バベルの塔を考える

創世記11章1-9節 (旧13頁) 使徒言行録2章1-4節(新214頁) 1.バベルとは何か? 私たちは聖書を読みながら、バベルという言葉をよく目にします。創世記のバベルの塔、イスラエル民族を滅ぼしたバビロン、ローマ帝国の首都ローマを比喩的にバベルと呼び、黙示録では神に逆らう悪の勢力と、その支配をバビロン比喩します。(バビロンとバベルは語源が同じ) バベルは古代アッカド語で「神々の家」という意味です。おそらく、神々の家という意味のように古代人は、強力な神々の加護のもとで繁栄することを願い、バベルという言葉を好んで使用していたでしょう。ところで、このバベルという言葉はヘブライ語では「神々の家」ではなく「混乱」を意味します。アッカド語では「神々の家」という意味のバベルは、なぜ、ヘブライ語では「混乱」という意味に変わったのでしょうか?今日の本文を通じて、その理由についてのぞき見ることができます。「この町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を混乱(バラル)させ、また、主がそこから彼らを全地に散らされたからである。」(創11:9) バベルが混乱と呼ばれるようになった理由は、主なる神がバベルでの人間の罪を御覧になり、彼らの集まりと言葉を混乱にさせ、散らされたからです。 大昔、イスラエルの先祖アブラハムが生まれてもない時から、中東の国々には、神々を拝むための神殿がありました。彼らはその神殿を中心に町を築き、国を打ち立てました。彼らは神の「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。」という命令を無視し、神殿を中心に集まり、自分たちが主導する世界を作ろうとしました。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。」という言葉は、ただの人間の繁栄だけを意味するものではありません。世界中に広がり、神のみ旨に適って生きなさいという意味だったのです。しかし彼らは、むしろ一所に集まって、主なる神に背き、自分たちが中心となり、他者を支配する巨大な帝国を作ろうとしました。彼らはバベルという名前のように、神々の家という意味の神殿に異邦の神々を閉じ込め、自分たちの必要に合わせて、神々を利用することを望んでいたのです。神々を利用するために神殿を建てた彼らは、存在もしていない神々を拝み、偶像崇拝を自然に行いました。また、それを通して自らが神のような存在になることをたくらんでいたのです。つまり、バベルとは、主なる神から積極的に離れ、自分が神のようになろうとする、神に逆らう人間の本性を意味するものです。結局、神は今日の本文のように、彼らに混乱を与えられ、バラバラに散らされました。このようにバベルは、今でも神に逆らう存在の代名詞、神の反対側に立つ悪の代名詞として聖書で使われています。 2.なぜ、塔なのか? バベルの塔のバベルは、その塔の名前ではなく、バベルという町に建てられていた、巨大な塔を意味するものです。多くの人がこれを古代中東の建築物の一つであるジッグラトと推定しています。ジッグラトとは、先にお話しました神々の家、すなわち神殿で古代中東人の文化の中心であるものでした。彼らはなぜ神殿という美名のもとに、高い塔を築こうとしたのでしょうか? 「彼らは、さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしようと言った。」(創11:4) 彼らは、高い塔を築き、その塔を天に届くようにして、自分たちの名前を高めるために、レンガを積み上げました。創世記4章を読むと、このような言葉があります。 「セトにも男の子が生まれた。彼はその子をエノシュと名付けた。主の御名を呼び始めたのは、この時代のことである。」(創4:26)アダムの息子セトが、息子を儲けた時はじめて、人々は主の御名を呼び始めました。旧約聖書において神の名を呼ぶということは「神に礼拝を捧げる。」という意味です。ということで、推測できるのは、今日の本文に出てくる「有名になる」ということは、自分たちも礼拝される存在になりたがっていたという意味なのでしょう。つまり、バベルの人々は、互いに力を合わせて塔を築き、自分たちも神のように崇拝される神のような存在になることを望んでいたということでしょう。