万物の支配者。
詩編104編1~9節(旧941頁) 使徒言行録17章24~25節(新248頁) 前置き 今年に入って宮崎県の海域で大小の地震が起きているそうです。国内では割と静かですが、周辺国では、日本での7月の大地震説が取りざたされています。たつき諒という漫画家の著書である「私が見た未来」という本に、2025年7月5日、日本で大きい地震が起こり、大勢の人々が苦しむと予言されたからです。(作家は予知夢をよく見る人のようです。)この本はかつて神戸大震災、3·11福島大震災、コロナ流行などを予言しました。そのため、一部の人々は、作家の別の予言、つまり今年7月、日本で大地震が起こるのではないかと恐れているわけです。 実際、今年の6月から宮崎のトカラ列島沖で大小の地震が後を絶たない状態です。地元の人々の中には、鹿児島市に避難した人たちもいるとニュースに出ました。外国では日本旅行を取り消す人もいるそうです。果たして、実際に大地震が起きるのでしょうか? 明らかなことは地震が起きる可能性も、起きない可能性もあるということです。誰かの予言でなくても、日本ではすでに多くの地震が起きてきたからです。このような状況の中で、キリスト者の持つべき心構えは何でしょうか。 1.天災地変への人間の恐怖 人類の歴史が始まって以来、人類は数多くの災害にさらされてきました。世の中に起きる災害は人によってもたらされる人災(戦争、放火による火災、安全事故、建築物の崩壊など)と自然に発生する天災(地震、津波、異常気温、自然発火による山火災、山崩れなど)に分けられます。人々は外交を通して出来るだけ戦争を避け、法律を強め、安全意識を固めて、人によってもたらされる人災をあらかじめ防ごうと努力してきました。しかし、自然からの災害は人の努力ではどうしても解決できない恐ろしいものでした。というわけで、昔から人間は自然現象を神の怒りや啓示などと認識してきました。特に、その影響を多く受けたのが日本の神道思想ともいえるでしょう。日本の原始宗教観は世の中のすべてに神が宿っているという汎神論的な思想を基盤にしているからです。このように、人々は自然の急変を恐れ、そこから信仰を生み出してきました。しかし、聖書は、自然は神ではなく、主なる神の支配の下にある被造物にすぎないと明確に述べています。 今日の新約の本文を読んでみましょう。「世界とその中の万物とを造られた神が、その方です。この神は天地の主ですから、手で造った神殿などにはお住みになりません。また、何か足りないことでもあるかのように、人の手によって仕えてもらう必要もありません。すべての人に命と息と、その他すべてのものを与えてくださるのは、この神だからです。」(使徒言行録17:24-25) 使徒パウロは主なる神が、世のすべてを造られ、今でも導いておられると力強く証しました。自然への恐怖は人間だけでなく、この世のすべての生き物が感じる共通の本能です。ですから、自然災害のうわさが広がる時、「何も心配するな。何も起こらない。不安は愚かなことだ。」と人間の本能に逆らって楽観的に考え、心配する人々を非難することは望ましくないでしょう。 特に日本は地震発生が非常に多い国ですから、あらかじめ注意しておいて悪いことはないでしょう。しかし、キリスト者である私たちは、主なる神が世界のすべてのことをコントロールしておられるということを信じ、主を知らない世の中の人々と同じように、不安と心配に包まれ、何の基準もなく振舞ってはならないでしょう。 2.天災地変に対するキリスト者の心構え 私たちは、主なる神を信じればすべてがうまくいくだろうと漠然と思いがちです。しかし、実際にすべてがうまくいくとは断言できません。主を信じても、うまくいかない場合もあります。当たり前なことです。主は、私自身一人だけの神ではなく、全宇宙の神だからです。宇宙には、人間だけでなく他の動物、植物、海、空、大陸、月、星、太陽、銀河系などすべてが含まれます。そのすべてが神の被造物だと聖書は証言します。そのため、主なる神は、御手によって創造された秩序を用いて、この宇宙を支配しておられます。一人二人の人間だけのために、主の秩序をあきらめられたら、神の創造の摂理と秩序は乱れてしまい、宇宙にはさらに大きな混乱が来てしまうでしょう。以前にも、説教で何度か申し上げたことがありますが、創造は無から有を創造することだけに限りません。創造のもう一つの重要な特徴は、無秩序に秩序を与えることです。そのため、人間の立場からの天災地変は、主なる神の立場からでは宇宙を保たせる秩序が働く中で生じるやむを得ないトラブルの一つであるかもしれません。 