わたしの父

イザヤ書49章13-15節 (旧1143頁) ヨハネによる福音書20章15~18節 (新209頁) 前置き 私たちは祈りを始めるとき、ごく自然に「父なる神様」と、その御名を呼びます。あまりにも当たり前の習慣なので、なぜそう呼ぶのか、深く意識することはないかもしれません。私たちが神を「父」と呼ぶのは、聖書がそのように教えているからです。しかし、忘れてはならない、とても重要な事実があります。それは、罪人としてこの世に生まれた私たちには、本来、神を父と呼ぶ資格がなかったということです。考えてみてください。神は完璧に聖なるお方であり、そこには一片の罪も存在しません。しかし、人間は生まれながらにして罪と無縁ではいられない存在です。聖と罪、全く相容れないはずの両者が、どうして「父」と「子」という親しい関係になれるのでしょうか。本日は、罪人である私たちが、聖なる神を「父」と呼べるようになったのはなぜか、その恵みの理由を探ってみたいと思います. 1.なぜ、神を父と呼ぶのか。 日本キリスト教会の小信仰問答 問31にはこういう質問があります。「問31:どうして神を父と呼ぶのですか?」「答:創造主はキリストの父ですから、キリストを信じて神の子とされている私たちも、父と呼ぶことを許されるのです。」私たちは、どうして神を父と呼んでいるのでしょうか? この世を創造された造り主だからでしょうか。自分に命をくださった方だからでしょうか。自分が神を父親として決めたからでしょうか? ある意味で、以上の質問はすべて一理あるかもしれません。しかし、それらが私たちが神を父と呼べる根本的で、決定的な理由だとは言えません。私たちが神を父と呼べる、最も根本的かつ決定的な理由は、神が私たちの救い主であるイエス·キリストの父であるからです。「しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした。あなたがたが子であることは、神が、アッバ、父よと叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります。」(ガラテヤ4:4-6) もちろん、人間も神の被造物だから、広い意味で神を父と見なすことができます。しかし、問題は、人間が「すでに神に呪われ、見捨てられた存在」であるということです。 「こうしてアダムを追放し、命の木に至る道を守るために、エデンの園の東にケルビムと、きらめく剣の炎を置かれた。」(創3:24) 初めに神を裏切った人間は、取り返しのつかない死の呪いを受けました。そして、自力では二度と真の命を手に入れることが出来ない、惨めな存在となってしまったのです。しかし、神は一つの希望の約束をくださいました。「お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に、わたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く。」(創3:15) 先ほど読みましたガラテヤ書の言葉には「神は、その御子を女から…お遣わしになりました。」とありました。この言葉は創世記3章15節を引用した表現です。「エデンの園の東のケルビムと剣の炎」は象徴的に人間が自力では死に勝つ命を得ることが出来なくなったという意味です。しかし、ケルビムと剣の炎をお創りになった神ご自身が人間のところに来られ、その人間を連れて命の木への導かれるとすれば、話は違います。イエス·キリストは罪人を救い、命の木、つまり神による真の命に、私たちを導いてくださるために来られた救い主です。そして、このキリストと一緒にいる時、私たちは真の命に進むことができるようになるのです。私たちが神を父と呼ぶ理由は、まさしく、このためです。私たちが神を父と呼べるようにしてくださるキリストが、私たちのかしらになって、ご自分の父のみもとへ導いてくださるからです。 2.「キリストと父との関係」 それでは、キリストと父なる神は、どのような関係を結んでおられるでしょうか。日本キリスト教会 大信仰問答「問38 父なる神と子なる神と…の関係はどういうものでありますか。(一部抜書)」「答:…父は何ものよりも成らず、造られず、生まれざる永遠の子孫者、子は父より永遠において生まれたもの。(一部抜書)」御子の永遠の生まれは、創造や出生とは違う概念です。ギリシャ語には「ギノマイ」という言葉があります。その本来の意味は「存在するようにする。創造する。なる。」