彼らは神を仕えるべき対象と思わず、ただ自分らが礼拝の対象として、神のようになることを望んでいたのです。 それでは、神のようになるということと、塔を建て上げるということの間には、どのような係わりがあるでしょうか?古代人は、この世界をゴムまりのような円形だと思いました。丸い世界の中間地帯に人間が住んでいる地上の世界があり、地下には死者が行く陰府があり、空には太陽、月、星などがあり、その上に神々の世界である天があると信じていました。人々が高い塔を建て上げて、天に至ろうとしていた理由には、自分たちが、その天に上って、世界の外の神々のところに入ろうとした願いが秘められています。自分たちも神の世界に入り、神の支配から逃れ、神のように世界を支配する存在となることを望んでいたわけです。結局、私たちが、このバベルの出来事を通して分かるのは、人間には神のようになり、自分勝手に生きていこうとする本能があるということです。人間には他人の上に君臨しようとする望ましくない性質があります。金持ちは貧乏な者を、権力者は弱者を、強い国は弱い国を力で抑圧し、支配しようとする本性を持っています。私たちの心には、そんな本能がないでしょうか?自分より弱い者たちをおとしめ、自分よりも強い者には屈服する姿が、もしかしたら、私たちの心の中にあるかもしれません。今日の本文は、このような人間の罪に満ちた本性を示しているのです。高い塔を築くということは、自分自身を極めて高め、他人は自分の足下に踏みつけ、支配しようとする、人間の傲慢な罪の性質を余すところなく示すことなのです。 3.バベルの塔の結果 主なる神は人間が全世界に広がり、神を伝え、仕えて生きることをお望みになりました。神が初めのアダムと洪水後のノアに「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。」と命じられた理由が、全世界に神の御名を伝え、神を礼拝する存在として生きなさいという意味だったからです。私たちは、この命令の根拠を新約聖書で見つけることができます。 「イエスは近寄って来て言われた。わたしは天と地の一切の権能を授かっている。 だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイ28:18-20)十字架での死と墓からの復活の後、父なる神に世界を支配する権限を与えられた主イエスは、弟子たちに全世界に進んで、神を伝えることを命じられました。今まで人類が罪のため、成し遂げられなかった全世界に広がって神を伝える人生を、主イエスご自身が「いつも一緒に歩んでくださる」という約束によってはじめて成し遂げることができたのです。その結果、世界的に福音が宣べ伝えられ、今ここで、民族や文化を乗り越えて一緒に神を礼拝することが出来るようになったのです。しかし、バベルの人間たちは、広がり、神を宣べ伝えるどころか、自分たちが神の座を奪おうとしていたわけです。 神を伝えるために全世界に広がっていくべきであったバベルの人々は、結局、神によって言葉が混乱させられ、民族が分かれさせられる呪いを受け、散らされてしまいました。 「我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう。」(創世記11:7-8)神に逆らい背く者は、神によって散らされてしまいます。人間がいくら巨大な国を打ち立て、他の民族を踏みつけ、自分を高めようとしても、神を仰ぎ見ず、自分を神のようにしようとする者たちは、遅かれ早かれ滅ぼされてしまいます。周辺国を踏み躙り、支配した古代のエジプト、ギリシャ、ローマ、ペルシャ帝国も、今では文化財として残っているだけです。私たちが生きていく、この世も古代の帝国と大きい違いはありません。強い者は弱い者を、強い国は弱い国を苦しめます。自分たちはさらに高め、他人は低くするためです。しかし、神は常に天から地のことを見守っておられます。自らを高めようと自己中心的に塔のレンガを積み上げる者は、昔のバベルの罪人のように崩れ、散らされてしまうでしょう。したがって、私たちは自分を高めるエゴという塔を建て上げるより、神を高め、伝え、隣人を助け、互いに愛しあうために地に広がり、謙遜に生きていくべきです。そのような生き方を主は祝福してくださるでしょう。 