失敗した者へ

イザヤ書43章18∼19節(旧1131頁) ローマの信徒への手紙8章28節(新285頁) 前置き 聖書には数多くの失敗者の物語が出てきます。アダム、アブラハム、ヤコブ、モーセ、ダビデといった、多くの聖書の人物が主なる神の御心に適わず、失敗を経験してしまいます。また、イスラエル民族そのものも、主なる神への正しい信仰から離れ、失敗し、アッシリアとバビロンといった帝国によって滅ぼされてしまいました。主イエスの弟子たちも、主を見捨てる失敗を経験します。聖書は、数多くの失敗者の姿をありのままに示しています。しかし、聖書は、主なる神が彼らを決して見捨てられなかったことをも教えてくれます。私たちの人生にも失敗が訪れうるでしょう。しかし、主は失敗したご自分の民を再び立ち上がらせ、導いてくださる方です。ですから、主を信じる者には、失敗さえも恵みとなるのです。今日は、失敗した者を慰め、新たに始めさせてくださる主の恵みについて話してみたいと思います。 1. 失敗した民へ 主の民であるイスラエルは失敗した民族でした。主は創造の際、この世界を完璧に造られました。しかし、最初の人間であるアダムは、自分が主のようになることを願い、悪魔に惑わされて、主を裏切り、禁じられた「善悪の知識の木の実」を取って食べてしまいました。最初の人は主の被造物でしたが、主は彼がご自分の意志に操られる操り人形ではなく、自らの意志によって主に聞き従う自発的な存在になることを望まれました。それが主が人間に自由を与えられた理由です。しかし、アダムは主に逆らい、自分の欲望のために自由を勝手に使い、堕落して主に呪われてしまいました。このようなアダムの子孫は、祖先アダムのように、主の栄光ではなく自分の欲望のために生きる存在となりました。それが、人間の罪の根源なのです。それにもかかわらず、主はアダムの子孫と和解するために、一つの民族を召されましたが、それがイスラエルでした。「今、もしわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたたちはすべての民の間にあって、わたしの宝となる。世界はすべてわたしのものである。あなたたちは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。」(出エジプト記19:5-6)しかし、残念ながらイスラエルは「祭司の王国」になれませんでした。 祭司とは、主なる神と人をつなげる仲介の存在です。旧約聖書において、主なる神は祭司を通してイスラエルの民と会われ、また、イスラエルの民も祭司を通して、主の御前に立ちました。主がイスラエルを「祭司の王国」に召された理由は、イスラエルを用いられ、世のすべての国々が主と出会い、罪赦され、和解することを望まれたからです。しかし、イスラエルは結局、自分の使命を忘却し、他の国々と同じ道を歩んでしまいました。その結果、イスラエルは主を裏切り、不従順となり、偶像崇拝を犯して堕落してしまったのです。その裁きは、アッシリアとバビロンといった帝国によるイスラエルの滅亡でした。このようにイスラエルも自分の罪によって信仰に失敗し、滅びてしまったのです。しかし、主はこの失敗した民であるイスラエルを決して見捨てられませんでした。70年という時間はかかりましたが、彼らに再び故郷へ帰る恵みを与え、赦し、再び始めることを望まれたのです。そのイスラエルに対する主の御心が記された箇所が、まさに今日の旧約の本文なのです。「初めからのことを思い出すな。昔のことを思いめぐらすな。見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。あなたたちはそれを悟らないのか。わたしは荒れ野に道を敷き、砂漠に大河を流れさせる。」(イザヤ書43:18-19) 2. 人間の失敗 私たち人間は、主を知らないまま、罪人として、この世に生まれます。罪人として生まれた私たちには、最初の祖先であるアダムの罪の性質が潜んでいます。世の中には、性善説、性悪説、無善無悪説といった東洋哲学があります。まず、性善説は、人間の本性は生まれながらにして善であると見る立場です。古代中国哲学者の孟子が主張した説で、人間は先天的に善に生まれるが、後天的な環境によって悪を持つとの説です。次に、性悪説は、人間の本性は生まれながらにして悪であると見る立場です。古代中国の荀子が主張した説で、人間は利己的な欲望を持って生まれ、これをそのままにおくと社会的な混乱をもたらすとの説です。善は後天的に習得するという立場です。最後に、無善無悪説は、人間の本性は生まれるときに善でも悪でもないと見る立場です。古代中国の告子の主張で、人間は生まれながらに善または悪の性質を持つのではなく、後天的な環境、教育、修養などによって決定されると見る立場です。このうち、性悪説が聖書が語る人間像に最も近いですが、それでも性悪説は人間に善があり得ると見ています。人間にわずかな希望をおく説なのです。 しかし、聖書は、人間に善などなく、自力で善を行うわずかな可能性もないことを力強く証言しています。「主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって」(創世記6:5)「人の心は何にもまして、とらえ難く病んでいる。」(エレミヤ書17:9) 「正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく、神を探し求める者もいない。皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。」(ローマ書3:10-12)「わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。」(ローマ書7:18)つまり、聖書は罪を犯して堕落してしまった人間存在そのものが失敗であると語っているのです。しかし、私たちは全能なる神に失敗がないことを信じています。最初の人間は自分の罪によって失敗し、その子孫たちも祖先から受け継ぐ罪の性質によって失敗しましたが(罪人)、それにもかかわらず、決して失敗しない主なる神は、人間を失敗から救い出し、正しい人生を歩めるように導いてくださいます。私たち人間は、罪によって失敗した存在として生まれました。しかし、主は人間を失敗の中に放っておかれず、救いの手立てを与えてくださいました。 3. 失敗を恵みへと変えてくださる主 失敗した者をそのままに置かれず、生かし、良い道へと導いてくださるために、主なる神がくださった手立ては何でしょうか。失敗した者、つまり罪人のために、主が成し遂げられた輝かしい御業は罪と失敗から抜け出し、再び始めることができる贖いの根拠を造られたことです。それは、救い主イエス・キリストのご到来です。主は人間を創造されたとき、この世のすべての被造物よりも優れた大事な存在として造られました。人をご自分のために奉仕する奴隷ではなく、子どものような、被造物の中で最も優れた存在として造られたのです。主は、その人間に失敗の可能性があるにもかかわらず、人間自ら主を従うことを望まれたゆえに自由意志をくださったのです。そのような主のご配慮と愛にもかかわらず、人間は罪を犯し、失敗の道へと進んでしまったのです。しかし、主は堕落して死に値する人間を決して見捨てられませんでした。人間を罪と過ち、失敗をそのままにおかれなかった主は、三位一体の一位格である御子なる神に肉体を与え、人としてこの世に遣わされました。 真の神である御子なる神は、一人の女の人の体を通して生まれ、神の人間を完全に仲介できる存在(仲保者)となられました。彼には真の神としての神性と真の人間としての人性があり(神でありながら人間でもあったため)、堕落した他の人間の身代わりとなることができる資格を持っておられました。この御子なる神、すなわちイエス・キリストが、ご自分の血によって、失敗した罪人の身代金を代わりに払い、ご自身の死をもって罪人たちの失敗を挽回させるために、この世に来られたわけです。そして、イエス・キリストは、人の罪を代わりに担って主なる神の裁きを受け、十字架で死に、最終的に復活されました。これによって、罪人の罪は、主イエスの贖いのもとで完全に解決されたのです。これが、先ほど申し上げた失敗した者をそのままにおかれず、生かし、良い道へと導いてくださるための主なる神の御業です。主イエスを信じる者、そのもとにとどまる者は、このイエスによって罪赦され、失敗した者という汚名から解放され、主にあって再び始めることができるという贈り物を受けます。これこそが、キリストによって私たちに与えられた救いであり、恵みなのです。 締め括り 私たちは生きていきながら、失敗を経験します。人生が揺らぐほどの大きな失敗もあり、日常の小さな失敗もあります。失敗に遭うと、挫折したり、絶望したり、落胆したりします。しかし、イエス・キリストのもとにある私たちは、すでに最も大きな失敗である罪から解放された存在です。私たちは、イエス・キリストの救いによって、永遠に死ぬべき罪人という最も大きな失敗から解放され、キリストと共に正しい道へと進んでいる存在です。ですから、失敗に遭ったとき、挫折し、絶望し、落胆しながらも、根本的な失敗を解決してくださったイエス・キリストの恵みを覚え、今でも主が私たちと共におられることを思い起こしたいです。むしろ、今の失敗は、人生の養分として、私たちの血と肉となるでしょう。ローマ人への手紙はこう語ります。「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」(ローマ書8:29) 私たちの失敗でさえ、主にあって益となり、私たちに戻ってくるでしょう。キリスト者にとって、失敗はただの失敗ではありません。それは、主によって必ず恵みとなってくるでしょう。

