混乱の時

ヨシュア記1章6〜8節 (旧340頁) ヨハネによる福音書14章26節〜27節 (新197頁) 前置き 私たちの人生が毎日幸せと喜びであれば最も良いでしょうが、事実、この世での人生には喜びよりは悲しみの方が多いかもしれません。人々の一般的な人生を考えてみると、物心つく頃は祖父母が亡くなります。結婚して子供が育ち、いよいよ大人になったなと思ったら親が亡くなります。その間に知人や友人が先に亡くなる場合もあり、不幸な場合は、まだ若い両親や配偶者、子供が先に亡くなることもあります。そして、最終的には自分も亡くなることになります。悲しみの基準を死にした理由は、人生の最も悲しい経験が身近な人の死だと思うからです。そして一生をかけて、その死の間に数多くの辛いことがクモの巣のように絡み合っているからです。大変で辛い出来事の間にほんの少しの喜び(結婚、出生、成功など)がありますが、もしかしたら、人生の多くの部分は悲しみと苦しみに占められているかもしれません。そんな私たち人間は必然的に混乱と苦しみを経験しながら生きていきます。 1. 混乱の中を生きる人生 「全世界の上位1%の金持ちの財産が、残りの99%より2倍多い」というタイトルの記事を読んだことがあります。「少なくとも17億人の労働者が物価が賃金を超える地域に住んでおり、全世界の人口1割に近い約8億2千万人は飢餓の状態である。」という文章が特に記憶に残ります。この記事は世界の経済的な不条理を告発する記事でした。また、2022年に起きたウクライナ・ロシア戦争は、100万人以上の死者が出ました。イスラエルとイスラム諸国の紛争も数十年にわたって続いてきています。これらの戦争により、今でも大勢の命が失われつつあります。比較的に平和な日本に住んでいる私たちは、ニュースを通じてこのような悲惨な事実に接してはいますが、その悲惨さを直接に経験するわけではないので、気の毒だと一言を言うだけで終わるのがほとんどです。この世界は私たちの思い以上に混乱であるのです。私たちに直接的な被害はありませんが、明らかに世界は混乱の中にあるのです。 飢餓や戦争の混乱の中にいる人々よりは増しかもしれませんが、私たちにも混乱の時があります。家族が重病にかかったり、近所の人が事故に遭ったり、友人が苦境に立たされたり、自分自身にも思わぬ不幸がやってきたりするなど、私たちも日常において混乱を経験し、心配事を抱えることがあり得るでしょう。人生の代表的な幸せの一つである結婚も、今後どうすれば家族を無事に守れるだろうかとの新しい悩みが生まれ、子供が生まれるのは嬉しいが、子供の健康、将来などへの新しい心配が生まれます。信仰においても同じです。初めて主に出会って信仰者となった時は、この上なく幸せだったんですが、その後、信仰への悩み、教会維持への悩み、牧師の不在への悩み、予算への悩み、数多くの悩みに囲まれて生きるようになるでしょう。私たちの人生の一歩一歩が、このように悩みと心配という混乱に満たされていくのです。イエスの時代も同様だったと思います。祖国イスラエルはローマ帝国の植民地になっており、イスラエルのあちこちで反乱が起こりました。しかし、指導者たちは民の安定より、自分の富と権勢と名誉にもっと関心を持っていました。こんな時代にイエスの弟子たちも辛かったでしょう。社会は混乱であり、すべてを捨てて主に従ったのに、主イエスはまもなくご自分が十字架で亡くなると言われ、何一つ平和で安定したもののない思い煩いの多い人生だったでしょう。 2. 主が与える平和。 しかし、このような混乱の世界を生きる弟子たちに主イエスは言われました。「弁護者すなわち父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。」(ヨハネ福音14章26~27節) ヨハネによる福音書14章は、イエスの遺言のような言葉です。13章で弟子たちと最後の晩餐を分かち合われたイエスは、弟子たち全員の足を洗ってくださいました。裏切者のユダは、このイエスを売るために食事の席を離れました。イエスはまもなくローマの兵隊に逮捕され、苦しみを受けて亡くなられるでしょう。先日からご自分が死ぬことになると言われたイエスの普段と違う行動に弟子たちは尋常でない雰囲気を感じ、さらに不安になったでしょう。もしかしたら、その夜はイエスと弟子たちが出会って以来、最も混乱した時間だったかもしれません。しかし、イエスは決然と言われました。「父から助け主なる聖霊が来られる。