締め括り 低いところに臨まれた主イエスを思い起こします。主は神そのものでおられましたが、地上の弱い者たちのために降り、神と隣人に仕えられました。聖書は、その結果をイエスの勝利として結論づけています。(フィリピ1:5-11) バベルの罪人たちは塔を建て上げ、天を欲した反面、神であるキリストは、むしろ地上の人々の間に来られました。主は自ら御自分のことを低くし、誰よりも低いところから愛を実践されました。その結果、最も高い王として神に認められることになったのです。また、使徒言行録には、このイエスが成し遂げられた、もう一つの恵みが記してあります。「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。 すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」(使徒2:2,4)自分を高めたバベルの人々が言葉の混雑を経験したことと反対に、自分たちを高めるためでなく、もっぱら神を高めるために集まった弟子たちは、キリストを通して聖霊を受け、それぞれ別の言語で、一つの福音を宣言する真の言語の一致を経験したわけです。バベルの塔は人間の高くなりたがる性質を示すものです。しかし、主イエスは御自分の犠牲を通して、神と隣人を高め、自らを低くする際にはじめて、神に高められるということを教えてくださいました。私たちの心の中に、傲慢なバベルのような性質はないか、自分のことを顧みて、主の御前に謙虚に生きる民になることを願います。主と隣人を高め、自分自身を低くする、謙虚な志免教会の兄弟姉妹でありますよう祈り願います。

あなたの父と母を敬え

出エジプト記 20章12節(旧126頁) エフェソの信徒への手紙 6 章1-4節(新359頁) 前置き 去る5月11日は母の日でした。もともと先週の主日、この説教をしたかったのですが、私の留守のため、今日することになりました。約一ヶ月後の6月15日は父の日でもありますので、今がこの説教にちょうど良い時期ではないかと思います。今日は十戒の第五戒「あなたの父と母を敬え」とエフェソの信徒への手紙の言葉を通じて、親を敬うことについて話したいと思います。 1. 約束を伴う最初の掟 「父と母を敬いなさい。これは約束を伴う最初の掟です。そうすれば、あなたは幸福になり、地上で長く生きることができるという約束です。」(エベソ6:2-3) 使徒パウロはエフェソ教会に手紙を書きながら、末尾にキリスト者の望ましい生き方について語りました。その中に、子供たちのあり方についても助言しました。それは「父と母を敬え」でした。使徒パウロは旧約聖書の十戒の言葉を引用して両親を敬わなければならないと言いましたが、それは約束を伴う最初の掟であると定義しました。今日の旧約本文は出エジプト記20章(十戒)の12節だけですが、十戒の全文を読み切ると、唯一第五戒のみに「そうすれば」という言葉がついているのが分かります。主なる神がこの第五戒だけに「この戒めを守れば、あなたに祝福を与える。」と条件をつけられたということです。残りの戒め全てが重要ですが、神は第五戒を特に大事にされたようです。神が最初造られた共同体は、アダムとエヴァという最初の家族でした。残念なことに、彼らは罪を犯してしまいましたが、それでも神は二人に子供をくださり、家族を成させてくださいました。神は家族という共同体を人類のもっとも基礎的な単位として立ててくださったのです。 この「家族」という共同体は神が初めの人類にくださった神を礼拝する「最初の教会」です。そして、神は主の教会に秩序をくださり、それを求められる方です。「神は無秩序の神ではなく、平和の神だからです。すべてを適切に、秩序正しく行いなさい。」(第一コリント14:33,40) 私たちが父と母を敬わなければならない理由は、単に礼儀作法や慣習のためだけではありません。主なる神は無秩序に秩序を与えられる方です。創造は無から有を創り出すことでもありますが、無秩序に秩序を与えることでもあります。したがって、主なる神の最初の教会である家族は、神が造られた秩序によって支えられなければなりません。つまり、父母を敬うことは神の秩序に聞き従うことと同然です。親への敬いは、神の摂理に積極的に従うことです。ですから、親を敬うことは神を敬愛することの一部であるとも言えるでしょう。