上にあるものを求めなさい。

コロサイの信徒への手紙3章1~11節(新371頁) 前置き 今日は、2025年の志免教会の歩みを決める定期総会の日です。総会を始める前に、まず私たちの教会の頭であるキリストの御心を憶え、分かち合いたいと思います。私たちはキリストの体なる共同体として、この世に生きていますが、この世の価値観に属する者ではなく、キリストの価値観に属する者なのです。この地上に生きているが、常に神の右に座しておられるキリストの御心を憶え、その方のご意志に従順に聞き従いつつ生きるべき者であります。だからこそ、私たちはいつも上のものを求めつつ生きなければなりません。今年の我が教会の歩みを決める大事な時間、この地上のものではなく、上におられる主なる神の御心とは何か深く考えて、心を新たにする時間であることを祈り願います。 1. キリストと共に 「さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。」(コロサイ3:1) イエス·キリストと教会の関係は、ただの主人と召使いのような関係ではありません。その関係は、何よりも深い夫婦関係に近いです。日本語で「主」と訳されたギリシャ語は「王、主人、身分の高い者」に使う言葉でもありましたが「夫」を意味する言葉でもありました。(日本人ならすぐ分かると思います。ご主人という言葉をよく使っているからです。)そのためか、聖書のあちこちにイエス·キリストを「花婿」として、教会をその方の「花嫁」として描いたりします。夫と妻は、金銭や利益によって結ばれる関係ではありません。互いに愛しあい、信頼しあい、体と心が一つになる世界で最も深い関係なのです。イエス·キリストは主の教会をご自分の花嫁にするために十字架で命をかけてまで教会のために贖ってくださいました。したがって、キリストと教会は絶対に分かれることのできない神が一つに結ばせてくださった関係です。今日の本文の1節には、あなたがた(教会)はキリストと共に復活させられたから、上にあるものを求めるべきという趣旨のことばが出てきます。夫を先に亡くした妻のことを「未亡人」と言います。つまり「まだ死んでない人」という意味です。「夫無しには妻も無い」という前近代的な言葉なので望ましい表現ではありませんが、それだけに夫は妻にとって重要な存在であるということです。だから、復活された花婿であるキリストは教会にとって命そのものであり、教会を存続させる一番大事な存在であります。 「あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。」(コロサイ3:3-4)ところで、今日の本文は、教会が「命であるキリストが現れるとき、キリストと共に栄光に包まれて現れる存在」と語っているのです。つまり、以前、イエス·キリストではなく、この世の支配の下にあった私たちは、必ず滅ぼされるべき世の妻のような存在でした。しかし、キリストが私たちを選び救ってくださり、私たちに命を与え、キリストの花嫁にしてくださいましたので、私たち教会はキリストによって命をいただいた存在、キリストと共に生きる栄光の存在として生まれ変わるようになったのです。これが私たち教会のアイデンティティ-を証明する最も強力な根拠になります。したがって、今日の本文は、私たちがキリストに属する存在、この世とは異なる価値観で生きる存在だと述べているのです。 本文はそのような私たちのとるべき生き方について「上のものを求めなさい」と語ります。ここで「上」というのは、私たちがいる土地(この世)ではなく、天(主)の価値観だと言えます。聖書において、「天」は主なる神のご統治を意味する場合が多いです。そして、新約聖書においての神の統治はイエス·キリストの十字架での贖いの出来事によって、キリストの統治に譲られました。 2. 上にあるものを求める つまり「上にあるものを求める」ということの意味は、この地上に属した存在として生まれ、地の支配下にあった私たちが、キリストによってキリストに属した存在に生まれ変わったから、私たちの本当の支配者であるキリストの御心に聞き従い、主の民らしく生きるべきということです。「だから、地上的なもの、すなわち、みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、および貪欲を捨て去りなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない。