レント(四旬節)

ヨブ記42章1~6節 (旧832頁) マタイによる福音書6章16~18節 (新10頁) 前置き 今日は、レント第一主日です。歴史上の教会はレントを通してイエス•キリストの苦難と復活を黙想し、祈りと断食をしながら、主の御業を記念したと言われます。今日はレントを始めるにあたって、レントとは何か、現代を生きる私たちは、この時をどのように過ごすべきかについて話してみたいと思います。 1.レントの由来と意味 レントは四旬節とも呼ばれますが、四旬節は漢字語で40日という意味です。イエス•キリストの復活を記念するイースター前の40日間のことです。それでは、レントとはどういう意味でしょうか?四旬節の原文を探ってみるとギリシャ語では「テサラコステ」、ラテン語では「クアドラゲシマ」でした。いずれも40日という意味です。つまり「レント」と「40日」の間に、そんなに関りがないということです。そこで、資料を探ってみたら、この表現の由来が古代アングロサクソン語の春を意味する「レンテン」であることが分かりました。初期キリスト教は迫害を乗り越え、ローマ帝国の国教となり、大きな影響力を及ぼすようになりました。その時代、ヨーロッパの辺境には数多くの迷信とシャーマニズムが存在していました。しかし、その地域の異教徒が少しずつ、信仰を受け入れ、これまでの迷信やシャーマニズムの祭りにキリスト教的な意味を与えるようになりました。おそらく、そのようなローマ帝国の辺境の異教徒の改宗につれて迷信とシャーマニズムの祭りがキリスト教式に変わり、キリスト教の四旬節の期間が辺境部族の春の祭りであったレント(レンテンに由来する)と重なるようになったのではないかと思います。 先ほど、レントは春を意味する古代アングロサクソン語のレンテンに由来したとお話しました。イエス•キリストの死は、主を信じるすべての者に真の命を与える、冬が来る前に命の種を蒔くような聖なる出来事でした。もしかしたら、四旬節にレントという名をつけた昔の教会の人々は、イエス•キリストの復活から真の命の春を見つけたわけではないでしょうか。レントという言葉の意味についての詳しい説明がないとその意味が分かりにくくて残念ですが、事実、その意味が分からなくても構いません。一番大事ななのは、主イエス•キリストが私たちの真の救いと命のために、苦難を受けられたこと、私たちの代わりに死んでくださったこと、そして復活によって死の権能に勝利されたこと、それらを憶えることです。 2.なぜ40日なのか? ところで、レントの期間は、なぜ40日なのでしょうか? レント期間を40日として守ったのかについては、様々な仮説がありますが、「聖書に現れる40という数字に深い意味がある」という説が有力だと思います。「ノアの洪水の時、40昼夜雨が降ったこと(創世記6:5-7)」「出エジプトの時代、イスラエルが荒野で40年間生活したこと(申命記29:4)」「モーセが神に十戒をいただくとき40昼夜断食したこと(申命記9:18)」「予言者エリヤが神の山に行くために40昼夜を過ごしたこと(列王期上19:7-8)」「イエスが公生涯を始められる前に40昼夜試練をお受けになったたこと」(マタイ4:1-11)「イエスが昇天される前に40日間地上におられたこと。(使徒言行録1:3)」など。すなわち40日という日数は断食と悔い改め、贖罪によって、自分の罪を顧み、神の御前に進んでいくための清めの時間という意味が強かったためです。とういうことで、レントの期間も40日になった可能性があります。 話しが少し変わりますが、昔から人々はレントが始まる水曜日を灰の水曜日と言いました。(今年は3月5日) 聖書において「灰」は非常に古い象徴です。今日の旧約本文を読んでみましょう。「わたしは塵と灰の上に伏し、自分を退け、悔い改めます。」(ヨブ記42:6)学者たちはヨブ記の時代が、アブラハムの時代と近いと推測しています。つまり、イスラエルが成立する前から、灰は悔い改めと反省の象徴を持っていたようです。創世記には神が塵で人間を創造されたと記してあります。(創2:7) エデンの園から追い出された最初の人間たちは、神に「塵にすぎないお前は塵に返る。」