あの方があなたたちの人生を導いてくださる。だから、あなたたちは心を騒がせ怯えるな。わたしの平和を与える。わたしの平和は、この世の平和のように揺らぎやすいものではない。」 世界は混乱に満ちています。また、私たちの人生にも混乱があります。しかし、主は言われます。「世の中にはない真の平和をあなたに与える。だから不安に囲まれずに、聖霊の導きにあって、わたしに信頼して生きなさい。」罪によって乱れたこの世は不完全による混乱の世界です。こんな世界において、お金でも、権力でも、名誉でも真の平和を買うことはできません。自ら、自分が平和だとマインドコントロールしても、本当の平和にはなりません。だから、この世が言う平和、自分が作る平和は、偽りの平和なのです。しかし、主が与えてくださる平和は違います。真の平和の持ち主である主がくださる平和、混乱と不安があっても、その中でさえ輝く平和、主なる神が生きておられる限り、絶対に変わらない完全な平和です。その平和はイエスの約束によって私たちに与えられる保証された平和です。不完全な世界を生きる私たちは、しばしば混乱と苦しみと不安を経験しやすい存在です。その度、思い煩いに囲まれて悩むが、それでも混乱と苦しみと不安は簡単に立ち去りません。しかし、私たちは主の約束を信じなければなりません。まだ、起きていない未来の心配をやめて、平和の主が約束された真の平和を思い起こさなければなりません。 3. 主の御言葉を基準にする。 そんな人生を生きるためには、御言葉を私たちの人生の基準にしなければなりません。今日の旧約本文をお読みします。「強く、雄々しくあれ。あなたは、わたしが先祖たちに与えると誓った土地を、この民に継がせる者である。ただ、強く、大いに雄々しくあって、わたしの僕モーセが命じた律法をすべて忠実に守り、右にも左にもそれてはならない。そうすれば、あなたはどこに行っても成功する。この律法の書をあなたの口から離すことなく、昼も夜も口ずさみ、そこに書かれていることをすべて忠実に守りなさい。そうすれば、あなたは、その行く先々で栄え、成功する。」(ヨホスア1:6∼8)長い間エジプトの奴隷だったイスラエルは、モーセを用いられた主なる神のお導きにより、無事に脱出しました。しかし、彼らの不信心のため、すぐに乳と蜜の流れるカナンの地に入ることはできず、40年間荒れ野をさまようことになりました。モーセは40年間、彼らの指導者としてイスラエルの民と苦楽を共にしました。そして、ついに主なる神の許可をいただき、イスラエルはカナンに入ることになります。しかし、主は指導者モーセをカナンに入る直前に召されました。そして、その代わりにヨシュアをイスラエルの新しい指導者として立ててくださいました。40 年間、モーセの指導を受けてきたヨシュアとイスラエルは驚き混乱していたでしょう。一寸先も見えない真っ暗な状況に非常に戸惑っていたはずです。 今日の本文は、そんなイスラエル民族にくださった主なる神の御言葉です。それは3つに約めて考えることが出来ます。一、強く雄々しくあれ。 二、神の約束に信頼せよ。 三、神の御言葉に従って生きよ。モーセという柱のような指導者が亡くなったにもかかわらず、彼らには変わりなく主なる神が共に歩んでおられるので、その主のお導きに信頼して混乱に陥らずに、たくましく生きていけということでした。そして、この言葉は現在を生きるキリスト者にも大きな意味を示していると思います。どうせ、私たちが生きる、この世は罪によって歪んでいる世界です。主イエスが再臨され、終わりの日が来て、新しい世界にならない限り、人間は、仕方なく、この罪だらけの世を生きていかなければなりません。というのは、混乱と苦しみと悲しみは、世界が終わるまで常に人類を追いかけてくるということです。重要なのは、この混乱と苦しみと悲しみの世界を生きる私たちを、主なる神が選び救われ、今でも私たちと共に歩んでおられるということです。こんな私たちに向かって主は「強く雄々しくあれ。 神の約束に信頼せよ。神の御言葉に従って生きよ。」と語っておられるのです。世の混乱は依然として存在しますが、私たちにはその混乱した世を支配しておられる唯一の神が休まずたゆまず共におられます。それこそが私たちにとって人生の基準になるのです。移り変わりのない主、揺るがな主、永遠に共におられる主、その主なる神の御言葉こそが私たちの人生の基準であるのです。 締め括り 私は2012年に伝道師として働きはじめて以来、一瞬も気楽だったことがありません。