私の亜麻布を

イザヤ書53章5節(旧1149頁) マルコによる福音書 14章50-52節(新93頁) 前置き 最近、家庭礼拝歴の執筆依頼があり、マルコによる福音14,15章を研究することになりました。そのうち、印象的な箇所を見つけました。「弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。一人の若者が、素肌に亜麻布をまとってイエスについて来ていた。人々が捕らえようとすると、 亜麻布を捨てて裸で逃げてしまった。」(マルコ14:50-52)今日の本文、イエスが逮捕され、裁判所に連行される途中、イエスについて行ったある若者についての場面でした。その若者が誰なのか私たちには分かりませんが、彼が亜麻布をまとって、他の弟子たちが皆逃げてしまったにもかかわらず、勇気を出してイエスについて行ったことが分かります。今日はこの若者について、そして、この本文の持つ意味について話してみたいと思います。 1。亜麻布をまとった若者 若者の外見は独特でした。素肌に亜麻布だけをまとっている様子でした。なぜ。彼がそのような姿をしていたかは分かりませんが、彼はイエスが逮捕された時、弟子たちもイエスを捨てて逃げたのに、引き続きイエスについて行きました。(実はペトロもイエスについて行きましたが、ペトロ以外の弟子たちは皆逃げてしまいました。)イエスの時代のイスラエルにとって、亜麻布は様々な用途で使われる織物でした。今日の本文のように衣服や布団の材料としても使われ、祭司の礼服の材料としても使われました。そして、亡くなった人を包む葬儀用品としても使われました。今日の本文に登場するこの若者は素肌に亜麻布だけをまとっていたのですが、普通だったら、こんな姿で出掛けません。もしかしたら、その時が夜だったので寝ている間にイエスが逮捕されたことに気づき、急いで飛び出したイエスの支持者の一人だったかもしれません。いずれにせよ、彼は亜麻布だけをまとったままイエスについて行きました。「人々が捕らえようとすると、亜麻布を捨てて裸で逃げてしまった。」(マガ14:51-52)しかし、彼は最後までイエスについて行くことはできませんでした。イエスを逮捕した連中に捕らえられそうになると、亜麻布を捨てて裸で逃げてしまったからです。 この場面を読みながら最初は爆笑してしまいました。状況に合わない滑稽な場面だと思いました。しかし、繰り返し、この本文を吟味した結果、さらに深い意味があるかもしれないと思うようになりました。聖書において亜麻布にはいろいろな象徴がありますが、イエスの十字架の死と関わるものもあります。これからイエスはポンテオ・ピラトに裁判を受け、殺人者バラバに代わって十字架にかけられ亡くなられるでしょう。そして、死を迎えたイエスは亜麻布に包まれて、墓に入られるでしょう。つまり、今日の本文に限っては、この亜麻布が死を意味する象徴であるかもしれないということです。しかし、死んだイエスを包むようになる、この亜麻布を、あの若者は脱ぎ捨てるようになりました。イエスが歩いていかれる苦難と死の道から、彼は亜麻布を脱ぎ捨てることにより、遠く遠くまで逃げ出しました。もしかしたら、この若者は別の人ではなく、私たち自身であるかもしれません。私たちはイエスを信じ従おうとしていますが、罪と弱さによって完全に主に聞き従うことはできません。いつ主を裏切るか、いつ逃げるかは誰にもわかりません。しかし、確かなことは、主イエスが私たちの罪と過ちを赦し、私たちを永遠の死から永遠の生命へと移してくださったということです。これからイエスは私たちの代わりに亜麻布をまとって墓に入られるでしょう。その亜麻布は、私たちを包んでいた私たちの罪と死であるかもしれません。 2.「それでもついて行く人」 先ほどお話ししたように、亜麻布をまとった若者は人々に捕まえられそうになると、亜麻布を捨てて逃げてしまいました。彼の逃亡がイエスを見捨てる姿のように見えるかもしれませんが、むしろ、それはキリストによって死を避けた人の姿であるかもしれません。唯一イエスだけが永遠の死から罪人を救ってくださることができます。イエス以外の誰も人の罪を赦すことができず、永遠の死から救うこともできません。イエスは罪人への赦しと救いのためにご自分の命をかけられました。しかし、イエスについていった若者がイエスのように逮捕され死ぬといっても、その死によって人を救うことはできません。