などです。しかし、文法的に使って「創造するようにする原因、ある存在を存在するようにする原因、あるものの発生的な根源」などを含む奥深い表現です。つまり「御父から御子が永遠において生まれた。」という表現は、創造されたとか、生まれたとかの意味ではなく、御子の存在性が永遠において御父の中にあるという意味で、創造された存在ではなく、御父と共に永遠において存在してこられた方であるという意味に解釈するのが正しいです。用語が本当に難しいですが、イエスは時空間が出来るずっと前から父と一緒に存在してこられた真の神であるという意味です。ヨハネによる福音書はこう語ります。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。」(ヨハネ1:1-2) つまり、イエスは神によって造られた普通の被造物とは異なる、最初から神の子として存在しておられた真の神の子であるという意味です。最初から父とおられ、父と創造も共になさった存在であるということです。私たちのような人間は神の被造物として神とは本質的に違う創造された存在です。しかし、主イエスは父と永遠に一緒におられ、最初から御子として存在された方です。そのため、キリスト教の神学では、イエスのことを神の唯一の真の実子であり、キリスト者はキリストによって神に養子縁組された養子だと表現しているのです。これを通じてキリスト者が神の被造物であるため、神を父と呼ぶのではないということが分かります。真の神の実子であるキリストによって神の子とみなされた存在であるということです。真の神の子キリストの犠牲と御救いによって、神を父と呼べない者たちが、神を父と呼べるようになったわけです。もちろん、旧約にも神はご自分の民を父親、あるいは母親の観点から扱われることもあります。「女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。たとえ、女たちが忘れようとも、わたしがあなたを忘れることは決してない。」(イザヤ49:15) しかし、ここでは神がイスラエルの民の創造者として彼らを子供のように考えておられるということであって、イエスのように存在そのものが完全な実子であるという意味ではありません。旧約においての神の子の概念と新約においての神の子の概念は、まったく違う意味を持っていることを忘れないようにしましょう。 3.堂々と神を父と呼べる者たち。 ですから、主は言われたのです。「言っておくが、およそ女から生まれた者のうち、ヨハネより偉大な者はいない。しかし、神の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。」(ルカ7:28) 洗礼者ヨハネは旧約最後の預言者でした。イエスのご到来からは、新約の時代であり、イエスを主と崇める私たちは新約の民です。私たちの中で最も小さな者でも、神はイエス•キリストによって、旧約最後の偉大な預言者である洗礼者ヨハネより、さらに優れた存在として認めてくださるという意味です。ヨハネの時代、すなわち旧約時代には、キリストによって神の養子となったという概念がありませんでした。しかし、新約の民はイエス•キリストによって神の子と認められたのです。養子だからといって、神が私たちのことをニセ息子として思っておられるわけではありません。私たちはよく「キリストは教会の頭、教会はキリストの体」という表現を口にします。つまり、私たちはキリストのものとなった存在です。神は御子イエスを愛されるように、その体となった教会と教会に連なる一人一人をも愛しておられます。まるで、神がキリストを愛しておられるように、キリストの民をも愛しておられるのです。言葉だけ養子であって、実際はキリストに負けないほど私たちは愛されているのです。そんなに愛されていなかったら、父なる神は、独り子を十字架のいけにえとして犠牲されなかったでしょう。私たちはキリストによって、キリストのように神に愛される神の本当の子供になったのです。したがって、私たちは、いつでもどこでも神の子として堂々と立つのが出来るのです。 締め括り コラムデオという言葉をご存知ですか。この言葉はラテン語で「神の前で」という意味です。罪を持った人間は神の御前に立つ瞬間、神聖によって滅ぼされます。しかし、このコラムデオという言葉の裏には「キリストと共に神の前で」という意味が含まれています。神の真の子イエス•キリストによって、主の体となった私たちは、主と共に神の御前に堂々と立つことが出来ます。