安息日の神学
申命記5章12~15節(旧289頁) ルカによる福音書6章6~11節(新112頁) 前置き 現代イスラエルの安息日は金曜日の日暮れから土曜日の日暮れまでとなっています。安息日には国家機関だけでなく、スーパー、レストランなどの営利目的のお店までも休止します。その理由は旧約聖書の十戒に安息日を堅く守れとの戒めがあるからです。それと違って新約の教会は日曜日である主日に礼拝を守ります。そして、その原型は旧約の安息日にあります。イエス・キリストの復活によって、その意味はけっこう変わったのですが、主を記念する日という意味としては、安息日と主日の共通点は明らかです。今日は安息とは何か、そして、今の私たちにとって安息日と似ている主日とはどういう何かについて考えてみたいと思います。 1.古代中東においての安息の意味 旧約聖書には安息日についての記録が30ヶ所以上もあります。その中で最も有名な箇所は出エジプト記の十戒の第四戒「安息日を心に留め、これを聖別せよ。(出20:8) 」だと思います。律法は安息日にどんな形の労働もせず、休めと命じます。それを犯すものは人だろうが、家畜だろうが、必ず死ぬと厳しく警告しています。それでは、安息日、特に旧約時代の安息には、どんな意味があるのでしょうか?聖書のどこを読んでも、安息日を厳守しなければならない理由は、はっきり記されていません。ただ「主が聖別されたから」のように、手短に記されているだけです。しかし、明らかに大事な理由があるから、主なる神が十戒の一つとして命じられたでしょう。そこで、旧約聖書ではなく、その時代の他の資料から、安息の意味を探ってみて、聖書においての安息の意味も考えてみたいと思います。古代イスラエルの周辺にはいくつかの文明がありました。特にメソポタミア文明が有名でした。メソポタミア文明の神話にも、創世記のような人間創造の説話がありますが、エヌマエリシュ(その時、高い所に)という文献に記されていました。 それによると、安息は神々の中で、一番偉大な神だけが楽しめる誉でした。大昔、人間を創造した創造神と彼に敵対する混沌神がいました。ある日、混沌神は他の神々に敵対して、世界を滅ぼそうとしました。創造神は混沌神の計画を見抜き、彼と戦いました。壮絶な戦いのすえ、創造神は混沌神を倒し、勝利を勝ち取りました。そして、創造神は勝利者として、安息を楽しみました。メソポタミア神話の安息は人間のためではなく、創造神と下の神々のためのものでした。神だけのものなので、人間が安息を楽しむのはあり得いことでした。人間はひたすら神々のために苦労する奴隷だったのです。そもそも、メソポタミア神話の創造神が人間を造った理由は、自分と下の神々の安息のためにこき使うためでした。古代の中東世界においての人間の存在理由は神の道具に過ぎなかったのです。神々の顕現と呼ばれる王族や貴族でない限り、人間はただ使い捨てられる惨めな存在だったのです。十戒が記された時代の安息という概念は人間のものではありませんでした。そして、それは古代世界の共通的な安息についての認識だったのです。 2.旧約の安息。 現代を生きる私たちの認識にあって、人間が奴隷として造られたというのはとんでもない話でしょう。しかし、人間の命が今のように尊重されるのは、わずか数十年前からの話です。たった100年前までも、世界のあちこちに奴隷制があり、第二次世界大戦時も人間の命は軽視されていました。戦争を引き起こした帝国主義の根源には他民族を奴隷にしようとする暴力的なイデオロギーが潜んでいたからです。ましてや、数戦年も前の古代世界では言うまでもない話でしょう。人間の命が極めて軽く扱われたのが十戒が記された時代の現実だったのです。しかし、主なる神の創造においての人間の存在理由はメソポタミアの神話とは根本から違いました。メソポタミア神話が語る人間創造の理由は、神々の奴隷にするためでしたが、イスラエルの神が人間を造られた理由は、人間を神の子供とし、真の安息をくださるためでした。主なる神が創世記1章の混沌と闇を打ち破られ、乱れた初めの世界に秩序をくださった理由は、ご自分の被造物のためでした。神はその秩序の中で、混沌への勝利の安息を人間と被造物にお与えくださったのです。だから、詩編は歌います。「神に僅かに劣る者として人を造り、なお、栄光と威光を冠として、頂かせ。(詩編8:6)」 安息とは、混沌から秩序をもたらされた主なる神の賜物です。そして、神はこの賜物を被造物の頭である人間にくださったのです。とういう訳で、主なる神の安息を記念する安息日は神が主人公であり、また、主によって真の自由をいただいた人間が第二の主人公であるのです。「あなたは、かつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばして、あなたを導き出された事を思い起こさねばならない。