の心 今日の本文の、この「父」という存在を通して、私たちは「父なる神」の御心を垣間見ることができます。それは三つに分けて考えることができます。第一に「待ち望む心」です。父は息子が去った後も、毎日毎日息子の帰還を待ち望んでいました。私たちが人生の様々な理由で神を離れたり、世の中でさまよったりする時、父なる神は私たちを待っておられます。私たちのすべての不完全さや過ちにもかかわらず、私たちが帰ってくることを切に願われ、待ち望まれる心です。第二に「愛と赦しの心」です。息子が帰ってきた時、父は息子の以前の過ちを問いませんでした。むしろ、走り寄って抱きしめ、口づけをして歓迎しました。現在の私たちが取るに足りない姿であっても、真の父である神は私たちを愛し、赦してくださいます。父が息子と再会した喜びで宴を開いたようにです。第三に「回復を望む心」です。父は帰還した次男に一番良い服を着せ、指輪をはめ、履物を履かせました。それは再び息子としての尊厳と権威を回復させたという意味でしょう。神は私たちがどのような状況にあっても、再び私たちを神の子として完全に回復させることを望んでおられます。私たちの傷を癒やし、人生を新たにしてくださることを望まれる心を持っておられます。 キリスト者として長年生きてきた方も、まだキリスト者になっていない方も、父なる神のことを誤解しやすいです。自分とはあまりにも遠く離れておられる神、親しく接することのできない難しい存在、言動に間違いがあれば激怒する方など、近づきがたい方だと思いやすいです。しかし、今日の本文に現れる父の姿、すなわち神の姿は、私たちが漠然と想像しがちな権威と威厳の神とは全く違う暖かい父として描写されています。聖書は神について、自分から離れていった人間に怒りを覚えるよりも、絶えず待ち望み、愛し、赦し、回復させてくださる真の父のような存在として描いています。以前、教会に通っていたが信仰が弱まってしまい、教会を離れた人、キリスト教の神という存在について誤解している人、信仰生活の中、人にがっかりして神にまでも信頼できなくなった人、神がまったく自分と関係なく、遠くにおられる方だと思い、遠ざかってしまった人を、神は変わらず待ち望み、昨日も、今日も、明日も待っておられる温かくて愛に満ちているお方です。神は世のすべての人に神との和解の機会を与え、待っておられる真の父なのです。 3. 父なる神に立ち返る方法 この父なる神に立ち返るための、たった一つの方法は、神がこの世に遣わしてくださった唯一の救い主であるイエス・キリストを受け入れ、信じることです。聖書によれば、人間は皆、罪によって神を離れてしまったと言われます。しかし、神は人間と和解することを切に願っておられ、人間の罪を赦し、受け入れてくださる窓口としてイエス・キリストを遣わし、人間の罪を赦される手立てとして、十字架のいけにえにし、神と人間の間の隔てを打ち壊してくださいました。イエス・キリストは罪のない方ですが、人間の罪を赦してくださるために、十字架においてご自身を捧げられ、三日目に復活されることによって死に打ち勝ってくださったのです。私たちが救いを受け、神と和解する唯一の方法は、今も私たちを呼んでおられる父なる神の御心を受け入れ、父が遣わされた唯一の救い主イエス・キリストを信じ、拠り頼むことです。この信仰を通して、私たちは神の子となり、永遠の命を得、神と完全な関係を結びつけることになるのです。これがキリスト教が語る救いの最も基本的な教えであり、私たちを待っておられる父なる神のもとへ立ち返れる唯一の方法なのです。お金でも、権力でも、名誉でも得られない父との和解、それはただ、その方が遣わされたイエス・キリストの導きによってのみ出来ます。父なる神は今日も私たちを愛しておられます。その方は今日もあなたを愛しておられます。 締め括り 時々、この世の人生が孤独に感じられることがあります。誰も自分の味方になってくれず、自分だけが一人ぼっちになっているかのように感じられる時もあります。親も、家族も、友人も、同僚も自分を理解してくれないと感じられる時もあります。しかし、そのような時でさえ、父なる神は私たちを理解してくださり、助けてくださることを望んでおられ、愛のまなざしで私たちを見つめておられます。そして、私たちに助けを与えたいと望んでおられます。今日の聖書の本文のように、神は私たちを待っておられる、暖かい真の父です。父なる神は今日もあなたを見守っておられます。その父がイエス・キリストを通して常に私たちとともにおられることを忘れずに生きることを祈り願います。