これらのことのゆえに、神の怒りは不従順な者たちに下ります。あなたがたも、以前このようなことの中にいたときには、それに従って歩んでいました。今は、そのすべてを、すなわち、怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を捨てなさい。」(コロサイ3:5-8) そして、聖書はこの地に属した者の生き方について上記のように解き明かし、そのような生き方を捨て去るのを命じています。そのような生き方には神の怒りが下るからです。キリスト者として生きるということは、私たちの生まれつきの性格、性質、罪の本性をはじめ、育ちながら身についた貪欲、悪い行いなどと一生戦って生きなければならないということを意味します。キリストを知らなかった時の私たちは、自分の気の向くままに生きてきたが、キリストの花嫁になった今は、主の御心とは何であるかをわきまえ、自分にある望ましくない生き方を節制し、主の御心にふさわしい生き方を追い求めて生きなければならないのです。そこに信仰生活の難しさがあります。自分の本能との真っ向勝負だからです。 「造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです。そこには、もはや、ギリシア人とユダヤ人、割礼を受けた者と受けていない者、未開人、スキタイ人、奴隷、自由な身分の者の区別はありません。キリストがすべてであり、すべてのもののうちにおられるのです。」(コロサイ3:10-11) しかし、キリストによって新たになった私たちは、主を知らなかった時代の私たちとは明らかに異なる新しい生き方で生きなければなりません。キリストの花嫁となった私たち、キリストに属して新たに生まれ変わった私たちは、天地創造の時に主なる神がご計画なさった真の人間の姿、すなわち、造り主なる神の姿に倣い、回復した望ましい人間として以前とは違う人生を生きなければならない課題を持っているからです。主イエスは人種と文化と国籍を超えて、主に属し、主の御心に従って生きる者たちに新しい人生を与えてくださいました。主はユダヤ人、異邦人、未開人、残酷すぎだったと言われるスキタイ人、奴隷と自由人を問わず、主によって新たになり、主の民となった者たちに差別なく恵みと力を与えてくださいました。依然として私たちには罪の本性が残っており、完全に新しくて正しい人生を生きることは難しいかもしれませんが、それでも、私たちの中に一緒におられ、導いてくださるキリストは、差別なく愛によって私たちを正しい道に導いてくださいます。その主イエスのお導きに信頼し、主の御心を追い求めて生きることこそが「上にあるものを求める」人生ではないでしょうか。 締め括り 2025年にも、私たちは多くのことを経験するでしょう。嬉しいことも、悲しいことも、楽しいことも、辛いこともあるでしょう。しかし、私たちが、どの方の民なのか常に憶え、どのように生きるべきかをよくわきまえながら、主の御心とお導きを求め、上にあるものを求めて生きる私たちでありますように祈ります。私たちの中にある罪の本性を節制し、主の御言葉によって私たちに聞こえ響いてくる正しい生き方を貫き、主イエス·キリストに属した者にふさわしく生きていきたいと思います。主なる神が今年一年も、志免教会の兄弟姉妹みんなに豊かな恵みと愛とを注いでくださいますよう祈ります。そして、今日の総会にもその恵みと愛が与えられますよう祈ります。

私たちの交わり

ヨハネの手紙一1章1~10節(新441頁) 前置き 今日の本文の著者である使徒ヨハネは、イエスの12弟子の中で一番最後まで生き残り、ヨハネによる福音書とヨハネの手紙1、2、3、そしてヨハネの啓示録を書き残した人として知られています。彼はエフェソという地域を中心とし、現在のトルコである小アジア地域の初代教会に仕えていました。ヨハネの生前、この地域の教会には、ユダヤの伝統を大切にするユダヤ系キリスト者、そしてギリシャ文化圏の影響を受けた異邦人のキリスト者が混在していたと言われます。そのため、教会の中には、互いに異なる思想と信仰の形のため、混乱が起きるケースが多かったと言われます。その中には「イエスは神ではない」のように教会を揺るがす異端的な主張をする人々もいたそうです。教会共同体の中にはそれぞれの思想と経験を持った人々が集まっています。生き方が、聖書への理解が違う人々もいます。