主イエスを通じて、神の子として生きることが出来るのです。イエスが、この地上に肉となって来られた理由は、まさに私たちを神の子にして神の前に堂々と立たせてくださるためです。そして、私たちは、そのキリストを信じて神の子、キリスト者と呼ばれるようになったのです。「イエスは言われた。…わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る。」(ヨハネ20:17) イエスが復活された朝、以上のように主は言われました。主のご誕生は、まさに私たちに真の父をくださるためです。なぜ神であるキリストが、この地上に来られたのだろうか、なぜ、私たちは神を父と呼べるのだろうか、今日の言葉を通じて、もう一度考えてみる機会になることを願います。

しばらく休むがよい

創世記2章1~3節 (旧2頁) マルコによる福音書 6章30~44節(新72頁) 前置き 人間は忙しい日常を過ごしながらも、適切に休むことを通して生きる力を得る存在です。なぜなら、休みとは単なる余暇活動ではなく、世界を造られた主なる神の摂理の一部であり、主ご自身が被造物に与えてくださった聖なる権利だからです。今日は、聖書の御言葉を通して、キリスト者の人生における「休み」という賜物が、どれほど深く、豊かな意味を持っているのかを話してみたいと思います。 1. 日曜日は教会へ 「日曜日は教会へ」という言葉があります。これは休日である日曜日は教会に来て主なる神に礼拝しょうという教会からの呼びかけです。日曜日が法定祝日ではない日本では会社に出勤する会社員や部活のために登校する生徒をよく見かけます。日曜日が法定祝日ではない国は、イスラム圏や中国の他、いくつかあります。(もちろん、法定祝日ではないが、日本では休日と認識されています。)一方、欧米の諸国では、日曜日を法定祝日としています。日曜日が休日に定められた歴史は遠くローマ帝国時代にまで遡ります。ローマ帝国で日曜日が正式な休日として定着したことには、ローマ帝国の第44代皇帝コンスタンティヌス1世の影響が大きかったです。彼はキリスト教を公認した何年後の西暦321年に「尊厳なる太陽の日を公休日とする」と勅令を出しました。それは当時ローマに存在した太陽神崇拝の日と、その日を礼拝日としていたキリスト者の状況を考慮した政治的な措置でした。皇帝はキリスト教と太陽神崇拝者の要求を政治的に合わせるために太陽の日を公休日にし、そこから日曜日に休む文化がローマ全域に広まったのです。そのため、人々は、その日を「日曜日」と呼ぶようになったのです。 では、この日曜日に礼拝を行うという初代教会の伝統は、どこに由来したのでしょうか?それは、ユダヤ教の「安息日」でした。旧約聖書「創世記」によれば、神は6日間で天地を創造され、7日目に安息されたと書いてあります。それで、ユダヤ教は、この7日目にあたる土曜日を安息日と定め、すべての労働を止め、安息日として守り続けてきました。ユダヤ教の影響を受けたキリスト教はイエス・キリストが復活された安息日の翌日(日曜日)を記念し、その日曜日を「主の日」すなわち「主日」と呼びました。初代のキリスト者たちは、ユダヤ教からの迫害を避け、またユダヤ教との区別のために、次第に日曜日に集まって礼拝を捧げるようになったのです。そして、西暦313年、コンスタンティヌス1世が発布した「ミラノ勅令」により、キリスト教はローマ帝国で公認されました。このような経緯から、コンスタンティヌス1世が太陽神を崇拝する日をキリスト教が礼拝する主日と重ね合わせ、キリスト教の影響により、休日となったのです。したがって「日曜日」は、主なる神に礼拝する日です。ローマ帝国の太陽神「ソル・インヴィクトゥス(無敵の太陽)」を祀る日だったものが、福音によって唯一の主なる神を礼拝する日として新たに生まれ変わったのです。日曜日が「休みの日だから」教会の礼拝に行くわけではありません。「神に礼拝する日だから」休むのです。「日曜日は教会へ」という言葉は、単に休みの日だから教会に来なさいという意味を遥かに超えています。もともと、日曜日が主に礼拝する日であるからこそ、その礼拝のために休み、教会へ来るべきという深い意味が込められているのです。 2.休みの神学 休みにも神学があります。多くの人は、休みをただ働かずにいること、あるいは遊ぶ行為だと考えがちです。特に、労働を重んじる東アジアでは、休みを否定的に考えることも少なからずあるでしょう。