若者はただイエスの死によって代わりに罪赦され、救われること以外に何もできない存在です。ですから、今日の本文で亜麻布を捨てて逃げたこと、つまり、死を逃れたということは、青年の裏切りというより、キリストにより、死を避ける姿として解釈すべきではないでしょうか。いずれにせよ、彼は逮捕された主を見捨てようとはしませんでした。最後は逃げてしまったのですが、彼はイエスの苦難に知らないふりをせず、主の後についていったのです。 私たちには、イエスのように他人を救う資格も力もありません。しかし、少なくとも、最初からイエスを見捨てて逃げず、主の苦難を憶え、その方についていこうとする信仰は持つべきでしょう。マルコによる福音書10章でイエスはこう言われました。「イエスは言われた。あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。彼らが、できますと言うと、イエスは言われた。確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。」(マルコ10:38-39) 実は私たちにはイエスの飲む杯を飲み、イエスの受ける洗礼を受けることができません。「イエスの飲む杯を飲み、イエスの受ける洗礼」この言葉は、十字架で救いの献げ物として死んでくださるイエスだけに与えられた贖い主の務めだからです。しかし、主によって救われ、主の民となった存在は、罪人を救う贖いの十字架を負うことはできませんが、主の民として主の道に聞き従うための自分に与えられた十字架を背負うことは出来ます。つまり、主イエスが言われた「あなた方の杯と洗礼」とは、主の民にふさわしく生きる生き方のことです。 私たちは主イエスの道に従わなければなりません。キリストによって永遠の死を避けた私たちは、これからキリストに従って主の救いの生涯を憶え、その方が私たちに与えてくださった私たち自身の十字架を背負って行かなければなりません。弟子たちは皆逃げてしまいましたが、それでも、イエスについていった、その若者を憶えましょう。 3。亜麻布を脱ぐ 亜麻布を捨てて逃げてしまった若者は、後、どうなったでしょうか? おそらく、彼は逃げることによって救った命を無駄にしなかったでしょう。復活されたイエスにまた出会い、その方の民として福音を伝える人生を生きようと誓ったはずです。事実かどうかわかりませんが、誰かはこの若者がマルコによる福音書の著者であるマルコ自身かもしれないと言いました。彼が誰であれ、彼は確かにイエスに出会い、イエスによって新しい人生を送るようになったでしょう。この若者はイエスによって亜麻布を脱ぎました。彼は亜麻布が意味する死から救われたのです。そして、彼がまとっていた死の亜麻布はイエスが代わりにまとって墓に入られました。しかし、復活されたイエスは、最後にその亜麻布を脱がれました。ヨハネによる福音書にこう書いてあります。「続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。」(ヨハネ福音20:6)イエス·キリストは私たちの亜麻布を脱がせ、また復活されることによって、主ご自身を包んでいた亜麻布をも脱がれました。つまり、イエスが復活され、亜麻布を脱がれたように、主によって亜麻布を脱ぐようになった私たちも主による復活を得るようになったのです。今日の本文は、亜麻布という物を通じて、主が私たちの変わりに死に、復活されたことについて証しているのです。 締め括り 「彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」(イザヤ53:5) キリスト教の最も根本的で重要な教えは、罪ない神の子イエス·キリストが罪によって滅ぼされるべき罪人の代わりに死に、復活し、救ってくださったということです。今日の本文は、その教えを亜麻布という物を通じて私たちに語りました。私たちがイエス·キリストを信じる理由は、ひとえにキリストだけが私たちの罪を赦し、代わりに死んで復活された方だからです。今日の本文を通じてもう一度私たちの救い主であるイエスの愛と恵みを憶えたいと思います。

ベトザタにて