そのような違いからもたらされる誤解と対立が教会の中ではいつでも起こり得ます。しかし、今日の本文を通して、使徒ヨハネは、キリストの生命の福音と神の恵みが、互いに異なる思いの人々を交わらせる恵みになると語っています。私たちはそれぞれ考えも経験も追求する点も違う人々の集まりです。しかし、キリストによる生命の福音は互いに異なる私たちの信仰を一つにする恵みを源になります。 1. 命の言葉イエス。 「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について。この命は現れました。御父と共にあったが、わたしたちに現れたこの永遠の命を、わたしたちは見て、あなたがたに証しし、伝えるのです。わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。わたしたちがこれらのことを書くのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるようになるためです。」(1ヨハネ1:1~4)使徒ヨハネのもう一つの著作であるヨハネによる福音書は、このような文章で始まります。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」(ヨハネ福音1:1)ヨハネは、主なる神がこの世を創造された時、神の言が共にあり、その言が、神ご自身であったと語りました。神の言が神ご自身であるという言葉はとても矛盾した表現です。ある人の言うことは、その人の言葉に過ぎず、その人自身ではありません。ところが、なぜ神の言は神ご自身であると記してあるのでしょうか? ヨハネが語る、この「言」という表現は単純に口から出てくる言葉を越える特別な何かを示しているからです。 私たちが読んでいる新約聖書は「ギリシャ語」で記されています。ギリシャ語において「言葉」を意味する「ロゴス」という表現は、単なる言語だけを意味するものではありません。もちろん、言語という意味もありますが、さらに深く「誰かの思想、理性、創造の原理、真理、世界の秩序」などの重みを持ったかなり哲学的な表現です。つまり、神の言葉「ロゴス」は「言葉、思想、理性、創造の原理、真理、世界の秩序」をまとめる神の最も大事な御心そのものを示す表現です。ヨハネは神の言に言い換えることができる大事な存在が神の創造の前から一緒におり、その存在は被造物ではなく神そのものであったと語ります。私たちは、ここでいわゆる「三位一体」の神の存在、その中でも御子イエス·キリストへのヒントを得ることができます。以前、三位一体なる神のお務めについて簡単に説明したことがあります。(もちろんもっと複雑な概念だが)「御父は御心を計画し、御子は御心を成し遂げ、聖霊は御心を実現する。」だから、ヨハネが語った「生命の言葉」とは、神の御心を成し遂げられる御子なる神を指す表現でもあるでしょう。つまり、使徒ヨハネは1ヨハネの手紙の冒頭からイエス·キリストの存在意味について語っていたわけです。 2. イエスによる私たちの交わり 先に前置きでもお話しましたが、ヨハネが活躍していた小アジア地域には、様々な哲学思想や神学的な見解があふれていました。そのような思想と見解はキリスト教会の中にも入ってきて、多くの混乱をもたらしました。ユダヤ教的な思想でキリストの救いと貢献を軽んじ、教会の根幹を揺るがす者やギリシャ文化的な思想による誤ったキリスト認識でイエスの神聖を否定し、教会を乱す者もいたと言われます。ヨハネのもう一つの著作であるヨハネの黙示録から当時の状況を垣間見ることができます。「わたしは、あなたの行いと労苦と忍耐を知っており、また、あなたが悪者どもに我慢できず、自ら使徒と称して実はそうでない者どもを調べ、彼らのうそを見抜いたことも知っている。あなたはよく忍耐して、わたしの名のために我慢し、疲れ果てることがなかった。」(黙示録2:2~3)この言葉を通じて、(エフェソ教会を中心とする)小アジアに散らばっていたヨハネの教会共同体が情熱的に誤った思想(異端)と奮闘したことが分かります。今日、読んだ本文である1ヨハネの手紙は、まさにこのような誤った思想との闘いが一段落した後、小アジア地域の各教会を慰め、励ますために送った使徒ヨハネの手紙なのです。この手紙によって、ヨハネはイエス·キリストを通じて私たちの信仰の対象である主なる神と、また主の教会を成す兄弟姉妹たちと真の交わりができるようになると語っています。 