(創世記3:19)と言われました。ヘブライ語の塵は、時には灰と翻訳される場合もあります。つまり、灰には「私は塵のようになにものでもない」という意味が含まれています。聖書全体的に灰は罪人たちが神の赦しを求める時、自分の罪を悲しむ時に使われる表現でした。古代の教会は額に灰を塗り、悔い改めの祈りによって、四旬節を始めたと言われます。灰を塗って悔い改めつつ、四旬節を始める水曜日という意味として灰の水曜日と呼ばれはじめたわけです。したがって、初代教会の信仰者たちは、この灰を自分の額に塗る象徴的な行為を通して、40日というレントの間、神の御前で悔い改めと断食をしつつ、自分の罪を顧みようとしたのです。 3.レントを過ごしながら プロテスタント教会の歴史の中に、1522年、スイスのチューリッヒで起こった「ソーセージ事件」という面白い名称の出来事がありました。中世教会には、数多くの宗教的な仕来りがあったと言われますが、その中、聖書の教えとは関係ない強制的な断食、免罪符などの宗教儀式が多かったと言われます。中にはレントの期間に肉食禁止という聖書にない制限もありました。ところで、チューリッヒの印刷業者のフローシャウアーと何人かは、レントの肉食禁止は聖書に基づいたことではないと批判し、食事の時、小さいお肉一枚とソーセージ2個を食べました。(レントにも肉食したいという意味ではなく、聖書による根拠のない仕来りに反抗するという意味として。)これが問題となり、彼らは大罪を犯したと教会の糾弾を受けることになりました。その時、彼らを弁護した者が、あの有名な宗教改革者「ツヴィングリ」でした。ツヴィングリは主の教会は虚礼虚飾の仕来りから脱し、ひとえに主の御言葉に基づいて生きなければならないという説教をしつづけました。教会は反発しましたが、宗教改革を支持する民衆は大声で歓呼しました。この面白い名称の出来事を皮切りとして、チューリッヒでは宗教改革の炎が燃え上がるようになり、最終的にスイスはプロテスタント教会が優勢な国になったわけです。私はレントの期間を、このような心で過ごしたいと思います。断食のような宗教的な行為も良いですが、さらに聖書が語る主の苦難、死、復活、愛を憶える期間であることを願います。 締め括り 最後に、今日の新約本文を読んで説教を終わりたいと思います。「断食するときには、あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない。偽善者は、断食しているのを人に見てもらおうと、顔を見苦しくする。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。あなたは、断食するとき、頭に油をつけ、顔を洗いなさい。それは、あなたの断食が人に気づかれず、隠れたところにおられるあなたの父に見ていただくためである。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。」(マタイ6:16-18)レントの期間に、主が望んでおられるのは、他人に長い断食や立派な祈りのような行為を見せるのではなく、ひたすら主なる神だけに自分の信仰と愛を表すことだと思います。レントを通して、信仰の虚礼を捨て、謙虚に苦難の主だけを黙想し、記念する志免教会であることを祈ります。

右にも左にも

ヨシュア記1章1~9節(旧340頁) コリントの信徒への手紙一 16章13節(新323頁) 前置き 出エジプト記で、モーセを用いられ、エジプト帝国からイスラエルの民を解放してくださった主なる神は、その昔イスラエルの先祖アブラハムに約束されたカナンの地にイスラエルの民を導いてくださいました。しかし、イスラエルの民は主のお導きを完全には信頼できず、数多くの不信心の罪を犯しました。その結果、主はイスラエルの民をすぐにカナンの地に入らせられず、40年という長い年月、荒野をさまようようになさいました。(彼らの信仰を訓練させるため) けれども、主は彼らを見捨てられず、昼は雲の柱で、夜は炎の柱で守ってくださいました。そして、モーセという指導者を通して、ご自分の民に御言葉をくださいました。