主なる神の愛
ゼファニヤ書3章 17節 (旧1474頁) ローマの信徒への手紙8章31-39節(新285頁) 前置き 古今東西を問わず、人々が好む言葉は何があるでしょうか? 健康、名誉、財物などいろんな言葉があるでしょうが「愛」という言葉も多くの人に好まれていると思います。特にキリスト教は愛の宗教とも呼ばれるほど愛を大切にしています。「信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」(1コリント13:13) コリントの信徒への手紙第一は、愛を最も大事な価値として取り上げています。「わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。」(1ヨハネ4:16)また、ヨハネの手紙第一は、主なる神がすなわち愛であると語るほど愛を強調しています。愛は人と人をつなぐ最も美しい言葉です。また、愛は人間への主なる神の最も根本的な御心です。今日は愛について、特にご自分の民である教会への主なる神の愛について考えてみたいと思います。 1.愛の意味について。 古代ギリシャ語は愛を四つの概念に説明します。一つは、異性との情熱的で肉体的な愛であるエロス。二つは親と兄弟、家族間の愛であるストルゲー。三つは先生、友人との尊敬と友情を込めた愛であるフィレオ。そして最後に、神の絶対的で偏見のない愛であるアガペーがそれらです。人が感じる愛は、この4つの愛のうち、どれか1つに限らず、時間の流れと状況の変化によって少しずつ変わっていきます。例えば、友との友情であるフィレオから始まり、エロスが生まれて恋人になり、結婚して夫婦として暮らしながらストルゲ-に変わり、信仰によってアガペー的な愛にありさまが変わっていくので、私たちが感じる愛はこの4つの愛の複合的な様子とも言えるでしょう。しかし、その中で私たちが完全に行うことの出来ない愛がありますが、それはアガペーです。他者のための犠牲、親の限りのない愛などが、このアガペーに似ているかもしれませんが、それは似ているだけで、完全なアガペーを成すことは出来ません。なぜなら、このアガペーは神だけが完全に成し遂げられる神的な愛だからです。 この神的な愛であるアガペーの完全な例は、イエス·キリストの十字架の犠牲に見られます。主に創造された最初の人間は、自分の欲望のため、神を裏切り、堕落してしまいました。以後、彼の子孫はすべてのことにおいて神を否定し、御言葉に反対し、隣人を憎み、悪を行いつつ生きるようになりました。そのすべては、最初の人間の堕落からもたらされた罪によるものです。つまり、罪によって人間は堕落し、神の敵になったのです。しかし、主なる神は、そのような人間を愛(アガペー)され、彼らが堕落した瞬間からイエス·キリストによる罪人の救いが完全に成し遂げられるまで、彼らをあきらめずアガペーしてくださいました。このアガペーの何よりも決定的な出来事は、神のひとり子イエスがその堕落した人間を救うために自ら人間になり、命をかけられた十字架の出来事であります。つまり、主なる神は、ご自分の敵である罪人を愛され、敵の救いのためにひとりだけの息子を献げものにされ、その代わりに罪人を赦し、父になってくださったのです。ところで、このアガペーの源は、三位一体の間の愛、父と子と聖霊の間をつなぐ真で完全な愛から始まりました。三位一体間の愛が満ち溢れ、罪人への神の愛も始まるようになったのです。罪人への神の恵みと救いは、まさにこの三位一体の間の愛が罪人にも与えられた結果なのです。 2。結局、主の愛によって しかし、主なる神の愛は盲目的な罪人への優しさばかりではありません。主は愛の神であると同時に正義の神でもあります。愛に満ちた主は罪人に罰を下される方でもあります。過ちの者にはそれに応じる懲らしめも下される方なのです。しかし、主は罪人が完全に滅びることを望んでおられません。むしろ、その懲らしめによって自分の罪に気づき、主の御前に悔い改めることを望まれる方です。そのような理由で、主は聖書全体を通して「悔い改めなさい」と促されるわけです。今日の旧約本文ゼファニヤ書3章17節は、神の愛を語っていますが、1章と2章、3章前半部は神の恐ろしい裁きについて語っています。1章では、神を無視して偶像を崇拝し、罪と悪を犯したイスラエル(ユダ)の民に恐ろしい裁きを予告する神が描かれています。