当時、誤った思想をおもに語った人々は「イエスは神ではなく人間に過ぎない。あるいは、人間イエスには罪があり、神が人間イエスに霊を遣わしてくださっただけで、霊が離れたイエスは神の子ではない」と主張し、イエスの神聖を否定する場合もあったと言われます。しかし「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。」という言葉で、ヨハネはイエス·キリストが真に神ご自身であり、神の御心を成し遂げる方であり、真の教会の主であると、福音の中心を明らかに宣べ伝えています。イエス·キリストなしには教会も成り立つことが出来ないからです。日本は 「和」という価値を大事にする文化を持っています。できる限り、他人に迷惑をかけないで、互いに調和し、配慮して生きようとする良い文化を持っています。そのため、「和」という観点から隣人と仲良く過ごすことが多いでしょう。だからといって、そういう日本人のいい性質によって日本の教会の中でも、ただ仲良く付き合うべきとは言えません。教会はキリスト以外の民族性や理念によって交わりする共同体ではないからです。むしろ、教会は罪人が主の恵みによって集まった共同体なので、時々互いに異なる考えで混乱が起こり得る場所でもあります。しかし、ひとえにイエス·キリストおひとりだけを教会の中心とし、その方の神聖を認めて主の民として生きていくならば、多少、思想が異なり、主張が違っても、それがイエスを否定する誤った教えでない限り、教会はキリストという中心によって一つになり、交わることが出来るようになるのです。 3. イエスによって新たになる。 つまり、何よりも重要なのは、イエス·キリストの存在を認める信仰なのです。使徒ヨハネはその信仰によってはじめて、主なる神と信仰者の真の交わりがなされ、教会の兄弟姉妹の間に真の交りがなされ、それを通して、真の喜びが私たちの中になされると力強く語っているのです。時々、教会内に混乱が生じ得ます。兄弟と姉妹が互いにがっかりし、仲が悪くなる時もあり得ます。私たち皆に罪があり、どうしようもない弱い存在であるためです。しかし、主イエスのみを私たちの中心におき、自分のことを顧み、自分の考えをキリストの御言葉に基づいて改善していけば、私たちはキリストによって再び交わりあい、赦しあい、愛しあい、和解しあって生きてことができるようになるのです。「わたしたちがイエスから既に聞いていて、あなたがたに伝える知らせとは、神は光であり、神には闇が全くないということです。わたしたちが、神との交わりを持っていると言いながら、闇の中を歩むなら、それはうそをついているのであり、真理を行ってはいません。しかし、神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。」(1ヨハネ1:5~7) なぜならば、このキリスト・イエスが神の光を私たちに照らして私たちの中にある闇を追い出し、主による明るくて望ましい人生を生きていけるよう導いてくださるからです。 だからこそ、私たちは常にキリストを拠り所としつつ生きるべきです。「自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。」(1ヨハネ1:9)、自分が罪人であり、弱い者であり、闇の中にいる存在であるということを認め、主の御前に自分の罪を告白する時、真の神であり、命の言葉であり、神の光であるイエス·キリストが、私たちの罪を清め、神と教会の前で再び立つことができる機会を与えてくださるためです。私たちの交わりは、同じ思想、同じ民族、同じ主張によってもたらされるものではありません。私たちは互いに異なり、皆が弱い存在ですが、私たちを新たにしてくださるイエス·キリストがおられるゆえに、新しい機会をいただき、互いに赦し、愛し、交わることができるようになるのです。私たち教会の中心は牧師でも、長老でも、執事でも、ある特定の一人でもありません。私たちはひたすら神の生命の言葉であり、神ご自身であるイエス·キリストを中心に打ち立てられた共同体なのです。今年の私たちの信仰生活においても、イエス·キリストが真の中心となることを願います。中心となる主にあって、一つになり、真の良い交わりを味わって生きていく時に、私たちは主による喜びを享受するようになるでしょう。それこそが今日の本文である1ヨハネの手紙1章の、最も大事な教えではないでしょうか?