いや、もしかしたら回心した瞬間から、未信者なら、しなくても構わない、心配と悩みを抱えて生きてきたかもしれません。しかし、心の中には根源的な平和があります。その理由は混乱したこの人生は短いものであり、そして、この人生の道をいつも共に歩んでくださる主との時間は永遠であることを知っているからです。どんなに難しいことが迫ってきても、戸惑うより主を拠り所とし「強く雄々しくおり、主の約束に信頼し、その方の御言葉に従って生きる」私たちであることを願います。混乱の中でも主なる神は変わらずに私たちと共におられるます。そして、私たちを応援してくださいます。私たちが主に信頼して生き、人生の終わりの日に主の御前に立つ時、主なる神は混乱の中でも忍耐しつつ生きてきた私たちに「よくやった。 私の子よ。」と褒めてくださるでしょう。そんな主の御言葉を基準にして混乱の世を克服して生きていきたいです。そのような志免教会でありますよう祈り願います。

イエスの価値観。

箴言5章21節 (旧997頁) マルコによる福音書2章13〜17節 (新64頁) イエスが公生涯を始められた時、イスラエルは霊的な無秩序の時代を過ごしていました。ローマ帝国の行政的な支配とユダヤ教の宗教的な儀式はありましたが、現実は弱肉強食の社会で、正義が守られず、不義がはびこる霊的な無秩序の時代だったのです。そんな無秩序の時代に来られた主イエスはご自身が直接民に仕え、愛されることによって、倒れた霊的な秩序を立て直してくださいました。「神と隣人を愛しなさい。」という律法の御言葉が、その秩序の根源となるのです。主イエスは十字架での死を覚悟されてまで、この秩序を回復させるために闘われたのです。そのイエスの御心は主の体であるこんにちの教会にも継承され、主イエスにならった生き方を要求しています。 1.皆に嫌われた徴税人マタイ 貧しいイスラエルの人々を助けてくださるために旅路に就かれたイエスは、ガリラヤ湖のある地域に着かれました。その時、一人の男がイエスの目につきました。「そして、通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて、わたしに従いなさいと言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。 」(14) イエスに声かけられた男は徴税人のレビという人でした。新約聖書で徴税人といえば、マタイやザアカイがいますが、このレビは誰でしょうか。「イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、わたしに従いなさいと言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。」(マタイ9:9) マタイによる福音書によると、このレビという人が使徒マタイであることが分かります。主はペテロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネなどの弟子たちに加え、徴税人のマタイをもご自分の弟子に呼ばれるためにその町に行かれたわけです。ところで、このレビつまりマタイは、なぜそこにいたのでしょうか? ガリラヤの漁師から税金を取り立てるためでした。当時のイスラエルの徴税人は恨みと憎しみを一身に受ける存在でした。ローマ帝国は頻繁な戦争のために莫大な予算が必要でした。そのため、ローマの総督たちは植民地の権力者から前払いで税金を取り上げました。その代わりに彼らに徴税権を与えたのです。それはイスラエルにおいても同様でした。先に話しましたように、当時のイスラエルは、神による秩序と正義が破れていたので、ローマ帝国に強制的に税金を払わせられた権力者たちは、ローマからの徴税権を悪用して、貧しい同胞からあくどく税金を取り立てました。ローマが納めた税金より、さらに高い税金を貧しい人々から取り立てたわけです。旧約聖書が強調していた隣人愛が完全に破れていたのです。今日の本文に出てくるイスラエルの徴税人は、そのような権力者のもとで働いていました。彼らは割当量を達成するため、同胞から重い税金を納め、イスラエルお人々は彼らをローマ帝国のため、同胞を苦しめる売国奴のように考えました。だから、当時のイスラエル人は、この徴税人を遊女や泥棒のように「地の人」つまり、神の民ではない者と見なしていたのです。 2.マタイを訪れてくださったイエス。 ところで、マタイは徴税人の仕事に懐疑を抱いていたようです。