現代では休みへの認識が高まったため、十分な休日が確保されていますが、かつて日本が高度成長期を迎え、発展を遂げていた時代には、1ヵ月に一度、二度しか休まずに働き続ける人々もいたと言われます。その結果、過労死で亡くなる人も多かったでしょう。ひょっとすると、この時代の富みは、十分に休むこともなく働き続き、疲れに倒れていった世代の苦労の対価であるかもしれません。私たちはこの発展の実を享受していますが、その裏で犠牲になった方々の苦労を、忘れないで生きるべきでしょう。休みがなければ、労働の価値も光を失います。休みは人間の生において最も重要な価値の一つであり、必ず守るべき人間尊厳の物差しでもあるのです。「第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。」(創世記2章2節) 休み(安息)の神学は、神ご自身の安息から始まります。創造の御業を6日間で完成された神は、第七日に安息されました。神には休みが要りません、被造物に休みの模範を見せてくださったのです。この休みは、創造摂理の大事な要素であり、すべての被造物に与えられた主による権利なのです。 休み(安息)の神学には、三つの重要な教えがあります。①創造秩序の回復:主なる神が創造の時になさったように、労働と安息のバランスを取り、主の創造摂理に従うことです。主は天地創造を終えられた後、安息を通して「わたしが休んだように、あなたがたも休むように」と無言の啓示をくださったのです。②主なる神への信頼:休息は「一日働かなくても主が私を養ってくださる」という信仰告白です。絶え間ない生産性と効率性を追求するこの世で、休息を守ることは、自分の人生の主権が自分ではなく、主なる神にあるということを認める行為なのです。人間は必然的に経済に依存して生きざるを得ません。お金は常に足りなく、お金稼ぎためには絶えず何かをしなければなりません。しかし、一週間のうち一日を完全に休んでも、主が自分の人生を守ってくださるという信頼を通して、主が自分の主人であることを休息によって証明するのです。③社会的な正義と平等:旧約聖書の安息日の戒めは、奴隷、家畜、さらには土地まで休ませることで、すべての被造物が労働から解放されて安息する権利があることを教えています。これは、弱者や貧しい人々を大切にする社会的な正義の基礎となるものです。 3.キリストは休みをくださる方 新約の本文を読んでみましょう。「さて、使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した。イエスは、「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と言われた。出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。」(マルコ6:30〜31)6章7節では、主イエスが弟子たちを二人ずつ組して、伝道の旅に立つことを命じられました。どれくらいの期間だったかは分かりませんが、8節から9節で「旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、ただ履物は履くように、そして「下着は二枚着てはならない」と命じられた。」とあるように、弟子たちはかなり過酷な旅路を経験したに違いありません。30節で、彼らは戻ってきて、主イエスに事の次第を報告しました。その時、イエスは彼らを休ませられたのです。主ご自身は多用の中、苦しむ人々を助けておられましたが、旅から戻った弟子たちには休息を取るようにと勧められたのです。この箇所に直接つながっているのが今日の新約本文の後半に出てくる五つのパンと二匹の魚の奇跡です。弟子たちの休みと、その奇跡が直結していることに深い意味を感じます。主から休みをいただいた弟子たちは、その後、主と共に、この世から傷つき、苦しんでいる大勢の人々のための偉大な奇跡に加わることになったのです。 そして、その結果、成人男性だけで5,000人(女性、高齢者、子供まで含めると3万人以上と推定)が食べ、なお12のかごが残ったのです。この奇跡は、旧約聖書の出エジプト記に出てくるマナの奇跡を思い起こさせるしるしです。主なる神は、出エジプト後にイスラエル民族を荒野の険しい道へと導かれながらも、彼らにマナという日用の糧をくださいました。それはイスラエル民族がエジプトの奴隷として生きていた時の「働かなければ死ぬ」という奴隷の考え方から脱し、彼らの真の主である神が命と死を支配しておられる絶対者であることを悟らせてくだあるためでした。