不信心の世代が皆亡くなり、新しい世代が成人した時、ついに主はイスラエルをカナンに入らせてくださいました。それと同時に、旧世代の指導者であるモーセに代わって、新しい指導者のヨシュアを立ててくださいました。ヨシュア記は、そのヨシュアを中心として起きるイスラエルの民のカナン定着の物語です。 1.主が共におられる。 「一生の間、あなたの行く手に立ちはだかる者はないであろう。わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもない。」(ヨシュア1:5) 40年間、イスラエルの指導者として働いてきたモーセが主なる神に召されました。彼は出エジプト当時の世代(神を疑い、不信心だった人々)が年を取って亡くなると、イスラエルの新しい世代をカナンの入口まで導き、120歳で神に召されました。モーセの死は、彼の後継ぎだったヨシュアとイスラエルの民に大きな衝撃となりました。例えば、牧師が急に辞任したり、逝去したりして、突然、無牧師教会になったような状況より、はるかに戸惑うようになることでした。無牧師教会を経験した志免教会は、牧師の不在がどういう意味かよくご存知でおられるでしょう。説教を準備し、教会の行事を計画し、主日礼拝と水曜祈祷会を導く牧師の不在は、信徒の皆さんに大きな負担になったでしょう。ましてや、40年もイスラエル社会という大きい団体を導いてきた指導者が突然亡くなったわけですから、彼ら全員に大きな混乱が生じたに違いありません。 しかし、主の御心には、より良い計画がありました。それはヨシュアという新しい指導者を立てることでした。(40年間苦労してきたモーセの念願だったカナンに入ることが出来なかったのは残念でしたが、主が天国でより良い報いをくださったと信じます。)モーセの逝去で人々は戸惑ったと思いますが、指導者の不在はイスラエルにとって良い訓練になると思います。イスラエルの民は、これまでモーセに心から頼ってきたはずです。しかし、彼の不在によって、重要なのはモーセという存在ではなく、そのモーセを遣わしてくださった、主なる神のお導きであるということに気づいたでしょう。まるで、無牧師教会を過ごす間、長老と執事を中心として教会員みんなが主に祈りつつ、より一層愛着を持って教会に仕えながら、主のお守りを感じるようにでしょう。最も重要なことは、指導者の有無ではなく、イスラエルを導く真の指導者は主であるということです。牧師がいなくても教会は保たれます。頭である主イエスが教会を導いて行かれるからです。指導者の不在は不安で心配なことです。多くの無牧師教会がそのような困難な経験をします。しかし、牧師がいても教会員と牧師の関係があまりよくなく、むしろ教会に害を及ぼす場合も多々あるでしょう。 大事なのは牧師ではなく、その牧師を用いられる教会の頭であるキリストです。 2.御言葉を守り、右にも左にもそれないように しかし、それでも主は指導者を立ててくださいます。主は人を立てて教会に仕えさせていかれるからです。ヨシュアはモーセの従者として長い間、彼の傍らにおり、指導者の資質を教わったでしょう。モーセを見て指導者の生き方はどうであるか分かるようになり、試行錯誤も目撃したでしょう。主はヨシュアを静かに、しかし少しずつ成長させて来られたのです。そのような主なる神がヨシュアを立てられ、以下のように励ましてくださいました。「ただ、強く、大いに雄々しくあって、わたしの僕モーセが命じた律法をすべて忠実に守り、右にも左にもそれてはならない。そうすれば、あなたはどこに行っても成功する。この律法の書をあなたの口から離すことなく、昼も夜も口ずさみ、そこに書かれていることをすべて忠実に守りなさい。そうすれば、あなたは、その行く先々で栄え、成功する。」(ヨシュア1:7-8) 主はモーセの死によって、最も心配していたヨシュアを呼び出され、強く雄々しくモーセの務めを受け継ぐようにと言われます。そのモーセの務めとは、律法、つまり主の言葉を中心として生き、右にも左にもそれないことでした。つまり、主以外の他のものに心を奪われず、ひとえに主の御言葉に信頼して生きろということでした。 