主がマタイに声かけられた時、ただちに従ってきたからです。当時の徴税人は熱心に徴税すれば、同胞に疎外され、いい加減に徴税すれば、権力者にいじめられる立場でした。けれども、お金を横取りすることができ、豊かになりやすい仕事だったのです。しかし、徴税人マタイはそんなに幸せではなかったようです。明治時代に、こんな出来事がありました。、明治23年に制定された教育勅語が東京第一高等中学校で朗読された時、全員は腰を低めて最敬礼をしました。しかし、教師だった内村鑑三は最敬礼をせずに頭を下げるだけでした。彼はキリスト者だったので、神格化した天皇に最敬礼しなかったわけです。(不敬事件)しかし、当時の官憲は、それによってキリスト教全体を疑うことになりました。そのため、日本の教会は国と民族から疎外されないために自ら慎み、国に協力し、結局は屈してしまいました。国と民族からの疎外が恐ろしかったからです。マタイは民族からの疎外と権力者からの要求の間でさまよい続ける孤独な人でした。 イエスは、そんな彼をあたりかまわず招かれました。「見かけて、わたしに従いなさいと言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。」民族からの疎外と権力者の要求の間でさまよっていたレビ・マタイは、すべてを捨てて、主に従いはじめました。14節で「従う」のギリシャ語「アコルルデオ」は、「後についていく」という物理的な意味だけではありません。「共にある」という意味の「ア」と「道、方向」を意味する「ケルリュドス」が一つになった言葉です。つまり、「イエス・キリストの道あるいは方向に共に歩むこと」という、より深い意味の言葉です。イエスは、民族と国家からの疎外、そして権力者の要求の間で迷っている徴税人レビ・マタイを呼び出し、ご自分の道に招いてくださいました。当時、一番嫌われる存在、すべてのイスラエル人に「地の民」、つまり神に見捨てられた存在、罪人と呼ばれていたマタイに、天から来られた神の子イエスがお手を差し伸べてくださったのです。そして、皆に嫌われる彼をご自分の民として受け入れてくださいました。「イエスがレビの家で食事の席に着いておられたときのことである。多くの徴税人や罪人もイエスや弟子たちと同席していた。実に大勢の人がいて、イエスに従っていたのである。」(15) 3.キリスト者に求められるイエスの価値観。 イエスに従ったマタイは、イエスと弟子たち、徴税人や他の罪人と呼ばれる人々を招き、食事をもてなしました。主は決して善良な人や貧しい人たちだけを救われる方ではありません。罪人、裏切り者、不正な者、売春する者、盗人など、どんなに悪人だといっても、彼らが神に真心をこめた悔い改め、隣人に謝り、主の御心に従うならば、喜んで受け入れてくださいます。そして、彼らと同席され、共にいてくださいます。イエスが同席して一緒に食事をしてくださるというのは、相手をもはや他人ではなく、家族や友人のように認めてくださるという意味です。これは、イエスによって、私たちに示された御父の暖かい御旨なのです。ところで、このように罪人を招いて赦してくださるイエスを責める者たちがいました。「ファリサイ派の律法学者は、イエスが罪人や徴税人と一緒に食事をされるのを見て、弟子たちに、どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのかと言った。」(16)彼らはイスラエルの宗教指導者だったのです。当時のイスラエルの宗教指導者、つまり財力も、名誉も、権力もある者たちが、罪人と一緒におられる神を嘲弄したわけです。彼らは自らが「天の民」であり、神を知っていると高ぶっていました。しかし、彼らは真の神であるイエスを目の前にしても、主を見知ることが出来なかったのです。 「イエスはこれを聞いて言われた。医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(17)イエスは彼らにご自分が来られた理由を明らかに教えてくださいました。「私は罪人を招くために来たのだ。」イエスの価値観は、罪人への裁きではありません。主は罪人を裁きから救ってくださるために来られたのです。罪人への救いこそが本当のイエスの価値観です。主は罪人が主に帰ってくるのを切に望んでおられます。どんな罪人でも、真の悔い改めと信仰さえあれば、主は誰でもお赦しくださり、お招きくださる方です。むしろ、今日、登場した宗教指導者たちのように、神を知ると言いながらも、自分の信仰的なこだわりに閉じこもって、他人をやたらに判断する者こそ、イエスに裁かれるでしょう。