神の創造

創世記1章1 -2節 (旧1頁) ヨハネによる福音書1章1-4節(新163頁) 前置き 創世記を読みながら、私たちが必ず捕らえるべき点は、キリスト者の持つべき神中心的な世界観です。創造、堕落、贖いとった聖書の大きなテーマは、すべてのものが神のご計画の中に成し遂げられることを前提とします。もちろん、人間の堕落は、神の創造ではありませんが、そのような変数さえも、予測し、偉大な計画のもとで、救いを成し遂げていかれる神が、この世界のすべての物事を力強く支配しておられることが、創世記の主な内容であります。それを中心として、今日の話しを分かち合いたいと思います。 1.造り主なる神。 「初めに、神は天地を創造された。」(1) 聖書は、この世界が偶然に造られたわけではなく、神という絶対者によって創造されたと証します。この世界のすべてのものは神と呼ばれる唯一無二の存在により、設計、計画されて造られたのです。この言葉には、非常に深い意味があります。偶然に造られたものではなく、正確な計画によって、造られたので、その存在理由が明らかであるということです。虫の蚊、バクテリア、津波までも存在する理由があります。まして、神の創造の完成である人間にそれ以上の大事な存在理由があるということは明らかです。神の創造は、何から何まで、正確な計画と必要性を持っているのです。 今日の旧約の本文に「初めに」という言葉があります。この「初めに」という言葉は、一つ目に、文字通り「世界が初めて造られる、その瞬間」という意味です。「被造物が造られる前に、神のほか、何も存在しない時」という意味です。その意味から、私たちが分かるのは「無から有を創り出される神」への知識です。命も光もなく、ただの虚しさだけがある、何もない状態から、新しい命、光、世界を造り出される造り主、神についての知識を得ることができます。神は無から有をお造りになる方ですので、すべてのものの支配権を持っておられます。造り主は、すべてのものの主である神です。したがって、神は創造された私たち人間の所有者でもあります。ですので、神を知ること、神を信じることとは、この世の中に自分一人だけではなく、自分の始まりと終わりを知っておられる創造主が自分と共におられるということを意味します。 二つ目に「初めに」という言葉は、解釈によって「人が神の創造に初めて気付いた瞬間」という意味でもあります。神を全く知らなかった人が、御言葉によって、初めて神への認識を持つようになると、以前には無かった神への知識を持つようになります。その知識を通して、信仰が生まれ、神を真の造り主と信じるようになる際に、神は人の中に「神という存在を中心とする新しい世界」を造ってくださいます。つまり、神中心的な世界観という新しい秩序を与えてくださるという意味です。したがって、「初めに、神は天地を創造された。」という言葉は、「人が神に初めて出会ったとき、その人の中に神の世界が造られた。」という意味でもあるでしょう。神は世界を創造されたとき、無から有を造り出し、無秩序に秩序を与えてくださいました。ところで、そのような神の創造の御働きが、人が御言葉を通じて、神を信じようとする時、その人の中にも起きるのです。信仰の無い心に信仰が生まれ、秩序の無い人生に神を中心とする秩序が生まれるのです。 2.支配しておられる神。 したがって、創造は信者、未信者、自然を問わず、すべての存在に適用できる概念です。神は目に見える物理的な世界だけでなく、目に見えない霊的な世界をも造り、それらに神を中心とする秩序を与えられた方です。この秩序は、神を知らない人々が、どんなに否定しようとしても、否定できない明らかな事実です。また、神は、神を信じる人の中に、神を中心とする世界観、すなわち、キリスト者らしく世界を見る目と、神の支配を信じる心をくださり、神の秩序の中で生きようとする意志をくださいます。私たちは、これを「信仰」と言います。したがって、主なる神は神を知らないこの世と神を知る教会、両者すべてを治められる方です。神の支配は信者、未信者を区切りません。今日の聖書の本文である創世記は、このように造り主としての神の絶対主権を最も前に置き、聖書を始めます。