命の水が湧き出る

ゼカリヤ書14章6~9節(旧1494頁) ヨハネによる福音書4章3~14節(新169頁) 戦後、堀田(ほった)綾子は思いも寄らない結核にかかり、十数年の長い闘病生活をすることになりました。長い間の病気による虚無主義で、生の理由を失った彼女は死ぬのを願っていました。そんな時、同じ病気を患っていた幼なじみの前川という男の人は献身的に彼女に仕えました。彼はキリスト者でした。堀田は彼の仕えにより、異性との恋を超える真の愛に気づきました。将来、堀田はこのように彼を振り返りました。「わたしはその時、彼の愛が全身を刺しつらぬくのを感じた。そしてその愛が、単なる男と女の恋ではないのを感じた。私はかつて知らなかった光を見たような気がした。彼の背後にある不思議な光は何だろうと思った。」堀田は前川の信仰と生涯を憶え、病床で文章を書きました。困難な人にキリストによる希望と愛を伝えようと誓いました。それが偉大な小説家三浦綾子の始まりでした。 1.疎外者を探しておられる主 戦争直後の日本は、まるで疲弊な病人のような状態でした。この時期、結核にかかっていた三浦綾子も、戦争のため、疲弊となった戦後日本のように、病を経験していたのです。ところが、日本のキリスト教は、こんなにつらい時代、爆発的に成長しました。慰めと癒しがほしい時代に、アメリカから宣教師たちが来日し、また日本の教会によって、多くの人々がキリスト教の信仰を受け入れたのです。三浦綾子もそんな時代に、一人のキリスト者の献身によってキリストに出会い、偉大な小説家となったわけです。そのためか、三浦綾子の病気と戦後の日本が重なって見えてきます。虚しさと悲しみにさらされていた三浦綾子は友人の前川からの愛により、イエスに出会い、主イエスは弱まった彼女に光を照らしてくださいました。戦後の痛みと虚しさに陥った日本でも、福音によって多くの人々がイエスを信じるようになったのです。主イエスの御心は最も低いところにあります。主はそのような御心をもって三浦綾子を訪れ、彼女に信仰をくださったのです。戦争という悲劇の後、日本に多い信仰者が生まれたのも、そのような主の愛と無関係ではないでしょう。今日の本文、ヨハネによる福音書には、疲弊して苦しんでいる女の人が登場します。 彼女は当時のユダヤ人に不浄に扱われていたサマリア出身で、5人の夫とつぎつぎ離婚し、今では夫でない人と暮らしていました。サマリアは北イスラエルが滅ぼされた時代、アッシリヤ人の政策によって異邦人と混血した地域でした。異邦人を極端に嫌っていたユダヤ人から、サマリアは正統性も純粋性もない不浄な所にされていました。その中でも五回の離婚、結婚関係ではない人と同居している彼女は、どれだけ批判されていたでしょうか。ところが、ダビデの子孫、真のユダヤ人イエス・キリストは、わざわざ彼女の所を訪れてくださいました。主イエスが不浄なサマリアに行かれ、その中でも嫌われる女に手を差し伸べたというのは、常識を破るあり得ないことでした。「そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。」(ヨハネ4:6)近東の正午ごろは40度を上回る暑さで、誰も外に出かけない時です。そんな時、近所から疎外された女は他人の目を避け、その暑い時、密かに水がめを持って出てきたのです。水を汲むために出てきた彼女は井戸のそばにかけておられるイエスと出会いました。主イエスは誰も訪れない、その女に出会い、清めてくださり、御言葉をくださるために来られた神の子でした。 2.不浄な者を探しておられるイエス。 今日の旧約本文は偶像崇拝のゆえに裁かれたイスラエルの民が主からいただいた言葉です。「その日、エルサレムから命の水が湧き出で半分は東の海へ、半分は西の海へ向かい夏も冬も流れ続ける。主は地上をすべて治める王となられる。その日には、主は唯一の主となられ、その御名は唯一の御名となる。」(ゼカリヤ14:8-9)主に裁かれたイスラエルですが、主が裁きを免れる道と恵みとを与えてくださるという祝福と約束です。主は、ご自分の民の不浄を決して許されない方ですが、しかし、罪を謙虚に悔い改め、主に立ち帰れば、必ず赦してくださる方です。そして、彼らにまた命の水とをくださる方です。今日の新約本文で主はユダヤ人に蔑視されたサマリア人、その中でも、さらに軽蔑された井戸の女を訪れてくださいました。王宮でも、神殿でもない不浄な地に来られたのです。そして、彼女に「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で父を礼拝する時が来る。まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。」と希望の言葉を通して、その女を礼拝者として招かれました。 主は不浄な者を断られる方ではありません。自分の罪を認め、悔い改める者、主なる神に希望をおく者に、喜んで新しい機会を与え、再出発するように助けてくださる方です。すべての人に嫌われたサマリアの女は、不浄な出身という人種的な差別、不浄な女という社会的な差別、自分自身を批判する罪悪感に苦しんでいましたが、だからこそ、主イエスはさらに彼女を訪れられたわけです。エルサレムからガリラヤに行く時、通常ユダヤ人たちは地中海側の道、或いは東側のヨルダン川に沿って北に上がっていきました。つまり、わざわざサマリアを避けて行ったということです。しかし、主イエスはわざわざサマリアを通られました。なぜでしょうか。まさにこの女に出会うためでした。主はわざわざ最も疎外された所、最も不浄な所を探し訪れる方です。不浄を清める主の力を通して、どうしようもない罪人を赦され、彼らが疎外から脱出し、主を礼拝することが出来るよう新たに生まれ変わらさせてくださるためです。主イエスは不浄を清め、新にしてくださる命の水そのものでした。 3.主なる神と和解させてくださるイエス 神が主イエスを遣わされた理由は、主イエスにより、人の中から湧き出る命の水を通して、神から遠ざかった存在が霊的な渇きを癒し、罪を洗い、イエス・キリストを通して御父の御前に立つことが出来るよう、道をくださり、力をくださるためです。主イエスを通して、人を招かれる理由は、その人が主なる神に礼拝できるようにしてくださるためです。礼拝という言葉はπροσκυνέω(プロスクィネオ)というギリシャ語の翻訳です。プロスは「 – に向かって」で、クィネオは「口付ける」という意味です。併せて「誰かに口付ける、誰かにひれ伏す」という意味になります。ところで、面白いのは、クィネオの語源である「クィオン」の意味です。クィオンは犬という意味ですが、クィネオという言葉は主人の手を舐める犬の姿に由来したそうです。 この原文の意味から思ったのですが、主イエスが来られ、命の水をもって私たちを清めてくださった理由は、主なる神の手に口付けることが出来る清い存在として、私たちを生まれ変わらせてくださるためではないかとのことでした。もし、野良犬が手をなめたとしたらいかがでしょうか。噛まれるかもと心配するでしょう。しかし、愛犬が手をなめるとどうですか。頭を撫でて可愛がるでしょう。イエス・キリストを信じるということ、命の水である主によって清められたということは、いつ主なる神に近づいても拒まれない存在となるということではないしょうか。私たちが礼拝できるというのは、この主なる神との関係に壁がなくなるということです。主イエスは、疎外される者、不浄な者を召され、新たにされ、御父と和解させてくださる命の主です。私たちがどんな人生を生きてきたにせよ、主は私たちと一緒におられ、私たちを清めてくださり、ご自分を通して父なる神に堂々と礼拝することが出来るようにしてくださいます。 締め括り 今日も主イエスは疎外された者、不浄な者、罪人を探しておられます。そして、キリストの中にある命の水を惜しげもなく注いでくださる方です。主の命の水を通して霊的な渇きが癒され、主の命の水を通して霊的な清めが成し遂げられます。そのような新たになることにより、罪人は天の御父の御前に堂々と進むことが出来ます。今日の新約の本文で、サマリアの女を助けてくださったイエス・キリストは、今でも私たちと一緒におられます。疎外を感じる時、罪悪感の時、一人ぼっちとなったような時、私たちと喜んで一緒におられる主イエスを憶え、主の慰めと愛に寄り掛かり、主と共に歩む志免教会であることを祈り願います。

ほかの福音はない

ラテヤの信徒への手紙1章6~10節(新342頁) 前置き 現代は「多様性の時代」です。時代の移り変わりにつれて、かつて絶対的だったものの影響力は薄くなり、新しく多様なものが次々と生まれています。私たちが生きる日本社会にも、かつては日本人だけが共有する絶対的な価値観や感情があったはずです。しかし、現代のグローバル化は、そうした日本特有の価値観や感情とはまた異なる思想や文化をこの社会にもたらしました。その結果、社会には多様性が生まれたのです。新しく生まれた様々な価値観が昔の伝統的な価値観と衝突しながら、世の中は変わっていきます。もちろん、昔の伝統的な価値観が全て正しいとは言えません。多様性によって、悪い仕来りは消え去り、新しくて良い価値観が生まれるべきです。差別がなくなり、他者の存在が認められ、その中でこの世は平和になるべきです。しかし、一方で、決して変わってはならない伝統的な価値観もあります。多様性を認めながらも、必ず守るべきものは守らなければなりません。私はここで、日本だけでなく、世界において決して変わってはならない、最も伝統的で唯一の価値観について話したいと思います。それは、キリストの福音です。 1. 福音に対する一つの見解 「キリストの恵みへ招いてくださった方から、あなたがたがこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、わたしはあきれ果てています。」(ガラテヤ1:6)皆さんは、すでに福音についてある程度、神学的に理解しておられると思います。「キリストによる救い、永遠の命、罪の赦し」など、長年、教会に通いながら福音について知識を蓄えてきました。ところで、今日の本文6節も福音への知識を加えてくれます。「キリストの恵みへ招いてくださった方」私は福音にこの一つも加えたいです。「キリストの恵みによって私たちを招かれた主なる神と共に歩むこと」つまり、キリストを通じた神のお呼び出しによって神と共に歩むようになったこと、それこそ「良い知らせ」である福音の中身であり、救いではないでしょうか。人間の最も根本的な罪は何でしょうか。人をいじめること、人の物を盗むこと、人を傷つけること、これらのことでしょうか。もちろん、それらも罪なのですが、最も根本的な罪は「真の主である神を知らないこと、知ろうともしないこと、その方から離れること」と言えます。上に並べたいくつかの罪は「神を知らない人の霊的状態」から生まれる罪の結果だからです。すなわち、根本的な罪は神を離れ、神無しに、自分自身が人生の主となることです。 初めての人間アダムの堕落は、神がいなくても構わないという発想から始まりました。善悪を知る樹の実を食べて神のようになれという誘惑に負けてしまったからです。それは「神なしで自ら何かをする」という望ましくない意志から始まったのです。この世は「自発的に、自己主導的に人生を開拓していく」ことを強要しています。神の存在を否定する世なので、自らが主人として生きることを勧めるのです。そのため、主なる神を知らない人たちは「自分の努力で救いを得る」という誘惑に陥りやすいです。「多くの善行、莫大な寄付、情熱的な宗教行為、周期的な奉仕、深遠な悟り」などなど、キリスト以外のものを通して救いを得ようとするのです。そして、自分自身が救いの主体となり、一生自分中心的に救いを探してさまようのです。しかし、聖書ははっきり述べています。「キリストの恵みへ招いてくださった方」、人間の行為や努力ではなく、キリストの救いと神の御導きによってのみ、一方的で圧倒的に救いを得ることが出来るということを。これはガラテヤ書を書いたパウロの思想でもありました。「救いは人間の内から生まれない。ひとえに、人間の外からのキリストの恵みによってのみ与えられる。」福音は「キリストの恵みによって私たちを招かれた主なる神と共に歩むこと」です。 そこに真の救いがあります。それ以外はほかの福音は偽りとなってしまいます。 2.ガラテヤでおこったこと 「キリストの恵みへ招いてくださった方から、あなたがたがこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、わたしはあきれ果てています。」(ガラテヤ1:6) さて、今日の本文の舞台となるガラテヤ地方の教会で、何が起こっていたのでしょうか。パウロが伝えた「キリストの恵みによる福音」つまり、私たちの行いではなく、キリストへの信仰のみによって救いを得るという教えが、否定されていたのです。当時、イスラエル地方や小アジア(現在のトルコ)を巡回しながら律法を教える教師たちがいました。彼らはユダヤ出身でユダヤ教の影響、つまり「律法の行いを守ることによって義とされる」という教えを強く受けた人々でした。彼らはガラテヤ地方の教会に来て、こう教えたのです。「イエスを信じるだけでは不十分だ。律法の行いも守らないと、真の救いは得られない。」パウロが伝えた福音は、あまりにも明快でした。「神が与えてくださった唯一の救い主イエスを信じる信仰によってのみ、救いを得る」これこそが、真の福音です。しかし、当時の哲学や神学の影響を受け、複雑で深遠な教えを求めていた巡回教師たちは「キリストを信じるだけで救われる」という明快すぎる教えに満足できませんでした。そこで、彼らは「別の教え」を付け加えようとしたのです。その結果が、「イエスを信じるだけでは不十分だ。律法の行いも守らなければ救いは得られない」という教えになったのです。これはキリストの一方的で圧倒的な救いの御業を否定し、人間の努力や行いが必要だという考え方でした。それは、福音の核心そのものを否定する偽りでした。 「ほかの福音といっても、もう一つ別の福音があるわけではなく、ある人々があなたがたを惑わし、キリストの福音を覆そうとしているにすぎないのです。しかし、たとえわたしたち自身であれ、天使であれ、わたしたちがあなたがたに告げ知らせたものに反する福音を告げ知らせようとするならば、呪われるがよい。わたしたちが前にも言っておいたように、今また、わたしは繰り返して言います。あなたがたが受けたものに反する福音を告げ知らせる者がいれば、呪われるがよい。」(ガラテヤ1:7∼9)パウロは、このガラテヤの教会に送った手紙を通して「神がくださった、たったお一人の救い主イエスを信じることによってのみ救われる」という真の福音、これ以外のいかなるものも偽りの教えであると、繰り返し「呪い」という厳しい表現をあげて、断固として警告しました。キリストのみによる救いを否定するいかなる教えも(それが、どんなに美辞麗句であり、もっともらしく聞こえる教えであっても)明確な偽りであり、正しくないものであると警告したのです。例えば、日本においても、キリスト教系の異端があります。九州地方では「原始福音・キリストの幕屋」がよく知られています。彼らは旧約聖書の「幕屋」の構造や祭儀を、人間の「魂」と「救いのプロセス」にたとえて、キリスト教の根源に立ち返るべきと主張し、自分らの福音を「原始福音」と呼んでいます。しかしながら、彼らの教えは、この「幕屋」に偏りすぎてしまい、イエス・キリストの十字架と復活による救いというキリスト教の最も核心となる教えから逸れているのです。それが問題です。 3.福音には多様性がない その外にも、韓国からの統一教会や新天地なども、主イエスの福音を歪めて悪質な教えを伝え、人々を惑わしています。先ほど、現代は多様性の時代だと申し上げました。数々の外国人が来日して暮らしており、様々な外からの文化が入っています。伝統的な価値観と新しく多様な価値観が衝突し、新しい価値観が生まれる時代です。しかし、そんな時代にあっても、私たちは昔から受け継いできた守るべき伝統を、必ず守っていきなければなりません。特にキリスト者にとっては、変わらない福音「キリストの恵みによって私たちを招かれた主なる神と共に歩むこと」を、この多様性の時代にあっても、必ず堅く守って生きるべきです。キリスト以外のいかなる存在にも救いの権限を許されなかった主なる神の御心を憶え、他の存在、行い、熱心、献金、活動などによるのではなく、ひとえにキリスト・イエスへの信仰と、その方のお赦しによってのみ、私たちの救いが成し遂げられるということを忘れてはなりません。少なくとも、福音には多様性がないということを心に刻み、信仰生活を続けていきたいと思います。時々、異端の人々が、家に訪問して、声をかけることがあります。そんな時、戸惑ったり、冷たく対応したりするのではなく「私はおひとりイエス・キリストによってのみ救われることを確信する日本のキリスト教会の教会員として神さまと共に歩んでいます。」と、私たちの信仰をはっきり示してはいかがでしょうか。今日、パウロが自分の福音への思いをはっきり語ったように、私たちも偽りを恐れず、真の福音を大胆に伝える勇気をもっていきたいと思います。 締め括り 最近、日本と韓国の社会で大きく物議を醸した統一教会の教祖、韓鶴子(ハン・ハクチャ)さんが韓国で逮捕されました。理由は政治と宗教の癒着による不正のためです。 2022年7月にも統一教会問題によって安倍晋三元首相が銃撃で亡くなる事件がありました。韓鶴子さんは裁判を受けながら、自分が「平和の母」だと主張しました。そして、神の一人娘だとも主張しました。世界中の数十数百万の人々が統一教会の偽りの教えにだまされ、金銭と時間と健康を無駄遣いにしてしまいました。私たちは絶対に、そのような偽りにだまされてはなりません。私たちに許された唯一の救い主、唯一の頭は、主なる神から遣わされたイエス·キリストおひとりだけであり、日本キリスト教会志免教会はひたすらその方だけを私たちの頭として信じているのです。その他に福音はありません。福音は唯一です。「キリストの恵みによって私たちを招かれた主なる神と共に歩むこと」「神が与えてくださった、たったお一人の救い主イエスを信じることによってのみ救われる」という変わらない福音を堅くつかみ、正しい信仰生活を営んでいく志免教会の兄弟姉妹でありますよう祈り願います。