私たちが追い求めるべき価値観は何でしょうか?赦しと愛のイエスの価値観、傲慢と判断の宗教指導者たちの価値観。神は私たちの目の前に、この二つの価値観を示され、どっちを選ぶだろうかと見下ろしておられるでしょう。 締め括り 「人の歩む道は主の御目の前にある。その道を主はすべて計っておられる。」(箴言5:21)神は、世のすべての人々の歩みを見下ろしておられます。終わりの日、御前に立つ時、神は私たち人生について、ことごとくお問い掛けになるでしょう。だからこそ、私たちの生き方はイエスに従うべきです。イエスこそ、父なる神に認められる唯一の正しい人だからです。そして、主イエスの生き方こそ、私たちの価値観になるべきです。イエスは愛によって、罪人を赦してくださいました。主の体である私たち、志免教会もお互いに赦しあい、隣人を差別せず、主イエスの愛にならっていくべきではないでしょうか。

永遠の命を語る。

詩編14編1~7節(旧844頁) ヨハネによる福音書17章1~5節(新202頁) 前置き 永遠の命とは何でしょうか? 私たちは永遠の命という言葉を耳にするとき、死なずに長く生きることだと考えがちです。永遠に生きるって、いかに素晴らしいことでしょう。愛する家族との別れもなく、焦りもなく、何事においても楽天的でゆったりと世の中を眺め、死への恐れもないでしょう。しかし、現実、人間には長くても100年前後という限られた時間が与えられています。だから、老いていくのが悲しく、死を恐れることになるのでしょう。そのような人間の思い煩いに対して、聖書は永遠の命を語るから、とても魅力的でしょう。そんな理由のため、キリスト者になった人もいるはずです。しかし、聖書が語る永遠の命は、そう簡単なものではありません。聖書においての永遠の概念は、ただ長い時間を意味しないからです。今日は聖書が語る永遠の命について考えてみましょう。 1.「永遠の命と天国」 永遠の命といえば、真っ先に思い浮かぶのが「天国」のような来世のことではないかと思います。死後、主の救いによって永遠の命を得ていくところが、天国という概念で、すでにキリスト者の世界観に深くすえてあります。そういう意味として、多くのキリスト者は天国に行くために信仰生活をしているのかもしれません。それだけでなく、イスラムや仏教系の宗教にも天国(極楽)の概念があり、世の中のほとんどの宗教が、このような来世観から自由ではないかもしれません。あらゆる宗教を問わず、人間が天国あるいは極楽に行くことを希望するのは、人間に永遠への本能的な憧れがあるからです。永遠でない自分が絶対者の助けによって、永遠を手に入れ、死を乗り越えることを追求するからです。この世の肉体が死んでも、来世の天国では死を経験せずに永遠に生きるだろうと思うからです。だから、人間にとって「永遠の命」そして「天国」は人生最大の目標であるかもしれません。 2.永遠の命とは何か? しかし、私たちは「永遠の命」の意味より「天国」の幸せの方にもっと関心を持っているかもしれません。永遠の命という言葉も漢字語に基づいて、終わりなく生きることと誤解しているかもしれません。 しかし、永遠の命を追求しつつ生きるだけに、私たちは「永遠の命」の意味についてはっきり分かる必要があります。以前にも話したことがありますが、「永遠」の哲学的な意味は時間に限っていません。西洋哲学で、無限の時間を意味する言葉は「永遠」ではなく「不滅」です。むしろ永遠は時間性と無時間性と両方の概念を含める抽象的な言葉です。つまり、永遠は時間の長さだけでなく、その内容と質の問題でもあるのです。何年前、筑紫野教会の水曜祈祷会の奨励の時、永遠の主について話しましたが、祈祷会後に帰宅する直前、ある方にこう言われました。「先生、永遠に生きることはとても嬉しいことですが、永遠に生きると退屈ではないでしょうか?」その方は永遠を時間の概念として理解されたわけです。永遠が時間の長さの概念だけではなく、内容と質の概念も含めているのなら、私たちは永遠についてどのように理解すべきでしょうか? 「あなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになりました。そのために、子はあなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです。