創世記1章1 -2節 (旧1頁)
ヨハネによる福音書1章1-4節(新163頁)
前置き
創世記を読みながら、私たちが必ず捕らえるべき点は、キリスト者の持つべき神中心的な世界観です。創造、堕落、贖いとった聖書の大きなテーマは、すべてのものが神のご計画の中に成し遂げられることを前提とします。もちろん、人間の堕落は、神の創造ではありませんが、そのような変数さえも、予測し、偉大な計画のもとで、救いを成し遂げていかれる神が、この世界のすべての物事を力強く支配しておられることが、創世記の主な内容であります。それを中心として、今日の話しを分かち合いたいと思います。
1.造り主なる神。
「初めに、神は天地を創造された。」(1) 聖書は、この世界が偶然に造られたわけではなく、神という絶対者によって創造されたと証します。この世界のすべてのものは神と呼ばれる唯一無二の存在により、設計、計画されて造られたのです。この言葉には、非常に深い意味があります。偶然に造られたものではなく、正確な計画によって、造られたので、その存在理由が明らかであるということです。虫の蚊、バクテリア、津波までも存在する理由があります。まして、神の創造の完成である人間にそれ以上の大事な存在理由があるということは明らかです。神の創造は、何から何まで、正確な計画と必要性を持っているのです。
今日の旧約の本文に「初めに」という言葉があります。この「初めに」という言葉は、一つ目に、文字通り「世界が初めて造られる、その瞬間」という意味です。「被造物が造られる前に、神のほか、何も存在しない時」という意味です。その意味から、私たちが分かるのは「無から有を創り出される神」への知識です。命も光もなく、ただの虚しさだけがある、何もない状態から、新しい命、光、世界を造り出される造り主、神についての知識を得ることができます。神は無から有をお造りになる方ですので、すべてのものの支配権を持っておられます。造り主は、すべてのものの主である神です。したがって、神は創造された私たち人間の所有者でもあります。ですので、神を知ること、神を信じることとは、この世の中に自分一人だけではなく、自分の始まりと終わりを知っておられる創造主が自分と共におられるということを意味します。
二つ目に「初めに」という言葉は、解釈によって「人が神の創造に初めて気付いた瞬間」という意味でもあります。神を全く知らなかった人が、御言葉によって、初めて神への認識を持つようになると、以前には無かった神への知識を持つようになります。その知識を通して、信仰が生まれ、神を真の造り主と信じるようになる際に、神は人の中に「神という存在を中心とする新しい世界」を造ってくださいます。つまり、神中心的な世界観という新しい秩序を与えてくださるという意味です。したがって、「初めに、神は天地を創造された。」という言葉は、「人が神に初めて出会ったとき、その人の中に神の世界が造られた。」という意味でもあるでしょう。神は世界を創造されたとき、無から有を造り出し、無秩序に秩序を与えてくださいました。ところで、そのような神の創造の御働きが、人が御言葉を通じて、神を信じようとする時、その人の中にも起きるのです。信仰の無い心に信仰が生まれ、秩序の無い人生に神を中心とする秩序が生まれるのです。
2.支配しておられる神。
したがって、創造は信者、未信者、自然を問わず、すべての存在に適用できる概念です。神は目に見える物理的な世界だけでなく、目に見えない霊的な世界をも造り、それらに神を中心とする秩序を与えられた方です。この秩序は、神を知らない人々が、どんなに否定しようとしても、否定できない明らかな事実です。また、神は、神を信じる人の中に、神を中心とする世界観、すなわち、キリスト者らしく世界を見る目と、神の支配を信じる心をくださり、神の秩序の中で生きようとする意志をくださいます。私たちは、これを「信仰」と言います。したがって、主なる神は神を知らないこの世と神を知る教会、両者すべてを治められる方です。神の支配は信者、未信者を区切りません。今日の聖書の本文である創世記は、このように造り主としての神の絶対主権を最も前に置き、聖書を始めます。このような神の絶対主権は、聖書66巻が終わる黙示録まで終わらないでしょう。神は天地万物を支配しておられる唯一の神です。そして、その神を崇める私たちはその支配を認め、その支配を世に広めなければならないキリスト者なのです。
2節の言葉をもう一度お読みします。「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。」(2) ある人たちは、「神の創造が始まってもいないのに、どうして地があり、混沌と闇があり、深淵と水があり得るだろうか。」と問い掛けてきます。確かに創造の前には何もなかったのに、一体どうしたのでしょうか?私たちは、聖書を読む際に、単なる歴史的な感覚で、ただの事実の記録だと思ってはなりません。聖書は歴史というより聖書記録者の信仰告白の記録であるからです。だから、信仰告白の側面から、聖書を読む必要があります。もちろん、聖書に歴史的な事実も含まれているのは、変わらない事実でしょう。しかし、聖書は、古代の文学形式に応じて書かれた記録ですので、文字、そのままではなく、文字に含まれている意味を読み取る必要があります。混沌、闇、深淵、水などは「神が世界を造られる前に、この世に秩序も、何もなかった。」という文学的な表現です。当時の人々が持っていた漠然とした不安と虚しさの表現が、この「混沌、闇、深淵、水」なのです。
アブラハムの故郷、ウルは古代の代表的な都市でした。そこは異邦の神に仕える巨大宗教都市でした。当時、ウルには大きい川があり、時々、大きい雨が降れば、水が増えて洪水になりました。この洪水は田んぼ、畑、建物、生物を問わず、すべてのものを呑み込む恐ろしい存在でした。古代に、洪水、すなわち、水は、命と直結するものでした。ですが、また、水による洪水に覆われ、友人、家族、財産を失ってしまいました。水は生と死を司る絶対的な存在でした。ところが、このような洪水でさえ、最終的にはアラビア海に流れました。なので、古代世界で海というのは、洪水も支配する恐るべき存在だったのです。今日の本文の混沌、闇、深淵、水などは、全部、洪水、海などと関わりがあるのです。ところが、そのような混沌、闇、深淵を象徴する水の面を動いておられる神、それらに秩序を与え、新しいものを生み出される神という存在がおられるというのは、神の絶対性を端的に表現することでした。今日の創世記の言葉は世界を造られた神が、死と虚しさも支配しておられる方であることを宣言しているのです。つまり、主なる神が生と死、秩序と無秩序、すべての物事を支配しておられる絶対者であることを明らかにしているのです。
締め括り
「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」(ヨハネ福音1:1) ヨハネによる福音書は、初めに世界を造られ、秩序を与えてくださった神が、他のものではなく、神の御言葉を通して、その創造を成し遂げられたと示しています。ここで「神の言」とは、神の御意志、御心、御計画などを意味します。神の創造は、ただの気まぐれ、または無秩序な行為ではなく、徹底的に神の計画と意志によって行われたものです。したがって、神はこの創造を通して、神の意志を世界に示されたのです。ただし、人間の罪のゆえに創造の世界に大きな汚れが生じてしまいましたが、真の神の言葉、すなわち世界への神の善い御心そのものである「イエス・キリスト」によって、罪の問題はすでに解決され、終わりの日の神の裁きだけが残っているのです。ですから、私たちは世界を創造し、秩序を与えてくださる神、最後まで支配される神を待ち望み、その主なる神の御心に適う生活を続けるべきでしょう。神の創造とは、すでにこの世界のすべてのものが神の導きの中にあることを意味するものであり、最後まで私たちが付き従っていかなければならない絶対的な価値であります。このような創造の本当の意味を覚えつつ、キリストにあって、神の御心に聞き従う私たち志免教会であることを願います。