イザヤ書40章27~31節(旧1125頁)
フィリピの信徒への手紙4章11~13節(新366頁)
前置き
あけましておめでとうございます。新しい一年を始める時期になりました。新年をお許しくださった主なる神に感謝いたします。皆さんも主の恵みのもとに心身ともにお元気に過ごされますよう祈ります。今年の志免教会の主題聖句は「主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る」(イザヤ40:31)です。昨年、私たちは本当に大変な時期を過ごしました。今年になってもさまざまな理由で、辛い時を過ごす方もおられると思います。しかし、主は私たちが喜ぶ時も悲しむ時もいつも私たちと共におられ、一人ぼっちに放っておかれず、助けてくださる方です。どんな苦境があっても、私たちと共におられ、慰めてくださる主を憶えつつ今年を生きていきたいと思います。
1. 神の時間と人の時間
数年前、時間を意味するギリシャ語、クロノスとカイロスについて話したことがあります。クロノスは客観的な時間のことで、例えば、「主日礼拝は午前10時15分に始まる。教会から家までの距離は車で10分くらいかかる。」のように誰にでも与えられる客観的で物理的な時間を意味します。また、カイロスは意味を持つ主観的で抽象的な時間のことで、例えば「あなたと私の大事なひと時。その時間は思い出になった。」のような時空間を超える意味ある時間を意味します。永遠を司っておられる主なる神は、クロノスもカイロスも支配しておられる方です。主は昨日と今日と明日、1時間、2時間、3時間といったクロノスの中でも働いておられる方ですが、主によって意味を持ったカイロスの時間の中でも働いておられる方です。キリスト者である私たちにとって代表的なカイロスの出来事は何でしょうか? それはキリストの十字架の救いの出来事です。2000年前、エルサレムで起こった主イエスの十字架での時間は、その後すべての時間に影響を及ぼす唯一無二で移り変わりのない「意味ある時間」になりました。主はその意味ある「十字架の救いの出来事」を通して、2000年経った今でも罪人を救ってくださいます。つまり、主は過去の意味ある時間(カイロス)を用いられ、現在の物理的な時間(クロノス)の中でも働かれるのです。
つまり、主なる神は時間にとらわれないということです。神は物理的な現在の時間の中で、2000年前の意味ある時間である十字架の救いの出来事を道具として使われます。したがって、クロノスに束縛され、カイロスはただ過去の思い出や良い記憶としてしか使えない私たちは、二つの時間を超える主なる神の御心と御業を完全に理解することが出来ない限界を持っています。そのため、主は今日の旧約本文で、このように語られたのです。「ヤコブよ、なぜ言うのか、イスラエルよ、なぜ断言するのか、わたしの道は主に隠されていると、わたしの裁きは神に忘れられたと。あなたは知らないのか、聞いたことはないのか。主は、とこしえにいます神、地の果てに及ぶすべてのものの造り主。倦むことなく、疲れることなく、その英知は究めがたい。」(イザヤ40:27-28) 昔、イスラエルは偶像崇拝の罪を犯し、神に逆らってアッシリアとバビロンといった巨大帝国に次々滅ぼされました。時間が経ち、主はイスラエルの回復を約束されたが、彼らの子孫は民族と国を早く回復させてくださらない主に向かって疑いを抱えるようになりました。なぜ自分たちを早く助けてくださらないのかと思ったわけです。クロノスを生きる彼らは、祈りに答えがなく、民族の衰退にも、助けてくださらないような神に疑問を表しました。そのために「わたしの道は主に隠されている。わたしの裁きは神に忘れられた。」と言ったわけです。