私たちのいるべき場所

出エジプト記 2章11~25節(旧95頁) ローマの信徒への手紙14章8~9節(新294頁) 前置き イスラエルの先祖であるヤコブとその一族は、主なる神の御導きにより、ひどい飢饉を避けてエジプトに移住しました。ヤコブの子孫はエジプトで栄え続け、数十万人の民族に成長しました。しかし、ヤコブの時代の友好的なエジプトの王朝が滅び、他の王朝が復権して、ヤコブの子孫イスラエルに大きな試練が迫ってきました。しかし、それはイスラエルを滅ぼすための試練ではなく、それによって目を覚まし、主と先祖の約束の地、イスラエル民族のいるべき場所であるカナンに導かれる主なる神のご計画でした。主の民にはいるべき場所があります。いくら満足し、安らかなところにいるといっても、主のみ旨に適わない場所なら、そこはキリスト者のいるべき場所ではありません。主の民のいるべき場所ではなく、主と関係のない自分の罪の本性が願う場所にいる時、主は試練と苦難を装った御導きによって、ご自分の民の目を覚まさせ、主が備えてくださる場所に立ち戻る準備をさせてくださいます。出エジプト記は「主の民のいるべき場所」についての物語なのです。 1. 主の御業は人間の手によっては成し遂げられない エジプト王のイスラエル民族への弾圧を避け、ナイル川に捨てられた赤ちゃんモーセはファラオの王女に拾われ、エジプトの王宮に入りました。幸いにも、モーセは主の恵みによって実母を乳母に育つことが出来、「ヘブライ人」のアイデンティティを失わずにエジプト人として成人するようになりました。王女の息子モーセは当時の高級学問を学んでエリートとなり、エジプト社会で無視できない存在となりました。モーセはヘブライ人とエジプト人の境界にいる存在でした。おそらく、そんな位置だったモーセは、自分がヘブライ人を政治的に救う人物だと思い込んでいたかもしれません。彼だけがエジプトでの権力とヘブライ人への理解が両立する人だったからです。「モーセが成人したころのこと、彼は同胞のところへ出て行き、彼らが重労働に服しているのを見た。そして一人のエジプト人が、同胞であるヘブライ人の一人を打っているのを見た。モーセは辺りを見回し、だれもいないのを確かめると、そのエジプト人を打ち殺して死体を砂に埋めた。」(出2:11-12) しかし、そんなモーセの情熱が問題となってしまいました。ヘブライ人を助けるために、エジプト人を殺してしまったからです。彼はエジプト人の遺体を沙に隠し、なかったことにしようとしました。 「翌日、また出て行くと、今度はヘブライ人どうしが二人でけんかをしていた。モーセが、どうして自分の仲間を殴るのかと悪い方をたしなめると、誰がお前を我々の監督や裁判官にしたのか。お前はあのエジプト人を殺したように、このわたしを殺すつもりかと言い返したので、モーセは恐れ、さてはあの事が知れたのかと思った」(出2:13-14)モーセが再びヘブライ人のところに行き、争いを仲裁しようとした時、一人がモーセに言い返しました。「誰がお前を我々の監督や裁判官にしたのか。お前はあのエジプト人を殺したように、このわたしを殺すつもりか」誰も知らないと思っていたのに、多くの人がモーセの殺害を知っていたわけです。ヘブライ人ではあるが、後ろ盾の王女によって、エジプト社会の一員となったモーセ。しかし、エジプト人殺害によって彼に敵対していたエジプトの何人かの権力者たちは、彼を攻めようとしたでしょう。だけでなく、ヘブライ人も彼を認めませんでした。そこでモーセは持ちこたえられず、エジプトから逃げてしまいました。モーセは自分の背景と権力を用いてヘブライ人の指導者になり、イスラエルを解放させようとしていたのかもしれません。彼には力と知識があったからです。しかし、彼の自信は、むしろ自分の計画を潰す障害となってしまいました。意気揚々だった彼は、一晩にエジプト人にも、ヘブライ人にも、認められない逃亡者になってしまったのです。 以上を通じて、私たちは主なる神の御業の成就について学ぶことが出来ます。主の御業は人間の情熱や力によって成し遂げられるものではありません。私の大学生の頃、韓国の教会では「高地論」という言葉が流行しました。文字通りに「キリスト者が社会の高い位置を占め、社会を変革する」という思想でした。ところが、二十数年たった今、韓国の教会はその社会でそんなに評判ではありません。一部のことですが、元大統領の不正にかかわった疑惑もあります。恥ずかしい現実です。また、日本の教会にも、高地論のような思想があるかもしれません。数年前、金子道仁という牧師が参議院議員に当選しました。他教派ではかなり人気だったと覚えています。彼を支持するキリスト者の中には、彼が高い位置に上がって日本社会に大きい影響を及ぼすだろうと、日本の教会の希望であるかのようなニュアンスで支持する人もいました。私個人も金子さんがとても立派な方だとは思いますが、彼によって日本社会が変革したとは言えません。世界を変えるというのは、特別な一人に託されるものではありません。唯一主なる神だけがご自分の御手を通して、御心によって成し遂げられる事柄です。教会は、そのために主の手と足として用いられるだけで十分です。もし教会が神の御心と関係なく自分で世を変えようとしたら、今日の本文のモーセのように困難な目にあってしまうかもしれません。 2. 主の御業は御心に基づいてのみ成し遂げられる。 だからといって「教会は何もしなくて良いから」という意味ではありません。先の金子道仁さんのような政治家は参議院議員という自分の場所で、また、志免教会のみんなは、めいめい日常の場所で、主に命じられた神と隣人への愛、そして福音伝道に努めていけば良いと思います。そのような日常の中で、主はご自分の御心に基づき、教会を用いられて世界を変えていかれるでしょう。私たちに出来るのは、主の御言葉に聞き従いつつ、日常を生きることだからです。「ファラオはこの事を聞き、モーセを殺そうと尋ね求めたが、モーセはファラオの手を逃れてミディアン地方にたどりつき、とある井戸の傍らに腰を下ろした。」(出2:23-25) エジプトから脱出したモーセは、ファラオの脅威を避け、ミディアン地方へ逃走しました。ミディアンは現在のアラビア半島の北西部を意味しますが、牧畜をしながら、流浪する、アブラハム系の一族の名でもありました。ミディアン地域は砂漠であるため、羊の餌が足りず、頻繁に移動しなければなりません。つまり、モーセは大帝国での落ち着いた生活から離れ、決まった場所なく、移動し続けなければならない不安定なミディアンでの生活へと、その居場所が変わったのでした。 「モーセがこの人のもとにとどまる決意をしたので、彼は自分の娘ツィポラをモーセと結婚させた。彼女は男の子を産み、モーセは彼をゲルショムと名付けた。彼がわたしは異国にいる寄留者(ゲール)だと言ったからである。」(出2:21-22)ミディアンの祭司の配慮で落ち着くようになったモーセは、以後「ツィポラ」という名の妻をめとり、息子「ゲルショム」をもうけました。そうして、モーセはエジプトのエリートからミディアンの平凡な羊飼いへと、その位置が変わったのです。もはやモーセには昔の権力も地位もありませんでした。しかし、皮肉なことに彼がこんなに普通の人になった時、主なる神は彼に現れ、イスラエルの指導者に立ててくださいます。先ほど前置きでお話ししましたように、キリスト者には自分のいるべき場所があります。モーセはエジプトの王子のように育ちましたが、そこは彼の居場所ではありませんでした。モーセは自分の権力と知識でヘブライ人を導こうとしましたが、そこも彼の居場所ではなかったのです。彼の居場所は剣を持った政治的な指導者ではなく、杖を持ったごく平凡な羊飼い、このミディアンでの生活でした。しかし、彼がそうなった時はじめて、主なる神は彼を訪れて来られたのです。 「それから長い年月がたち、エジプト王は死んだ。その間イスラエルの人々は労働のゆえにうめき、叫んだ。労働のゆえに助けを求める彼らの叫び声は神に届いた。神はその嘆きを聞き、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。神はイスラエルの人々を顧み、御心に留められた。」(出2:23-25) そして、昔モーセがやろうとしたイスラエルの指導者の業を、主は改めて彼にお委ねになりました。40歳ごろ、モーセが情熱と血気で目指したイスラエルの解放は、実は神の御業ではありませんでした。それはモーセ自身の業だったのです。しかし、モーセがミディアンの羊飼いとなり、何の力もなくなった時、主なる神はイスラエルの先祖たちとの契約を思い起こされ、80歳の羊飼いモーセを召され、主の御業に招いてくださったのです。つまり、主の御業は主の時に、主のご意志によって成し遂げられるということです。また、主の御業は、人の意志や情熱ではなく、ご計画と約束によって、私たちに与えられるものです。重要なのは「私たち自身の情熱」ではなく「主なる神の御心」ということです。教会のあり方は徹底して主の御心に自分の歩みを合わせることです。そして、その主なる神がご自分の手を差し伸べられる時、教会は喜んで御手の道具として用いられるべきです。 締め括り 「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。」(ローマ書14:8) 前置きで「キリスト者には自分のいるべき場所がある」と申し上げました。モーセは王宮での王子のような生活ではなく、荒野の羊飼いのような生活の中で、主なる神に出会い、真のイスラエルの指導者と召されました。人の目にはみすぼらしいミディアンの荒野が、主の御目にはイスラエルの指導者がいるべき最適な場所だったのです。私たちも時には、今こそ我が教会が動く時、あるいは何とかやらなければならないと気を揉む時があるかもしれません。しかし、そのたびに私たちは思い起こさなければなりません。今現在、自分がいるべき場所はどこか。自分のやるべきことは何か。「自分のために生きるのではなく、主のために生き、死ぬ人生」を憶え、私たちのいるべき場所を憶える一週間を過ごしてまいりましょう。