十戒において、神は公に神の秩序と摂理に従う者、すなわち父母を敬う者には、ご自分による美しい地での豊かな長生きを約束されたのです。人が親を敬うことは神の祝福を得る最高の道であることを、聖書は私たちに教えてくれるのです。 2. 父母を敬うのとともに考えたいこと – 子どもへの愛 ところが、ここで問題があります。今、この説教を聞いておられる皆さんの中には、ずっと前に両親を亡くされた方々が多いはずです。すでに亡くなった両親を生き返らせて敬うことは出来ません。それでは、今の皆さんにおいて「あなたの父母を敬え」という戒めは、どのように守ることができますでしょうか。最も基本的に敬うべき対象は、すべてのものを造られた、万物の造り主です。そして、私たちは、その造り主なる存在が三位一体なる神であることを知っています。「すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます。」(エフェソ4:6) ここで「父」とありますが、それは男性の父親のことではありません。神は男でも女でもない方です。神は真の父であると同時に真の母でもある方です。要すると父と母という性別を超えた真の親ということです。私たち皆のことを誰よりもよく知っておられ、ご計画どおりに造られた方です。私たちの真の親であり、万物の造り主である方です。ですから、すでに両親を亡くし、70代,80代になった皆さんも親を敬うことができます。それは神を愛し、御言葉に聞き従うことを望んで生きることです。 「父親たち、子供を怒らせてはなりません。主がしつけ諭されるように、育てなさい。」(エフェソ6:4) 新約の本文は、もう一つの父母を敬うに並べる教えを語ります。すでに両親が亡くなった方々は、神を愛し聞き従うことと共に「神がしつけ諭されるように、子供を育てること(正しい養い)」で両親を敬うのに代わることができるでしょう。子供を正しく養い愛することは社会的なマナーを身に付けさせ、良質の教育をすることでもありますが、キリスト者においては何よりも御言葉によって、造り主なる神とキリストの贖いと救いと聖霊のお導きとを教えること、つまり、神へ信仰を教えつつ養うことです。しかし、すでに子供が成人して信仰の養いが出来ない場合、子供への日ごろのやさしい応対や言動によって「キリスト者である両親は私を尊重し愛してくれる。私の両親を通じて神という存在を感じる。」のように、キリストの香りを漂わしながら生きることによって、子供を愛することが出来ます。本文に「子供を怒らせてはならない」とありますが「怒る」のギリシャ語の意味は「一緒に怒りあう。激怒させる。」です。子供が親のため、怒りを感じたり、親が子供の心配になったりすることを意味します。このように「親を敬うこと」のまた一つの形は、子供への信仰の養いと尊重、そして愛とも言えるでしょう。 3. 神と隣人への愛 十戒の前半の四つの戒めは、神に対する民の生き方についての教えです。また、後半の五つの戒めは、隣人に対する民の生き方についての教えです。真ん中の第五戒めは、神と隣人を包括する民の生き方についての教えです。主イエスは十戒全体の精神について、このように言われました。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。隣人を自分のように愛しなさい。」(マタイ22:37-39) この言葉は十戒の大命題である神への愛と隣人への愛について語っています。そして、第五戒は、真の親である神を愛し、最初の隣人である自分の父母を愛しなさいと力強く教えています。したがって、第五戒は神と隣人への愛を共に訴えている十戒のかなめ石のような戒めであるでしょう。そういうわけで、神は第五戒を祝福の約束を伴ってまで大事になさったわけではないでしょうか? キリスト教会の中でも保守的な教会と進歩的な教会が分かれます。前者には神への礼拝と教会の維持を優先にする傾向があります。後者には隣人への愛の実践のため、社会運動を優先にする傾向があります。しかし、私たちは神と隣人への愛をバランスよく調節し、信仰生活に臨むべきです。それが第五戒が私たちに教える教訓ではないでしょうか? 前置き 赤ちゃんが生まれ、最初に愛するようになる相手は断然母親でしょう。しかし、その子が育ち、人生を生きながら最も親密に、時には軽んじやすく思う存在も母親でしょう。母は自分と一番近くて気楽な存在だからです。しかし、その母もいつかはこの世を去ることになるでしょう。自分のそばにいるときは、気づかなかったが、遠く離れたのをしみじみと感じてはじめて、母の大事さに痛感するでしょう。先週の主日は母の日でした。母という存在、その大事さについて顧みる有意義な日だと思いました。主なる神は親を敬うことを何よりも大切な人間の価値として立ててくださいました。目に見える親への愛によって、目に見えない真の親である神への愛をお確かめになるでしょう。親への愛を憶えつつ、神と隣人へ愛をも顧みることを願います。

