人の子も上げられねば

民数記21章4~9節 (旧249頁) ヨハネによる福音書3章14~21節 (新167頁) 前置き 今日は、レント第4主日です。罪と死の権能を打ち砕き、罪人とこの世をお救いくださるために苦しみ、十字架にかけられた主イエス·キリストをほめたたえます。苦難の十字架を背負って死に、罪人の贖いを成し遂げてくださったイエス·キリストは、また、罪人の永遠の生命と救いのために復活してくださいました。今日はイエス·キリストの御救いについて話してみましょう。 1.救いについて考える。 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。 神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」(ヨハネ福音書3:16-17) 聖書には必ず覚えておくべき大事な聖句がいくつもありますが、この言葉のようにキリストの福音のエッセンスを明確に示す言葉はないと思います。私たちは、この言葉から3つの点を確かめることができます。一つ、主はこの世を愛される。二つ、主はその愛のためにこの世に独り子を遣わしてくださった。三つ、主が独り子を遣わされた理由は、この世が救われるのを望んでおられるからだ。私たちは、ここで「世」と「救い」について考えてみる必要があります。本文の「世」は、地球という限られた世界を意味するものではありません。コスモスという言葉をよくご存知だと思いますが、コスモスはギリシャ語に由来した言葉で「秩序、調和」を意味し、より広くは「世、世界、宇宙、そこの住人」という意味にもなります。今日の本文の「世」は、このギリシャ語のコスモスを訳した表現です。旧約聖書の創世記によると、主なる神が創造されたコスモス(世)は「秩序と調和の完璧な世界であり、そこにあるすべての存在」でした。 しかし、最初の人は、欲望によって、主なる神を裏切り、罪を犯して堕落し、主と敵になってしまいました。そして、主が人にくださったこの世全体も、それにつれて、汚されてしまいました。主なる神のコスモス、つまり秩序と調和の世が人の罪のため、汚されてしまったのです。それでも、主は人と世を見捨てられず、その後もずっと愛してこられました。そして、時が満ち、人と世を救ってくださるために独り子を遣わされました。独り子がご自分の命を身代金として償い、人と世を救ってくださるためです。救いとは、この汚されたコスモスを新たにし、再び、主なる神が創造された完全な秩序と調和によって、生まれ変わることです。何よりも、コスモスの中心である人間を赦し、再び主と和解できるようにすることです。主なる神の反対側にいた罪人を主の味方として招いてくださる愛の成就なのです。救いは、単に死んで楽園に入るくらいのレベルではありません。御子イエス·キリストによって人の罪が赦され、それによってこの世で真の人間らしく生きることです。神は主イエス·キリストを通して、人間が罪赦される道を備えてくださいました。そして、主イエスが再臨される終わりの日、人間と世を完全に新しく再創造してくださるでしょう。 それが救いの本当の意味なのです。 2.唯一の救いの対策 したがって、イエス·キリストは、人とこの世を罪から自由にならせてくださる神のお贈り物なのです。罪によって汚された人と世は、自力で罪の影響から抜け出すことができず、清くなることもできません。だから、主なる神はその罪を赦し、人と世を罪から清めてくださるために、唯一の存在、主イエスを遣わされたのです。今日、聖書は語ります。「御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。」(ヨハネ福音書3:18)この文章だけ読めば、キリスト教の信仰は、非常に独断的に感じられます。世の中に数多くの宗教があり、信仰があり、キリスト者より善良に生きる人もいるのに、ひたすらイエスのみに救いがあるということかと、批判されやすいです。しかし、先に申し上げましたように、救いの意味が死んで楽園に入る意味だけでなく、それを越えて唯一の神と和解することだとすれば、当然、この神が与えてくださったイエス·キリストだけが救いのための唯一の対策になるでしょう。聖書によると、主なる神はイエス以外に和解の手立てをくださったことがないからです。重要なのは、他宗教の人、善良な人の死後のことを私たちが、勝手に判断する必要がないということです。それは神の事柄です。私たちは、ただ自分に与えられた聖書の言葉だけに耳を傾け、イエスを自分の救い主と信じ、その方のみに集中して生きれば良いでしょう。 新約本文でイエスはこう言われました。「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。」(ヨハネ福音書3:14-15)永遠の命を得るという意味まで説明すると時間が足りませんので、先に申し上げました救いの概念とほとんど同じことだと理解してください。今日の本文、旧約聖書の民数記21章には、以下のような物語が出てきます。イスラエルの民がエジプトを脱出した後、旅路があまりにも苦しくて神を恨みました。それは、ただの文句ではなく、神に逆らう反発でした。そこで、神は罰として炎の蛇(おそらく、荒野のマムシ)を送られました。そのため、蛇にかまれた多くのイスラエルの民が死ぬことになりました。しかし、モーセは民のために主に祈りました。すると神は青銅でできた蛇の形の像を造り、旗竿の先に掲げることを命じられました。そして、青銅の蛇を見れば生きるだろうと言われました。