イザヤ書 49章10節(旧1143頁) ヨハネによる福音書 5章1-18節(新171頁) 人間は老若男女を問わず自由を追求します。しかし、自由は簡単に得られるものではありません。人は自分が自由に生きていると思うかも知れませんが、富、権力、名誉への欲望による束縛のため、自分も気付かないうちに、現実の奴隷のように生きやすいです。「皆と異なったらどうしよう。独り負けになったらどうしよう。」と恐れ、結局、今の生活に妥協し、自ら、世の束縛からの自由をあきらめてしまう場合もあります。このような現代を生きる私達にとって真の自由とは何でしょうか?今日の新約本文の物語を通じて、真の自由とは何か。その自由を束縛するものとは何か。そして、その自由への解放者としてのイエス・キリストについて考えてみましょう。 1.ベトザタ – 慈しみの家 ベトザタはイエスの時代、エルサレムにあるて貯水槽でした。その意味は「慈しみの家」でした。このベトザタには病人を治療する治療施設があったと言われますが、病気の治療に用いるための多くのきれいな水が必要だったからです。というわけで、数多くの病人が集まっていました。ところで、ベトザタには不思議な噂がありました。今日の本文を読むと3節の次に4節がありませんが、こんな文章が省略されています。「彼らは、水が動くのを待っていた。それは主の使いが時々、池に降りてきて、水が動くことがあり、水が動いた時、真っ先に水に入る者はどんな病気にかかっていても、癒されたからである。」(新共同訳ヨハネによる福音書の末尾に書いてある。) ベトザタには主の使いが時々天から降りてきて、水を動かすという噂があり、その水が動いた瞬間、一番早く入る人はどんな病気でも癒されるとのことでした。そのため、大勢の人々が病気を癒すために集まっていたわけです。その中には、今日の本文に出てくる38年も病気で苦しんでいる人もいました。この話を聞きながら、欠けた文章にある「主の使い」という表現が気になります。愛の主なる神が、なぜ、一番の人のために多くの人々を競争させられたでしょうか。 ベトザタが慈しみの家と言われるのに、皆を癒さないで、一番だけを癒してくれる神、人々に虚しい希望を与える神が、本当に主イエスの父なる神なのでしょうか。そこで、ギリシャ語聖書5冊、英語聖書3冊を比べてみました。ギリシャ語の聖書には「主の」の部分が一冊も無く、英語聖書にはあるのもあり、無いのもありました。おそらく、「主の」は翻訳の際、追加されたかも知れません。イエスの時代のエルサレム社会はギリシャ、ローマの宗教と文化も混じっていました。当時の文献を読むと、べトザタはローマの神のための場所だったようです。ギリシャ、ローマの医術の神アスクレピオスを拝む場所だったのです。このアスクレピオスと見られる神の像がべトザタで発見されたとの話もあります。べトザタは慈しみの家と呼ばれました。しかし、その慈しみは主なる神の慈しみではなく、ギリシャの神々の慈しみだったかも知れません。病人たちは、このギリシャの神の像を見て、その神の天使が天から降ってきて、水を動かすと思い、切に待っていたでしょう。たった一人だけに与えられるケチな慈しみを待ちわびながら、一生を送った病人たち。人々は病気からの自由という希望を持って、生涯、偽りの神の使いを待っていたのです。その偽りの神を通じて得る自由はとても競争的でした。一番だけのための慈しみだったのです。 2.ベトザタの束縛された人々 おそらく、ベトザタの病人たちは、社会の最もとん底に束縛されている弱者だったでしょう。その時代、イスラエルの政治は純粋ではありませんでした。王もユダ族ではなく、異民族のヘロデであり、その王権もローマ帝国に許されたものでした。ヘロデはエルサレム神殿を改築しましたが、民のためでなく自分の政治的な人気のためでした。宗教も問題でした。主なる神からの御言葉の本義は消えてしまい、宗教指導者たちの富と権力と名誉のために律法は利用されました。社会も純粋ではありませんでした。金持ちはさらに富み、貧しい者はますます貧しくなりました。イスラエルは親のない孤児、夫のない寡婦のようになっていたのです。貧しい病人や障碍者は疎外と蔑視を受けました。彼らには真の慈しみと自由が必要でした。極めて弱い彼らに何の助けの手もなかったのです。彼らは死ぬまで病人、弱者として生きるのが定まっていました。彼らは二つの束縛のもとにいました。 まず、一番でない限り、抜け出せない政治的、社会的な束縛でした。「彼らは、水が動くのを待っていた。