私もあなたを罪に定めない。

ヨハネによる福音書 8章1-11節(新180頁) 旧約聖書を読むと、イスラエルには、3つの祭りがあったと言われます。除酵祭、七週祭、仮庵祭がそれらです。それらの祭りはエジプト帝国の抑圧からイスラエルを解放し、長い荒野生活で守ってくださった主なる神を記念する特別な日でした。イスラエルの男は、それらの祭りを守るためにエルサレムの神殿に訪問し、生け贄を捧げました。イスラエルの民は、それらの祭りを通して、主なる神についての知識を得、記念しながら、主の御心について学びました。今日の新約聖書の背景は、それらの中の仮庵祭に起こった出来事です。 1.仮庵祭の二つの行事 今日の新約本文の背景は仮庵祭の終わりごろでした。ユダヤ人の文献によると、この仮庵祭の間には、2つの特別な行事があったそうです。一つ目は、祭司の庭で行われた水の祭りでした。祭司の庭とは、焼き尽くす献げ物の祭壇のある神殿の前庭のことです。水の祭りの際、人々はシュロの木の枝、ヤナギの枝などを振りながら、主なる神のお赦しを喜びたたえました。また、シロアムの池から汲みあげた水でいけにえの祭壇を洗い清めました。これは雨乞いの祭りとしての機能も兼ねていました。当時のユダヤ人は、このような祭りによって罪を洗い流し、命を与えてくださる主なる神のお赦しを憶えました。 二つ目は、祭司の庭の隣にある女の庭で行われた火の祭りでした。先の水の祭りが終わると場所を移し、女の庭の燭台に火を灯し、闇に光を照らす火の祭りを行いました。老若男女が集まって火をつけ、神の御前で踊ったり歌ったりしながら、この世の光でおられる神を讃美したのです。「若いときの罪を赦される者には福あり、かつて罪を犯したが、今、赦される者には福あり」ラビの指導に従って、詩編の歌を歌いつつ、暁となって鶏の鳴き声が聞こえてくると、自分の罪を赦してくださった神に感謝の祈りを捧げたと言われます。これらの行事によって、イスラエルの民はの仮庵祭を過ごし、主の赦しを感謝しました。 2.人を赦さない罪 ユダヤ人は、この仮庵祭の水と火の祭りを通して、水のように罪を清めてくださる神、火のように闇に光を照らしてくださる神を憶えました。仮庵祭の一週間、祭司の庭で行なった水の祭りと女の庭で行なった火の祭りを通して、人々神の愛と恵みを改めて確かめたのです。かつて、主なる神に逆らった罪のため、バビロンに滅ぼされてしまったイスラエルは、奴隷に過ぎない民族になってしまいました。しかし、彼らが最も弱くなっていた時、神は彼らを再び呼び出してくださいました。イスラエルは神の赦しと愛とによって、自由を得、イスラエルに帰ることが出来ました。その後、イスラエルの指導者たちは人々に、先祖の罪について、イスラエルを救ってくださった神の愛について、罪を赦し、新しい命をくださった主について絶えず教えました。 しかし、今日の本文では、夜どおし、神に感謝し、主の恵みをほめたたえた人々が、突然変わることが起こります。「律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、 イエスに言った。先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」(ヨハネ8:3-5)宗教指導者たちが姦淫の罪を犯した女を捕らえてきたとき、人々は彼女を打ち殺そうとしました。数時間前まで、神の命の水と恵みの火を喜び、神の愛と赦しに感動していた彼らが、罪人については、赦しも、愛もなく、ただ、彼女を殺すために憤っていたのです。神が仮庵祭を通して、彼らに赦しと愛を教えてくださったのに、彼らは自分への赦しだけに感謝し、他者への赦しと愛という最も大事な教えは見落としてしまったのです。