そのため、主は6日間は、毎朝マナを集めるように働かせましたが、安息日には6日目に二倍のマナを与え、彼らを休ませてくださいました。このように、主イエスもまた疲れ、重荷を負った人々を呼び集められ、食べ物を与えてくださることで、旧約における神の御業を思い起こさせ、彼らに安息をくださったのです。そして、先に休みを得た弟子たちは、群衆への主イエスの「休ませる」という御業に直接かかわり、主の証人となりました。主イエスは人々を休ませてくださる方です。休みを通して神の御業に気付かさせ、ご自分の民のために、最後まで責任を持って導かれるお方であることを教えてくださるのです。 締め括り 休みは、単なる肉体のリラックスや遊びではありません。それは、日々の忙しさから離れ、自分自身を顧み直し、心身共に回復するための霊的な行為です。肉体的な疲れがなくても、人生の重荷が精神的な疲れとなって私たちを苦しめることがあります。そのような時こそ、私たちは意識的に休み、心の安らぎを求める必要があります。休みの間、祈りと黙想によって分自身を顧み、健全な信仰において人生を満たしていくべきです。休みは、主なる神の摂理の一つです。適切な休みは、私たちが健全に、そして豊かに人生を過ごせるために不可欠です。私たちは皆、神が与えられた休みという恵みに感謝し、適切に休みつつ生きるべきです。

大祭司の祈り

民数記6章24~26節 (旧221頁) ヨハネによる福音書 17章1~26節(新202頁) 前置き ヨハネによる福音書17章は「大祭司の祈り」と呼ばれる箇所です。祈っておられる主イエスを通じて、いと高き主なる神と罪に汚された人間の間に立ち、神の怒りをしずめ、主の民を清める旧約の大祭司の姿が重なって見えてくるからです。特に主イエスは3つの部分に分かれている17章のお祈りを通して、1-5節主イエスご自身のための祈り、6-19弟子たちのための祈り、20-26全人類のための祈りを父なる神にささげておられます。今日は本文の言葉を通して、主イエス・キリストが私たちをいかに愛しておられるのか、主イエスが私たちにとって、どのようなお方なのかについて話したいと思います。 1.主ご自身のための祈り。 主イエスは、主の民と人類のために祈る前に、まずご自身のためにお祈りになりました。愛の主が、なぜ他人ではなく、先にご自分のために祈られたでしょうか?今日の本文では、主イエスが御父にご自分に栄光を求める場面が出てきます。私たちは、この栄光を誤解してはなりません。これは自分の欲望を満たす世俗的な意味としての栄光ではありません。ヨハネによる福音書での栄光は「御子の本質」のことです。主イエスの栄光は「主イエスの本質」つまり、主イエスが存在する理由にあります。主イエスは、罪に汚され、死ぬに決まっているご自分の民を救われるために来られました。つまり、主イエスの栄光は救いのための十字架での死でした。その過酷で、屈辱的な苦難が主イエスの「自分らしくいる様」つまり栄光だったのです。ところで、主イエスは天地創造の前から、すでにその栄光を持っておられたようです。「父よ、今、御前でわたしに栄光を与えてください。世界が造られる前に、わたしが御もとで持っていた、あの栄光を。」(ヨハネ17:5) ここで、私たちは創造の前から民を罪から救うために御子の犠牲が定まっていたというのが分かります。御子イエスが十字架で罪人のために死ぬことが、創造の前からの御子の栄光であるという意味です。主イエスは、このような栄光という名の苦難を乗り切るために、まず父なる神に祈られたのです。「あなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになりました。そのために、子はあなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです。」(ヨハネ17:2) 主イエスは、この苦難の終わりにご自分の民に与えられる永遠の命のために世界を治める真の王として復活されるでしょう。父なる神は、ご自分の死によって栄光を輝かせられた主イエスを復活させられ、主イエスの栄光を完成してくださるでしょう。主イエスのご自身のための祈りは、父なる神の栄光、ご自分の栄光、そして、民の救いのための祈りだったのです。 2.弟子たちのための祈り 辞書を引いてみると弟子という言葉について「先生に教えを受ける人」と書いてあります。