そのために、あなたの神、主は安息日を守るよう命じられたのである.(申命記5:15) 」エジプトの奴隷として苦しんでいたイスラエルは何年以上も、何の安息もないまま、死と労苦の下苦しんできました。しかし、神はご自分の御業によって、エジプトを滅ぼされ、死の象徴である、紅海を分け、ご自分の民を渡らせ、広々とした素晴らしい土地、乳と蜜の流れる土地に導いてくださったのです。荒れ野の暑い昼は雲の柱で、寒い夜は炎の柱で守ってくださいました。そして、神の山で十戒を通して安息日を与えてくださったのです。エジプトの奴隷だったイスラエルが主の民として安息を楽しむようになったのです。休日である安息日はエジプトの奴隷であったイスラエルに自由人としての勝利の安息を与える日でした。 3.安息についての主イエスの教え。 今日の新約本文、ルカによる福音書6章にも、安息日の話が出てきます。神の律法を教える会堂で、ある手の萎えた人がイエスに癒される物語です。その時、律法を教える律法学者たちと律法に徹底して従うファリサイ派の人々が、訴える口実を見つけるために、イエスのお働きに注目していました。聖書において手や腕は力の象徴として使われる傾向があります。手の萎えた人は最小限の生活を支える力もない弱い者で、ユダヤ人の宗教指導者たちの中に囲まれています。ユダヤ人たちは、誰一人も彼に興味がないように見えます。彼らは、もっぱら主に反対するために、その働きに注目しているだけです。これが律法を取り扱うユダヤのエリートたちの安息日の状態でした。彼らには主の御心に適う憐れみなどありませんでした。主イエスは、そんな中で手の萎えた人を癒してくださったわけです。主は力のない人に力を、病んでいる人に癒しを与えてくださいました。今まで、話した内容をまとめてみると、今日のルカによる福音書の出来事の意味がはっきり分かるようになります。主イエスは安息日に病んでいる人を癒し、弱い者を助けてくださいました。主が安息日を犯すように見えるまで、彼らを助けてくださった理由は、律法と安息日の意味を誤解し、自由と秩序でなく、束縛と混沌の社会をもたらしていたユダヤ人の社会に、創造の秩序を通して自由と解放を与えてくださった主なる神の御心と、神がくださった安息日の真の意味を再び教えてくださるためでした。 安息日は被造物のために真の自由と解放をくださった主なる神を記念する日であり、主の創造の摂理を思い起こさせる日でした。ということで、イエスは安息日なのに病人を癒してくださったわけです。そして、その安息を完成してくださるために、十字架で死んでくださったのです。それにも関わらず、主なる神の御心に気づくことが出来なかったユダヤ人たちは、安息日の意味を知ろうともせず、最後まで愚かであったのです。いかに悲劇的なことでしょうか。自由と解放の安息日に彼らは規律というまた違う束縛に人々を追い込んでいるとは。安息日は、ただ宗教的な規律のための日ではありません。混沌を秩序に変える癒しの日なのです。そして、この秩序にあって、人間が人間らしく生きることが出来るようにする恵みの日なのです。こんにちのキリスト教会では、ユダヤ教の安息日は守っていません。主イエスによって律法は更新されたからです。しかし、その安息日の意味を受け継ぐ主日があります。主なる神は創造を通して、人間と被造物に安息と秩序をくださいました。それを思い起こさせるのが安息日でした。そして、主イエス・キリストの復活によって、その安息を完成されました。そのイエスを記念する日が、今、私たちが守る主日なのです。そういうわけで、安息日を受け継いだ主日はただの休日でなく、神からの解放と安息、愛と贖いを祝う恵みの日として、感謝し、礼拝すべきなのです。 締め括り 時々、年に1,2度くらい、主日に家族や親戚、友達との用があって礼拝を休ませてもらいたいと願われることがあります。牧師としては、できる限り、主日礼拝を守っていただきたいと思いますが、家族、親戚、友達との時間を礼拝のように大事にしてくださいと言いながら承諾します。今日の説教でお話ししました理由のためです。主なる神が自由と解放のためにくださった安息の日、キリストによって私たちにも与えられた聖なる日、自分のためではなく、愛する人々ために、隣の人々のために、その日を過していただいたらと思って行かせるのです。旧約聖書で安息日を犯す者が殺された理由は、主なる神が残酷な方だからではありません。その日を自分の悪い欲望のためにみだりに扱おうとしたからです。隣人を助けるために、家族を大事にするために、働くのは安息日の意味に当てはまる大事なことだと思います。そのような心を持って主日を過ごしたいと思います。そこに安息日の神学は生き生きとよみがえってくるのではないでしょうか。