神の御言葉通り、その蛇の像を見た人々は皆癒され、生き延びることが出来ました。主なる神はイスラエルの罪を裁かれましたが、その裁きから避け、救われる手立てを与えてくださったのです。それは、いかなる特別な行為や努力ではなく、神の御言葉通りに青銅の蛇を見ることでした。主イエスの十字架は、私たちにとって、その青銅の蛇像のようなものです。自分自身の救いのための行為や努力ではなく、主なる神が備えてくださった救いの対策である十字架のイエスに頼り信じることです。 3.十字架にかけられたイエス したがって、十字架は、主なる神が遣わされた唯一の救い主イエス·キリストを思い起こさせる救いの象徴なのです。ただし、十字架が私たちを救うわけではありません。そのため、プロテスタント改革教会の中には、十字架を偶像化させないために教会堂に十字架もかけておかない場合がありました。大事なのは十字架というある物体ではなく、十字架にかけられ死に、再び復活された主イエス。ローマ帝国の呪いと刑罰の象徴である十字架を神の愛と救いの象徴に換えてくださった主イエス·キリストにあります。民数記で神に逆らった民が自分たちの治療や努力や行為で癒されたのではなく、神が命じられた青銅の蛇を見ることで癒されたように、この時代を生きる罪人が自分の行為と努力では、得ることのできない救いを、イエス·キリストの救いと恵みによって受けられるように、イエス·キリストの御救いの象徴として十字架を与えてくださったわけです。主なる神の独り子イエスは、私たち罪人が救いを得ることが出来るように十字架にかけられ、死んでくださったのです。そして、三日後、復活してくださいました。私たちの罪はキリストと共に十字架で死に、私たちの救いはキリストと共に復活したのです。今や私たちは主イエスによって、神と和解し、神を恐れる存在ではなく、神を愛する存在として生まれ変わりました。十字架は、今日もそのイエスの御救いの成就を私たちに証しているのです。 締め括り 私たちは、毎年レントを過ごし、主イエスの苦難、死、復活、贖い、赦し、すなわち御救いに関わる話をします。何十年もこの話をしてきました。いや、教会は2000年以上、この救いの話しを続けてきました。もしかしたら、長年、キリスト者として生きてきた私たちには、あまりにも日常的の話であるかもしれません。しかし、キリストの救いは、人間が決して見過ごしてはならない大事な出来事です。この世での私たち人生のみならず、私たちが亡くなっても、そして、イエスが再臨して復活する日と、その後までも、キリストの救いは私たちの人生において最も重要な出来事として残るでしょう。私たちの努力と行為ではなく、キリストの贖いが私たちを新たに生まれ変わらせました。そして、主なる神の子供として永遠に生きていく原動力になりました。そのキリストの救いと十字架の意味を憶え、悔い改めと感謝の一週間を過ごしますよう祈り願います。

真の神殿、イエス

イザヤ書66章1節 (旧1169頁) ヨハネによる福音書2章13~22節 (新166頁) 前置き 現在、私たちは罪人を救うために十字架の苦難を受けられたイエス•キリストを記念するレントを過ごしています。世界の創造主である主なる神は、イエス•キリストという救い主を遣わしてくださり、その方によって罪人が神に赦され、神の子供として生きることが出来る恵みを与えてくださいました。イエス•キリストは罪人を悔い改めさせ、神の子供とさせてくださるために、自ら苦難と死を選ばれたのです。レントが終わり、イースター(復活節)が来ると、私たちはその苦難と死を受けられたイエス•キリストの復活を感謝しつつ記念するでしょう。今日は、私たちにおいてのイエス•キリストの存在意味について、神殿を通じて考えてみたいと思います。 1. 神殿について 新旧約を問わず、聖書には「神殿」という言葉がよく出てきます。主なる神の神殿は歴史上、4つの形で存在したと言われます。一つ目はイスラエルがエジプトから脱出する時(出エジプト記26章)、神のご命令によって建てられた幕屋です。 幕屋は文字通りに一種の大きいテントでしたが、その中には主のご命令によって作られた様々な礼典の器具がありました。そして、最も奥には神の御言葉が記された十戒の石板が入っている掟の箱がありました。その区域は至聖所と呼ばれていましたが、年に一度、贖罪の献え物をささげた大祭司だけが入ることができる、極めて聖なる場所でした。大祭司さえも、まともに悔い改めなければ、主の懲罰によって直ちに死んでしまう、恐ろしくて聖なる場所だったのです。この幕屋はイスラエルの民が住んでいる巨大な陣営の真ん中にあり、その幕屋を中心にイスラエルの各部族はカナンまでの長い年月(約40年)を生き延びました。主なる神の幕屋は素朴な見た目でしたが、イスラエルがどこへ行っても一緒に移動しながらイスラエルと共にありました。主はこの神殿を通して、主の民がどこへ行っても、主が彼らと必ず共におられることを示してくださったわけです。 二つ目はソロモン王がエルサレムに建てた神殿でした。時間が経ってダビデ王の時代になり、ダビデ自身は宮殿に住んでいるのに、主なる神の掟の箱は幕屋にあると懸念して、立派な主の神殿を計画するようになりました。(サムエル記下7) その後、ダビデの息子ソロモンが王になり、最高級の建築材料を集めてエルサレムに主の神殿を建てることになりました。テントのような幕屋の代わりに非常に華やかで巨大な神殿が完成しましたが、その内部構造や機能は、以前の幕屋と大きく変わりはありませんでした。