全的堕落
ローマの信徒への手紙3章10-12節(新276頁) 前置き 今日は、教理の説教をしたいと思います。先日、ご自分の民を絶対にあきらめられない主なる神の愛について説教しながら、手短に「聖徒の堅忍」についても話しました。神がご自分の民の救いのために、彼らの失敗の時にも絶対にあきらめられず、また、主の民が信仰をあきらめようとする時も、最後まで信仰を守り続けるように堅固に忍耐して導いてくださるということについての話しでした。この「聖徒の堅忍」という概念は、ドルト信仰基準を縮約した「カルヴァン主義五大教理」の第5項に該当します。これをきっかけに、連続説教としてカルヴァン主義5大教理について学んでみようと思います。教理説教は、多少講義のようなところがあり、退屈になりやすいですが、ご理解お願いします。しかし、集中してお聴きいただければ信仰の常識に役立つものになると信じます。よろしくお願いします。 1。長老派教会の歴史のあらすじ まず、教理の話の前に、私たちが属している長老教会の成立について探ってみましょう。中世の教会はヨーロッパ社会の中核でした。自然に権力と財物と名誉で点綴されていました。そのため、教会の中に誤った慣習が生まれるようになりました。その一つが有名な免罪符です。司祭だったマーティン·ルーサーは、教会の間違いに気づき、ひとえに御言葉に帰ろうという趣旨で宗教改革を触発することになります。それはヨーロッパ全体に広がりましたが、そのうち、フランス出身で、スイスのジュネーブで活動していたジャン·カルヴァンにも影響を及ぼすようになりました。 ジャン·カルヴァンはスイス改革教会の成立に貢献した人物で、スコットランドのジョン·ノックスも、彼に影響を受けるようになります。さて、イギリスでの旧教と新教の対立のため、スイスに亡命したプロテスタントの人々がいましたが、ジョン·ノックスは彼らの招聘によりスイスに来ることになります。それをきっかけにジャン·カルヴァンの影響を受けることにもなり、将来、祖国に帰って長老教会を形成することになります。時間が経ち、イギリスのプロテスタント教会は宗教的な弾圧を避けて新大陸(アメリカ)に渡り、19世紀に入ってアメリカの長老教会から派遣された宣教師たちによって日本にも教会が建てられるようになりました。それが日本キリスト教会の始まりにつながります。長老教会はすなわち改革教会であり、改革教会は聖書の御言葉を最優先にして御言葉に従って絶えず自らを改革していく教会です。 2. 改革教会神学への抗論 – アルミニアン主義 上記のような理由で長老教会はジャン·カルヴァンの教えに多く影響を受け、教理を大事にします。長老派の教理の中で特に重要な概念は、神がすべてをあらかじめ定められたという予定説です。「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。」(エフェソ1:4)「キリストにおいてわたしたちは、御心のままにすべてのことを行われる方の御計画によって前もって定められ、約束されたものの相続者とされました。」(エフェソ1:11) カルヴァンはこれらの言葉を根拠にし、予定教理を整理したでしょう。ところが、これは論争をもたらしてしまいました。「神がすべてをあらかじめ定められたなら、未信者と彼らの滅びもあらかじめ定まっているのか?」という疑問のためでした。実は、ジャン·カルヴァンが予定説を大事に考えた理由は「すべてをあらかじめお定めになる主なる神の全能さ」を強調するためだったが、誰かは神の独断的な予定によって最初から救われない人がいるということが誤った聖書解釈ではないかと受け止めてしまった結果なのです。そんな理由で、予定説に問題を提起した人々は、人間の自由意志を大事にしました。神学の歴史では、彼らをアルミニアン主義者と名付けました。ヤコブ·アルミニウスという神学者から始まったからです。 そして、以下はアルミニアン主義5箇条と呼ばれる聖書解釈です。①自由意志:人は全的に堕落したが、神の救いへの招きに対し、人には自由意志を働かせて応答する力が残されている。②条件的な選び:神は誰がキリストを信じるかを予知によってご存じであり、その者を救う。③普遍的な贖罪:イエスの十字架は、善人悪人を問わず、すべての人のためにあった。④聖霊への拒否は有効である: 人間の自由意志はキリストの贖いを適用することにおいて聖霊を制限する。罪人が応じなければ聖霊は生命を与えることができない。すなわち、神の恩寵は拒否されることができる。⑤恵みからの堕落:信仰によって本当の救いを得る者も、信仰に失敗すると救いを失うことがある。(アルミニアン主義は将来メソジスト教会に大きい影響を及ぼします。)確かに聖書を解釈する方法につれて、これらのような主張も出てくるかもしれません。しかし、彼らは人間の自由意志を強調したあまり、神の全能さを損ねる主張をしてしまいました。そこで、改革教会は、1618 年、オランダのドルトで会議を開き、アルミニアン主義5箇条に反論するドルト信仰基準を作成しました。ドルト信仰基準の骨子は以下の5つの教義で縮約することができます。 