バベルの塔を考える
創世記11章1-9節 (旧13頁) 使徒言行録2章1-4節(新214頁) 1.バベルとは何か? 私たちは聖書を読みながら、バベルという言葉をよく目にします。創世記のバベルの塔、イスラエル民族を滅ぼしたバビロン、ローマ帝国の首都ローマを比喩的にバベルと呼び、黙示録では神に逆らう悪の勢力と、その支配をバビロン比喩します。(バビロンとバベルは語源が同じ) バベルは古代アッカド語で「神々の家」という意味です。おそらく、神々の家という意味のように古代人は、強力な神々の加護のもとで繁栄することを願い、バベルという言葉を好んで使用していたでしょう。ところで、このバベルという言葉はヘブライ語では「神々の家」ではなく「混乱」を意味します。アッカド語では「神々の家」という意味のバベルは、なぜ、ヘブライ語では「混乱」という意味に変わったのでしょうか?今日の本文を通じて、その理由についてのぞき見ることができます。「この町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を混乱(バラル)させ、また、主がそこから彼らを全地に散らされたからである。」(創11:9) バベルが混乱と呼ばれるようになった理由は、主なる神がバベルでの人間の罪を御覧になり、彼らの集まりと言葉を混乱にさせ、散らされたからです。 大昔、イスラエルの先祖アブラハムが生まれてもない時から、中東の国々には、神々を拝むための神殿がありました。彼らはその神殿を中心に町を築き、国を打ち立てました。彼らは神の「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。」という命令を無視し、神殿を中心に集まり、自分たちが主導する世界を作ろうとしました。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。」という言葉は、ただの人間の繁栄だけを意味するものではありません。世界中に広がり、神のみ旨に適って生きなさいという意味だったのです。しかし彼らは、むしろ一所に集まって、主なる神に背き、自分たちが中心となり、他者を支配する巨大な帝国を作ろうとしました。彼らはバベルという名前のように、神々の家という意味の神殿に異邦の神々を閉じ込め、自分たちの必要に合わせて、神々を利用することを望んでいたのです。神々を利用するために神殿を建てた彼らは、存在もしていない神々を拝み、偶像崇拝を自然に行いました。また、それを通して自らが神のような存在になることをたくらんでいたのです。つまり、バベルとは、主なる神から積極的に離れ、自分が神のようになろうとする、神に逆らう人間の本性を意味するものです。結局、神は今日の本文のように、彼らに混乱を与えられ、バラバラに散らされました。このようにバベルは、今でも神に逆らう存在の代名詞、神の反対側に立つ悪の代名詞として聖書で使われています。 2.なぜ、塔なのか? バベルの塔のバベルは、その塔の名前ではなく、バベルという町に建てられていた、巨大な塔を意味するものです。多くの人がこれを古代中東の建築物の一つであるジッグラトと推定しています。ジッグラトとは、先にお話しました神々の家、すなわち神殿で古代中東人の文化の中心であるものでした。彼らはなぜ神殿という美名のもとに、高い塔を築こうとしたのでしょうか? 「彼らは、さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしようと言った。」(創11:4) 彼らは、高い塔を築き、その塔を天に届くようにして、自分たちの名前を高めるために、レンガを積み上げました。創世記4章を読むと、このような言葉があります。 「セトにも男の子が生まれた。彼はその子をエノシュと名付けた。主の御名を呼び始めたのは、この時代のことである。」(創4:26)アダムの息子セトが、息子を儲けた時はじめて、人々は主の御名を呼び始めました。旧約聖書において神の名を呼ぶということは「神に礼拝を捧げる。」という意味です。ということで、推測できるのは、今日の本文に出てくる「有名になる」ということは、自分たちも礼拝される存在になりたがっていたという意味なのでしょう。つまり、バベルの人々は、互いに力を合わせて塔を築き、自分たちも神のように崇拝される神のような存在になることを望んでいたということでしょう。彼らは神を仕えるべき対象と思わず、ただ自分らが礼拝の対象として、神のようになることを望んでいたのです。 それでは、神のようになるということと、塔を建て上げるということの間には、どのような係わりがあるでしょうか?古代人は、この世界をゴムまりのような円形だと思いました。丸い世界の中間地帯に人間が住んでいる地上の世界があり、地下には死者が行く陰府があり、空には太陽、月、星などがあり、その上に神々の世界である天があると信じていました。人々が高い塔を建て上げて、天に至ろうとしていた理由には、自分たちが、その天に上って、世界の外の神々のところに入ろうとした願いが秘められています。自分たちも神の世界に入り、神の支配から逃れ、神のように世界を支配する存在となることを望んでいたわけです。