つまり、教育を受ける人です。教育とは、心と体の知識を得るため、すなわち知るための行為です。弟子は「知るために」先生に従う人です。それでは、主イエスの弟子は果たして何を知るべきでしょうか。「永遠の命とは、唯一の真の神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」(ヨハネ福音17:3) 使徒ヨハネは真の神と主イエスを知るべきだと語りました。ところで、この「知る」ことによって、何が得られますでしょうか。聖書は永遠の命を得ると教えます。主イエスのお教えを受けた者は、神がどなたなのか、主イエスがどんな方なのか、知ることになります。そして、それを知る結果は永遠の命です。これは主イエスの弟子だけが得られる恵みです。十二弟子だけが主イエスの弟子ではありません。主を信じ、その方を知る人みんなが主の弟子になるのです。 ヨハネ17:3での「知ること」は、単純な知識のことではありません。聖書において「知ること」は、夫婦関係のように密接な関係を結ぶことを意味します。神との関係を結び、信頼するのが、神を知ることです。「神を知ること」とは、すなわち「神を信じる」と言い換えることが出来ます。永遠の命とは、唯一の真の神と、神から遣わされたイエス・キリストを信じることです。そのために、主イエスは2番目に弟子の信仰のために祈られたのです。「わたしはあなたから受けた言葉を彼らに伝え、彼らはそれを受け入れて、わたしがみもとから出て来たことを本当に知り、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じたからです。」(ヨハネ17:8)「わたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。」(ヨハネ17:11) 主は、キリストに御言葉を教えて頂き神様とイエス・キリストが誰なのかを知り、信じるようになった弟子たちを、神様が最後まで守ってくださることを祈り願われたのです。 3.全人類のための祈り また、主はご自分の民だけでなく、すべての人類のためにも祈ってくださいました。「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります。」(ヨハネ17:21) 主イエスは、主を信じない人をみんな地獄に投げられ、主を信じる人だけを憐れむ方ではありません。この世界のすべての人々が主を知り、神を信じることが、主イエスの夢だといっても過言ではないでしょう。「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。」(テモテ一2:4) なぜなら、世界のすべての人々が主イエスを信じる潜在性を持っているからです。神がお選びくださらなかったら、誰がキリスト者になれたでしょうか。主なる神が信仰をくださったので、私たちが主イエスを信じるようになり、そのイエスを信じることによって、神を知ることになったことを忘れてはならないでしょう。主なる神は、世界のすべての人々が主イエスを信じることを望んでおられます。神の御心は信者と未信者を問わず、イエス・キリストを通して、全ての人々に開かれています。主は今日も彼らのために教会の頭として、教会を通して福音を宣べ伝えさせておられます。 締め括り 今日の旧約本文に、大祭司アロンが神の代わりにイスラエルの民に祝福を伝える場面が出てきます。「主があなたを祝福し、あなたを守られるように。主が御顔を向けてあなたを照らし、あなたに恵みを与えられるように。主が御顔をあなたに向けて、あなたに平安を賜るように。」(民数記6:24~26) アロンと比べられない真の大祭司である主イエスは、今でも父なる神にご自分の民のために祈ってくださいます。神と人間の間を執り成す大祭司は、神の祝福を民に伝え、民の祈りを神に伝える非常に大事な存在です。主なる神はイエス・キリストを通して私たちに祝福をくださいます。そのような神の御心をイエス・キリストが知っておられ、御心が成し遂げられるように祈られたのです。また、民からの願いや祈りも主イエスを通して、神様に捧げられるでしょう。イエス・キリストは私たちの大祭司です。主は今現在も御父の右から大祭司としてお祈りくださるでしょう。その恵みに感謝する志免教会の兄弟姉妹でありますよう祈り願います。

万物の支配者。