神の赦しが姦淫した女性には適用されないと考えたからです。 3.赦してくださるイエス・キリスト。 その朝、主イエスが神殿に来られました。その時、宗教指導者たちは姦淫した女を連れて殺気立った群衆とともにイエスのもとに来ました。神殿での一週間、仮庵祭によって神の赦しと愛を憶え、喜んでいた彼らが姦淫した女性に対しては、いかなる哀れみもなく、ただ彼女を殺すためにイエスの前に来たのです。仮庵祭の祭りは彼らの心に一体何を残したのでしょうか?確かに姦淫した女は罪を犯しました。しかし、その日は神の恵みを感謝し、神と人への愛を誓った祭りの最後の日でした。仮庵祭そのものが荒野で民を導き生かしてくださった神を記念する祭りです。彼らは自分の罪の赦しを感謝しながらも、他者の罪は赦していなかったのです。イエス・キリストは一言で仮庵祭の精神を示されました。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」(ヨハネ8:7) 私はイエスが言われた一言「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」の前に、このような長い言葉が隠れていると思います。「私は、去る一週間、仮庵祭を過ごしながら、あなたがたに赦しの喜びを与えたあなたがたの神、主である。私は昔からあなたがたの罪を赦してきた。だから、私はまた、この女の罪をも赦すのだ。私はこの女を罪に定めない。この女も私に赦されるべき私の民であるから。それにもかかわらず、この女を殺したくなら」「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」仮庵祭の水と火の祭りを通して民への赦しを教えてくださった神は、御子イエス・キリストの言葉を通じて、姦淫した女を赦してくださいました。主の御言葉を聞いた人々は、良心に責め苛まれ、女を責めることが出来ませんでした。そして、彼らはみんないなくなりました。 締め括り 仮庵祭、イエスはイスラエルの祭りに隠れている真の律法の精神を教えてくださいました。それは、罪赦されて喜ぶことだけに満足してはならないという教えでした。主イエスは姦淫した女にも同じように教えてくださいました。「私もあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」出エジプト後、40年間、荒野で民を守ってくださった主に感謝するなら、命の水の源、世の光として、罪を赦してくださった主を愛するなら、律法をよく守って生きたいなら、自分が神に赦されたことを忘れず、同じく他人の罪をも赦し、愛を実践しながら生きなさいということです。今日の物語は赦しと愛こそが、主なる神を崇める者が持つべき精神であることを教えています。

全的堕落

ローマの信徒への手紙3章10-12節(新276頁) 前置き 今日は、教理の説教をしたいと思います。先日、ご自分の民を絶対にあきらめられない主なる神の愛について説教しながら、手短に「聖徒の堅忍」についても話しました。神がご自分の民の救いのために、彼らの失敗の時にも絶対にあきらめられず、また、主の民が信仰をあきらめようとする時も、最後まで信仰を守り続けるように堅固に忍耐して導いてくださるということについての話しでした。この「聖徒の堅忍」という概念は、ドルト信仰基準を縮約した「カルヴァン主義五大教理」の第5項に該当します。これをきっかけに、連続説教としてカルヴァン主義5大教理について学んでみようと思います。教理説教は、多少講義のようなところがあり、退屈になりやすいですが、ご理解お願いします。しかし、集中してお聴きいただければ信仰の常識に役立つものになると信じます。よろしくお願いします。 1。長老派教会の歴史のあらすじ まず、教理の話の前に、私たちが属している長老教会の成立について探ってみましょう。中世の教会はヨーロッパ社会の中核でした。自然に権力と財物と名誉で点綴されていました。そのため、教会の中に誤った慣習が生まれるようになりました。その一つが有名な免罪符です。司祭だったマーティン·ルーサーは、教会の間違いに気づき、ひとえに御言葉に帰ろうという趣旨で宗教改革を触発することになります。それはヨーロッパ全体に広がりましたが、そのうち、フランス出身で、スイスのジュネーブで活動していたジャン·カルヴァンにも影響を及ぼすようになりました。 