イザヤ書 49章10節(旧1143頁)
ヨハネによる福音書 5章1-18節(新171頁)
人間は老若男女を問わず自由を追求します。しかし、自由は簡単に得られるものではありません。人は自分が自由に生きていると思うかも知れませんが、富、権力、名誉への欲望による束縛のため、自分も気付かないうちに、現実の奴隷のように生きやすいです。「皆と異なったらどうしよう。独り負けになったらどうしよう。」と恐れ、結局、今の生活に妥協し、自ら、世の束縛からの自由をあきらめてしまう場合もあります。このような現代を生きる私達にとって真の自由とは何でしょうか?今日の新約本文の物語を通じて、真の自由とは何か。その自由を束縛するものとは何か。そして、その自由への解放者としてのイエス・キリストについて考えてみましょう。
1.ベトザタ – 慈しみの家
ベトザタはイエスの時代、エルサレムにあるて貯水槽でした。その意味は「慈しみの家」でした。このベトザタには病人を治療する治療施設があったと言われますが、病気の治療に用いるための多くのきれいな水が必要だったからです。というわけで、数多くの病人が集まっていました。ところで、ベトザタには不思議な噂がありました。今日の本文を読むと3節の次に4節がありませんが、こんな文章が省略されています。「彼らは、水が動くのを待っていた。それは主の使いが時々、池に降りてきて、水が動くことがあり、水が動いた時、真っ先に水に入る者はどんな病気にかかっていても、癒されたからである。」(新共同訳ヨハネによる福音書の末尾に書いてある。) ベトザタには主の使いが時々天から降りてきて、水を動かすという噂があり、その水が動いた瞬間、一番早く入る人はどんな病気でも癒されるとのことでした。そのため、大勢の人々が病気を癒すために集まっていたわけです。その中には、今日の本文に出てくる38年も病気で苦しんでいる人もいました。この話を聞きながら、欠けた文章にある「主の使い」という表現が気になります。愛の主なる神が、なぜ、一番の人のために多くの人々を競争させられたでしょうか。
ベトザタが慈しみの家と言われるのに、皆を癒さないで、一番だけを癒してくれる神、人々に虚しい希望を与える神が、本当に主イエスの父なる神なのでしょうか。そこで、ギリシャ語聖書5冊、英語聖書3冊を比べてみました。ギリシャ語の聖書には「主の」の部分が一冊も無く、英語聖書にはあるのもあり、無いのもありました。おそらく、「主の」は翻訳の際、追加されたかも知れません。イエスの時代のエルサレム社会はギリシャ、ローマの宗教と文化も混じっていました。当時の文献を読むと、べトザタはローマの神のための場所だったようです。ギリシャ、ローマの医術の神アスクレピオスを拝む場所だったのです。このアスクレピオスと見られる神の像がべトザタで発見されたとの話もあります。べトザタは慈しみの家と呼ばれました。しかし、その慈しみは主なる神の慈しみではなく、ギリシャの神々の慈しみだったかも知れません。病人たちは、このギリシャの神の像を見て、その神の天使が天から降ってきて、水を動かすと思い、切に待っていたでしょう。たった一人だけに与えられるケチな慈しみを待ちわびながら、一生を送った病人たち。人々は病気からの自由という希望を持って、生涯、偽りの神の使いを待っていたのです。その偽りの神を通じて得る自由はとても競争的でした。一番だけのための慈しみだったのです。
2.ベトザタの束縛された人々
おそらく、ベトザタの病人たちは、社会の最もとん底に束縛されている弱者だったでしょう。その時代、イスラエルの政治は純粋ではありませんでした。王もユダ族ではなく、異民族のヘロデであり、その王権もローマ帝国に許されたものでした。ヘロデはエルサレム神殿を改築しましたが、民のためでなく自分の政治的な人気のためでした。宗教も問題でした。主なる神からの御言葉の本義は消えてしまい、宗教指導者たちの富と権力と名誉のために律法は利用されました。社会も純粋ではありませんでした。金持ちはさらに富み、貧しい者はますます貧しくなりました。イスラエルは親のない孤児、夫のない寡婦のようになっていたのです。貧しい病人や障碍者は疎外と蔑視を受けました。彼らには真の慈しみと自由が必要でした。極めて弱い彼らに何の助けの手もなかったのです。彼らは死ぬまで病人、弱者として生きるのが定まっていました。彼らは二つの束縛のもとにいました。