詩編104編1~9節(旧941頁) 使徒言行録17章24~25節(新248頁) 前置き 今年に入って宮崎県の海域で大小の地震が起きているそうです。国内では割と静かですが、周辺国では、日本での7月の大地震説が取りざたされています。たつき諒という漫画家の著書である「私が見た未来」という本に、2025年7月5日、日本で大きい地震が起こり、大勢の人々が苦しむと予言されたからです。(作家は予知夢をよく見る人のようです。)この本はかつて神戸大震災、3·11福島大震災、コロナ流行などを予言しました。そのため、一部の人々は、作家の別の予言、つまり今年7月、日本で大地震が起こるのではないかと恐れているわけです。 実際、今年の6月から宮崎のトカラ列島沖で大小の地震が後を絶たない状態です。地元の人々の中には、鹿児島市に避難した人たちもいるとニュースに出ました。外国では日本旅行を取り消す人もいるそうです。果たして、実際に大地震が起きるのでしょうか? 明らかなことは地震が起きる可能性も、起きない可能性もあるということです。誰かの予言でなくても、日本ではすでに多くの地震が起きてきたからです。このような状況の中で、キリスト者の持つべき心構えは何でしょうか。 1.天災地変への人間の恐怖 人類の歴史が始まって以来、人類は数多くの災害にさらされてきました。世の中に起きる災害は人によってもたらされる人災(戦争、放火による火災、安全事故、建築物の崩壊など)と自然に発生する天災(地震、津波、異常気温、自然発火による山火災、山崩れなど)に分けられます。人々は外交を通して出来るだけ戦争を避け、法律を強め、安全意識を固めて、人によってもたらされる人災をあらかじめ防ごうと努力してきました。しかし、自然からの災害は人の努力ではどうしても解決できない恐ろしいものでした。というわけで、昔から人間は自然現象を神の怒りや啓示などと認識してきました。特に、その影響を多く受けたのが日本の神道思想ともいえるでしょう。日本の原始宗教観は世の中のすべてに神が宿っているという汎神論的な思想を基盤にしているからです。このように、人々は自然の急変を恐れ、そこから信仰を生み出してきました。しかし、聖書は、自然は神ではなく、主なる神の支配の下にある被造物にすぎないと明確に述べています。 今日の新約の本文を読んでみましょう。「世界とその中の万物とを造られた神が、その方です。この神は天地の主ですから、手で造った神殿などにはお住みになりません。また、何か足りないことでもあるかのように、人の手によって仕えてもらう必要もありません。すべての人に命と息と、その他すべてのものを与えてくださるのは、この神だからです。」(使徒言行録17:24-25) 使徒パウロは主なる神が、世のすべてを造られ、今でも導いておられると力強く証しました。自然への恐怖は人間だけでなく、この世のすべての生き物が感じる共通の本能です。ですから、自然災害のうわさが広がる時、「何も心配するな。何も起こらない。不安は愚かなことだ。」と人間の本能に逆らって楽観的に考え、心配する人々を非難することは望ましくないでしょう。 特に日本は地震発生が非常に多い国ですから、あらかじめ注意しておいて悪いことはないでしょう。しかし、キリスト者である私たちは、主なる神が世界のすべてのことをコントロールしておられるということを信じ、主を知らない世の中の人々と同じように、不安と心配に包まれ、何の基準もなく振舞ってはならないでしょう。 2.天災地変に対するキリスト者の心構え 私たちは、主なる神を信じればすべてがうまくいくだろうと漠然と思いがちです。しかし、実際にすべてがうまくいくとは断言できません。主を信じても、うまくいかない場合もあります。当たり前なことです。主は、私自身一人だけの神ではなく、全宇宙の神だからです。宇宙には、人間だけでなく他の動物、植物、海、空、大陸、月、星、太陽、銀河系などすべてが含まれます。そのすべてが神の被造物だと聖書は証言します。そのため、主なる神は、御手によって創造された秩序を用いて、この宇宙を支配しておられます。一人二人の人間だけのために、主の秩序をあきらめられたら、神の創造の摂理と秩序は乱れてしまい、宇宙にはさらに大きな混乱が来てしまうでしょう。以前にも、説教で何度か申し上げたことがありますが、創造は無から有を創造することだけに限りません。創造のもう一つの重要な特徴は、無秩序に秩序を与えることです。そのため、人間の立場からの天災地変は、主なる神の立場からでは宇宙を保たせる秩序が働く中で生じるやむを得ないトラブルの一つであるかもしれません。 