しかし、その後、イスラエルが偶像崇拝などの罪によって主に裁かれ、バビロンに滅ぼされた時、残念ながらソロモンが建築した神殿は散々に崩れてしまいました。主の神殿は、むしろイスラエルの出エジプト時代の素朴な幕屋の時のほうが、さらに輝かしかったのです。イスラエルの罪によって、主に捨てられたイスラエルの神殿は何の意味も持たず、ただ崩れ消えるようになるだけでした。三つ目の神殿はバビロンから帰還したイスラエルの捕囚が建てた小さな神殿であり、四つ目の神殿はそれを増築したヘロデ王の神殿で、西暦70年にローマ帝国によって破壊されました。そして、今までエルサレムの神殿は存在していません。 2. 主なる神は神殿に住んでおられない イザヤ書66章1節はこう語ります。「天はわたしの王座、地はわが足台。あなたたちはどこに、わたしのために神殿を建てうるか。何がわたしの安息の場となりうるか。」古代の国家においての宗教は、ただの信仰というレベルのものではありませんでした。諸帝国の皇帝は「神々の子」あるいは「神々の顕現」などと呼ばれ、自分たちの宗教の最高指導者と同じ位置にいました。そのため、政治と宗教は非常に密接な関係を結んでいました。だから、古代帝国の皇帝は自分の権威のために神殿を建築することが多かったのです。エジプト帝国の神殿、中東諸帝国の神殿、ギリシャやローマの神殿は、そんな理由でとても巨大に建てられました。しかし、これは権力のために自分たちの神々を利用する行為でした。古代国家の神殿は、厳密には神々のための場所ではなく、皇帝の権力のための政治的な建築物だったのです。そして、彼らは自分の神々を自分の手で建てた神殿に閉じ込めておきました。最も重要なのは、実際にその神々が存在もしない偽りの神々だったということです。したがって、イスラエルの神殿は、主なる神を閉じ込める建物ではありませんでした。イスラエルの王権のための建物でもありませんでした。四つ目の神殿であるヘロデ神殿はヘロデ王の政治的人気のために建てられたと言われますが、それ以前の神殿は、主がご自分の民と共におられることを象徴する象徴物に近かったのです。 イザヤ書は語ります。「天は主の王座、地は主の足台である。」すなわち、主なる神の真の神殿は、主ご自身が建てられた全宇宙であり、人が建てたところに主はおられず、主はご自身でおられるということをこの言葉は強調しているのです。したがって、私たちは、昔のエルサレムの神殿や、この会堂を神の聖なる場所と誤解してはなりません。この建物が存在する理由は、主のためではなく、私たちのためです。主がご自分の民に集まる場所、雨と風を避けて暖かく穏やかな礼拝ができるようにしてくださるために、この会堂という建物を建てらせてくださったのです。主なる神は、ご自分の御手によって造られた、この宇宙という神殿におられます。そして、さらには、主はこの宇宙よりも大きなお方です。だから厳密に言えば、主なる神には神殿が必要ではありません。それにもかかわらず、主が出エジプト記の幕屋、イスラエル時代の神殿を許してくださった理由は、主の民がその幕屋と神殿によって、彼らの間に一緒におられる主を認識して生きることを望んでおられたからでしょう。したがって、神殿は主が一緒におられることを知らせる民のための表示板に過ぎません。 3. 神の真の神殿イエス ところで、今日の新約本文ではこう述べています。「イエスは答えて言われた。この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。それでユダヤ人たちは、この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのかと言った。イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。」(ヨハネ福音2:19-22) 過越祭が近づいてくると、イエスはエルサレムの神殿に行かれました。そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと両替をしている者たちををご覧になり、怒って追い出されました。そもそも、ご自分の民と共にいるために神殿の建築を許してくださった主なる神は、民の罪を赦し、彼らと近くにおられるためにいけにえの献げ物を命じられました。なのに、イエスの時代の神殿は、そのような神殿の本来の存在理由ではなく、宗教的な儀式と人々の利益関係のための場所になっていました。純粋な信仰で家で大切に育て、連れてきたいけにえの家畜を傷ついていると騙し、安い値段で買い取り、他人にその家畜を高い値段で売り渡して差額を残しました。その金が大祭司や権力者のポケットに流れ込む形でした。主なる神のご臨在を象徴する神殿が誰かの利益のための場所に変質していたわけです。そのため、イエスは怒られたのです。 そもそも、神殿が建てられた理由は、ダビデとソロモンの純粋な信仰のゆえでした。彼らの信仰が子孫まで受け継がれたら良いが、罪によって汚された人間の本性は、その純粋さを保つことができません。結局、イスラエルの神殿は主のご臨在の象徴ではなく、主を神殿に閉じ込めて自分たちの欲望を満たそうとした宗教指導者たちによって変質してしまいました。真の主なる神の神殿は全宇宙であり、主はその宇宙よりさらに大きな存在であるにもかかわらず、人々は自分の欲望のために主を一介の建物に過ぎない神殿に閉じ込めておこうとしたのです。それが罪を持った人間の本性です。そんなわけでイエスは言われたのです。