主の御名

出エジプト記3章13~15節(旧97頁) ヨハネによる福音書8章58~59節(新184頁) 前置き 1。「わたしはある」という言葉の意味。 「モーセは神に尋ねた。わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、彼らは『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか。」(13) 出エジプト記で、エジプトの奴隷だったイスラエル民族を解放のために、主はモーセを召されました。その時、モーセは神にお聞きしました。「主が私を遣わされたと言ったら、同胞たちが私の言うことを信じてくれるでしょうか? 彼らがあなたについて聞いたら、私はあなたのことをどう言えば良いんですか?」東洋文化圏において、名前はとても大事な意味を持ちます。時代劇を観ると決闘の前に「何々家の誰、何々流の誰」と名乗る場面がよく出てきます。旧約聖書でも、ある存在の名前は大きな意味を持つ場合が多いです。「欺く者」という意味のヤコブが、主と出会った後「神を畏れる者(神に勝つという意味もある)」と名前が変わった物語が代表的です。このように聖書での名前は、ある一人の存在意味を明らかにする大事なものです。つまり、モーセが神の御名をお聞きしたのも、ただの身元確認ではなく、神の存在意味を確かめたいとの理由にあるでしょう。「イスラエルの解放を私に命じられるあなたは一体どなたですか?」という意味でしょう。 「神はモーセに、わたしはある。わたしはあるという者だと言われ、また、イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方が、わたしをあなたたちに遣わされたのだと。」(14節)モーセの問いに主は「わたしはあるという者だ」と答えられました。主のこのお答は不思議で、文法的にも正しくありません。「私は誰である」と答えるのが一般的ですが、主はただ「わたしはある」と答えられたからです。これはヘブライ語「エヘイェ・アシェル・エヘイェ」、ギリシャ語「エゴ・エイミー」の翻訳ですが、直訳で「わたしはわたしだ」に近います。いずれも意味が分かりにくいので、自然に意訳すれば「私は自ら存在する者である。」になると思います。万物には根源があります。人間には親がおり、先祖がいます。この会堂の材料もある山の岩、ある森の木、ある鉱山の金属に由来します。世の中のすべてのものは、自ら存在することが出来ません。しかし、自ら存在する神、「わたしはあるという者だ。」と言われた主なる神は、この世のすべての先におられ、すべてに存在理由を与えられた絶対者なのです。「わたしはある」という名前には「自ら存在する者」主なる神の絶対者としての権威と意味が隠れています。 モーセに現れられた主なる神は、自ら存在する方です。主はすべての存在の根源であり、すべての力と栄光の源です。この神がモーセを召され、遣わされたわけです。そして、主はモーセを用いてイスラエルを解放されました。大帝国エジプトでさえ、自ら存在する方のご意志に逆らうことが出来なかったのです。主が永遠にご自分の民と共におられ、その先祖アブラハムとイサクとヤコブと結ばれた約束どおりに、ご自分の業を成就してくださいました。ですから、主なる神はご自分の約束どおりに、永遠に主の民と共におられるでしょう (わたしは「我が民と共に」ある) 。そして、その約束はイマヌエル(神が私たちと共におられる。)という名の新約聖書のイエス・キリストのもとで成就するでしょう。 したがって、私たちは記憶しなければなりません。 私たちの主は「自ら存在する方、ご自分の御心のままに成し遂げられる方、ご自分の民と永遠に共におられる方」です。私たちはひとりぼっちではありません。「わたしはある」という方が私たちと共におられるからです。 2.イエス・キリストの「わたしはある」 現代を生きる私たちは、古代のヘブライ語やギリシャ語が理解できません。私たちはただ日本語だけで聖書を読んでいます。しかし、原文を理解して読むことができれば、さらに大きい恵みを得るようになるしょう。今日の新約の本文を読んでみましょう。「イエスは言われた。はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から『わたしはある』すると、ユダヤ人たちは、石を取り上げ、イエスに投げつけようとした。」(ヨハネ福音8:58-59) ヨハネ福音8章はイエスに反対するファリサイ派の人々と主イエスの論争の場面です。主イエスは、神が自分たちの父であると言っている、主に反対するユダヤ人たちに「本当に神を父だと思うなら、私に反対しないでむしろ愛するだろう」と言われました。そして「イエスに反対するユダヤ人の先祖であるアブラハムは、主の日を見るのを楽しみにしており、それを見て、喜んだのである」と言われました。するとユダヤ人たちは50歳にもならないイエスがどうやってアブラハムを見たのか問い返します。その時、主イエスは「アブラハムが生まれる前から『わたしはある。』」と答えられました。するとユダヤ人たちは石を取り上げ、イエスを殺そうとしました。 ユダヤ人たちは「アブラハムが生まれる前から『わたしはある。』」という言葉に、なぜ憤ってしまったのでしょうか。 単純に先祖アブラハムを冒涜したからでしょうか。実は日本語では見えない表現のため、ユダヤ人は憤ってしまったわけです。新約本文58節を見ると「わたしはある」という言葉があります。この表現はギリシャ語の「エゴ・エイミー」なのです。先ほど「わたしはある」のヘブライ語は「エヘイェ・アシェル・エヘイェ」であり、これをギリシャ語に訳すると「エゴ•エイミー」になるとお話ししました。「アブラハムが生まれる前から『わたしはある。』」すなわち、今日の旧約本文で主なる神がモーセに言われた「わたしはある」という言葉を主イエスも言われたわけです。「アブラハムが生まれる前から『わたしはある。』」という表現は「アブラハムが生まれる前から、私は自ら存在する者だ」という意味にもなるのです。イエスご自身がまさに父なる神と同一本質で、同等の存在であることを示す表現です。イエスがご自身がすなわち神であるということを宣言される言葉なのです。おそらく当時のユダヤ人なら、イエスの「わたしはある」という言葉に、非常に大きな衝撃を受けたに違いありません。イエスはこの本文でご自分のアイデンティティをはっきり示されたのです。まさに今日の旧約本文でモーセに「わたしはある」とおっしゃった神としてイエスはご自身の存在について明らかに言われたのです。 私たちが主と崇める主イエス・キリストは神です。主イエスは、三位一体の神の一位格、御子なる神です。主イエスは「自ら存在する方」です。イエスの栄光は、父なる神よりけっして劣っていません。同一の本質、同等の全能さを持っておられる方です。今日の旧約本文で「わたしはある」つまり「自ら存在する者」である主は、イスラエルの解放を約束されます。そして主はモーセを通して、実際にその解放を成し遂げられます。私たちの「わたしはある」と言われた方、「自ら存在する者」であるイエス•キリストは、父なる神から与えられた力と栄光で私たちを死と呪いから解放してくださいました。 私たちは教会の頭である主イエスが「自ら存在する者」であることを信じ、主なる神がイスラエルをエジプトから救い出され、乳と蜜の流れる土地に導いてくださったように、イエス•キリストも私たちを罪から救い出され、神の祝福のもとに導いてくださることに希望を置いて生きてまいりましょう。主の御名「わたしはある」すなわち、主はイエス•キリストを通して、今日も私たちと共に「おられます。」これが私たちと共におられるイマヌエル(神が私たちと共にいらっしゃる。)の証しではないでしょうか。 締め括り 主なる神には、数多くの名前があります。その中、聖書で最初に出てくる名前は、今日の「わたしはある」です。 主は私たちがひとりぼっちである時も、我が家族の中にも、我が職場、私たちの社会的な関係の中にも共におられる方です。主は世の中のすべてを満たしておられる全知全能の方です。私たちを一度選ばれた主は絶対に私たちを見捨てられず、いつも「わたしはある」という存在として、私たちの人生の道に共におられるでしょう。この主なる神がモーセを通してイスラエルを救われたのです。そして、この主なる神がイエス・キリストの民である私たち、キリストの教会を通して、主の御心を成し遂げていかれるでしょう。「わたしはある」という名の神、自ら存在する方、私たちと一緒におられるインマヌエルの主、キリストを通して、私たちと共におられる絶対者。主の恵みを憶え、感謝しつつ、この一週間を生きてまいりましょう。