日本に地震が多発する理由は、その地域のためです。日本が位置している地域は、環太平洋造山帯と呼ばれる地殻と地殻が向き合う接点です。南米のチリから北米西海岸、アレスカ、千島列島、日本列島、フィリピン、インドネシア、ニュージーランドまで続く太平洋を包む火山帯です。そのため、この地域の国々では地震が多発するのです。地球の表層はいくつかの地殻でできており、すごくのろいですが、動いています。このとき、地殻同士が押し合い、摩擦して巨大な揺れが起こります。それがまさに地震として現れるのです。もし、地殻が動かなくなって地震が起きなかったらどうでしょうか? それは生きている地球ではなく死んだ地球の姿であり、そうなれば私たち人間もこれ以上地球で生存できなくなるでしょう。地震が怖くて、なかったらいいかもしれませんが、皮肉なことにその地震がないということは地球が死んだということになり、私たちもその死んだ地球ではもう生きることが出来ないでしょう。 神の被造物である自然は、それなりの秩序によって働いているのです。そして、地震は、その自然の一部なのです。 だからといって、主なる神がわざと地震を起こし、人類には秩序だから仕方ない、文句言うなとおっしゃる方であるわけではありません。 地震で人類が苦しむのは、主も御心を痛めることでしょう。ですから、人間に知識と技術の発展を許され、災害の中でも再び起き上がれるように導いてくださるのではないでしょうか? 自然災害は恐ろしいものですが、地球が生きているためにはやむを得ず起き続けるしかない必然的なものです。そして、それは主なる神の自然の秩序に属する事柄です。したがって、キリスト者は地震という自然災害を漠然と恐れる前に地球が生きているという証拠であり、主が地震で苦しむ人々を憐れんでおられることを忘れてはならないでしょう。誰でも人生を生きながら天災地変に遭いうるでしょう。もし私たちが住んでいる福岡県に地震が起きるとしたら、恐ろしさの中でも主の秩序を思い出し、政府の指導に従って被害を最小にし、地震によって恐れ苦しむ隣人を助け仕えることで、無秩序の中に秩序を作り出すキリスト者になることを願います。そして、迷信による世の恐怖を超え、主なる神がすべてをコントロールしておられることを堅く信じ、苦難を乗り越える信仰を持つべきではないかと思います。 3.万物の支配者 「わたしの魂よ、主をたたえよ。主よ、わたしの神よ、あなたは大いなる方。栄えと輝きをまとい、光を衣として身を被っておられる。天を幕のように張り、天上の宮の梁を水の中にわたされた。雲を御自分のための車とし、風の翼に乗って行き巡り、さまざまな風を伝令とし、燃える火を御もとに仕えさせられる。主は地をその基の上に据えられた。地は、世々限りなく、揺らぐことがない。深淵は衣となって地を覆い、水は山々の上にとどまっていたが、あなたが叱咤されると散って行き、とどろく御声に驚いて逃げ去った。水は山々を上り、谷を下り、あなたが彼らのために設けられた所に向かった。あなたは境を置き、水に越えることを禁じ、再び地を覆うことを禁じられた。」(詩篇104:1-9) 詩篇は、主なる神が、世界の万物の支配者であることを唱えています。この世のすべての自然現象も結局は主の支配のもとにあります。しかし、自然現象によって苦しむ人が生じる時もあります。私たちは自然現象を防ぐことができません。全体的な大きな秩序の一部であるため、防いでもいけません。ただ、その自然よりも大きい主の権能と慰めと導きを信じ、自然災害に恐れる人々を慰め、助けて生きるべきだと思います。それが万物の支配者である主なる神の存在を知る人と知らない人の違いではないでしょうか? 締め括り 日本では、そんなに話題になっていないかもしれませんが、周辺国では7月の大地震のうわさで日本への訪問を心配していると言われます。昨年の能登半島地震、南海トラフなどが話題になったときから、さらに深まっています。しかし、日本列島は地球ができたときから地震の脅威から一度も避けたことがありません。今更、恐れるより、今までのように注意を持って過ごせばよいと思います。主なる神が日本を守ってくださることを望みます。誰も地震によって苦しむことなく犠牲にもならないことを祈ります。主の教会は地震も結局、主の支配下にあることを信じ、恐れ、不安に思う隣人を慰めながら助けなければならないでしょう。 主を信じる私たちは、世の中の他の人々とは違う視座から自然災害に対応して生きるべきでしょう。それも信仰の領域にある生き方だからです。