ヨハネの手紙一1章1~10節(新441頁)
前置き
今日の本文の著者である使徒ヨハネは、イエスの12弟子の中で一番最後まで生き残り、ヨハネによる福音書とヨハネの手紙1、2、3、そしてヨハネの啓示録を書き残した人として知られています。彼はエフェソという地域を中心とし、現在のトルコである小アジア地域の初代教会に仕えていました。ヨハネの生前、この地域の教会には、ユダヤの伝統を大切にするユダヤ系キリスト者、そしてギリシャ文化圏の影響を受けた異邦人のキリスト者が混在していたと言われます。そのため、教会の中には、互いに異なる思想と信仰の形のため、混乱が起きるケースが多かったと言われます。その中には「イエスは神ではない」のように教会を揺るがす異端的な主張をする人々もいたそうです。教会共同体の中にはそれぞれの思想と経験を持った人々が集まっています。生き方が、聖書への理解が違う人々もいます。そのような違いからもたらされる誤解と対立が教会の中ではいつでも起こり得ます。しかし、今日の本文を通して、使徒ヨハネは、キリストの生命の福音と神の恵みが、互いに異なる思いの人々を交わらせる恵みになると語っています。私たちはそれぞれ考えも経験も追求する点も違う人々の集まりです。しかし、キリストによる生命の福音は互いに異なる私たちの信仰を一つにする恵みを源になります。
1. 命の言葉イエス。
「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について。この命は現れました。御父と共にあったが、わたしたちに現れたこの永遠の命を、わたしたちは見て、あなたがたに証しし、伝えるのです。わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。わたしたちがこれらのことを書くのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるようになるためです。」(1ヨハネ1:1~4)使徒ヨハネのもう一つの著作であるヨハネによる福音書は、このような文章で始まります。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」(ヨハネ福音1:1)ヨハネは、主なる神がこの世を創造された時、神の言が共にあり、その言が、神ご自身であったと語りました。神の言が神ご自身であるという言葉はとても矛盾した表現です。ある人の言うことは、その人の言葉に過ぎず、その人自身ではありません。ところが、なぜ神の言は神ご自身であると記してあるのでしょうか? ヨハネが語る、この「言」という表現は単純に口から出てくる言葉を越える特別な何かを示しているからです。
私たちが読んでいる新約聖書は「ギリシャ語」で記されています。ギリシャ語において「言葉」を意味する「ロゴス」という表現は、単なる言語だけを意味するものではありません。もちろん、言語という意味もありますが、さらに深く「誰かの思想、理性、創造の原理、真理、世界の秩序」などの重みを持ったかなり哲学的な表現です。つまり、神の言葉「ロゴス」は「言葉、思想、理性、創造の原理、真理、世界の秩序」をまとめる神の最も大事な御心そのものを示す表現です。ヨハネは神の言に言い換えることができる大事な存在が神の創造の前から一緒におり、その存在は被造物ではなく神そのものであったと語ります。私たちは、ここでいわゆる「三位一体」の神の存在、その中でも御子イエス·キリストへのヒントを得ることができます。以前、三位一体なる神のお務めについて簡単に説明したことがあります。(もちろんもっと複雑な概念だが)「御父は御心を計画し、御子は御心を成し遂げ、聖霊は御心を実現する。」だから、ヨハネが語った「生命の言葉」とは、神の御心を成し遂げられる御子なる神を指す表現でもあるでしょう。つまり、使徒ヨハネは1ヨハネの手紙の冒頭からイエス·キリストの存在意味について語っていたわけです。
2. イエスによる私たちの交わり
先に前置きでもお話しましたが、ヨハネが活躍していた小アジア地域には、様々な哲学思想や神学的な見解があふれていました。そのような思想と見解はキリスト教会の中にも入ってきて、多くの混乱をもたらしました。ユダヤ教的な思想でキリストの救いと貢献を軽んじ、教会の根幹を揺るがす者やギリシャ文化的な思想による誤ったキリスト認識でイエスの神聖を否定し、教会を乱す者もいたと言われます。ヨハネのもう一つの著作であるヨハネの黙示録から当時の状況を垣間見ることができます。「わたしは、あなたの行いと労苦と忍耐を知っており、また、あなたが悪者どもに我慢できず、自ら使徒と称して実はそうでない者どもを調べ、彼らのうそを見抜いたことも知っている。あなたはよく忍耐して、わたしの名のために我慢し、疲れ果てることがなかった。」(黙示録2:2~3)この言葉を通じて、(エフェソ教会を中心とする)小アジアに散らばっていたヨハネの教会共同体が情熱的に誤った思想(異端)と奮闘したことが分かります。今日、読んだ本文である1ヨハネの手紙は、まさにこのような誤った思想との闘いが一段落した後、小アジア地域の各教会を慰め、励ますために送った使徒ヨハネの手紙なのです。この手紙によって、ヨハネはイエス·キリストを通じて私たちの信仰の対象である主なる神と、また主の教会を成す兄弟姉妹たちと真の交わりができるようになると語っています。