心の畑

エレミヤ31章33節(旧1239頁) ルカによる福音書8章1~15節(新118頁) 前置き 今日は、主イエスが語られたとても有名な比喩の一つである「種を蒔く人のたとえ」を通して、ルカによる福音書の御言葉を分かち合いたいと思います。この物語を通じて、今を生きるキリスト者である私たちに主からの大事な教訓が与えられますよう祈ります。 1. 主と一緒に福音を伝える 「すぐその後、イエスは神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けられた。十二人も一緒だった。悪霊を追い出して病気をいやしていただいた何人かの婦人たち、すなわち、七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア、ヘロデの家令クザの妻ヨハナ、それにスサンナ、そのほか多くの婦人たちも一緒であった。彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた。」(ルカによる福音書 8:1-3) 主イエスは「種を蒔く人のたとえ」を語られた時、十二名の弟子たち、そして、多くの婦人たちと一緒に福音伝道をしておられました。福音とは「幸福な音」つまり「良い知らせ」を意味します。イエス・キリストが宣べ伝えられた良い知らせとは、この世界を創造されたおひとりの主なる神が人間を見捨てられず、イエス・キリストによって真の救いを与えてくださるという救いの知らせです。旧約聖書、創世記によると、人間は罪(原罪)によって造り主なる神の敵となったと言われます。しかし、新約聖書と旧約聖書には、その神が罪を犯した人間をそのまま見捨てられず、和解して再び神の子に迎え入れることを願っておられると記してあります。つまり、福音とは、神と人間の破れた関係を修復し、造り主である神と被造物である人間の真の和解を宣言する良い知らせのことなのです。その結果、人間は真の造り主である主なる神のことに気づき、その方と和解し、永遠に一緒に歩む恵みをいただけるようになりました。 キリスト教会では、この「良い知らせ」つまり、福音を伝える行為を「伝道」と言います。残念なことに、世の人々において、この伝道というのは単なる布教活動、あるいは宗教を強要することと誤解される場合が多いです。聖書が語る伝道は、そんなものではありません。今日の本文を見ると、主イエスは弟子たちや何人かの婦人たちと一緒におられました。特に主と一緒に伝道した婦人たちがとても印象的です。彼女たちは、主イエスによって、悪霊から解放されたり、心の平和を得たり、助けを受けたりしたゆえに、信仰ができ、主イエスと主の弟子たちに仕えるようになった人々でした。彼女たちは主イエスと一緒に歩み、その方の生き方と御言葉を通じて真理を学び、主なる神と和解する人生をいただいたのです。そして、自分たちの経験と悟りを証とし、人々に仕えることによって福音を伝えました。それこそが真の伝道でした。ですから、真の良い知らせ、すなわち福音伝道とは、主なる神が私たちと共に歩んでくださることを信じ、その恵みの証人となることです。自分の人生を通して主の御言葉と恵みを経験し、それを自然に隣人に伝えることです。人々を教会に強引に連れてくること、カルト宗教のように改宗を狙って布教することが目的ではなく、主なる神が自分と一緒におられることそのものに感謝し、一緒にいてくださる主の恵みが隣人にも開かれていることを生活を通して伝えることです。伝道とは、まさに自分の証しを自分の人生を通して隣人に伝えることです。 2. 私たちの心の畑は? しかし、この真の伝道を行うためには、私たちの心の畑の状態が何よりも大事です。「大勢の群衆が集まり、方々の町から人々がそばに来たので、イエスはたとえを用いてお話しになった。 種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、人に踏みつけられ、空の鳥が食べてしまった。ほかの種は石地に落ち、芽は出たが、水気がないので枯れてしまった。ほかの種は茨の中に落ち、茨も一緒に伸びて、押しかぶさってしまった。また、ほかの種は良い土地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ。」(ルカによる福音書 8:4-8)主なる神は救い主イエスを通して、この世に福音の種を蒔き始められました。そして、主イエスの体なる共同体である教会を通して、今でも福音の種を蒔いておられます。今日の主イエスのたとえは、まさにこの福音の種である主の御言葉が、人の心の中でどのような形で働くのかについてヒントを与えてくれます。①道端:御言葉を聞いても心に留めない心。御言葉が私たちの中に入り込む隙のない、頑なな状態。②石地:御言葉を喜んで受け入れるが、根がないため、試練が来るとすぐに折れてしまう心。御言葉への情熱があるようだが、信仰の根が浅い状態。③茨の中: 御言葉を聞くが、この世の思い煩いや富や快楽に覆いふさがれ実を結べない心。御言葉と欲望が入り混じり、信仰が育たない状態。④良い土地: 御言葉を聞き、それを守り、忍耐して実を結ぶ心。御言葉が心深く根を下ろし、30倍、60倍、100倍の実を結ぶ心。 主なる神は、昨日も今日も明日も変わることなく、主の御言葉を伝えておられる方です。聖書に記してある御言葉を通じて、牧師の説教を通じて、現代ではYouTubeや様々なメディアを通じて、イエス・キリストの良い知らせ、福音を伝えておられます。このようにして、主は福音の種を蒔いておられるのです。そして、その福音の種は過去2000年の間、移り変わりなく、今に至っています。(キリスト教と名乗るカルトや異端の教えは論外) ですから、変わるのは福音の言葉ではなく、その御言葉を聞く人の心なのです。つまり、私たちの心なのです。今、私たちの心は4つの畑のうち、どの畑でしょうか?道端のように、御言葉を聞いても無関心ではないでしょうか?石地のように、御言葉は聞くけれど、信仰の根が浅いため、すぐに倒れてしまうのではないでしょうか?茨の中のように、この世の思い煩いや富、あるいは快楽のため、信仰が育たない状態ではないでしょうか?それとも、主なる神の御言葉を聞いて感謝し、辛い時も、嬉しい時も、主への信仰と感謝とをもって忍耐し、信仰が育つように努める心を持っているでしょうか?私たちは、伝道活動による教会員の数を増やす前に、「私は主の御言葉に聞き従い、毎日成長する信仰生活を過ごしているだろうか?」と、まず顧みるべきではないでしょうか。 3. 良い心の畑を持つ人 今日の新約聖書の冒頭には、良い心の畑を持つ人々が出てきています。彼らは、弟子たちの次に記されている「マリア、ヨハナ、スサンナ、そのほか多くの女たち」です。福音書の後半、主イエスが逮捕され、苦しみを受けられた時、弟子たちは主を裏切ってみんな逃げてしまいましたが、その婦人たちは最後まで主について行き、悲しみました。そして、お墓の主イエスの遺体を守り、主が復活された時、最初に復活されたイエスと会ったのも、弟子たちではなく婦人たちでした。今日の本文によると、この婦人たちは自分の持ち物を出し合って、主イエスと主の人々に仕えたとあります。ここで重要なのは、「自分の持ち物を出し合った」ではなく、「一行に奉仕した」ということです。この婦人たちが聖書に記されている理由は、献金をたくさんしたり、教会に多くのものを提供したりしたからではなく、主への信仰のため、心から教会と人々に仕えたからでした。家父長的な思想が現代に比べてはるかに強かった古代イスラエルの記録に、この女性たちが記されているということは、それだけ、初期の教会の人々が彼女たちの信仰を大切にしていた証拠なのです。そして、彼女たちのそのような素晴らしい信仰は、まさに主なる神が蒔かれた御言葉の種が、彼女たちの良い心の畑に蒔かれ、すくすくと育ち、実を結んだからではないでしょうか? 礼拝に毎週出席し、祈祷会に欠席せず、聖書をたくさん読み、教会の行事に積極的に参加し、大金の献金をすること、もちろん、それらも信仰を表す基準の一つであるかもしれません。しかし、それ以上重要なのは、今日の新約聖書に記された婦人たちのように、人目につかない場所で、主と隣人を愛し、御言葉に聞き従い、その御言葉通りに生きながら仕えることにあるのです。どうせ、私たちの信仰を判断するのは、牧師や教会員ではなく、すべてを見守っておられる主なる神だからです。私たちは果たして、良い心の畑を持って過ごしているでしょうか?私たちもこの婦人たちのように、純粋で心からの気持ちで主と教会、そして私たちの隣人に仕える信仰を持っているでしょうか?そのような信仰を持った私たちであることを祈ります。今日の本文を読んで顧みると自分の信仰が弱く感じられるかもしれませんが、それでも挫折しないようにしましょう。なぜなら、今日の旧約聖書の本文で、主がこのように約束してくださったからです。「しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。 」(エレミヤ書 31:33) 主なる神は、今日も私たちと一緒におられ、その御言葉が主の民の心の中で働くように助けておられます。信仰を諦めない限り、主は私たちの中で黙々と私たちを助けてくださるでしょう。そのことを忘れない私たちでありたいと願います。 締め括り 長年の信仰生活をし、聖書の御言葉や説教に多く触れてきた人々は、それに慣れすぎて信仰と御言葉に無感覚になりがちです。そうして私たちは、知らず知らずのうちに道端や石地や茨の中のような心を持つようになりやすいと思います。だからこそ、私たちは毎日目を覚まし、良い心の畑を待つために、主の御言葉を心に留めて生きるために力を入れるべきでしょう。志免教会につらなる私たちみんなが良い心の畑を持った者として生きることを祈り願います。