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」この言葉は人間の手で作った神殿の時代の終わりを告げる、イエスの偉大な宣言でした。人間が建てることの出来ない神殿、主なる神ご自身が建てられた神殿、人間の欲望によって変質しない神殿を、主イエスが完成されるという宣言だったのです。それはイエス·キリストご自身が、真の神殿になるということでした。イエスによって主なる神が共におられることを示し、イエスによって人々が主に真の礼拝を捧げることができるようになったことを示す宣言だったのです。主イエスの十字架での苦難は、この新しい神殿を建てるための崩れとしての出来事だったのです。 締め括り ルカによる福音書23章45-46節に、こんな言葉があります。「 太陽は光を失っていた。神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた。イエスは大声で叫ばれた。父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。こう言って息を引き取られた。」イエスが十字架の上で亡くなられた時、神殿の至聖所の垂れ幕が裂けたとのことです。つまり、建築物の神殿の時代は終わったという意味でしょう。イエス•キリストは人の手によらない神殿、絶対に変わらない純粋な神殿、特定された場所ではなくイエスの民がいるすべてのところにある神殿のためにご自身が神殿になってくださったのです。それによって、この世に神殿という建物がなくなったにもかかわらず、イエス•キリストという真の神殿によって主を信じるすべての民が、主イエスと共に至聖所に入れるようになったのです。この真の神殿になってくださった主イエスによって、主なる神は、いつも私たちと共におられ、私たちを守ってくださり、私たちの父、私たちの主になってくださるでしょう。

神の相続人

創世記17章1~8節 (旧21頁) ローマの信徒への手紙4章13~25節 (新278頁) 前置き 私たちはレントを過ごしながら、なぜ、イエス·キリストが罪人の救いのために十字架にかけられ、死んでくださらなければならなかったのかについて深く黙想する必要があります。なぜ、主なる神はご自分の一人だけの息子を、罪人の贖いのいけにえとして死に至らせ、その代わりに罪人を救い、ご自分の子供にしてくださったのでしょうか? 罪によって主なる神の敵となった私たちを赦され、ご自分の養子に迎えるために一人だけの実の息子を死へと導かれた主なる神の御心は、私たち人間には到底理解できない、計り知れないものであります。ところが、主なる神がそこまでなさった理由を、私たちは今日のローマ書の言葉を通じて推測することが出来ると思います。それは罪人を救い、神の相続人として立ててくださるためです。そして、それは信仰の父であるアブラハムと結ばれた約束を守ってくださるためです。今日は主なる神の救い、主イエスの贖い、そして、神の相続人になるということについて話してみたいと思います。 1。神の相続人となる。 今日の新約本文でも、旧約本文でも強調する2つの言葉があります。それらは「アブラハムと子孫(相続人)」です。聖書はアブラハムを「信仰の父」と言います。彼が常識的に不可能と感じられる主なる神の約束(アブラハム夫婦が高齢であるにもかかわらず、主なる神が相続人になる息子をくださるという約束)を不信せず、主ならお出来になると信じたので、主なる神に信仰の人、すなわち正しい人として認められたからです。そして、主はその約束どおりにアブラハムの100歳の時、息子イサクをくださり、孫ヤコブを通してはイスラエルという民族も打ち立ててくださいました。創世記15章5節で主はアブラハムにこう言われました。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。あなたの子孫はこのようになる。」という約束のように、主は以後イスラエル民族というアブラハムの子孫を造られ、さらにアブラハムの子孫イエス•キリストを通して新約時代の教会をも打ち立ててくださいました。したがって、アブラハムの子孫であるイエス•キリストの身体となった私たち(教会)は、アブラハムの霊的な子孫として認められています。アブラハムの霊的な子孫という意味は、このアブラハムの霊的な相続人であるという意味でもあります。 そして、これは単にアブラハムの相続人になるに止まりません。 ローマ書はこう述べています。「キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、“霊”は義によって命となっています。神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。 もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。」(ローマ書8:10,14,17) 誰かの子孫とは、その誰かの相続人でもあるという意味です。この相続人とは、単に財産を受け継ぐ人だけの意味ではありません。先祖の血統、思想、価値観、信念などを受け継ぐことも相続だと言えます。私たちは、アブラハムが信仰によって義とされたことを知っています。そして、その信仰によってイスラエル民族が打ち立てられ、そのイスラエル民族から信仰の主であり救い主であるイエス•キリストが来られたことを知っています。私たちはそのイエス•キリストの体なる教会です。したがって、私たちはキリストを通じてアブラハムの信仰を受け継いだ、アブラハムの相続人です。