それは主の使いが時々、池に降りてきて、水が動くことがあり、水が動いた時、真っ先に水に入る者はどんな病気にかかっていても、癒されたからである。」病気で苦しむ者が病気から自由になるためには、まず水に入らなければならないという前提がありました。例えば、暴力団の人が指に怪我をし、足早に水に入ると治されたということです。しかし、生まれつきの障碍者や目の見えない本当の弱者は治されなかったということです。悪いでも一番なら、治されるシステムだったのです。社会は彼らのために何もしてくれませんでした。ただ、傍観するだけで、助けは無かったのです。また、宗教的、文化的な束縛もありました。38年間の病人がイエスによって癒された後、ユダヤ人は、彼の回復を祝いませんでした。神に感謝もしなかったのです。彼らは自分たちの教理を突きつけ「今日は安息日だ。だから床を担ぐことは、律法で許されていない。」と無慈悲にとがめました。彼らにとっては、病人の回復、希望、幸いは何の意味もなかったからです。最初から病人の痛みに関心がなかったので、彼らの癒しにも関心がなかったわけです。むしろ、弱者を助け、治した者を罪人のように扱い迫害しました。ベトザタの束縛は個人だけの問題ではありませんでした。社会の問題であり、社会が作っている束縛でした。ベトザタの病人たちは、そのような束縛から絶対に逃れることが出来なかったのです。 3.ベトザタの解放者 こんな状況の中で、ベトザタは慈しみの家ではなく、イスラエルの政治、社会、宗教、文化が持っている問題の結晶体だったかもしれません。誰にも歓迎されない弱者をゴミのように脇に置き、神話みたいな噂を希望とさせ、死ぬまで閉じ込めておく下水道のようなところだったかもしれません。しかし、そのように最も低い所に神の子が訪れてこられました。皆が高い所、明るい所、そびえ立った神殿を憧れたとき、神殿の真の主であるイエスは最も低い所、暗い所、ベトザタをご覧になったのです。そして、どうしても一番になれない38年間の病人に手を差し出されました。「イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、良くなりたいかと言われた。」(ヨハネ5:6)エルサレムの最も低いところに来られたイエスは、その中でも最も弱い者に注目されたのです。そして、彼が最も望むことを語られました。「あなたは良くなりたいですか?」その時、病人は癒されることを求めませんでした。 ただ、自分の惨めさを話すだけでした。すると、イエスは彼の話を聞かれ、回復させてくださいました。その時、彼は38年という長い年月の間に自分を苦しめた病気から、自由になり、ベトザタという一番だけの地獄から解き放されました。この世が見捨てた人がイエスの慈しみによって新たになったのです。しかし、彼が治ったにもかかわらず、人々は喜んでいませんでした。むしろ、安息日に律法を犯したと叱り、イエスを迫害します。しかし、イエスは言われました。「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。」(ヨハネ5:17)イエス・キリストは、束縛と抑圧のもとに苦しんでいる人を、ご自分の名誉、権力、富とは関係なく、ただ治してくださいました。そして、ご自分の命までも投げ出されました。偽りの慈しみに束縛された人を、喜んで回復させてくださったイエス・キリストによって、主なる神の真の慈しみが、その日、ベトザタに臨んだのです。 締め括り 今日の旧約本文はこう語ります。「彼らは飢えることなく、渇くこともない。太陽も熱風も彼らを打つことはない。憐れみ深い方が彼らを導き、湧き出る水のほとりに彼らを伴って行かれる。」(イザヤ49:10)神のメシアが臨まれれば、ご自分の民を正しい道、真の自由へ導かれるとのことです。そういう意味で、メシアとして来られたイエス・キリストは解放者です。イエス・キリストは罪による差別と偏見と嫌悪に満ちている束縛の世界に自由を与えてくださる真の解放者です。ですから、イエス・キリストのおられるところには自由があります。その自由は差別、偏見、嫌悪からの自由であり、誰もが人間らしく生きる真の自由です。そのような人間らしい生活をくださるために、イエス・キリストは解放者として来られたのです。今日の説教によって主イエスのおつおめを憶える機会になれば幸いです。

主なる神の愛