わたしがあなたと共にいる。

イザヤ書41章10節(旧1126頁) マタイによる福音書28章20節(新60頁) 前置き 歴史の中で人類は、偉大な業績を成し遂げてきました。文明を築き、文字を造り、哲学を発展させ、科学を進歩させてきました。文明の発展に伴い、巨大な鉄の塊を海に浮かべ、空に飛ばして船と飛行機を発明し、今では宇宙にまで進出できる技術を持つようになりました。医学の発展は、人間の寿命を飛躍的に延ばしました。地球上のすべての生命体の中で、人間だけがこのような目覚ましい発展を成し遂げたゆえに、人間は本当に偉大な存在ではないかと思います。しかし、同時に人間はあまりにも悲惨な存在でもあります。文明や科学が発展しても、依然として未来への不安を拭い去ることができず、寿命は延びましたが、依然として憎み合い、対立しあい、傷つけ合います。富んだ者は富んだ者としての不安の中で生き、貧しい者は貧しい者としての不安の中で生きています。そして結局、両者とも死をもって終わりを迎えます。人間は偉大な存在ですが、その終わりが必ず訪れるため、結局は滅びるしかない悲惨な存在なのです。これが、偉大であるにもかかわらず完全ではあり得ない人間の限界です。このような人間の限界をご存知である主なる神は、聖書全体の御言葉を通して「人間よ、あなたたちは不完全である。しかし、私は完全である。完全な私が、あなたたちを助け、永遠に共に歩んでいく」と絶えず語りかけておられます。今日の本文の言葉も、人間と永遠に共に歩むことを望んでおられる主なる神の御言葉であります。 1. 共にいることを望んでおられる主 「恐れることはない、わたしはあなたと共にいる神。たじろぐな、わたしはあなたの神。勢いを与えてあなたを助け、わたしの救いの右の手であなたを支える。」(イザヤ書41:10) イザヤ書には、主なる神の民でありながらも、主を侮り、異教の神々を拝み、偶像礼拝によって主を裏切ってしまったイスラエルの民への裁きの宣言が書いてあります。そして、その後のイスラエルへの赦しと回復を預言する御言葉も記してあります。(1-39章にはイスラエルの罪と裁き、40-66章にはイスラエルの救いと回復の御言葉が記されています。) それを通して、主はご自分の民の罪は裁かれますが、主の民そのものは愛しておられることが分かります。主は人間を愛しておられます。主の創造は、ご自身の形(創世記1:27)に似せて造られた人間と共にいるための偉大な始まりでした。しかし、主の権威を認めようとしない人間の罪の性質によって、人間は堕落し、主から遠ざかってしまいました。イスラエルの民が主を裏切り、偶像を崇拝するようになった理由も、主から遠ざかろうとする人間の罪の性質から生じたものでした。歴史が始まって以来、人間は常に自分自身が歴史の主導者になろうとしてきました。原始部族では最も強い者が支配者となり、強い部族は弱い部族を占領し、そうして生まれた国々が互いに戦争を繰り返し、その中で最も強い国によって帝国が生まれました。そして、その帝国でさえも互いに征服しようと対立したのです。 歴史の中で名を馳せた人物や帝国は、人(皇帝)を中心にして自らを高め、主なる神を排除する偶像礼拝の道を歩んできました。結局、罪の本性を持った人間は、主なる神を主として認めず、人間自らが主と神になろうとする偶像礼拝を本能的に行って生きる存在なのです。私たちの中にもそのような性質が残っており、時には主の御前で罪を犯すことがあります。それでも、神はこのように罪を犯す人間を遠く捨てて放っておかれず、赦し、近くにいてくださることを、そして共にいてくださることを望んでおられるお方です。旧約聖書のイスラエルの民が主の御言葉に聞き従わず、自ら異教の偶像を拝み、主から遠ざかった時も、彼らに裁きを下されましたが、滅ぼすことまではなさらず、再び立ち上がれるように導いてくださいました。今日の旧約聖書の本文は、まさにその主の御心を聖書の読み手に隠すことなく示しています。このイザヤ書の御言葉は、ただ昔のイスラエルの民に与えられただけの御言葉ではありません。たとえ数千年前に記されたものであっても、今も生きており、今日を生きる主の民である私たちにも、主の御心がどのようなものであるかを教えてくれるのです。主は私たちを愛しておられるお方です。主なる神は私たちへの愛のゆえに、ご自身の独り子までも十字架のいけにえとされ、私たちを赦してくださったお方です。主なる神が共にいてくださるということは、すなわち主なる神の愛の象徴なのです。 2. 私たちは決してひとりぼっちではない 「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイによる福音書28:20)今日の新約聖書の本文にも、主の民と世の終わりまで、共にいてくださるというイエス・キリストの約束が記されています。旧約聖書全体を貫く「主なる神が人間と共にいるのを望んでおられる」という主の約束が、唯一の救い主であるイエス・キリストの贖いによって完全に成就されました。主なる神は、この世のすべての人類が救われ、共にいることを望んでおられますが(Ⅰテモテ2:4)、旧約時代には、おもにイスラエルの民と主を信じるようになった異邦人に限られた約束でした。なぜならば、旧約時代には、人間のすべての罪を贖い、彼らの代表となる仲介者、つまり、仲保者がいなかったからです。ということで、すべての民族に主なる神の民となる道が開かれていませんでした。主の御心は、すべての人類が主なる神の赦しを受け、主と共に歩むことでしたが、仲保者がいなかったため、人間は自力では、主を知ることも、主に近づくこともできなかったのです。しかし、仲保者であるイエス・キリストの登場は、民族、文化、国家、人種といったすべての壁を打ち砕き、誰もが主なる神の救いの御言葉を聞き、信じることができる霊的な革命となったのです。 「これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。」(Ⅱコリント5:18)このように、イエス・キリストの存在は、主なる神と人間の間の壁を打ち砕き、和解し、共にいるための鍵となります。したがって、イエス・キリストが私たちと共にいてくださるなら、それはすなわち主なる神と私たちが共にいることと同じだと言っても過言ではないでしょう。そして、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」という主イエスの約束により、主イエスを通して神は私たちと常に共におられるようになったのです。キリストを通して主なる神を信じるようになった私たちは、決してひとりぼっちではありません。旧約のイザヤ書でも、新約のマタイによる福音書でも、主なる神は私たちと共にいると約束してくださいました。何よりも、人類を赦し、和解させるために遣わされた救い主イエスの存在によって、その約束は永遠に保証される、移り変わりのない契約となったのです。ですから、私たちが孤独を感じる時も、神などいないと感じられる時も、苦難の時も、喜びの時も、いかなる喜怒哀楽の瞬間にも、主なる神は私たちと常に共にいてくださり、私たちの人生の中で永遠に生きておられるのです。主が共にいてくださることを信じ、孤独と苦しみに負けず、主なる神への信仰をもって生きていることを願います。主なる神は今日も、キリストを通して私たちと共にいてくださり、私たちを助けてくださることを望んでおられるからです。その信仰の中で、主は働いてくださいます。 締め括り 前置きでお話ししたように、人間は偉大な存在でありながら不完全な存在です。しかし、完全であられるキリストが私たちと共にいてくださるなら、私たちは真の意味として、主にあって偉大な存在となることができます。それは、私たち自身を自ら高める偶像礼拝のような偉大さの追求ではなく、キリストが共にいてくださるゆえに、主なる神が認めてくださる神による真の偉大さであります。本日の礼拝は、敬愛する某姉妹が志免教会で守られる最後の公式な礼拝となります。この姉妹は、ここ数十年間、志免教会の一員として心から主に仕えてこられました。しかし、肉体の弱さのため、これ以上教会に出席することが難しくなりました。それでも、主なる神を信じ、志免教会と共に歩んでこられた彼女の人生は、キリストのみもとで、主なる神の恵みによって偉大な歩みでした。彼女はいつも謙遜に仕え、無牧時代にも教会を愛し、支えてくださいました。たとえ教会に来て礼拝をささげることが難しくなっても、主なる神はこれからも姉妹と常に共にいてくださり、彼女の道を導いてくださるでしょう。今日のこの説教は、この姉妹にささげる慰めのメッセージとなることを願い、作成しました。主なる神が彼女と志免教会の皆さんと、永遠に共にいてくださることを信じます。世の中のすべての人々が私を捨て去っても、主だけは私と常に共におられ、導いてくださることを信じ、これからも歩んでいく志免教会でありますよう祈り願います。

