イザヤ書40章 27-31節 (旧1125頁)
ヨハネの黙示録22章12-13節(新479頁)
前置き
1.初めであり、終わりである神
皆さんはヨハネの黙示録を好んで読まれますか?黙示録はかなり難しい本でしょう?黙示録は、その内容が難解で意味も不明確な部分が多いので、神学を専攻した人にも、読み取りにくい聖書だと言われます。しかし、その難しい黙示録も、割と明確なテーマを持っていますが、特に今日の新約本文がそうと思います。「見よ、わたしはすぐに来る。わたしは、報いを携えて来て、それぞれの行いに応じて報いる。 わたしはアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者。初めであり、終わりである。」(12-13)確かに黙示録は非常に難しい書ですが、私たちの主であるイエスが、この世界を支配しておられることと、いつか、この世界を裁かれることと、それまで信仰を堅く守る者に報いてくださることについては、明確に語っています。そういうわけで、黙示録の冒頭と末尾に「 わたしはアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者。初めであり、終わりである。」という言葉が出て来るのです。これはキリストがこの世のすべての主であることを強調するのです。神は最初から最後までを司っておられる方です。神によって、この世界が造られ、私たちが生まれ、私たちはこの教会堂に集って、すべての初めであり、終わりである主なる神を礼拝することが出来るのです。
いつか永遠という言葉について話したことがありますが、キリスト教における永遠とは「神が最初から最後まで、全てを司ること。」であり、永遠の命とは、その「すべてを司る神と共に歩み、生きていくこと」だと話しました。今日の本文の「わたしはアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者。初めであり、終わりである。」という言葉も、この永遠と深い関りがあります。主なる神が最初から最後までの全てのことを司られ、すべてのものを治める永遠の方であること、その方が遣わされたキリストが、その支配を自らなさっておられることを黙示録は力強く語っているのです。ここ何年間を振り返ってみると、コロナによって数百万人が亡くなりました。米国と中国、イスラエルとハマスが対立しました。北朝鮮は相変わらず、核兵器で世界を脅かしています。私たち人間の生活の中で、最近の様々な問題は、命が脅かされるほどの恐ろしいことでした。いくら強力な権力者だといっても、戦争と疫病の猛威の前では、手が付けられなかったです。しかし、その全てはアルファであり、オメガである神のご計画の中では、ほんの微かなことにすぎませんでした。もちろん、戦争や疫病で人が死ぬことを神の計画だとは言えないでしょう。もし、神が無分別な死をあおぎ立てる方であれば、彼はすでに神ではなく、悪魔であるでしょう。
すべてが神のご計画であるということは、神が、この混沌の世界の中でも、御心に基づき、世界を導いていかれるという意味です。創造の時、初めの人間が犯した罪の結果は、この世の中に混乱をもたらすことでした。神が初めに造られた完全な世界は、人間の罪によって破られました。対立も、戦争も、疫病も、そのような人間の罪の故に生まれた悪の副産物なのです。しかし、神はそのような混沌の世界の中でも、キリストを通して絶えず慰めと救いとを与えてくださる方です。「愛する人たち、このことだけは忘れないでほしい。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。」(Ⅱペトロ3:8)現在、私たちの人生の中で起こる、すべての危機は、人間のみに適用されるものです。主からしては、この世界の千年が、私たちがお茶を分かち合うほどの短い時間にすぎないかも知れません。つまり、この地上の危機が神の危機になることは有り得ないという意味です。主なる神は、その危機よりも大きい方であるからです。むしろ、神にとって、そのような微かな危機の中でも、人間を憶えてくださり、愛してくださる主の偉大さに感謝すべきだと思います。神がお造りになった、この世界が罪と悪の故に混乱しているけれども、神はいつか、この罪と悪を終わらせてくださるでしょう。その神を堅く信じ、世の危機に怯えず、神の偉大さに畏れおののく私たちであることを願います。初めであり、終わりである主が、混沌の世界から私たちをお守りくださることを祈り願います。