ゼファニヤ書3章 17節 (旧1474頁) ローマの信徒への手紙8章31-39節(新285頁) 前置き 古今東西を問わず、人々が好む言葉は何があるでしょうか? 健康、名誉、財物などいろんな言葉があるでしょうが「愛」という言葉も多くの人に好まれていると思います。特にキリスト教は愛の宗教とも呼ばれるほど愛を大切にしています。「信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」(1コリント13:13) コリントの信徒への手紙第一は、愛を最も大事な価値として取り上げています。「わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。」(1ヨハネ4:16)また、ヨハネの手紙第一は、主なる神がすなわち愛であると語るほど愛を強調しています。愛は人と人をつなぐ最も美しい言葉です。また、愛は人間への主なる神の最も根本的な御心です。今日は愛について、特にご自分の民である教会への主なる神の愛について考えてみたいと思います。 1.愛の意味について。 古代ギリシャ語は愛を四つの概念に説明します。一つは、異性との情熱的で肉体的な愛であるエロス。二つは親と兄弟、家族間の愛であるストルゲー。三つは先生、友人との尊敬と友情を込めた愛であるフィレオ。そして最後に、神の絶対的で偏見のない愛であるアガペーがそれらです。人が感じる愛は、この4つの愛のうち、どれか1つに限らず、時間の流れと状況の変化によって少しずつ変わっていきます。例えば、友との友情であるフィレオから始まり、エロスが生まれて恋人になり、結婚して夫婦として暮らしながらストルゲ-に変わり、信仰によってアガペー的な愛にありさまが変わっていくので、私たちが感じる愛はこの4つの愛の複合的な様子とも言えるでしょう。しかし、その中で私たちが完全に行うことの出来ない愛がありますが、それはアガペーです。他者のための犠牲、親の限りのない愛などが、このアガペーに似ているかもしれませんが、それは似ているだけで、完全なアガペーを成すことは出来ません。なぜなら、このアガペーは神だけが完全に成し遂げられる神的な愛だからです。 この神的な愛であるアガペーの完全な例は、イエス·キリストの十字架の犠牲に見られます。主に創造された最初の人間は、自分の欲望のため、神を裏切り、堕落してしまいました。以後、彼の子孫はすべてのことにおいて神を否定し、御言葉に反対し、隣人を憎み、悪を行いつつ生きるようになりました。そのすべては、最初の人間の堕落からもたらされた罪によるものです。つまり、罪によって人間は堕落し、神の敵になったのです。しかし、主なる神は、そのような人間を愛(アガペー)され、彼らが堕落した瞬間からイエス·キリストによる罪人の救いが完全に成し遂げられるまで、彼らをあきらめずアガペーしてくださいました。このアガペーの何よりも決定的な出来事は、神のひとり子イエスがその堕落した人間を救うために自ら人間になり、命をかけられた十字架の出来事であります。つまり、主なる神は、ご自分の敵である罪人を愛され、敵の救いのためにひとりだけの息子を献げものにされ、その代わりに罪人を赦し、父になってくださったのです。ところで、このアガペーの源は、三位一体の間の愛、父と子と聖霊の間をつなぐ真で完全な愛から始まりました。三位一体間の愛が満ち溢れ、罪人への神の愛も始まるようになったのです。罪人への神の恵みと救いは、まさにこの三位一体の間の愛が罪人にも与えられた結果なのです。 2。結局、主の愛によって しかし、主なる神の愛は盲目的な罪人への優しさばかりではありません。主は愛の神であると同時に正義の神でもあります。愛に満ちた主は罪人に罰を下される方でもあります。過ちの者にはそれに応じる懲らしめも下される方なのです。しかし、主は罪人が完全に滅びることを望んでおられません。むしろ、その懲らしめによって自分の罪に気づき、主の御前に悔い改めることを望まれる方です。そのような理由で、主は聖書全体を通して「悔い改めなさい」と促されるわけです。今日の旧約本文ゼファニヤ書3章17節は、神の愛を語っていますが、1章と2章、3章前半部は神の恐ろしい裁きについて語っています。1章では、神を無視して偶像を崇拝し、罪と悪を犯したイスラエル(ユダ)の民に恐ろしい裁きを予告する神が描かれています。