私たちをアブラハムの相続人とする信仰はイエス•キリストの霊である聖霊によって私たちに与えられた賜物なのです。ところで、驚くべきことは、ローマ書はその聖霊によって信仰を持つ者がアブラハムの相続人を超え、神の相続人にもなると語っています。 2.神の相続人となるという言葉の意味 ヨハネの黙示録22章は、こう述べています。「もはや、呪われるものは何一つない。神と小羊の玉座が都にあって、神の僕たちは神を礼拝し、御顔を仰ぎ見る。彼らの額には、神の名が記されている。もはや、夜はなく、ともし火の光も太陽の光も要らない。神である主が僕たちを照らし、彼らは世々限りなく統治するからである。」(黙示録22:3-5) キリストの民、すなわち神の相続人となった者は、最後の審判の時、主と共に永遠に統治するようになるという予言です。つまり、主なる神の民は神の相続人として真の王であるその方と共に永遠の王権を享受するという意味です。初めの時、主なる神は創造の最後の段階として人間を造られ、世界を治める権限を与えてくださいました。つまり、主なる神は、すべての被造物を最初の人間という相続人に任せてくださったのです。しかし、最初の人間はそれに満足せず、主なる神の座をむさぼり、堕落してしまいました。その罪によって神の相続人としての権限を失った最初の人間は、神の呪いの下にいる存在となります。堕落によって神の相続人としての権限を失った人間は、罪による悲惨な呪いの苦しみの中に生きることになります。いくら財物を集めても、名誉を積んでも、権力を握っても、彼らの人生は結局永遠の死に帰結します。 この世では王や貴族のように生きても、死後、神の裁きの下で罪と死の奴隷となって永遠の苦しみの中に生きなければなりません。そのような罪と死の奴隷のような人間は、自力でその恐ろしい裁きから抜け出すことはできません。さらに恐ろしいのは、権力者や金持ちだけでなく、貧しい人も、そのような裁きから逃れることができないということです。彼らはこの世でも苦しい生活をしたが、死後でも、それ以上の苦しみを経験しなければならないからです。しかし、主なる神は人間に下された永遠の呪いと苦しみを、ただ楽しまれる方ではありません。神は初めての人間を創造された時「極めて良かった」と言われました。主なる神は人間を愛しておられるのです。そのため、神は人間に再び神の相続人としての権限を与えてくださるために、人間の罪に代わる贖罪のいけにえを立てられました。その方が神のひとり子イエス•キリストであり、神は人間が受けるすべての苦しみと悲しみを十字架で、ひとり子イエスに担わせられました。そのひとり子の命の償いによって人間の罪は赦され、彼らを再び神の相続人という名誉を回復させてくださいました。もはや、私たちは神の相続人として永遠な死の恐怖から抜け出し、神と共に永遠に生きる真の平和と喜びに生きることができます。キリストによって、私たちは神の相続人となったからです。 3.神の相続人は行いではなく信仰によって定められる 今日の旧約本文を見ましょう。「わたしは、あなたをますます繁栄させ、諸国民の父とする。王となる者たちがあなたから出るであろう。わたしは、あなたとの間に、また後に続く子孫との間に契約を立て、それを永遠の契約とする。そして、あなたとあなたの子孫の神となる。」(創世記17:6-7) 神はアブラハムに一方的な恩寵を与えられ、ご自分の民にされ、またアブラハムの子孫にも祝福を与えられると約束してくださいました。そして、アブラハムはその約束を堅く信じました。アブラハムが神に祝福をいただいた理由は、彼の行いが完璧だったからでも、彼が神の御心に適う優れた人だったからでもありません。主なる神が一方的に彼を選ばれ、祝福を約束され、アブラハムはそれを信じただけで、神の祝福は実現されたのです。これに対して、今日の新約本文は次のように証言します。「神はアブラハムやその子孫に世界を受け継がせることを約束されたが、その約束は、律法に基づいてではなく、信仰による義に基づいてなされたのです。」(ローマ書4:13) この言葉によって私たちが分かるのは、イエス•キリストを信じる信仰によって救いを得るということです。もう一度、繰り返しますが、主なる神が私たちをご自分の相続人にしてくださった理由は、私たちに優れた何かがあるからではありません。私たちの立派な行いによるものでもありません。神がお定めになった祝福の源、アブラハムの子孫、神のひとり子、主イエス•キリストを私たちの真の救い主と信じて、その方の体なる教会になったからです。 締め括り イエス•キリストが苦しみを受けられた理由は、神の真の相続人であるご自身が贖いのいけにえになって罪人を救い、その罪人にご自分の功績による神の子としての資格を与えてくださるためでした。私たちは、自分自身の救いのために、たった 1% の貢献もしたことがありません。私にはできないが、イエス•キリストならお出来になるという信仰によって、私たちは救いを得たのです。ですので、私たちが神の相続人になったのは、すべてがキリストの恵みによるものです。昨日も、今日も、明日も、私たちは自分の本性と罪の性質から自由になることが出来ません。しかし、神が人類の救い主として定めてくださったキリストが、いつも私たちと共におられ、私たちを守り、神の相続人として生きるように執り成してくださいます。それを信じることによって、私たちの神の相続人としての権限は永遠に続くようになるのです。レントはそのイエスの愛を憶える期間です。私たちの主が私たちに神の相続人という祝福を与え、保たせてくださるために、私たちに代わって苦難をお受けになったことを憶える一週間でありますよう祈り願います。