まず、一番でない限り、抜け出せない政治的、社会的な束縛でした。「彼らは、水が動くのを待っていた。それは主の使いが時々、池に降りてきて、水が動くことがあり、水が動いた時、真っ先に水に入る者はどんな病気にかかっていても、癒されたからである。」病気で苦しむ者が病気から自由になるためには、まず水に入らなければならないという前提がありました。例えば、暴力団の人が指に怪我をし、足早に水に入ると治されたということです。しかし、生まれつきの障碍者や目の見えない本当の弱者は治されなかったということです。悪いでも一番なら、治されるシステムだったのです。社会は彼らのために何もしてくれませんでした。ただ、傍観するだけで、助けは無かったのです。また、宗教的、文化的な束縛もありました。38年間の病人がイエスによって癒された後、ユダヤ人は、彼の回復を祝いませんでした。神に感謝もしなかったのです。彼らは自分たちの教理を突きつけ「今日は安息日だ。だから床を担ぐことは、律法で許されていない。」と無慈悲にとがめました。彼らにとっては、病人の回復、希望、幸いは何の意味もなかったからです。最初から病人の痛みに関心がなかったので、彼らの癒しにも関心がなかったわけです。むしろ、弱者を助け、治した者を罪人のように扱い迫害しました。ベトザタの束縛は個人だけの問題ではありませんでした。社会の問題であり、社会が作っている束縛でした。ベトザタの病人たちは、そのような束縛から絶対に逃れることが出来なかったのです。
3.ベトザタの解放者
こんな状況の中で、ベトザタは慈しみの家ではなく、イスラエルの政治、社会、宗教、文化が持っている問題の結晶体だったかもしれません。誰にも歓迎されない弱者をゴミのように脇に置き、神話みたいな噂を希望とさせ、死ぬまで閉じ込めておく下水道のようなところだったかもしれません。しかし、そのように最も低い所に神の子が訪れてこられました。皆が高い所、明るい所、そびえ立った神殿を憧れたとき、神殿の真の主であるイエスは最も低い所、暗い所、ベトザタをご覧になったのです。そして、どうしても一番になれない38年間の病人に手を差し出されました。「イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、良くなりたいかと言われた。」(ヨハネ5:6)エルサレムの最も低いところに来られたイエスは、その中でも最も弱い者に注目されたのです。そして、彼が最も望むことを語られました。「あなたは良くなりたいですか?」その時、病人は癒されることを求めませんでした。
ただ、自分の惨めさを話すだけでした。すると、イエスは彼の話を聞かれ、回復させてくださいました。その時、彼は38年という長い年月の間に自分を苦しめた病気から、自由になり、ベトザタという一番だけの地獄から解き放されました。この世が見捨てた人がイエスの慈しみによって新たになったのです。しかし、彼が治ったにもかかわらず、人々は喜んでいませんでした。むしろ、安息日に律法を犯したと叱り、イエスを迫害します。しかし、イエスは言われました。「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。」(ヨハネ5:17)イエス・キリストは、束縛と抑圧のもとに苦しんでいる人を、ご自分の名誉、権力、富とは関係なく、ただ治してくださいました。そして、ご自分の命までも投げ出されました。偽りの慈しみに束縛された人を、喜んで回復させてくださったイエス・キリストによって、主なる神の真の慈しみが、その日、ベトザタに臨んだのです。
締め括り
今日の旧約本文はこう語ります。「彼らは飢えることなく、渇くこともない。太陽も熱風も彼らを打つことはない。憐れみ深い方が彼らを導き、湧き出る水のほとりに彼らを伴って行かれる。」(イザヤ49:10)神のメシアが臨まれれば、ご自分の民を正しい道、真の自由へ導かれるとのことです。そういう意味で、メシアとして来られたイエス・キリストは解放者です。イエス・キリストは罪による差別と偏見と嫌悪に満ちている束縛の世界に自由を与えてくださる真の解放者です。ですから、イエス・キリストのおられるところには自由があります。その自由は差別、偏見、嫌悪からの自由であり、誰もが人間らしく生きる真の自由です。そのような人間らしい生活をくださるために、イエス・キリストは解放者として来られたのです。今日の説教によって主イエスのおつおめを憶える機会になれば幸いです。