2章では、イスラエルの周辺国の罪を糾弾し、彼らの滅亡を語られる神が描かれています。3章の前半部にも神を畏れない者たちへの裁きが語られています。したがって、今日の旧約本文のゼファニヤ書3章17節だけを読んで、神は愛ばかりされる方だと誤解してはなりません。主なる神は悪を必ず裁かれる正義の神でもあるからです。 「お前の主なる神はお前のただ中におられ、勇士であって勝利を与えられる。主はお前のゆえに喜び楽しみ、愛によってお前を新たにし、お前のゆえに喜びの歌をもって楽しまれる。」(ゼファニヤ3:17) 主は正義の神でありながら愛の神でもあります。つまり、主の愛は主の正義とコインの両面のように密接なものであるということです。私たちは時々、神が本当に自分を愛しておられるかについて疑問を抱えたりします。イエスを信じ、神の民となったにもかかわらず、時々持ちこたえられないほどの苦難が私たちに迫ってくる時もあります。そんな時、私たちは神の愛を疑いやすくなります。しかし、その前に、自分自身に罪がなかったのか、自分自身に悔い改めるべき問題はなかったのか、自らを顧みる必要があります。もし、そのような罪が自分に無いと思ったら、主なる神がより大きな愛をくださるために自分を試みておられると信じるべきでしょう。つまり、神の懲らしめは、神の愛の別の姿であるということです。主なる神の懲らしめによって自分を顧み、主に立ち返ってきなさいという主のお招きのしるしなのです。優しい神も、恐ろしい神も両方とも神のあり方です。しかし、そのすべては結局、神の愛が根源であります。試練にあった時、神の愛を疑わないようにしましょう。その試練の源は、私たちのより良い人生のための主なる神の愛にあるからです。 3。誰も主の愛を妨げることが出来ない 今日の新約本文のローマ書は次のように語っています。「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。」(ローマ書8:35)神の愛は、誰も妨げることのできない神の権能を伴います。主なる神に一度選ばれ、主の愛の中に生きるようになった人は、他の権力によってその愛が妨げられることはあり得ません。世の誰も主の愛から主の民を断ち切ることができないということです。「しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。」(ローマ書8:37) 主が私たちを愛してくださいますので、そのすべての妨げに勝利する恵みが私たちに与えられるからです。そして、その主の愛は、私たちを罪から救い、永遠に神の子供として生きるように導いてくださったイエス·キリストによって移り変わりなく私たちの中に働いています。「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(ローマ8:38-39) さらに大事なことは、私たちが主を先に愛したわけではなく、主が私たちをお先に愛してくださったということです。したがって、私たちの神への愛が冷めてしまい、信仰が弱くなっても絶対に変わらない主なる神の愛は、いつまでも残り、私たちと共にあるでしょう。 締め括り 赴任以来、私は「神を愛し、隣人を愛しなさい」とよく説教しました。しかし、数年間牧会をしてきながら、私自身が神と隣人を愛することが出来なかった時が多々あったと改めて感じるようになります。皆さんも心では神と隣人を愛しなければならないと思うのに、実はそうでなかった経験がありますでしょう。私たち人間は誰かを完全に愛することができないあまりにも弱い存在だからです。けれども、大丈夫です。私たちを呼び出された主なるはイエス·キリストによって、今日も私たちを愛しておられるからです。そして、その神のお導きとお愛のもとで、私たちに再び力をくださり、神と隣人を愛する心を回復させてくださるでしょう。主なる神は私たちを愛しておられます。私たちが強い時も弱い時も、豊かな時も貧しい時も、主は変わりなく私たちを愛してくださいます。そして、イエス·キリストはその主なる神の愛をご自分の贖いによって完成してくださいました。ですから、私たちは主に完全に愛される者です。それを憶えながら、主なる神の愛のもとに生きる私たちでありますように祈ります。

初めであり、終わりである神。