結局、私たちが、このバベルの出来事を通して分かるのは、人間には神のようになり、自分勝手に生きていこうとする本能があるということです。人間には他人の上に君臨しようとする望ましくない性質があります。金持ちは貧乏な者を、権力者は弱者を、強い国は弱い国を力で抑圧し、支配しようとする本性を持っています。私たちの心には、そんな本能がないでしょうか?自分より弱い者たちをおとしめ、自分よりも強い者には屈服する姿が、もしかしたら、私たちの心の中にあるかもしれません。今日の本文は、このような人間の罪に満ちた本性を示しているのです。高い塔を築くということは、自分自身を極めて高め、他人は自分の足下に踏みつけ、支配しようとする、人間の傲慢な罪の性質を余すところなく示すことなのです。 3.バベルの塔の結果 主なる神は人間が全世界に広がり、神を伝え、仕えて生きることをお望みになりました。神が初めのアダムと洪水後のノアに「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。」と命じられた理由が、全世界に神の御名を伝え、神を礼拝する存在として生きなさいという意味だったからです。私たちは、この命令の根拠を新約聖書で見つけることができます。 「イエスは近寄って来て言われた。わたしは天と地の一切の権能を授かっている。 だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイ28:18-20)十字架での死と墓からの復活の後、父なる神に世界を支配する権限を与えられた主イエスは、弟子たちに全世界に進んで、神を伝えることを命じられました。今まで人類が罪のため、成し遂げられなかった全世界に広がって神を伝える人生を、主イエスご自身が「いつも一緒に歩んでくださる」という約束によってはじめて成し遂げることができたのです。その結果、世界的に福音が宣べ伝えられ、今ここで、民族や文化を乗り越えて一緒に神を礼拝することが出来るようになったのです。しかし、バベルの人間たちは、広がり、神を宣べ伝えるどころか、自分たちが神の座を奪おうとしていたわけです。 神を伝えるために全世界に広がっていくべきであったバベルの人々は、結局、神によって言葉が混乱させられ、民族が分かれさせられる呪いを受け、散らされてしまいました。 「我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう。」(創世記11:7-8)神に逆らい背く者は、神によって散らされてしまいます。人間がいくら巨大な国を打ち立て、他の民族を踏みつけ、自分を高めようとしても、神を仰ぎ見ず、自分を神のようにしようとする者たちは、遅かれ早かれ滅ぼされてしまいます。周辺国を踏み躙り、支配した古代のエジプト、ギリシャ、ローマ、ペルシャ帝国も、今では文化財として残っているだけです。私たちが生きていく、この世も古代の帝国と大きい違いはありません。強い者は弱い者を、強い国は弱い国を苦しめます。自分たちはさらに高め、他人は低くするためです。しかし、神は常に天から地のことを見守っておられます。自らを高めようと自己中心的に塔のレンガを積み上げる者は、昔のバベルの罪人のように崩れ、散らされてしまうでしょう。したがって、私たちは自分を高めるエゴという塔を建て上げるより、神を高め、伝え、隣人を助け、互いに愛しあうために地に広がり、謙遜に生きていくべきです。そのような生き方を主は祝福してくださるでしょう。 締め括り 低いところに臨まれた主イエスを思い起こします。主は神そのものでおられましたが、地上の弱い者たちのために降り、神と隣人に仕えられました。聖書は、その結果をイエスの勝利として結論づけています。(フィリピ1:5-11) バベルの罪人たちは塔を建て上げ、天を欲した反面、神であるキリストは、むしろ地上の人々の間に来られました。主は自ら御自分のことを低くし、誰よりも低いところから愛を実践されました。その結果、最も高い王として神に認められることになったのです。また、使徒言行録には、このイエスが成し遂げられた、もう一つの恵みが記してあります。「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。 すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」(使徒2:2,4)自分を高めたバベルの人々が言葉の混雑を経験したことと反対に、自分たちを高めるためでなく、もっぱら神を高めるために集まった弟子たちは、キリストを通して聖霊を受け、それぞれ別の言語で、一つの福音を宣言する真の言語の一致を経験したわけです。バベルの塔は人間の高くなりたがる性質を示すものです。しかし、主イエスは御自分の犠牲を通して、神と隣人を高め、自らを低くする際にはじめて、神に高められるということを教えてくださいました。私たちの心の中に、傲慢なバベルのような性質はないか、自分のことを顧みて、主の御前に謙虚に生きる民になることを願います。主と隣人を高め、自分自身を低くする、謙虚な志免教会の兄弟姉妹でありますよう祈り願います。