その結果は栄えと成功だと主は言われました。 主は、おひとりで、すべてのことがお出来になる方です。三位一体の協力だけでこの世は造られました。人の助けがなくても、まったく問題ないということです。それにもかかわらず、主は人を呼び出され、用いられる方です。主の力不足で人を呼ばれるわけではなく、主が創造された最も大切な存在である人間に主と共に生きる機会をくださるためです。したがって、主はヨシュアに優れた指導力とカリスマ性を要求しておられません。雄々しく勇気を出してモーセがそうしたように、主の御言葉を中心とし、右にも左にも動揺せず、主だけについて来なさいと命じられるだけです。信仰生活をしながら疲れた経験がありますか。教会に行きたくないとか、信仰生活をやめたいとか思ったことがありますか? ほとんど、そのような疲れは、情熱すぎから始まる場合が多いです。信仰生活を情熱にしなくてもいいという意味ではありません。信仰生活、教会生活を立派に達成しなければならないという自分の過度な情熱が私たちを疲れさせるという意味です。主は言われます。「御言葉によって信仰に堅く立ち、わたし(キリスト)を中心として、右にも左にも動揺せずにただわたしだけについて来なさい。」私たちは信仰生活を完璧に達成しなければならない存在ではなく、ただキリストと共に主なる神に聞き従う存在であることを忘れないようにしましょう。 3.強く、雄々しくあれ 「強く、雄々しくあれ。あなたは、わたしが先祖たちに与えると誓った土地を、この民に継がせる者である。」(ヨシュア1:6) この言葉に書いてある「強く」のヘブライ語原文は「くっつく、つかむ、しっかり縛る」という意味の「ハザク」です。イスラエルの歴史上、主なる神に善良な王として認められたヒゼキヤ王の名前の由来でもあります。ちなみに「ヒゼキヤ」は「主は私の力である」という意味です。旧約聖書で言う「強さ」は自らの強さの意味ではないようです。誰かを掴んでいること、誰かにくっついていること、誰かとしっかり縛っていることが強さのイメージであるようです。言うまでもなくイスラエルの神をつかんでいる人、その方にくっついている人、その方と密接にしっかり縛られている人が旧約聖書が言う真の「強い人」ではないでしょうか? 主は私たちに自ら強くなることを命じておられません。主はいつも「わたしがあなたと共にいる」と言われます。私と共に歩んでくださると約束された主を離れず、近くにいること、それこそが私たちの真の強さではないでしょうか? 今回、新しい長老と執事が選ばれました。どなたにとっても長老、執事になるのはプレッシャーであるでしょう。しかし、長老、執事になったからといって、特別に変わることはありません。もうちょっとだけ積極的に教会に仕える立場になったということ以外に違いはありません。主なる神は長老、執事、そして牧師に優れた能力や結果を要求されません。ただ主を頼りにし、御言葉に従い、右にも左にもそれないで、キリストと共に生きること。それこそ牧師、長老、執事のあり方ではないでしょうか? それは、牧師、長老、執事だけでなく、誰にでも同様です。強く雄々しく勇気を出して主に寄りかかって生きていきましょう。特別な能力や結果を出すのではなく、主に信頼してついていくこと、それこそが真の強く雄々しくする信仰生活ではないでしょうか? 締め括り 今日の本文に出来事以来、ヨシュアは成功的に自分の務めを全うしていきます。そして、彼はいつも主の御言葉に従い、自分の業を行い、成功の可否は主の御心に委ねました。重要なのは私たちの能力ではありません。主の御言葉にどのように反応するのか、主とどのように一緒に歩いていくのか、動揺することなく信仰を守って生きていくのか、それらこそが最も重要な信仰者の心構えでなありませんか。使徒パウロの言葉が思い出されます。「目を覚ましていなさい。信仰に基づいてしっかり立ちなさい。雄々しく強く生きなさい。 14何事も愛をもって行いなさい。」(一コリント人16:13) ヨシュア記で、主がくださった言葉は新約時代にも同じく適用できるものでした。強く雄々しく主だけに寄りかかって生きる志免教会のみんなでありますように祈り願います。