イザヤ書40章 27-31節 (旧1125頁) ヨハネの黙示録22章12-13節(新479頁) 前置き 1.初めであり、終わりである神 皆さんはヨハネの黙示録を好んで読まれますか?黙示録はかなり難しい本でしょう?黙示録は、その内容が難解で意味も不明確な部分が多いので、神学を専攻した人にも、読み取りにくい聖書だと言われます。しかし、その難しい黙示録も、割と明確なテーマを持っていますが、特に今日の新約本文がそうと思います。「見よ、わたしはすぐに来る。わたしは、報いを携えて来て、それぞれの行いに応じて報いる。 わたしはアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者。初めであり、終わりである。」(12-13)確かに黙示録は非常に難しい書ですが、私たちの主であるイエスが、この世界を支配しておられることと、いつか、この世界を裁かれることと、それまで信仰を堅く守る者に報いてくださることについては、明確に語っています。そういうわけで、黙示録の冒頭と末尾に「 わたしはアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者。初めであり、終わりである。」という言葉が出て来るのです。これはキリストがこの世のすべての主であることを強調するのです。神は最初から最後までを司っておられる方です。神によって、この世界が造られ、私たちが生まれ、私たちはこの教会堂に集って、すべての初めであり、終わりである主なる神を礼拝することが出来るのです。 いつか永遠という言葉について話したことがありますが、キリスト教における永遠とは「神が最初から最後まで、全てを司ること。」であり、永遠の命とは、その「すべてを司る神と共に歩み、生きていくこと」だと話しました。今日の本文の「わたしはアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者。初めであり、終わりである。」という言葉も、この永遠と深い関りがあります。主なる神が最初から最後までの全てのことを司られ、すべてのものを治める永遠の方であること、その方が遣わされたキリストが、その支配を自らなさっておられることを黙示録は力強く語っているのです。ここ何年間を振り返ってみると、コロナによって数百万人が亡くなりました。米国と中国、イスラエルとハマスが対立しました。北朝鮮は相変わらず、核兵器で世界を脅かしています。私たち人間の生活の中で、最近の様々な問題は、命が脅かされるほどの恐ろしいことでした。いくら強力な権力者だといっても、戦争と疫病の猛威の前では、手が付けられなかったです。しかし、その全てはアルファであり、オメガである神のご計画の中では、ほんの微かなことにすぎませんでした。もちろん、戦争や疫病で人が死ぬことを神の計画だとは言えないでしょう。もし、神が無分別な死をあおぎ立てる方であれば、彼はすでに神ではなく、悪魔であるでしょう。 すべてが神のご計画であるということは、神が、この混沌の世界の中でも、御心に基づき、世界を導いていかれるという意味です。創造の時、初めの人間が犯した罪の結果は、この世の中に混乱をもたらすことでした。神が初めに造られた完全な世界は、人間の罪によって破られました。対立も、戦争も、疫病も、そのような人間の罪の故に生まれた悪の副産物なのです。しかし、神はそのような混沌の世界の中でも、キリストを通して絶えず慰めと救いとを与えてくださる方です。「愛する人たち、このことだけは忘れないでほしい。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。」(Ⅱペトロ3:8)現在、私たちの人生の中で起こる、すべての危機は、人間のみに適用されるものです。主からしては、この世界の千年が、私たちがお茶を分かち合うほどの短い時間にすぎないかも知れません。つまり、この地上の危機が神の危機になることは有り得ないという意味です。主なる神は、その危機よりも大きい方であるからです。むしろ、神にとって、そのような微かな危機の中でも、人間を憶えてくださり、愛してくださる主の偉大さに感謝すべきだと思います。神がお造りになった、この世界が罪と悪の故に混乱しているけれども、神はいつか、この罪と悪を終わらせてくださるでしょう。その神を堅く信じ、世の危機に怯えず、神の偉大さに畏れおののく私たちであることを願います。初めであり、終わりである主が、混沌の世界から私たちをお守りくださることを祈り願います。 