ジャン·カルヴァンはスイス改革教会の成立に貢献した人物で、スコットランドのジョン·ノックスも、彼に影響を受けるようになります。さて、イギリスでの旧教と新教の対立のため、スイスに亡命したプロテスタントの人々がいましたが、ジョン·ノックスは彼らの招聘によりスイスに来ることになります。それをきっかけにジャン·カルヴァンの影響を受けることにもなり、将来、祖国に帰って長老教会を形成することになります。時間が経ち、イギリスのプロテスタント教会は宗教的な弾圧を避けて新大陸(アメリカ)に渡り、19世紀に入ってアメリカの長老教会から派遣された宣教師たちによって日本にも教会が建てられるようになりました。それが日本キリスト教会の始まりにつながります。長老教会はすなわち改革教会であり、改革教会は聖書の御言葉を最優先にして御言葉に従って絶えず自らを改革していく教会です。 2. 改革教会神学への抗論 – アルミニアン主義 上記のような理由で長老教会はジャン·カルヴァンの教えに多く影響を受け、教理を大事にします。長老派の教理の中で特に重要な概念は、神がすべてをあらかじめ定められたという予定説です。「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。」(エフェソ1:4)「キリストにおいてわたしたちは、御心のままにすべてのことを行われる方の御計画によって前もって定められ、約束されたものの相続者とされました。」(エフェソ1:11) カルヴァンはこれらの言葉を根拠にし、予定教理を整理したでしょう。ところが、これは論争をもたらしてしまいました。「神がすべてをあらかじめ定められたなら、未信者と彼らの滅びもあらかじめ定まっているのか?」という疑問のためでした。実は、ジャン·カルヴァンが予定説を大事に考えた理由は「すべてをあらかじめお定めになる主なる神の全能さ」を強調するためだったが、誰かは神の独断的な予定によって最初から救われない人がいるということが誤った聖書解釈ではないかと受け止めてしまった結果なのです。そんな理由で、予定説に問題を提起した人々は、人間の自由意志を大事にしました。神学の歴史では、彼らをアルミニアン主義者と名付けました。ヤコブ·アルミニウスという神学者から始まったからです。 そして、以下はアルミニアン主義5箇条と呼ばれる聖書解釈です。①自由意志:人は全的に堕落したが、神の救いへの招きに対し、人には自由意志を働かせて応答する力が残されている。②条件的な選び:神は誰がキリストを信じるかを予知によってご存じであり、その者を救う。③普遍的な贖罪:イエスの十字架は、善人悪人を問わず、すべての人のためにあった。④聖霊への拒否は有効である: 人間の自由意志はキリストの贖いを適用することにおいて聖霊を制限する。罪人が応じなければ聖霊は生命を与えることができない。すなわち、神の恩寵は拒否されることができる。⑤恵みからの堕落:信仰によって本当の救いを得る者も、信仰に失敗すると救いを失うことがある。(アルミニアン主義は将来メソジスト教会に大きい影響を及ぼします。)確かに聖書を解釈する方法につれて、これらのような主張も出てくるかもしれません。しかし、彼らは人間の自由意志を強調したあまり、神の全能さを損ねる主張をしてしまいました。そこで、改革教会は、1618 年、オランダのドルトで会議を開き、アルミニアン主義5箇条に反論するドルト信仰基準を作成しました。ドルト信仰基準の骨子は以下の5つの教義で縮約することができます。 3.カルヴァン主義5大教理と第1項の全的堕落 ①全的堕落:人は全的に堕落し罪の奴隷となった。救いへの招きに応じることも、霊的なことを考える力も失った。ただ聖霊が私たちを造り変えることによってのみ、応答できる。②無条件的な選び:神は人の内にある何らかの救われる資質(条件)を見たから救うのではなく無条件である。③限定的な贖罪:イエスの贖いは選ばれた民だけのものである。イエスの血は悔い改めない罪人のために無駄に流されたのではない。④不可抗的な恵み:神が救おうと意図されたなら、その人は抵抗することはできず、必ず救われる。⑤聖徒の堅忍:神は一度救った者の信仰を彼が死ぬまで守り抜かれる。