しかし、主なる神は言われました。「あなたは知らないのか、聞いたことはないのか。主は、とこしえにいます神、地の果てに及ぶすべてのものの造り主。倦むことなく、疲れることなく、その英知は究めがたい。」クロノスに束縛されない主なる神、すべての上におられる創造主なる神は、絶えず賢くすべての物事を成し遂げていかれると語られます。つまり、神の時間の中で、主は変わらず働き導いておられますが、限界のあるイスラエルはそれに気付くことができず絶望しているという意味でした。そのような人間の愚かさにもかかわらず、主なる神は限界ある人間が無能であっても、彼らを助け導いていくと言われました。今年の志免教会の主題聖句は、それらの背景知識を持って読む必要があります。主なる神に願いをかければ、無条件、すべてがうまくいくという意味ではありません。神の時間は人の時間と違います。だから、私たちの立場からは苦しくて大変である時でも、主なる神は変わらず働いておられるということを信じ、主の御心に常に希望を置いて生きるべきということです。そのように主を待ち望んで生きれば、主が必ず力を与え助けてくださるということです。したがって、私たちは自分の短い時間に束縛されず、すべてを支配しておられ、導いてくださる、主なる神の長い時間を憶え、主への信頼と信仰によって一日一日を生きていかなければなりません。
2. わたしを強めてくださる方のお陰で
だから、私たちの祈りに早い答えがなく、さらに私たちの願いが主に受け入れられないと思われる時、落胆しないようにしましょう。時々、私たちは主にあまりにも当たり前のように答えを求めているかもしれません。主のご計画と御心があるにもかかわらず、自分の必要だけに心を奪われ、早く答えてくださらないとがっかりしてしまい、信仰が弱くなる場合もしばしばあります。まるで、神に自分の願いと答えを預けておいたのに、神が返してくださらないかのように行動するのです。しかし、主なる神は私たちの祈りにプレゼントとして答えるサンタクロースではありません。神は私たちの真の父であり、真の主です。父親に当たり前に何かを要求するのは、成人した人にふさわしくない行動です。今日の新約本文を読んでみましょう。「わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。」(フィリピ4:11-13)
多くのキリスト者が「わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。」というこの言葉だけを覚えているかもしれません。「私に力をくださる主によって私は何でもできる。」と肯定的な信仰で生きようとする人々にインスピレーションを与える言葉であるかもしれません。しかし、私たちは聖書を読むとき、一行の文章だけを取り上げて文脈なく利用してはなりません。少なくとも一つの段落を確認しながら全体的な意味を読み取らなければなりません。今日の新約本文の文章を解き明かすと、次のようになるでしょう。「私はどんな状況におかれても満足することを習い覚えました。貧しい時も豊かな時も私に大きい変化はありません。貧しさにも豊かさにも揺るがないすべを主に教えていただいたからです。私を強めてくださる方のお陰で、私はそれが出来るようになったのです。」つまり、主が答えてくださっても、されなくても、自分のことがうまくいっても、いかなくても、そのすべてを超えて主を信じる力をいただいたから、著者はすべてのことが可能であるという意味なのです。神の時間は、人の時間と違います。だから、私たちの願う時間に神の答えが届かない可能性もあります。けれども、主のお導きに信頼すること、主の御心を待ち望むこと、それらこそが主に望みをおく人のあり方ではないでしょうか。
締め括り
昨年、志免教会において、さまざまな試練がありました。まだ試練の中にいる方々もおられるでしょう。苦しみや悲しみの時間を過ごす方々がおられるでしょう。しかし、その時間さえも主なる神のお導きの中にあることを忘れてはならないでしょう。私たちは、主である神の時間の中に属した存在です。ですから、自分が望む時間に願いが叶わない時もあるかもしれません。キリストによって救われた私たちは、むしろ主が自分の願いを叶えてくださっても、くださらなくても、早く答えがあっても、答えが遅くなっても、主なる神という存在自体に希望を置いて信仰と忍耐とで生きるべきでしょう。主は私たちがそのように信仰と忍耐によって生きることができるように、いつも言葉を通じて力を与え、励まし、共にいてくださる方です。今年も主なる神への変わらない信仰と忍耐と感謝で、主の民に相応しく生きる私たちでありますよう祈り願います。