右にも左にも

ヨシュア記1章1~9節(旧340頁) コリントの信徒への手紙一 16章13節(新323頁) 前置き 出エジプト記で、モーセを用いられ、エジプト帝国からイスラエルの民を解放してくださった主なる神は、その昔イスラエルの先祖アブラハムに約束されたカナンの地にイスラエルの民を導いてくださいました。しかし、イスラエルの民は主のお導きを完全には信頼できず、数多くの不信心の罪を犯しました。その結果、主はイスラエルの民をすぐにカナンの地に入らせられず、40年という長い年月、荒野をさまようようになさいました。(彼らの信仰を訓練させるため) けれども、主は彼らを見捨てられず、昼は雲の柱で、夜は炎の柱で守ってくださいました。そして、モーセという指導者を通して、ご自分の民に御言葉をくださいました。不信心の世代が皆亡くなり、新しい世代が成人した時、ついに主はイスラエルをカナンに入らせてくださいました。それと同時に、旧世代の指導者であるモーセに代わって、新しい指導者のヨシュアを立ててくださいました。ヨシュア記は、そのヨシュアを中心として起きるイスラエルの民のカナン定着の物語です。 1.主が共におられる。 「一生の間、あなたの行く手に立ちはだかる者はないであろう。わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもない。」(ヨシュア1:5) 40年間、イスラエルの指導者として働いてきたモーセが主なる神に召されました。彼は出エジプト当時の世代(神を疑い、不信心だった人々)が年を取って亡くなると、イスラエルの新しい世代をカナンの入口まで導き、120歳で神に召されました。モーセの死は、彼の後継ぎだったヨシュアとイスラエルの民に大きな衝撃となりました。例えば、牧師が急に辞任したり、逝去したりして、突然、無牧師教会になったような状況より、はるかに戸惑うようになることでした。無牧師教会を経験した志免教会は、牧師の不在がどういう意味かよくご存知でおられるでしょう。説教を準備し、教会の行事を計画し、主日礼拝と水曜祈祷会を導く牧師の不在は、信徒の皆さんに大きな負担になったでしょう。ましてや、40年もイスラエル社会という大きい団体を導いてきた指導者が突然亡くなったわけですから、彼ら全員に大きな混乱が生じたに違いありません。 しかし、主の御心には、より良い計画がありました。それはヨシュアという新しい指導者を立てることでした。(40年間苦労してきたモーセの念願だったカナンに入ることが出来なかったのは残念でしたが、主が天国でより良い報いをくださったと信じます。)モーセの逝去で人々は戸惑ったと思いますが、指導者の不在はイスラエルにとって良い訓練になると思います。イスラエルの民は、これまでモーセに心から頼ってきたはずです。しかし、彼の不在によって、重要なのはモーセという存在ではなく、そのモーセを遣わしてくださった、主なる神のお導きであるということに気づいたでしょう。まるで、無牧師教会を過ごす間、長老と執事を中心として教会員みんなが主に祈りつつ、より一層愛着を持って教会に仕えながら、主のお守りを感じるようにでしょう。最も重要なことは、指導者の有無ではなく、イスラエルを導く真の指導者は主であるということです。牧師がいなくても教会は保たれます。頭である主イエスが教会を導いて行かれるからです。指導者の不在は不安で心配なことです。多くの無牧師教会がそのような困難な経験をします。しかし、牧師がいても教会員と牧師の関係があまりよくなく、むしろ教会に害を及ぼす場合も多々あるでしょう。 大事なのは牧師ではなく、その牧師を用いられる教会の頭であるキリストです。 2.御言葉を守り、右にも左にもそれないように しかし、それでも主は指導者を立ててくださいます。主は人を立てて教会に仕えさせていかれるからです。ヨシュアはモーセの従者として長い間、彼の傍らにおり、指導者の資質を教わったでしょう。モーセを見て指導者の生き方はどうであるか分かるようになり、試行錯誤も目撃したでしょう。主はヨシュアを静かに、しかし少しずつ成長させて来られたのです。そのような主なる神がヨシュアを立てられ、以下のように励ましてくださいました。「ただ、強く、大いに雄々しくあって、わたしの僕モーセが命じた律法をすべて忠実に守り、右にも左にもそれてはならない。そうすれば、あなたはどこに行っても成功する。この律法の書をあなたの口から離すことなく、昼も夜も口ずさみ、そこに書かれていることをすべて忠実に守りなさい。そうすれば、あなたは、その行く先々で栄え、成功する。」