このような神の絶対主権は、聖書66巻が終わる黙示録まで終わらないでしょう。神は天地万物を支配しておられる唯一の神です。そして、その神を崇める私たちはその支配を認め、その支配を世に広めなければならないキリスト者なのです。 2節の言葉をもう一度お読みします。「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。」(2) ある人たちは、「神の創造が始まってもいないのに、どうして地があり、混沌と闇があり、深淵と水があり得るだろうか。」と問い掛けてきます。確かに創造の前には何もなかったのに、一体どうしたのでしょうか?私たちは、聖書を読む際に、単なる歴史的な感覚で、ただの事実の記録だと思ってはなりません。聖書は歴史というより聖書記録者の信仰告白の記録であるからです。だから、信仰告白の側面から、聖書を読む必要があります。もちろん、聖書に歴史的な事実も含まれているのは、変わらない事実でしょう。しかし、聖書は、古代の文学形式に応じて書かれた記録ですので、文字、そのままではなく、文字に含まれている意味を読み取る必要があります。混沌、闇、深淵、水などは「神が世界を造られる前に、この世に秩序も、何もなかった。」という文学的な表現です。当時の人々が持っていた漠然とした不安と虚しさの表現が、この「混沌、闇、深淵、水」なのです。 アブラハムの故郷、ウルは古代の代表的な都市でした。そこは異邦の神に仕える巨大宗教都市でした。当時、ウルには大きい川があり、時々、大きい雨が降れば、水が増えて洪水になりました。この洪水は田んぼ、畑、建物、生物を問わず、すべてのものを呑み込む恐ろしい存在でした。古代に、洪水、すなわち、水は、命と直結するものでした。ですが、また、水による洪水に覆われ、友人、家族、財産を失ってしまいました。水は生と死を司る絶対的な存在でした。ところが、このような洪水でさえ、最終的にはアラビア海に流れました。なので、古代世界で海というのは、洪水も支配する恐るべき存在だったのです。今日の本文の混沌、闇、深淵、水などは、全部、洪水、海などと関わりがあるのです。ところが、そのような混沌、闇、深淵を象徴する水の面を動いておられる神、それらに秩序を与え、新しいものを生み出される神という存在がおられるというのは、神の絶対性を端的に表現することでした。今日の創世記の言葉は世界を造られた神が、死と虚しさも支配しておられる方であることを宣言しているのです。つまり、主なる神が生と死、秩序と無秩序、すべての物事を支配しておられる絶対者であることを明らかにしているのです。 締め括り 「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」(ヨハネ福音1:1) ヨハネによる福音書は、初めに世界を造られ、秩序を与えてくださった神が、他のものではなく、神の御言葉を通して、その創造を成し遂げられたと示しています。ここで「神の言」とは、神の御意志、御心、御計画などを意味します。神の創造は、ただの気まぐれ、または無秩序な行為ではなく、徹底的に神の計画と意志によって行われたものです。したがって、神はこの創造を通して、神の意志を世界に示されたのです。ただし、人間の罪のゆえに創造の世界に大きな汚れが生じてしまいましたが、真の神の言葉、すなわち世界への神の善い御心そのものである「イエス・キリスト」によって、罪の問題はすでに解決され、終わりの日の神の裁きだけが残っているのです。ですから、私たちは世界を創造し、秩序を与えてくださる神、最後まで支配される神を待ち望み、その主なる神の御心に適う生活を続けるべきでしょう。神の創造とは、すでにこの世界のすべてのものが神の導きの中にあることを意味するものであり、最後まで私たちが付き従っていかなければならない絶対的な価値であります。このような創造の本当の意味を覚えつつ、キリストにあって、神の御心に聞き従う私たち志免教会であることを願います。

主に望みをおく人