レント(四旬節)

ヨブ記42章1~6節 (旧832頁) マタイによる福音書6章16~18節 (新10頁) 前置き 今日は、レント第一主日です。歴史上の教会はレントを通してイエス•キリストの苦難と復活を黙想し、祈りと断食をしながら、主の御業を記念したと言われます。今日はレントを始めるにあたって、レントとは何か、現代を生きる私たちは、この時をどのように過ごすべきかについて話してみたいと思います。 1.レントの由来と意味 レントは四旬節とも呼ばれますが、四旬節は漢字語で40日という意味です。イエス•キリストの復活を記念するイースター前の40日間のことです。それでは、レントとはどういう意味でしょうか?四旬節の原文を探ってみるとギリシャ語では「テサラコステ」、ラテン語では「クアドラゲシマ」でした。いずれも40日という意味です。つまり「レント」と「40日」の間に、そんなに関りがないということです。そこで、資料を探ってみたら、この表現の由来が古代アングロサクソン語の春を意味する「レンテン」であることが分かりました。初期キリスト教は迫害を乗り越え、ローマ帝国の国教となり、大きな影響力を及ぼすようになりました。その時代、ヨーロッパの辺境には数多くの迷信とシャーマニズムが存在していました。しかし、その地域の異教徒が少しずつ、信仰を受け入れ、これまでの迷信やシャーマニズムの祭りにキリスト教的な意味を与えるようになりました。おそらく、そのようなローマ帝国の辺境の異教徒の改宗につれて迷信とシャーマニズムの祭りがキリスト教式に変わり、キリスト教の四旬節の期間が辺境部族の春の祭りであったレント(レンテンに由来する)と重なるようになったのではないかと思います。 先ほど、レントは春を意味する古代アングロサクソン語のレンテンに由来したとお話しました。イエス•キリストの死は、主を信じるすべての者に真の命を与える、冬が来る前に命の種を蒔くような聖なる出来事でした。もしかしたら、四旬節にレントという名をつけた昔の教会の人々は、イエス•キリストの復活から真の命の春を見つけたわけではないでしょうか。レントという言葉の意味についての詳しい説明がないとその意味が分かりにくくて残念ですが、事実、その意味が分からなくても構いません。一番大事ななのは、主イエス•キリストが私たちの真の救いと命のために、苦難を受けられたこと、私たちの代わりに死んでくださったこと、そして復活によって死の権能に勝利されたこと、それらを憶えることです。 2.なぜ40日なのか? ところで、レントの期間は、なぜ40日なのでしょうか? レント期間を40日として守ったのかについては、様々な仮説がありますが、「聖書に現れる40という数字に深い意味がある」という説が有力だと思います。「ノアの洪水の時、40昼夜雨が降ったこと(創世記6:5-7)」「出エジプトの時代、イスラエルが荒野で40年間生活したこと(申命記29:4)」「モーセが神に十戒をいただくとき40昼夜断食したこと(申命記9:18)」「予言者エリヤが神の山に行くために40昼夜を過ごしたこと(列王期上19:7-8)」「イエスが公生涯を始められる前に40昼夜試練をお受けになったたこと」(マタイ4:1-11)「イエスが昇天される前に40日間地上におられたこと。(使徒言行録1:3)」など。すなわち40日という日数は断食と悔い改め、贖罪によって、自分の罪を顧み、神の御前に進んでいくための清めの時間という意味が強かったためです。とういうことで、レントの期間も40日になった可能性があります。 話しが少し変わりますが、昔から人々はレントが始まる水曜日を灰の水曜日と言いました。(今年は3月5日) 聖書において「灰」は非常に古い象徴です。今日の旧約本文を読んでみましょう。「わたしは塵と灰の上に伏し、自分を退け、悔い改めます。」(ヨブ記42:6)学者たちはヨブ記の時代が、アブラハムの時代と近いと推測しています。つまり、イスラエルが成立する前から、灰は悔い改めと反省の象徴を持っていたようです。創世記には神が塵で人間を創造されたと記してあります。(創2:7) エデンの園から追い出された最初の人間たちは、神に「塵にすぎないお前は塵に返る。」(創世記3:19)と言われました。ヘブライ語の塵は、時には灰と翻訳される場合もあります。つまり、灰には「私は塵のようになにものでもない」という意味が含まれています。聖書全体的に灰は罪人たちが神の赦しを求める時、自分の罪を悲しむ時に使われる表現でした。古代の教会は額に灰を塗り、悔い改めの祈りによって、四旬節を始めたと言われます。灰を塗って悔い改めつつ、四旬節を始める水曜日という意味として灰の水曜日と呼ばれはじめたわけです。したがって、初代教会の信仰者たちは、この灰を自分の額に塗る象徴的な行為を通して、40日というレントの間、神の御前で悔い改めと断食をしつつ、自分の罪を顧みようとしたのです。 3.レントを過ごしながら プロテスタント教会の歴史の中に、1522年、スイスのチューリッヒで起こった「ソーセージ事件」という面白い名称の出来事がありました。中世教会には、数多くの宗教的な仕来りがあったと言われますが、その中、聖書の教えとは関係ない強制的な断食、免罪符などの宗教儀式が多かったと言われます。中にはレントの期間に肉食禁止という聖書にない制限もありました。ところで、チューリッヒの印刷業者のフローシャウアーと何人かは、レントの肉食禁止は聖書に基づいたことではないと批判し、食事の時、小さいお肉一枚とソーセージ2個を食べました。