その生涯において、その人が神から離れたように見える時もあるが、最終的に信仰は個人の努力ではなく、神の恵みによって守られる。改革教会は上に説明したアルミニアン5箇条に反論し、このような教理を整理しました。(週報の裏面に比較整理しておきましたので対照しながらご覧ください。) 今日は時間の関係で、第1項全的堕落についてだけ話してみましょう。今日の本文のローマ書は、こう述べています。「正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく、神を探し求める者もいない。皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。」(ローマ3:10-12) 旧約聖書、創世記によると、最初の人間であるアダムとエヴァは、主なる神が絶対に取って食べるなと命じられた禁断の果実(善悪の知識の木の実)を取って食べてしまいました。「主なる神は人に命じて言われた。園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」(創世記2:16-17) 神は最初の人間を完全な存在に創造されました。 彼らは神にかたどって造られた存在なので、神に似ており、完全な善を行うことができる力を持っていました。神は彼らを操り人形ではなくご自分の子供に創造されたため「自由意志」を与えてくださいました。そのため、彼らは善と悪を区別し、選べる「選びの自由」を持っていました。そして、神は、彼らが自由意志をもって従順に行うかを判断する手立てとして善悪の知識の木をエデンの園の真ん中に置かれたのです。しかし、結局、人間は神が禁じられた木の実を取って食べてしまいました。自由意志を神の御言葉への服従ではなく、自分の欲望の達成のために使ってしまったのです。その結果、人間は堕落し、必ず死ぬことになってしまいました。 ある人たちは、神が禁じられた実を食べたことが、そんなに大きな罪なのか、一度の過ちも勘弁してくれないのか、それによって堕落と裁くのはやりすぎではないかと思うかもしれません。しかし、何かを食べたのが問題ではなく、神の御言葉に逆らったというのが問題です。完全な善を行える力があるにもかかわらず、故意に悪を選んだのに、神への逆らいが隠れているからです。そして、これが人間の原罪となりました。原罪はアダムが犯した罪だけに限りません。アダムが代表する人間全体に隠れている神に逆らう罪の種を意味するのです。したがって、人間は基本的に罪の性質を持って生まれます。改革神学は、これを「全的堕落」と定義します。これは完全に堕落し、悪魔のようになるという意味とは異なります。罪のため、自力で神の御心に服従できないということ、何よりも自力で神の救いの福音を受け入れることが出来ないという意味です。なぜなら、人間自らの力では神の御心に完全に聞き従うことが不可能だからです。この世には善良な人々が数え切れないほど多いです。キリスト者よりも善い人がたくさんいます。しかし、神の恵み、キリストの贖い、聖霊の導きがなければ、彼らは決して自ら神を知り、信じることができません。善良さと信仰は別の問題だからです。 締め括り 改革教会の予定説に異議を唱えたアルミニアン主義は「人は全的に堕落したが、神の救いへの招きに対し、人は自由意志を働かせて、応答する力が残されている。」と人の力で神を信じ、救いを得るか拒むかができると信じました。しかし、改革教会は「人は全的に堕落し罪の奴隷となった。救いへの招きに応じることも、霊的なことを考える能力も失った。ただ聖霊が私達を造り変えることによってのみ、応答する。」と信じます。皆さんはどう思われますか? 私たちに自ら神を信じ、神と協力して救いを得る力がありますでしょうか。私はアルミニアン主義を盲目的に批判するつもりではありません。部分的にその主張に頷ける時もありました。しかし、人間自らが神と協力して救いを手に入れるということについては全面的に反対です。もしそうなるのならば、神の恵みとキリストの贖いは価値を失ってしまうでしょう。人間は自ら神を信じ、自分の救いに力を加えることができません。それが全的堕落という言葉に含まれた意味なのです。ひとえに父なる神の計画、イエス•キリストの贖い、聖霊の導きによってのみ信じることができ、救われることが出来るのです。それだけが移り変わりなく、私たちの完全な救いを保証するからです。