イエスだけが一緒におられた。

マラキ書3章22-23節(旧1501頁) マルコによる福音書9章2-13節(新78頁) 前置き マルコによる福音書8章、主イエスは「あなたがたは私を何者だと言うのか。」と弟子たちに尋ねられました。世の人々は主を「洗礼者ヨハネ、エリヤ、預言者の一人」と言っていましたが、主は弟子たちの認識を確かめるために質問されたのです。その時、ペトロが答えました。「あなたはメシアです。」彼の答えは正解でした。弟子たちの認識を確かめられた主は、メシアであるご自身が苦難を受けて死ぬことになると予告されました。するとペトロが激しくいさめ、主はそんなペトロに「サタン、引き下がれ。」と厳しく叱られました。なぜ、主の死を止めようとしたペトロは叱られたのでしょうか。信仰告白は宗教的な知識だけの告白ではありません。知識としてのペトロの告白は正しかったですが、信仰としてのペトロの告白は不完全でした。主の御心ではなく、自分の思いを押し立てたからです。真の信仰告白は知識だけで完成するものではありません。知ることと信じることがひとつになり、知識に実践が伴う時、信仰告白は本当の信仰告白として働くようになるのです。 1.高い山の上で変容された主。 「六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。」(マルコ9:2)それから6日後、主イエスはペトロ、ヤコブ、ヨハネを連れて、ある高い山に登られました。時々、聖書では「山」が神の栄光の現れる所として使われます。今日の本文に登場するモーセとエリヤは、それぞれ自分の時代に神の山である「ホレブ」で主と出会い、また、イスラエルの偉大な王であるダビデは、主なる神にエルサレムのシオン山をいただきました。そして、主イエスは洗礼後の試練の時、悪魔によって非常に高い山に連れられ、誘惑を受けられました。このように聖書においての山は「主なる神のご臨在の所、聖なる所、超自然的な所」としてよく解釈されます。(注意:聖書に出てくるすべての山に、そのような意味があるわけではない)「イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。」(9:2-3)ただし、今日の本文に出てくる高い山が、正確にどこにある山なのかは知られていません。 主イエスは山の上に登られた時、この世にはあり得ない輝かしい姿に変容されました。主の服が真っ白に輝くようになったのはイエスの神聖さが表れたという象徴的な意味です。今ではこの世で肉体を持った人間としておられますが、もともと主は本質的に神であり、聖なる方、罪のない方、正しい方であることを示しているのです。また、主は山の上で旧約の代表的な人物であるモーセとエリヤと会われましたが、彼らは旧約の始まりと終わりを意味する偉大な預言者として、旧約マラキ書の最後に記してある人々でした。「わが僕モーセの教えを思い起こせ。私は彼に、全イスラエルのため、ホレブで掟と定めを命じておいた。見よ、私は大いなる恐るべき主の日が来る前に預言者エリヤをあなたたちに遣わす。」(マラキ3:22-23) すなわち、イエス•キリストは神のご臨在の場所で、神聖さを表され、旧約時代の代表的な預言者2人に会われ、ご自分が真の神であり、真の主であることを示してくださったのです。すぐ前の箇所で、自分の思いのためにイエスをいさめたペトロは、このような主の姿を見てどう思うようになったでしょうか?主イエスは、自分ではどうすることもできない超越的で偉大な方であることに気づいたのでしょうか。 2.モーセとエリヤと会われた主 「ペトロが口をはさんでイエスに言った。先生、私たちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」(マルコ9:5)しかし、ペトロはそう簡単に変わりませんでした。数日前に、メシアの苦難と死という主の御心を自分の思いに合わせようとした彼が、今日は神聖さを見せた主イエスとモーセとエリヤの姿を見てうっとりして、ずっと山の上にいるのを願ったからです。ペトロは、実は恐れていたはずです。言葉が出てこないほど驚いていたでしょう。にもかかわらず、そんな中でも彼は数日前と同じく、自分の思いに良いことを選ぼうとしていました。もしかしたら真っ白に輝く厳めしいイエスが、自分が望んできた強力なメシアの姿だったのかもしれません。その時、ペトロと弟子たちは雲に覆われ、神の声を聞くことになりました。「これは私の愛する子。これに聞け。」(マルコ9:7)マタイによる福音書には、弟子たちがその声を聞いて、ひれ伏して恐れたと記してあります。第二ペトロ1章17-18節にも、この話が記してあります。自己中心的に信仰を誤解し、自分の思いのままにしようとしたペトロは、おそらくこの状況を経験しつつ、神がご自分でイエスの道を導いておられることに、だからこそ、主は人間の手によって左右されない方であることに、改めて気づいたでしょう。 信仰の主導権は私たちにはありません。私たちの信仰の主は、私たちではなく主なる神だからです。今日の本文に、モーセとエリヤの旧約の二人の人物が登場します。「柴の間に燃え上がっている炎の中に主の御使いが現れた。彼が見ると、見よ、柴は火に燃えているのに、柴は燃え尽きない。」(出3:2)エジプトの王女の息子に育ったイスラエル人モーセは、ある出来事によって40歳ごろにエジプトから逃げ出し、80歳までミディアンの羊飼いとして生きました。彼はもはや若者ではありませんでした。40代の頃、血気盛んで権力もあった時には、主なる神は彼をお呼びになりませんでした。しかし、彼が80歳の羊飼いで、弱まった時、主なる神は彼をお呼びになったのです。羊を飼っていた彼が神の山(ホレブ)に偶然登った時、主は燃え上がる柴の炎の中で彼を召されました。その時、主ははじめてモーセにエジプトに行って「我が民を救え」と命じられました。主は燃え上がる柴を通して強くても弱いように、弱いようでも強く、ご自身を示してくださいました。主は人間の認識ではとうてい理解できない方でした。神は熱くて強烈な炎の様子と、弱くて燃え尽きてしまう柴の様子を通して、猛烈ながらも焼き尽くさず、弱いながらも滅びない、逆説を示し、人間の常識を超える神という存在の神秘を見せてくださったのです。 また、数百年後、同じ山(ホレブ)で預言者エリヤも主と出会いました。「主は、そこを出て、山の中で主の前に立ちなさいと言われた。見よ、そのとき主が通り過ぎて行かれた。主の御前には非常に激しい風が起こり、山を裂き、岩を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風の後に地震が起こった。しかし、地震の中にも主はおられなかった。地震の後に火が起こった。しかし、火の中にも主はおられなかった。火の後に、静かにささやく声が聞こえた。」(列王記上19:11-12)当時、邪悪な王アハブと王妃イゼベルに対抗抵抗していたエリヤは、命の脅威のため、神の山に逃げました。エリヤが主の御前に自分の困難を吐き出した時、主は彼に、激しい風、恐ろしい地震、猛烈な火を見せてくださいました。しかし、主はそれらの中にはおられませんでした。むしろ、主はその後の静かにささやく声の中におられたのです。その後、主はエリヤを導き、ご自分の御手によって邪悪な王と王妃を裁かれました。モーセとエリヤは、主の強力な姿を望んでいたかもしれません。しかし、主は二人の考えとは全く異なる姿でご自分を示してくださいました。主はモーセとエリヤの思いではなく、ご自分の思いのままに働かれたのです。主はご自分の民の信仰を主権的に導かれる方です。私たちの信仰の主は私たち自身ではなく、主なる神であります。 3。ただ主だけが一緒におられた。 「弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた。一同が山を下りるとき、イエスは、人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけないと弟子たちに命じられた。彼らはこの言葉を心に留めて、死者の中から復活するとはどういうことかと論じ合った。」(マルコ8-10)神の御声を聞き、恐れてひれ伏した弟子たちが立ち上がった時、雲も神の声も、モーセも、エリヤも消え、ただ主イエスだけが彼らと一緒におられました。厳めしい神の声、輝かしいイエスの姿、偉いモーセとエリヤ。弟子たちはその素晴らしさの中にずっと過ごすことを望んでいたのかもしれません。しかし、神は弟子たちに己の思いではなく、主イエスの御言葉に従順に聞き従うことを命じられました。そして一瞬、そのすべてが消え、イエスだけが弟子たちと一緒におられるようになったのです。山を下りるとき、主は再びご自分が死に、復活することを教えてくださいました。しかし、もうこれ以上ペトロは主をいさめずにただ聞きながらついていくだけでした。彼の心の中に主の死と復活がどんな意味なのか、自分の思いとは全く異なる主の御心にかすかにでも気づいていたからでしょう。 締め括り 主なる神は、誰よりも強力な方で、ご自分の御心のままに、この世界を支配することがお出来になる存在です。しかし、主はこの世とは全く違う方法で、世界を治められます。当初、弟子たちは現実的な権力と名誉のメシアとしてイエスを理解し、そのイエスの右腕として自分の立場を理解していたかもしれません。しかし、主は権力ではなく、目立ったないが確かなご計画によって、御業を成し遂げていかれました。たまに主の御心が自分の思いと全く異なるのに気づき、がっかりする時もあるかもしれません。しかし、主はご自分の御心、ご計画によって今でも働いておられます。そして、主は今日も移り変わりなく私たちと共に歩んでくださいます。何よりも主は、世のすべてがなくなっても最後まで私たちと一緒にいてくださいます。主イエスだけが私たちと一緒におられるのです。それを信じて、主の一緒に歩んでいく私たちであることを祈り願います。

わたしたちを助けてください

使徒言行録16章9~10節 (新245 頁) 前置き まず、説教の前に申し訳なく思います。説教題と内容が本文を除いて、そんなに関係なくなってしまったと思います。説教を書きながら、内容が変わってしまいました。皆さんのご理解をお願いします。本日の聖書の本文は、主なる神が小アジア、つまり現在のトルコ北部の地域で福音を伝えようと奮闘していたパウロに幻を見せ、マケドニアへ渡って伝道するよう促される場面です。ユダヤ人でありながら、現在のトルコ東南部で生まれ育ったパウロには、その地での伝道に情熱がありました。宣教学的にも、彼の考えは極めて妥当なものでした。にもかかわらず、主は彼が抱いていた小アジア(トルコ北部)伝道の熱意を拒否され、マケドニア(ヨーロッパ東部)地域での伝道を促されました。パウロは自分の思いとは違う、理解しがたい主のご命令にもかかわらず、自分の計画への固執をやめ、さっそく主の御言葉に従い、マケドニアへ旅立ちました。それによって、ついに公式的なヨーロッパでの伝道が始まることになったのです。そしてその結果、遠い将来、キリスト教がローマ帝国の国教となり、ヨーロッパ世界の精神的な基盤として爆発的に成長するという成果につながりました。今日は、使徒言行録16章9節と10節の聖書の箇所を通して、伝道と宣教について、そして、キリスト者のあり方について考えてみたいと思います。 1. 主が見せてくださる幻 「その夜、パウロは幻を見た。その中で一人のマケドニア人が立って、マケドニア州に渡って来て、わたしたちを助けてくださいと言ってパウロに願った。」(使徒言行録16:9)使徒言行録16章で、元々パウロが望んでいた伝道の地域はビティニア州(7節、現在のトルコ北部)でした。パウロは16章以前まで、おもに現在のトルコ南部地域の様々な場所を旅しながら伝道しましたが、北部のビティニア州に行ったことは、まだ、なかったからです。しかし、パウロの考えとは異なり、主は彼がビティニア州ではなく、海を渡ってマケドニア州、つまり現在のギリシャ地域へ行くことを望まれました。前置きでも、お話ししたように、トルコ出身者としてトルコ北部地域で伝道しようとするパウロの計画は間違っていませんでした。それでも、主は彼にビティニア州での伝道をやめ、マケドニア州へ行くことを力強く命じられたのです。主はこれを実現させるために、パウロに特別な幻を見せてくださいました。誰だか分からないマケドニア人がパウロに「マケドニア州へ来て助けてくれ」と願う幻でした。聖書で幻を意味する言葉にはいくつかのものがありますが、今日の聖書の箇所で使われている幻は、「ホラマ」というギリシャ語の言葉です。「ホラマ」は、動詞「ホラオ」の名詞形であり、「ホラオ」は「心で深く悟りながら見る」という意味です。「目で何かを見る」という以上の、「何が正しいかを悟りながら見る」という意味なのです。 「パウロがこの幻を見たとき、わたしたちはすぐにマケドニアへ向けて出発することにした。マケドニア人に福音を告げ知らせるために、神がわたしたちを召されているのだと、確信するに至ったからである。」(使徒言行録16:10)幻を通じて、主の御心に気づいたパウロは、ためらわずに自分の計画を撤回し、マケドニアへ渡ることを決心します。パウロは、主の幻の前で、長年抱いてきた自分の計画を完全に諦めたわけです。パウロは主からの幻(ホラマ)を見て悟り(ホラオ)、自分の情熱と計画を押さえ、主の御心に従うために思い切って計画を変更したのです。私たちはここで、主が見せてくださる幻の重要な意味について、学ぶことができます。主の幻は、ただ単に超自然的な現象が目に見えてくることだけを意味しません。聖書に記されている物語は、聖書が書かれる以前にあった出来事の記録です。その時代には、現代のように誰もが気軽に聖書を読むことができませんでした。主がパウロに幻を見せてくださった理由は、単純に神秘的で超自然的な現象を見せるためではなく、その中に込められた主の御心、つまり、生ける神の御言葉を悟らせて従わせるためでした。そういう意味として、主からの幻は神の御言葉と言い換えることもできるでしょう。聖書を読む時、「幻を見る」という表現が出てきたら、いつでもまず「主の御心(神の御言葉)を悟る」と理解していただきたいと思います。 2. 伝道と宣教の意味について 本日の聖書の本文以降、パウロは、ただちにこれまでの計画を変更し、マケドニア地域へ渡るために力を尽くしました。主の御言葉に従ってその地へ渡ったパウロは、多くの人々と出会い、新しい伝道活動を続けていきます。しかし、数多くの苦難と迫害もまた彼を待っていました。普通の人なら、「わざわざ主に言われた通りにしたのに、こんなに苦しくなるなんて」と愚痴をこぼすような出来事も多々あったかもしれません。しかし、主なる神の御心だけを望み、黙々と歩んだパウロは、様々な地域で伝道し、教会を打ち立て、多くの魂をキリストへと導き、成功的に伝道活動を続けていきました。主なる神の計画と導きの中で、従順に聞き従いつつ活動したパウロの苦労によって、マケドニア州にキリストの福音が広がっていくことになったのです。このようなパウロの従順と苦労の中で、彼がマケドニア地域に蒔いた福音の種は、しっかりと根を下ろしました。その結果、数百年がたった西暦4世紀末、キリスト教はローマ帝国の国教となり、キリストの福音は地中海世界の精神的な基盤にまで成長していきました。そして当然のように、パウロが元々伝道しようとしていたトルコ北部地域のビティニア州にまでも福音が伝えられていったことでしょう。実際に、福音はトルコをはるかに越えて極東の日本にまで届きました。主なる神の御心に従い、自分の計画を諦めたパウロ。彼の決断が、数百年後にさらに大きな実を結び、元々計画していた以上にキリストの教会を成長させる力となったことを、パウロは天国で確認し、喜んでいるに違いありません。 私たちは、伝道と宣教という言葉をよく口にします。しかし「知らない人にイエスと福音を伝えるのが伝道と宣教」という漠然とした固定観念のため、伝道と宣教を心の重荷のように感じがちです。しかし、伝道と宣教が「主の御言葉に従い、自分の固定観念や計画を落ち着け、主のご計画に合わせて生きようとする生き方」から始まることだとすれば、もう少しでも伝道と宣教への負担が軽くなれるのではないでしょうか。もちろん、伝道と宣教は明らかに難しいことです。知らない人に福音を伝えるには大きな勇気が必要だからです。しかし、主の御心に従おうとする生き方、謙遜に自分の考えを主の御心に合わせようとする心をもってキリスト者にふさわしく生きるなら、いつか必ず主が伝道の機会を与えてくださると信じます。伝道と宣教のある人生のために、今私たちが従わなければならない主の御言葉は何でしょうか。伝道のある人生のために、今私たちが諦めなければならないものは何でしょうか。主なる神の御心への従順な生き方と、自分の固定観念や欲望を落ち着けること、その中で主なる神は、さらに多くの御業を私たちの人生において成し遂げてくださるでしょう。私たちの伝道と宣教の始まりは、主の御言葉への従順な生き方と、自分の固定観念や欲望を落ち着けることからだと、あえて申し上げたいと思います。 締め括り 今日は、韓国釜山のUN平和教会の兄弟姉妹に志免教会で一緒に礼拝を捧げるために来ていただきました。志免教会が属する日本の代表的な長老教会である日本キリスト教会と、UN平和教会が属する韓国の代表的な長老教会である大韓イエス教長老会(合同)は、両方ともアメリカ北長老教会の宣教師たちの伝道によって打ち立てられました。つまり、両教会は同じルーツを持つ兄弟のような教会です。また、大会レベルでも公式的に宣教協約を結んでいる姉妹教会でもあります。日本と韓国は、きわめてつらい過去を共有する最も近くありながら最も遠くある国だと言われる関係です。しかし、少なくとも、キリストの教会だけは、主イエスの救いと愛によって一つとなった最も近い関係であります。両国が歴史観や価値観の違いで、互いに誤解や対立をすることがあっても、両国の教会だけは主にあって一つとなり、慰めあい、赦しあい、共に歩みつつあることを願います。主からの幻を見たパウロが従順に聞き従いと自分の計画のさっそく諦めたように、キリストの御言葉への従順な従いと自分の固定観念や欲望を落ち着けることで、志免教会とUN平和教会が、主が与えてくださる幻(御言葉)のままに生きていくことを心から祈り願います。