(レントにも肉食したいという意味ではなく、聖書による根拠のない仕来りに反抗するという意味として。)これが問題となり、彼らは大罪を犯したと教会の糾弾を受けることになりました。その時、彼らを弁護した者が、あの有名な宗教改革者「ツヴィングリ」でした。ツヴィングリは主の教会は虚礼虚飾の仕来りから脱し、ひとえに主の御言葉に基づいて生きなければならないという説教をしつづけました。教会は反発しましたが、宗教改革を支持する民衆は大声で歓呼しました。この面白い名称の出来事を皮切りとして、チューリッヒでは宗教改革の炎が燃え上がるようになり、最終的にスイスはプロテスタント教会が優勢な国になったわけです。私はレントの期間を、このような心で過ごしたいと思います。断食のような宗教的な行為も良いですが、さらに聖書が語る主の苦難、死、復活、愛を憶える期間であることを願います。 締め括り 最後に、今日の新約本文を読んで説教を終わりたいと思います。「断食するときには、あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない。偽善者は、断食しているのを人に見てもらおうと、顔を見苦しくする。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。あなたは、断食するとき、頭に油をつけ、顔を洗いなさい。それは、あなたの断食が人に気づかれず、隠れたところにおられるあなたの父に見ていただくためである。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。」(マタイ6:16-18)レントの期間に、主が望んでおられるのは、他人に長い断食や立派な祈りのような行為を見せるのではなく、ひたすら主なる神だけに自分の信仰と愛を表すことだと思います。レントを通して、信仰の虚礼を捨て、謙虚に苦難の主だけを黙想し、記念する志免教会であることを祈ります。

右にも左にも

ヨシュア記1章1~9節(旧340頁) コリントの信徒への手紙一 16章13節(新323頁) 前置き 出エジプト記で、モーセを用いられ、エジプト帝国からイスラエルの民を解放してくださった主なる神は、その昔イスラエルの先祖アブラハムに約束されたカナンの地にイスラエルの民を導いてくださいました。しかし、イスラエルの民は主のお導きを完全には信頼できず、数多くの不信心の罪を犯しました。その結果、主はイスラエルの民をすぐにカナンの地に入らせられず、40年という長い年月、荒野をさまようようになさいました。(彼らの信仰を訓練させるため) けれども、主は彼らを見捨てられず、昼は雲の柱で、夜は炎の柱で守ってくださいました。そして、モーセという指導者を通して、ご自分の民に御言葉をくださいました。不信心の世代が皆亡くなり、新しい世代が成人した時、ついに主はイスラエルをカナンに入らせてくださいました。それと同時に、旧世代の指導者であるモーセに代わって、新しい指導者のヨシュアを立ててくださいました。ヨシュア記は、そのヨシュアを中心として起きるイスラエルの民のカナン定着の物語です。 1.主が共におられる。 「一生の間、あなたの行く手に立ちはだかる者はないであろう。わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもない。」(ヨシュア1:5) 40年間、イスラエルの指導者として働いてきたモーセが主なる神に召されました。彼は出エジプト当時の世代(神を疑い、不信心だった人々)が年を取って亡くなると、イスラエルの新しい世代をカナンの入口まで導き、120歳で神に召されました。モーセの死は、彼の後継ぎだったヨシュアとイスラエルの民に大きな衝撃となりました。例えば、牧師が急に辞任したり、逝去したりして、突然、無牧師教会になったような状況より、はるかに戸惑うようになることでした。無牧師教会を経験した志免教会は、牧師の不在がどういう意味かよくご存知でおられるでしょう。説教を準備し、教会の行事を計画し、主日礼拝と水曜祈祷会を導く牧師の不在は、信徒の皆さんに大きな負担になったでしょう。ましてや、40年もイスラエル社会という大きい団体を導いてきた指導者が突然亡くなったわけですから、彼ら全員に大きな混乱が生じたに違いありません。 しかし、主の御心には、より良い計画がありました。それはヨシュアという新しい指導者を立てることでした。(40年間苦労してきたモーセの念願だったカナンに入ることが出来なかったのは残念でしたが、主が天国でより良い報いをくださったと信じます。)モーセの逝去で人々は戸惑ったと思いますが、指導者の不在はイスラエルにとって良い訓練になると思います。イスラエルの民は、これまでモーセに心から頼ってきたはずです。しかし、彼の不在によって、重要なのはモーセという存在ではなく、そのモーセを遣わしてくださった、主なる神のお導きであるということに気づいたでしょう。まるで、無牧師教会を過ごす間、長老と執事を中心として教会員みんなが主に祈りつつ、より一層愛着を持って教会に仕えながら、主のお守りを感じるようにでしょう。最も重要なことは、指導者の有無ではなく、イスラエルを導く真の指導者は主であるということです。牧師がいなくても教会は保たれます。頭である主イエスが教会を導いて行かれるからです。指導者の不在は不安で心配なことです。多くの無牧師教会がそのような困難な経験をします。しかし、牧師がいても教会員と牧師の関係があまりよくなく、むしろ教会に害を及ぼす場合も多々あるでしょう。 