永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」(ヨハネ福音17:2-3) 神が主イエスを救い主として、この世に遣わされた理由は、神の永遠の命を主を通して、この世の罪人に与えてくださるためでした。つまり、神の永遠の命を、この世の罪人が受けることが「救い」なのです。ところが、永遠の命を「天国で長く生きること」と誤解する場合が多いので、「永遠の命がすなわち天国」という誤解が生まれたのです。しかし、イエスは「永遠の命がすなわち天国」と言われたことがありません。「永遠の命とは、唯一のまことの神と、神が遣わされたイエス・キリストを知ることだ。」と言われたのです。これは、永遠の命と天国の概念を説明する大事な鍵です。 まず、ヘブライ語とギリシャ語の聖書に記してある永遠の命の原文について考えてみましょう。日本語で「永遠の命」と訳された言葉は、ギリシャ語で「ゾーエ・アイオニオス」です。「ゾーエ」は生命を、「アイオニオス」は「時代の」を意味します。このギリシャ語の表現はヘブライ語を訳したもので、ヘブライ語では「ハイム•アド•オラム」です。「ハイム」は「生命」、「アド」は「~に至る」、「オラム」は「時代」を意味します。 つまり「永遠の命」の本来の意味は「時代に至る生命」なのです。時代に至る生命とは一体どういう意味でしょうか? ヘブライ語の「オラム」つまり「時代」は、「共通点を持った一定の期間」を表す言葉です。例えば、高校時代は身分が高校生である期間を意味します。今、皆さんは高校生ではありませんが、一時は共通して「高校時代」を過ごされました。ところで、皆さんのほとんどが「高校時代」を過ごされた時は「昭和時代」でもありました。ですから、皆さんは「高校時代」を過ごしながら「昭和時代」も過ごされたのです。私も「高校時代」を過ごしました。「高校時代」を過ごしたのは皆さんと同じです。しかし、私の「高校時代」は「平成時代」でした。「高校時代」を過ごしたのは、皆さんと私の共通点ですが、皆さんは昭和時代、私は平成時代であったのが違いです。つまり、聖書が語る時代とは「ある特徴で区分できる一定の期間」を意味し、重なる場合も重ならない場合もあるのです。再び、聖書における「時代」について考えてみましょう。主なる神は世界を創造され、主が秩序と平和にあってすべてを治められる「主が王である時代」、別の言葉では「生命の時代」を始められました。「主が王である時代」は永遠です。主なる神の支配は永遠に続くからです。人間はその主に創造され、「主が王である時代」に属し、絶えず主の生命をいただいて幸せに生きていく祝福された存在でした。 しかし、人間は蛇(悪魔)の誘惑に妥協し、神との約束を破って逆らい、堕落してしまいました。その結果、「主が王である時代」に属していた人間は、「人間が王である時代」、別の言葉では「死の時代」に移ってしまいました。そのように人間が王になった結果、世界は神の摂理から離れ、欲望による無秩序と破壊の歴史を書いていくことになってしまいました。その罪の代価として、人間は死の支配に入ってしまったのです。これを通して、「時代に至る生命」つまり「永遠の命」について説明することができます。ここで「時代」とは、「主が王である時代」を意味するといえます。主なる神が意図された最初の時代だからです。「人間によって生まれた人間が王である時代」は、歪んでしまい、腐敗した偽りの時代です。主なる神は変わりなく「主が王である時代」におられ、人間は依然として「人間が王である時代」を生きています。この二つの時代の隔たりは、人間の力で絶対に崩せない巨大な壁です。しかし、神は、この二つの時代の壁を崩してつなげる道をお許しになりました。その道がすなわち「救い主」イエス•キリストなのです。 永遠の命のヘブライ語が「時代に至る生命」である理由はまさにこのためです。「人間が王である時代」を生きる私たちが唯一の真の神「主が王である時代」をキリストを通じて知ることになり、そのキリストを知る(信じる)ことで神の時代とつながるようになったからです。 3.永遠の命 – 神と共に生きる人生。 永遠の命は時間的に長く生きることだけを意味するものではありません。重要なのは「人間が王である時代」に生まれ、生きている私たちが、主イエス•キリストによって「主が王である時代」の存在に気づき、主イエスによって、その時代に至ることができるようになったということです。聖書はこれを「真の生命」と言うのです。