イザヤ書40章27~31節(旧1125頁) フィリピの信徒への手紙4章11~13節(新366頁) 前置き あけましておめでとうございます。新しい一年を始める時期になりました。新年をお許しくださった主なる神に感謝いたします。皆さんも主の恵みのもとに心身ともにお元気に過ごされますよう祈ります。今年の志免教会の主題聖句は「主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る」(イザヤ40:31)です。昨年、私たちは本当に大変な時期を過ごしました。今年になってもさまざまな理由で、辛い時を過ごす方もおられると思います。しかし、主は私たちが喜ぶ時も悲しむ時もいつも私たちと共におられ、一人ぼっちに放っておかれず、助けてくださる方です。どんな苦境があっても、私たちと共におられ、慰めてくださる主を憶えつつ今年を生きていきたいと思います。 1. 神の時間と人の時間 数年前、時間を意味するギリシャ語、クロノスとカイロスについて話したことがあります。クロノスは客観的な時間のことで、例えば、「主日礼拝は午前10時15分に始まる。教会から家までの距離は車で10分くらいかかる。」のように誰にでも与えられる客観的で物理的な時間を意味します。また、カイロスは意味を持つ主観的で抽象的な時間のことで、例えば「あなたと私の大事なひと時。その時間は思い出になった。」のような時空間を超える意味ある時間を意味します。永遠を司っておられる主なる神は、クロノスもカイロスも支配しておられる方です。主は昨日と今日と明日、1時間、2時間、3時間といったクロノスの中でも働いておられる方ですが、主によって意味を持ったカイロスの時間の中でも働いておられる方です。キリスト者である私たちにとって代表的なカイロスの出来事は何でしょうか? それはキリストの十字架の救いの出来事です。2000年前、エルサレムで起こった主イエスの十字架での時間は、その後すべての時間に影響を及ぼす唯一無二で移り変わりのない「意味ある時間」になりました。主はその意味ある「十字架の救いの出来事」を通して、2000年経った今でも罪人を救ってくださいます。つまり、主は過去の意味ある時間(カイロス)を用いられ、現在の物理的な時間(クロノス)の中でも働かれるのです。 つまり、主なる神は時間にとらわれないということです。神は物理的な現在の時間の中で、2000年前の意味ある時間である十字架の救いの出来事を道具として使われます。したがって、クロノスに束縛され、カイロスはただ過去の思い出や良い記憶としてしか使えない私たちは、二つの時間を超える主なる神の御心と御業を完全に理解することが出来ない限界を持っています。そのため、主は今日の旧約本文で、このように語られたのです。「ヤコブよ、なぜ言うのか、イスラエルよ、なぜ断言するのか、わたしの道は主に隠されていると、わたしの裁きは神に忘れられたと。あなたは知らないのか、聞いたことはないのか。主は、とこしえにいます神、地の果てに及ぶすべてのものの造り主。倦むことなく、疲れることなく、その英知は究めがたい。」(イザヤ40:27-28) 昔、イスラエルは偶像崇拝の罪を犯し、神に逆らってアッシリアとバビロンといった巨大帝国に次々滅ぼされました。時間が経ち、主はイスラエルの回復を約束されたが、彼らの子孫は民族と国を早く回復させてくださらない主に向かって疑いを抱えるようになりました。なぜ自分たちを早く助けてくださらないのかと思ったわけです。クロノスを生きる彼らは、祈りに答えがなく、民族の衰退にも、助けてくださらないような神に疑問を表しました。そのために「わたしの道は主に隠されている。わたしの裁きは神に忘れられた。」と言ったわけです。 しかし、主なる神は言われました。「あなたは知らないのか、聞いたことはないのか。主は、とこしえにいます神、地の果てに及ぶすべてのものの造り主。倦むことなく、疲れることなく、その英知は究めがたい。」クロノスに束縛されない主なる神、すべての上におられる創造主なる神は、絶えず賢くすべての物事を成し遂げていかれると語られます。つまり、神の時間の中で、主は変わらず働き導いておられますが、限界のあるイスラエルはそれに気付くことができず絶望しているという意味でした。