日本に地震が多発する理由は、その地域のためです。日本が位置している地域は、環太平洋造山帯と呼ばれる地殻と地殻が向き合う接点です。南米のチリから北米西海岸、アレスカ、千島列島、日本列島、フィリピン、インドネシア、ニュージーランドまで続く太平洋を包む火山帯です。そのため、この地域の国々では地震が多発するのです。地球の表層はいくつかの地殻でできており、すごくのろいですが、動いています。このとき、地殻同士が押し合い、摩擦して巨大な揺れが起こります。それがまさに地震として現れるのです。もし、地殻が動かなくなって地震が起きなかったらどうでしょうか? それは生きている地球ではなく死んだ地球の姿であり、そうなれば私たち人間もこれ以上地球で生存できなくなるでしょう。地震が怖くて、なかったらいいかもしれませんが、皮肉なことにその地震がないということは地球が死んだということになり、私たちもその死んだ地球ではもう生きることが出来ないでしょう。 神の被造物である自然は、それなりの秩序によって働いているのです。そして、地震は、その自然の一部なのです。 だからといって、主なる神がわざと地震を起こし、人類には秩序だから仕方ない、文句言うなとおっしゃる方であるわけではありません。 地震で人類が苦しむのは、主も御心を痛めることでしょう。ですから、人間に知識と技術の発展を許され、災害の中でも再び起き上がれるように導いてくださるのではないでしょうか? 自然災害は恐ろしいものですが、地球が生きているためにはやむを得ず起き続けるしかない必然的なものです。そして、それは主なる神の自然の秩序に属する事柄です。したがって、キリスト者は地震という自然災害を漠然と恐れる前に地球が生きているという証拠であり、主が地震で苦しむ人々を憐れんでおられることを忘れてはならないでしょう。誰でも人生を生きながら天災地変に遭いうるでしょう。もし私たちが住んでいる福岡県に地震が起きるとしたら、恐ろしさの中でも主の秩序を思い出し、政府の指導に従って被害を最小にし、地震によって恐れ苦しむ隣人を助け仕えることで、無秩序の中に秩序を作り出すキリスト者になることを願います。そして、迷信による世の恐怖を超え、主なる神がすべてをコントロールしておられることを堅く信じ、苦難を乗り越える信仰を持つべきではないかと思います。 3.万物の支配者 「わたしの魂よ、主をたたえよ。主よ、わたしの神よ、あなたは大いなる方。栄えと輝きをまとい、光を衣として身を被っておられる。天を幕のように張り、天上の宮の梁を水の中にわたされた。雲を御自分のための車とし、風の翼に乗って行き巡り、さまざまな風を伝令とし、燃える火を御もとに仕えさせられる。主は地をその基の上に据えられた。地は、世々限りなく、揺らぐことがない。深淵は衣となって地を覆い、水は山々の上にとどまっていたが、あなたが叱咤されると散って行き、とどろく御声に驚いて逃げ去った。水は山々を上り、谷を下り、あなたが彼らのために設けられた所に向かった。あなたは境を置き、水に越えることを禁じ、再び地を覆うことを禁じられた。」(詩篇104:1-9) 詩篇は、主なる神が、世界の万物の支配者であることを唱えています。この世のすべての自然現象も結局は主の支配のもとにあります。しかし、自然現象によって苦しむ人が生じる時もあります。私たちは自然現象を防ぐことができません。全体的な大きな秩序の一部であるため、防いでもいけません。ただ、その自然よりも大きい主の権能と慰めと導きを信じ、自然災害に恐れる人々を慰め、助けて生きるべきだと思います。それが万物の支配者である主なる神の存在を知る人と知らない人の違いではないでしょうか? 締め括り 日本では、そんなに話題になっていないかもしれませんが、周辺国では7月の大地震のうわさで日本への訪問を心配していると言われます。昨年の能登半島地震、南海トラフなどが話題になったときから、さらに深まっています。しかし、日本列島は地球ができたときから地震の脅威から一度も避けたことがありません。今更、恐れるより、今までのように注意を持って過ごせばよいと思います。主なる神が日本を守ってくださることを望みます。誰も地震によって苦しむことなく犠牲にもならないことを祈ります。主の教会は地震も結局、主の支配下にあることを信じ、恐れ、不安に思う隣人を慰めながら助けなければならないでしょう。 主を信じる私たちは、世の中の他の人々とは違う視座から自然災害に対応して生きるべきでしょう。それも信仰の領域にある生き方だからです。