信仰の戦い

エフェソの信徒への手紙6章10-20節(新359頁) 前置き エフェソの信徒への手紙のおもなテーマは「教会とは何か」です。「天地創造の前から神にあらかじめ定めされ、キリストによって救われ、その御旨に適って生きるキリストの体なる共同体」これが教会の意義です。したがって、教会は神の御心によってキリストの民となった、キリストと共に歩まなければならない存在です。この世の思想、生き方ではなく、キリストの御心と生き方に聞き従わなければならない存在です。この地にいるが天に属している存在、それがキリストの体なる共同体、教会のあり方なのです。今日の本文は、その教会を成すキリスト者の信仰生活においての「信仰の戦い」について語ります。今日の本文を通じて、教会の生き方について考えてみましょう。 1. 血肉の戦いではなく、霊の戦いを 「わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。」(エフェソ6:12) 戦いは控えるべきというのが常識です。聖書も隣人への愛、さらには敵への愛までも命じます。できるだけ、忍耐してどんな形でも戦わないのが望ましいです。しかし、聖書が勧める戦いがあります。それは霊の戦いです。今日の本文6章11節は、その戦いが血と肉の戦いではなく、悪の諸霊を相手にすることだと語ります。天にいる悪の諸霊、つまり悪魔を意味します。悪魔とは何でしょうか。昔のヘブライ人のある文献には、悪魔が堕落した天使であると記してあります。そして、彼らは主なる神に逆らう存在だと説明します。彼らは主なる神の座を奪い取るために、堕落して主を裏切り、悪魔になったとあります。このような悪魔の働きは創世記のアダムとエヴァを誘惑した蛇、ヨブ記のサタンのような存在から現れます。新約聖書にも悪魔についての記録があるほどです。実に悪魔はいると思います。しかし、私たちは悪魔が私たちの人生を操り、強制的に私たちを犯罪させる存在だと考えてはなりません。「悪魔の誘惑」という言葉があるように、確かに神に逆らう者、悪魔は人間を罪へと誘惑します。しかし、その罪を選ぶのは悪魔ではなく、人間そのものです。 古代のヘブライ人は、天使と悪魔が本当にいる霊的な存在ではあるが、それと共に人間も、神に従う者が即ち天使のような者であり、神に逆らう者が即ち悪魔のような者であると考えました。第3の存在である天使や悪魔だけでなく、人間そのものが、生き方によって天使にもなれ、悪魔にもなれるという思想だったのです。だから、霊の戦いとは、ある意味で、悪魔という霊的な存在との戦いだけでなく、悪と罪に誘惑され、神に逆らうようになり得る人間自分自身との戦いとも言えるでしょう。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハネ福音書16:33) 主イエスは「わたしは既に世に勝っている。(悪の権勢に勝利している)」と言われました。つまり、主と悪の戦いは、すでに終わり、結果は決まっています。主イエスが勝利され、この世はそのイエスの支配のもとにあるのです。したがって、主の民である私たちも、主によって、すでに勝利したのです。しかし、聖書は私たちにまだ残っている悪と罪の本性につまづかないよう、それと戦って勝つことを命じます。勝利者として、勝利者にふさわしい人生を勧めているのです。だから、霊の戦いは自分自身の罪との戦いです。誘惑と勝利の中で、私たちが取るべき生き方を選んで生き続けること、それが霊の戦い、信仰の戦いなのです。 2. 神の武具を身に着けなさい。 「悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。」(エフェソ書6:11,13) 今日の本文は、霊の戦いに勝利する人生のために「神の武具」を身に着けろと命じます。「真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい。なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。」(14-17)、神の武具は次の通りです。真理の帯、正義を胸当て、平和の福音の履物、信仰の盾、救いの兜、そして最も重要な(聖)霊の剣、すなわち神の御言葉なのです。このような武具は、古代ローマの兵隊の姿と似ています。①真理とは変わらない主の御心を意味します。ひとえに神だけが勝利者であり、真の主であるという変わらない事実のことです。ローマ軍兵の帯は腰を支えて強い力で武器を振るうようにする武具です。真理に立って主の御心に頼る時、強い信仰の力を発するようになります。 ②正義(義、正しさ)とは、キリストによる天地創造の摂理に忠実な模様です。つまり、神に属している欠けることのない完全さを意味します。人間はたとえ罪によって不完全であっても、主イエスの義によって完全な者と見なされ、神に認められるという意味です。胸当ては心臓を守る鎧のことです。私たちは生まれつき罪人ですが、キリストの義は私たちを正しい者と認めさせます。③平和とは、神と隣人との和解を意味します。平和の福音の履物は、キリストの福音によって、神と隣人を愛し、真の和解を成し遂げさせます。隣人を憎むということは、血肉の戦いを意味します。しかし、キリストの平和が私たちと共にある時、私たちは隣人を愛することで血肉の戦いを避け、霊の戦いだけに集中できるようになります。④また、大事な私たちの武具は信仰の盾です。盾は矢と刃物を防ぐ防具です。世は私たちに否定的で不信心の思想を絶えず伝えます。しかし、主への堅い信仰の盾があるなら、私たちは決して欺かれず、主の御心だけに従って生きるようになるでしょう。 ⑤救いの兜、兜は勝利を象徴します。ローマ時代、戦争に勝利した将軍は、月桂冠をかぶって行進しました。キリストの救いによって、私たちはすでに勝利した存在です。時々、人生の辛さや試練によって自分自身が負け犬のように感じられる時もありますが、主による私たちの勝利を忘れてはなりません。自分の状況を見る前に、主がどんなお方なのかを憶えましょう。主イエス•キリストはすでに勝利した方です。⑥最後、最も重要な武具は、私たちの武器、聖霊の剣です。今日の本文は、聖霊の剣が、神の言葉であると語ります。神の言葉は強いです。この世は教会を敗北者だと非難していますが、主の言葉は、教会が勝利者であると応援しています。この世は教会が失敗したと言いますが、主の言葉は教会が成功したと言います。自分の考え、世の考えに呑み込まれ迷っている時に、主の御言葉は、私たちの考えを新たにし、神の御心どおりに進むように導きます。したがって、神の御言葉は私たちの唯一の信仰の武器、聖霊の武器なのです。以上、6つの神の武具を通して、私たちはすでに勝利された、主に従ってこの世を生きていくのです。 3. 祈りによって生きる勝利の人生。 そして、本文は神の武具による信仰の人生に、祈りが伴うと語ります。祈りは神と私たちの会話です。ひざまずいて両手を合わせて敬虔にすることも祈りですが、私たちの人生のすべてにおいて、神に助けを求め、神の御心を待ち望み、主の御言葉通りに生きようとすることこそ祈りです。神とつながり、神の後をついていくことが、まさに祈りの人生なのです。このような人生を通してキリスト者は勝利を保ち、その共同体である教会も勝利することになるでしょう。「また、わたしが適切な言葉を用いて話し、福音の神秘を大胆に示すことができるように、わたしのためにも祈ってください。」(19) 神の武具によって信仰を守り、神の言葉の剣で罪と悪に勝ち、祈りによって神とつながり、祈りによって兄弟姉妹を助ける人生。それがエフェソ書が勧める教会の望ましい生き方ではないでしょうか? それがまさに勝利の人生ではないでしょうか? 締め括り キリスト者がこの世を生きることは、とてもたいへんな道のりの連続です。絶えない人生の試練がやってきます。けれども、自分の状況ではなく、主なる神がどのようなお方なのか憶えて生きましょう。自分は弱くても、神は変わることなく勝利者であることを憶えて、信仰の人生を生きてまいりましょう。そのような人生のために、今日の本文は神の武具と祈りの人生を話しているのです。私たちはすでにキリストによって勝利した者です。それが教会という共同体の意義なのです。したがって、最後までキリストの勝利を信じ、主に従って生きる私たちであることを祈ります。