3.カルヴァン主義5大教理と第1項の全的堕落 ①全的堕落:人は全的に堕落し罪の奴隷となった。救いへの招きに応じることも、霊的なことを考える力も失った。ただ聖霊が私たちを造り変えることによってのみ、応答できる。②無条件的な選び:神は人の内にある何らかの救われる資質(条件)を見たから救うのではなく無条件である。③限定的な贖罪:イエスの贖いは選ばれた民だけのものである。イエスの血は悔い改めない罪人のために無駄に流されたのではない。④不可抗的な恵み:神が救おうと意図されたなら、その人は抵抗することはできず、必ず救われる。⑤聖徒の堅忍:神は一度救った者の信仰を彼が死ぬまで守り抜かれる。その生涯において、その人が神から離れたように見える時もあるが、最終的に信仰は個人の努力ではなく、神の恵みによって守られる。改革教会は上に説明したアルミニアン5箇条に反論し、このような教理を整理しました。(週報の裏面に比較整理しておきましたので対照しながらご覧ください。) 今日は時間の関係で、第1項全的堕落についてだけ話してみましょう。今日の本文のローマ書は、こう述べています。「正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく、神を探し求める者もいない。皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。」(ローマ3:10-12) 旧約聖書、創世記によると、最初の人間であるアダムとエヴァは、主なる神が絶対に取って食べるなと命じられた禁断の果実(善悪の知識の木の実)を取って食べてしまいました。「主なる神は人に命じて言われた。園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」(創世記2:16-17) 神は最初の人間を完全な存在に創造されました。 彼らは神にかたどって造られた存在なので、神に似ており、完全な善を行うことができる力を持っていました。神は彼らを操り人形ではなくご自分の子供に創造されたため「自由意志」を与えてくださいました。そのため、彼らは善と悪を区別し、選べる「選びの自由」を持っていました。そして、神は、彼らが自由意志をもって従順に行うかを判断する手立てとして善悪の知識の木をエデンの園の真ん中に置かれたのです。しかし、結局、人間は神が禁じられた木の実を取って食べてしまいました。自由意志を神の御言葉への服従ではなく、自分の欲望の達成のために使ってしまったのです。その結果、人間は堕落し、必ず死ぬことになってしまいました。 ある人たちは、神が禁じられた実を食べたことが、そんなに大きな罪なのか、一度の過ちも勘弁してくれないのか、それによって堕落と裁くのはやりすぎではないかと思うかもしれません。しかし、何かを食べたのが問題ではなく、神の御言葉に逆らったというのが問題です。完全な善を行える力があるにもかかわらず、故意に悪を選んだのに、神への逆らいが隠れているからです。そして、これが人間の原罪となりました。原罪はアダムが犯した罪だけに限りません。アダムが代表する人間全体に隠れている神に逆らう罪の種を意味するのです。したがって、人間は基本的に罪の性質を持って生まれます。改革神学は、これを「全的堕落」と定義します。これは完全に堕落し、悪魔のようになるという意味とは異なります。罪のため、自力で神の御心に服従できないということ、何よりも自力で神の救いの福音を受け入れることが出来ないという意味です。なぜなら、人間自らの力では神の御心に完全に聞き従うことが不可能だからです。この世には善良な人々が数え切れないほど多いです。キリスト者よりも善い人がたくさんいます。しかし、神の恵み、キリストの贖い、聖霊の導きがなければ、彼らは決して自ら神を知り、信じることができません。善良さと信仰は別の問題だからです。 締め括り 改革教会の予定説に異議を唱えたアルミニアン主義は「人は全的に堕落したが、神の救いへの招きに対し、人は自由意志を働かせて、応答する力が残されている。」と人の力で神を信じ、救いを得るか拒むかができると信じました。しかし、改革教会は「人は全的に堕落し罪の奴隷となった。救いへの招きに応じることも、霊的なことを考える能力も失った。ただ聖霊が私達を造り変えることによってのみ、応答する。」と信じます。皆さんはどう思われますか? 私たちに自ら神を信じ、神と協力して救いを得る力がありますでしょうか。私はアルミニアン主義を盲目的に批判するつもりではありません。部分的にその主張に頷ける時もありました。しかし、人間自らが神と協力して救いを手に入れるということについては全面的に反対です。もしそうなるのならば、神の恵みとキリストの贖いは価値を失ってしまうでしょう。人間は自ら神を信じ、自分の救いに力を加えることができません。それが全的堕落という言葉に含まれた意味なのです。ひとえに父なる神の計画、イエス•キリストの贖い、聖霊の導きによってのみ信じることができ、救われることが出来るのです。それだけが移り変わりなく、私たちの完全な救いを保証するからです。