(ヨシュア1:7-8) 主はモーセの死によって、最も心配していたヨシュアを呼び出され、強く雄々しくモーセの務めを受け継ぐようにと言われます。そのモーセの務めとは、律法、つまり主の言葉を中心として生き、右にも左にもそれないことでした。つまり、主以外の他のものに心を奪われず、ひとえに主の御言葉に信頼して生きろということでした。 その結果は栄えと成功だと主は言われました。 主は、おひとりで、すべてのことがお出来になる方です。三位一体の協力だけでこの世は造られました。人の助けがなくても、まったく問題ないということです。それにもかかわらず、主は人を呼び出され、用いられる方です。主の力不足で人を呼ばれるわけではなく、主が創造された最も大切な存在である人間に主と共に生きる機会をくださるためです。したがって、主はヨシュアに優れた指導力とカリスマ性を要求しておられません。雄々しく勇気を出してモーセがそうしたように、主の御言葉を中心とし、右にも左にも動揺せず、主だけについて来なさいと命じられるだけです。信仰生活をしながら疲れた経験がありますか。教会に行きたくないとか、信仰生活をやめたいとか思ったことがありますか? ほとんど、そのような疲れは、情熱すぎから始まる場合が多いです。信仰生活を情熱にしなくてもいいという意味ではありません。信仰生活、教会生活を立派に達成しなければならないという自分の過度な情熱が私たちを疲れさせるという意味です。主は言われます。「御言葉によって信仰に堅く立ち、わたし(キリスト)を中心として、右にも左にも動揺せずにただわたしだけについて来なさい。」私たちは信仰生活を完璧に達成しなければならない存在ではなく、ただキリストと共に主なる神に聞き従う存在であることを忘れないようにしましょう。 3.強く、雄々しくあれ 「強く、雄々しくあれ。あなたは、わたしが先祖たちに与えると誓った土地を、この民に継がせる者である。」(ヨシュア1:6) この言葉に書いてある「強く」のヘブライ語原文は「くっつく、つかむ、しっかり縛る」という意味の「ハザク」です。イスラエルの歴史上、主なる神に善良な王として認められたヒゼキヤ王の名前の由来でもあります。ちなみに「ヒゼキヤ」は「主は私の力である」という意味です。旧約聖書で言う「強さ」は自らの強さの意味ではないようです。誰かを掴んでいること、誰かにくっついていること、誰かとしっかり縛っていることが強さのイメージであるようです。言うまでもなくイスラエルの神をつかんでいる人、その方にくっついている人、その方と密接にしっかり縛られている人が旧約聖書が言う真の「強い人」ではないでしょうか? 主は私たちに自ら強くなることを命じておられません。主はいつも「わたしがあなたと共にいる」と言われます。私と共に歩んでくださると約束された主を離れず、近くにいること、それこそが私たちの真の強さではないでしょうか? 今回、新しい長老と執事が選ばれました。どなたにとっても長老、執事になるのはプレッシャーであるでしょう。しかし、長老、執事になったからといって、特別に変わることはありません。もうちょっとだけ積極的に教会に仕える立場になったということ以外に違いはありません。主なる神は長老、執事、そして牧師に優れた能力や結果を要求されません。ただ主を頼りにし、御言葉に従い、右にも左にもそれないで、キリストと共に生きること。それこそ牧師、長老、執事のあり方ではないでしょうか? それは、牧師、長老、執事だけでなく、誰にでも同様です。強く雄々しく勇気を出して主に寄りかかって生きていきましょう。特別な能力や結果を出すのではなく、主に信頼してついていくこと、それこそが真の強く雄々しくする信仰生活ではないでしょうか? 締め括り 今日の本文に出来事以来、ヨシュアは成功的に自分の務めを全うしていきます。そして、彼はいつも主の御言葉に従い、自分の業を行い、成功の可否は主の御心に委ねました。重要なのは私たちの能力ではありません。主の御言葉にどのように反応するのか、主とどのように一緒に歩いていくのか、動揺することなく信仰を守って生きていくのか、それらこそが最も重要な信仰者の心構えでなありませんか。使徒パウロの言葉が思い出されます。「目を覚ましていなさい。信仰に基づいてしっかり立ちなさい。雄々しく強く生きなさい。 14何事も愛をもって行いなさい。」(一コリント人16:13) ヨシュア記で、主がくださった言葉は新約時代にも同じく適用できるものでした。強く雄々しく主だけに寄りかかって生きる志免教会のみんなでありますように祈り願います。