2.慰めと力を与えてくださる神 主なる神は慰めてくださる方です。ヨハネの黙示録の審判者である神は、神を憎み、逆らう者に裁きを下される方です。しかし、神を愛し、主の民として生きようとする者には、喜んで父になってくださる方です。孤児は親がどのような存在なのか分かりません。親がいないから、礼儀作法も知らず、好き勝手に育ってしまいます。最初から養ってくれる親がいなかったからです。しかし、ある心やさしい企業家夫婦が、その孤児を養子縁組して、自分の本当の子供のように養うと孤児だった子は、もはや孤児ではなく、愛される子供として育ち、後には立派な人間に成人します。主なる神もそのような方です。主の民になった者が過去はどうだったのかに関係なく、主なる神は、完全な愛と慰めと救いの父になってくださる方です。神がキリストを通して私たちをご自分の子供として呼び出された理由は、私たちが天の父なる神から愛と慰めと救いをいただくためだったのです。 今日の旧約本文は、主なる神を捨て去り、罪と悪の道に進んでいたイスラエルの民が、神の裁きを受け、バビロンの捕囚として連行された後、神によって解放され、故郷に帰る時に記された慰めの言葉です。 70年間バビロンとペルシャの捕囚として生きてきて、神が自分たちを憎んでおられると誤解していたイスラエルの民に、神は愛の神であり、慰める方であり、力をくださる真の父であることを知らせるために記されたわけです。 「ヤコブよ、なぜ言うのか?イスラエルよ、なぜ断言するのか?わたしの道は主に隠されていると、わたしの裁きは神に忘れられたと。」(イザヤ40:27) 神がご自分の民に罰を与えられる理由は、彼らを滅ぼすためではありません。神は主の民が間違った道に行くとき、戒められ、神に帰ってくるように導かれる方です。親が愛する子供を戒めるように、主なる神の民に与えられる苦難は、裁きではなく、愛の戒めであるのです。神はご自分の民が幸いと喜びに生きることを望んでおられる方です。しかし、幸いと喜びを口実に我が儘に生きることは望んでおられません。神はその民が信仰を堅く守り、主と一緒に歩む生活の中で真の幸いと喜びを見つけることを望んでおられるのです。そのような生活を促すために神は主の民に苦難を許されるのです。 様々な困難な状況に直面している時、神は主の民を厳しく叱られるためではなく、主の民に悔い改めを促され、主に立ち返らせるために困難な状況をくださるのです。そして、神は今日も主の民を慰めてくださる方です。神は、私たちを大切にしておられる愛の神だからです。「あなたは知らないのか、聞いたことはないのか。主は、とこしえにいます神、地の果てに及ぶすべてのものの造り主。倦むことなく、疲れることなく、その英知は究めがたい。疲れた者に力を与え、勢いを失っている者に大きな力を与えられる。若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが、主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」(28-31) 締め括り パレスチナ地域には、イヌワシという大きい種のワシが生息していると言われます。翼を伸ばすと、2メートルに達し、体重も7キロに達するほどの大きい鷲です。日本にもイヌワシがいますが、2.5キロくらいの亜種ですので、かなりの大きさの差があります。この7キロのイスラエルのイヌワシが空に飛び上がるためには、翼の筋肉だけでは無理です。ということで、イヌワシは風を利用して飛び上がるそうです。「主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。神はワシを飛んで上がらせる風のように、その民に力を与えてくださる方です。アルファとオメガ、初めと終わりである主なる神は、疲れた者に力を、勢いを失っている者に大きな力を与えてくださる方です。今年もこの主なる神に依り頼んで、毎日を生きていく私たちでありますように祈ります。目の前に暗闇と障壁が遮っていても、主がくださる聖霊の風に私たちの全てを頼り、力強く飛び上がる志免教会でありますように祈ります。イエス・キリストを中心とし、互いに祈り合い、励まし合う生き生きとした志免教会でありますように祈ります。主なる神よ、志免教会に絶えない恵みと力を与えてください。