そのような人間の愚かさにもかかわらず、主なる神は限界ある人間が無能であっても、彼らを助け導いていくと言われました。今年の志免教会の主題聖句は、それらの背景知識を持って読む必要があります。主なる神に願いをかければ、無条件、すべてがうまくいくという意味ではありません。神の時間は人の時間と違います。だから、私たちの立場からは苦しくて大変である時でも、主なる神は変わらず働いておられるということを信じ、主の御心に常に希望を置いて生きるべきということです。そのように主を待ち望んで生きれば、主が必ず力を与え助けてくださるということです。したがって、私たちは自分の短い時間に束縛されず、すべてを支配しておられ、導いてくださる、主なる神の長い時間を憶え、主への信頼と信仰によって一日一日を生きていかなければなりません。 2. わたしを強めてくださる方のお陰で だから、私たちの祈りに早い答えがなく、さらに私たちの願いが主に受け入れられないと思われる時、落胆しないようにしましょう。時々、私たちは主にあまりにも当たり前のように答えを求めているかもしれません。主のご計画と御心があるにもかかわらず、自分の必要だけに心を奪われ、早く答えてくださらないとがっかりしてしまい、信仰が弱くなる場合もしばしばあります。まるで、神に自分の願いと答えを預けておいたのに、神が返してくださらないかのように行動するのです。しかし、主なる神は私たちの祈りにプレゼントとして答えるサンタクロースではありません。神は私たちの真の父であり、真の主です。父親に当たり前に何かを要求するのは、成人した人にふさわしくない行動です。今日の新約本文を読んでみましょう。「わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。」(フィリピ4:11-13) 多くのキリスト者が「わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。」というこの言葉だけを覚えているかもしれません。「私に力をくださる主によって私は何でもできる。」と肯定的な信仰で生きようとする人々にインスピレーションを与える言葉であるかもしれません。しかし、私たちは聖書を読むとき、一行の文章だけを取り上げて文脈なく利用してはなりません。少なくとも一つの段落を確認しながら全体的な意味を読み取らなければなりません。今日の新約本文の文章を解き明かすと、次のようになるでしょう。「私はどんな状況におかれても満足することを習い覚えました。貧しい時も豊かな時も私に大きい変化はありません。貧しさにも豊かさにも揺るがないすべを主に教えていただいたからです。私を強めてくださる方のお陰で、私はそれが出来るようになったのです。」つまり、主が答えてくださっても、されなくても、自分のことがうまくいっても、いかなくても、そのすべてを超えて主を信じる力をいただいたから、著者はすべてのことが可能であるという意味なのです。神の時間は、人の時間と違います。だから、私たちの願う時間に神の答えが届かない可能性もあります。けれども、主のお導きに信頼すること、主の御心を待ち望むこと、それらこそが主に望みをおく人のあり方ではないでしょうか。 締め括り 昨年、志免教会において、さまざまな試練がありました。まだ試練の中にいる方々もおられるでしょう。苦しみや悲しみの時間を過ごす方々がおられるでしょう。しかし、その時間さえも主なる神のお導きの中にあることを忘れてはならないでしょう。私たちは、主である神の時間の中に属した存在です。ですから、自分が望む時間に願いが叶わない時もあるかもしれません。キリストによって救われた私たちは、むしろ主が自分の願いを叶えてくださっても、くださらなくても、早く答えがあっても、答えが遅くなっても、主なる神という存在自体に希望を置いて信仰と忍耐とで生きるべきでしょう。主は私たちがそのように信仰と忍耐によって生きることができるように、いつも言葉を通じて力を与え、励まし、共にいてくださる方です。今年も主なる神への変わらない信仰と忍耐と感謝で、主の民に相応しく生きる私たちでありますよう祈り願います。