大事なのは牧師ではなく、その牧師を用いられる教会の頭であるキリストです。 2.御言葉を守り、右にも左にもそれないように しかし、それでも主は指導者を立ててくださいます。主は人を立てて教会に仕えさせていかれるからです。ヨシュアはモーセの従者として長い間、彼の傍らにおり、指導者の資質を教わったでしょう。モーセを見て指導者の生き方はどうであるか分かるようになり、試行錯誤も目撃したでしょう。主はヨシュアを静かに、しかし少しずつ成長させて来られたのです。そのような主なる神がヨシュアを立てられ、以下のように励ましてくださいました。「ただ、強く、大いに雄々しくあって、わたしの僕モーセが命じた律法をすべて忠実に守り、右にも左にもそれてはならない。そうすれば、あなたはどこに行っても成功する。この律法の書をあなたの口から離すことなく、昼も夜も口ずさみ、そこに書かれていることをすべて忠実に守りなさい。そうすれば、あなたは、その行く先々で栄え、成功する。」(ヨシュア1:7-8) 主はモーセの死によって、最も心配していたヨシュアを呼び出され、強く雄々しくモーセの務めを受け継ぐようにと言われます。そのモーセの務めとは、律法、つまり主の言葉を中心として生き、右にも左にもそれないことでした。つまり、主以外の他のものに心を奪われず、ひとえに主の御言葉に信頼して生きろということでした。 その結果は栄えと成功だと主は言われました。 主は、おひとりで、すべてのことがお出来になる方です。三位一体の協力だけでこの世は造られました。人の助けがなくても、まったく問題ないということです。それにもかかわらず、主は人を呼び出され、用いられる方です。主の力不足で人を呼ばれるわけではなく、主が創造された最も大切な存在である人間に主と共に生きる機会をくださるためです。したがって、主はヨシュアに優れた指導力とカリスマ性を要求しておられません。雄々しく勇気を出してモーセがそうしたように、主の御言葉を中心とし、右にも左にも動揺せず、主だけについて来なさいと命じられるだけです。信仰生活をしながら疲れた経験がありますか。教会に行きたくないとか、信仰生活をやめたいとか思ったことがありますか? ほとんど、そのような疲れは、情熱すぎから始まる場合が多いです。信仰生活を情熱にしなくてもいいという意味ではありません。信仰生活、教会生活を立派に達成しなければならないという自分の過度な情熱が私たちを疲れさせるという意味です。主は言われます。「御言葉によって信仰に堅く立ち、わたし(キリスト)を中心として、右にも左にも動揺せずにただわたしだけについて来なさい。」私たちは信仰生活を完璧に達成しなければならない存在ではなく、ただキリストと共に主なる神に聞き従う存在であることを忘れないようにしましょう。 3.強く、雄々しくあれ 「強く、雄々しくあれ。あなたは、わたしが先祖たちに与えると誓った土地を、この民に継がせる者である。」(ヨシュア1:6) この言葉に書いてある「強く」のヘブライ語原文は「くっつく、つかむ、しっかり縛る」という意味の「ハザク」です。イスラエルの歴史上、主なる神に善良な王として認められたヒゼキヤ王の名前の由来でもあります。ちなみに「ヒゼキヤ」は「主は私の力である」という意味です。旧約聖書で言う「強さ」は自らの強さの意味ではないようです。誰かを掴んでいること、誰かにくっついていること、誰かとしっかり縛っていることが強さのイメージであるようです。言うまでもなくイスラエルの神をつかんでいる人、その方にくっついている人、その方と密接にしっかり縛られている人が旧約聖書が言う真の「強い人」ではないでしょうか? 主は私たちに自ら強くなることを命じておられません。主はいつも「わたしがあなたと共にいる」と言われます。私と共に歩んでくださると約束された主を離れず、近くにいること、それこそが私たちの真の強さではないでしょうか? 今回、新しい長老と執事が選ばれました。どなたにとっても長老、執事になるのはプレッシャーであるでしょう。しかし、長老、執事になったからといって、特別に変わることはありません。もうちょっとだけ積極的に教会に仕える立場になったということ以外に違いはありません。主なる神は長老、執事、そして牧師に優れた能力や結果を要求されません。ただ主を頼りにし、御言葉に従い、右にも左にもそれないで、キリストと共に生きること。それこそ牧師、長老、執事のあり方ではないでしょうか? それは、牧師、長老、執事だけでなく、誰にでも同様です。強く雄々しく勇気を出して主に寄りかかって生きていきましょう。特別な能力や結果を出すのではなく、主に信頼してついていくこと、それこそが真の強く雄々しくする信仰生活ではないでしょうか? 締め括り 今日の本文に出来事以来、ヨシュアは成功的に自分の務めを全うしていきます。そして、彼はいつも主の御言葉に従い、自分の業を行い、成功の可否は主の御心に委ねました。重要なのは私たちの能力ではありません。主の御言葉にどのように反応するのか、主とどのように一緒に歩いていくのか、動揺することなく信仰を守って生きていくのか、それらこそが最も重要な信仰者の心構えでなありませんか。使徒パウロの言葉が思い出されます。「目を覚ましていなさい。信仰に基づいてしっかり立ちなさい。雄々しく強く生きなさい。 14何事も愛をもって行いなさい。」(一コリント人16:13) ヨシュア記で、主がくださった言葉は新約時代にも同じく適用できるものでした。強く雄々しく主だけに寄りかかって生きる志免教会のみんなでありますように祈り願います。