2.慰めと力を与えてくださる神
主なる神は慰めてくださる方です。ヨハネの黙示録の審判者である神は、神を憎み、逆らう者に裁きを下される方です。しかし、神を愛し、主の民として生きようとする者には、喜んで父になってくださる方です。孤児は親がどのような存在なのか分かりません。親がいないから、礼儀作法も知らず、好き勝手に育ってしまいます。最初から養ってくれる親がいなかったからです。しかし、ある心やさしい企業家夫婦が、その孤児を養子縁組して、自分の本当の子供のように養うと孤児だった子は、もはや孤児ではなく、愛される子供として育ち、後には立派な人間に成人します。主なる神もそのような方です。主の民になった者が過去はどうだったのかに関係なく、主なる神は、完全な愛と慰めと救いの父になってくださる方です。神がキリストを通して私たちをご自分の子供として呼び出された理由は、私たちが天の父なる神から愛と慰めと救いをいただくためだったのです。
今日の旧約本文は、主なる神を捨て去り、罪と悪の道に進んでいたイスラエルの民が、神の裁きを受け、バビロンの捕囚として連行された後、神によって解放され、故郷に帰る時に記された慰めの言葉です。 70年間バビロンとペルシャの捕囚として生きてきて、神が自分たちを憎んでおられると誤解していたイスラエルの民に、神は愛の神であり、慰める方であり、力をくださる真の父であることを知らせるために記されたわけです。 「ヤコブよ、なぜ言うのか?イスラエルよ、なぜ断言するのか?わたしの道は主に隠されていると、わたしの裁きは神に忘れられたと。」(イザヤ40:27) 神がご自分の民に罰を与えられる理由は、彼らを滅ぼすためではありません。神は主の民が間違った道に行くとき、戒められ、神に帰ってくるように導かれる方です。親が愛する子供を戒めるように、主なる神の民に与えられる苦難は、裁きではなく、愛の戒めであるのです。神はご自分の民が幸いと喜びに生きることを望んでおられる方です。しかし、幸いと喜びを口実に我が儘に生きることは望んでおられません。神はその民が信仰を堅く守り、主と一緒に歩む生活の中で真の幸いと喜びを見つけることを望んでおられるのです。そのような生活を促すために神は主の民に苦難を許されるのです。
様々な困難な状況に直面している時、神は主の民を厳しく叱られるためではなく、主の民に悔い改めを促され、主に立ち返らせるために困難な状況をくださるのです。そして、神は今日も主の民を慰めてくださる方です。神は、私たちを大切にしておられる愛の神だからです。「あなたは知らないのか、聞いたことはないのか。主は、とこしえにいます神、地の果てに及ぶすべてのものの造り主。倦むことなく、疲れることなく、その英知は究めがたい。疲れた者に力を与え、勢いを失っている者に大きな力を与えられる。若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが、主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」(28-31)
締め括り
パレスチナ地域には、イヌワシという大きい種のワシが生息していると言われます。翼を伸ばすと、2メートルに達し、体重も7キロに達するほどの大きい鷲です。日本にもイヌワシがいますが、2.5キロくらいの亜種ですので、かなりの大きさの差があります。この7キロのイスラエルのイヌワシが空に飛び上がるためには、翼の筋肉だけでは無理です。ということで、イヌワシは風を利用して飛び上がるそうです。「主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。神はワシを飛んで上がらせる風のように、その民に力を与えてくださる方です。アルファとオメガ、初めと終わりである主なる神は、疲れた者に力を、勢いを失っている者に大きな力を与えてくださる方です。今年もこの主なる神に依り頼んで、毎日を生きていく私たちでありますように祈ります。目の前に暗闇と障壁が遮っていても、主がくださる聖霊の風に私たちの全てを頼り、力強く飛び上がる志免教会でありますように祈ります。イエス・キリストを中心とし、互いに祈り合い、励まし合う生き生きとした志免教会でありますように祈ります。主なる神よ、志免教会に絶えない恵みと力を与えてください。