当時、誤った思想をおもに語った人々は「イエスは神ではなく人間に過ぎない。あるいは、人間イエスには罪があり、神が人間イエスに霊を遣わしてくださっただけで、霊が離れたイエスは神の子ではない」と主張し、イエスの神聖を否定する場合もあったと言われます。しかし「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。」という言葉で、ヨハネはイエス·キリストが真に神ご自身であり、神の御心を成し遂げる方であり、真の教会の主であると、福音の中心を明らかに宣べ伝えています。イエス·キリストなしには教会も成り立つことが出来ないからです。日本は 「和」という価値を大事にする文化を持っています。できる限り、他人に迷惑をかけないで、互いに調和し、配慮して生きようとする良い文化を持っています。そのため、「和」という観点から隣人と仲良く過ごすことが多いでしょう。だからといって、そういう日本人のいい性質によって日本の教会の中でも、ただ仲良く付き合うべきとは言えません。教会はキリスト以外の民族性や理念によって交わりする共同体ではないからです。むしろ、教会は罪人が主の恵みによって集まった共同体なので、時々互いに異なる考えで混乱が起こり得る場所でもあります。しかし、ひとえにイエス·キリストおひとりだけを教会の中心とし、その方の神聖を認めて主の民として生きていくならば、多少、思想が異なり、主張が違っても、それがイエスを否定する誤った教えでない限り、教会はキリストという中心によって一つになり、交わることが出来るようになるのです。
3. イエスによって新たになる。
つまり、何よりも重要なのは、イエス·キリストの存在を認める信仰なのです。使徒ヨハネはその信仰によってはじめて、主なる神と信仰者の真の交わりがなされ、教会の兄弟姉妹の間に真の交りがなされ、それを通して、真の喜びが私たちの中になされると力強く語っているのです。時々、教会内に混乱が生じ得ます。兄弟と姉妹が互いにがっかりし、仲が悪くなる時もあり得ます。私たち皆に罪があり、どうしようもない弱い存在であるためです。しかし、主イエスのみを私たちの中心におき、自分のことを顧み、自分の考えをキリストの御言葉に基づいて改善していけば、私たちはキリストによって再び交わりあい、赦しあい、愛しあい、和解しあって生きてことができるようになるのです。「わたしたちがイエスから既に聞いていて、あなたがたに伝える知らせとは、神は光であり、神には闇が全くないということです。わたしたちが、神との交わりを持っていると言いながら、闇の中を歩むなら、それはうそをついているのであり、真理を行ってはいません。しかし、神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。」(1ヨハネ1:5~7) なぜならば、このキリスト・イエスが神の光を私たちに照らして私たちの中にある闇を追い出し、主による明るくて望ましい人生を生きていけるよう導いてくださるからです。
だからこそ、私たちは常にキリストを拠り所としつつ生きるべきです。「自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。」(1ヨハネ1:9)、自分が罪人であり、弱い者であり、闇の中にいる存在であるということを認め、主の御前に自分の罪を告白する時、真の神であり、命の言葉であり、神の光であるイエス·キリストが、私たちの罪を清め、神と教会の前で再び立つことができる機会を与えてくださるためです。私たちの交わりは、同じ思想、同じ民族、同じ主張によってもたらされるものではありません。私たちは互いに異なり、皆が弱い存在ですが、私たちを新たにしてくださるイエス·キリストがおられるゆえに、新しい機会をいただき、互いに赦し、愛し、交わることができるようになるのです。私たち教会の中心は牧師でも、長老でも、執事でも、ある特定の一人でもありません。私たちはひたすら神の生命の言葉であり、神ご自身であるイエス·キリストを中心に打ち立てられた共同体なのです。今年の私たちの信仰生活においても、イエス·キリストが真の中心となることを願います。中心となる主にあって、一つになり、真の良い交わりを味わって生きていく時に、私たちは主による喜びを享受するようになるでしょう。それこそが今日の本文である1ヨハネの手紙1章の、最も大事な教えではないでしょうか?