2章では、イスラエルの周辺国の罪を糾弾し、彼らの滅亡を語られる神が描かれています。3章の前半部にも神を畏れない者たちへの裁きが語られています。したがって、今日の旧約本文のゼファニヤ書3章17節だけを読んで、神は愛ばかりされる方だと誤解してはなりません。主なる神は悪を必ず裁かれる正義の神でもあるからです。 「お前の主なる神はお前のただ中におられ、勇士であって勝利を与えられる。主はお前のゆえに喜び楽しみ、愛によってお前を新たにし、お前のゆえに喜びの歌をもって楽しまれる。」(ゼファニヤ3:17) 主は正義の神でありながら愛の神でもあります。つまり、主の愛は主の正義とコインの両面のように密接なものであるということです。私たちは時々、神が本当に自分を愛しておられるかについて疑問を抱えたりします。イエスを信じ、神の民となったにもかかわらず、時々持ちこたえられないほどの苦難が私たちに迫ってくる時もあります。そんな時、私たちは神の愛を疑いやすくなります。しかし、その前に、自分自身に罪がなかったのか、自分自身に悔い改めるべき問題はなかったのか、自らを顧みる必要があります。もし、そのような罪が自分に無いと思ったら、主なる神がより大きな愛をくださるために自分を試みておられると信じるべきでしょう。つまり、神の懲らしめは、神の愛の別の姿であるということです。主なる神の懲らしめによって自分を顧み、主に立ち返ってきなさいという主のお招きのしるしなのです。優しい神も、恐ろしい神も両方とも神のあり方です。しかし、そのすべては結局、神の愛が根源であります。試練にあった時、神の愛を疑わないようにしましょう。その試練の源は、私たちのより良い人生のための主なる神の愛にあるからです。 3。誰も主の愛を妨げることが出来ない 今日の新約本文のローマ書は次のように語っています。「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。」(ローマ書8:35)神の愛は、誰も妨げることのできない神の権能を伴います。主なる神に一度選ばれ、主の愛の中に生きるようになった人は、他の権力によってその愛が妨げられることはあり得ません。世の誰も主の愛から主の民を断ち切ることができないということです。「しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。」(ローマ書8:37) 主が私たちを愛してくださいますので、そのすべての妨げに勝利する恵みが私たちに与えられるからです。そして、その主の愛は、私たちを罪から救い、永遠に神の子供として生きるように導いてくださったイエス·キリストによって移り変わりなく私たちの中に働いています。「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(ローマ8:38-39) さらに大事なことは、私たちが主を先に愛したわけではなく、主が私たちをお先に愛してくださったということです。したがって、私たちの神への愛が冷めてしまい、信仰が弱くなっても絶対に変わらない主なる神の愛は、いつまでも残り、私たちと共にあるでしょう。 締め括り 赴任以来、私は「神を愛し、隣人を愛しなさい」とよく説教しました。しかし、数年間牧会をしてきながら、私自身が神と隣人を愛することが出来なかった時が多々あったと改めて感じるようになります。皆さんも心では神と隣人を愛しなければならないと思うのに、実はそうでなかった経験がありますでしょう。私たち人間は誰かを完全に愛することができないあまりにも弱い存在だからです。けれども、大丈夫です。私たちを呼び出された主なるはイエス·キリストによって、今日も私たちを愛しておられるからです。そして、その神のお導きとお愛のもとで、私たちに再び力をくださり、神と隣人を愛する心を回復させてくださるでしょう。主なる神は私たちを愛しておられます。私たちが強い時も弱い時も、豊かな時も貧しい時も、主は変わりなく私たちを愛してくださいます。そして、イエス·キリストはその主なる神の愛をご自分の贖いによって完成してくださいました。ですから、私たちは主に完全に愛される者です。それを憶えながら、主なる神の愛のもとに生きる私たちでありますように祈ります。