したがって、私たちは「人間が王である時代」に生きる存在ながらも、キリストによって「主が王である時代」に属する存在として生きるのです。 聖書はこれを「救い」と定義します。そして、死後天国に行くことは「人間が王である時代」を離れて「主が王である時代」に完全に入ることであり、この世の終わりの日、キリストの再臨と共に「主が王である時代」は、この地上にも完全に成し遂げられ、その時に私たちも復活するでしょう。これが聖書が語る永遠の命と天国、そして救いの意味なのです。今日、旧約聖書の詩編14章2節と5節は、それぞれこのように語ります。「主は天から人の子らを見渡し、探される、目覚めた人、神を求める人はいないか、と。」(2)「神は従う人々の群れにいます。」(5)天(神が王である時代)におられる主なる神が、地上(人間が王である時代)にいる民をお探しになり、共におられること、これこそが人にに与えられた真の永遠の命なのです。 締め括り ですので、私たちの永遠の命は、すでに始まっています。私たちはキリストによって、すでに「主が王である時代」を知り、その中に生きているからです。というわけで、主イエスはこう言われました。「神の国はあなたたちのところに来ているのだ。」(マタイ12:28) 天国すなわち神の国は死後にだけあるものではありません。主なる神に出会い、その民として生きている今も、私たちはすでに永遠の命のある人生、天国のある人生を生きているのです。そして、私たちが主に呼ばれる日、私たちは人間が王であるこの時代を離れ、主なる神が王である真の永遠の命に入るでしょう。そして、再臨の日、キリストによってこの地に真の主が王である時代、新天新地が成し遂げられるでしょう。私たちキリスト者は永遠の命という意味について、このような理解を持って生きるべきです。

聖晩餐の意味

ヨハネによる福音書6章47~58節(新176頁) 前置き 日本キリスト教会は、月に一度聖餐式を行います。毎月行われる儀式であるため、私たちは聖餐式の重要性を見過ごしがちかもしれません。しかし、聖餐は主イエスご自身が弟子たちに命じられ、代々の教会が堅く守ってきた最も重要な教会の儀式の一つです。そのため、洗礼とともに聖餐式もキリスト教会を代表する聖礼殿と呼ばれます。今日は、この聖餐式の意味について考えてみたいと思います。月に一度習慣的に行う宗教儀式ではなく、私たちの信仰を成長させる、主の大事なご命令としての聖餐の意味を改めて確認する時間でありますように願います。 1.聖餐の本質は食事である。 まず、私たちが知っておくべきことは、聖晩餐は文字通りに「晩餐」ということです。晩餐の辞書的な意味は「ごちそうの出る夕食。客を招いてもてなす夕食。」です。つまり、聖晩餐は、主イエスが弟子たちにおもてなしくださった夕方の食事だったのです。私たちの聖餐式は昼頃に行われていますが、それでも教会は固有名詞のように聖晩餐という表現を使います。今日、私たちが行う聖餐式の原型はイエスと弟子たちの「最後の晩餐」に由来します。イエスは、ローマ兵隊に逮捕され、十字架で亡くなられる前、弟子たちと一緒に夕食を分かち合われました。イエスは最後の晩餐の時、弟子たちにこう言われました。「一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。取って食べなさい。これはわたしの体である。また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」(マタイ福音26:26‐28)、最初の聖餐式は宗教的な儀式ではありませんでした。イエスと弟子たちの夕食、十字架で亡くなられる前の最後の食事だったのです。 私たちは毎日食事をします。時々一人で食事する時もありますが、基本的に家族、友人、知り合いのような身近な人とする場合が多いです。つまり、関係を結んだ相手と食事するのが一般的です。知らない人と親しく食事することはないでしょう。したがって、食事は関係を結んでいる者たちが共にする行為です。私たちの聖餐は、主イエスを中心に密接に結びついた者たちが共に行う霊的な食事です。教会のために死に復活され、頭になってくださった主イエスの御恵みと聖霊の御導きによって、キリストの体を意味するパン、血を意味する杯を分かち合い、共に主が与えてくださった晩餐を交わす霊的な食事なのです。食事によって力と健康を得て生きていくように、この聖餐を通して、私たちはイエスの恵みと救いの御業を憶え、力をいただき、信仰生活を続けていくのです。互いに関係を結んだ、家族や知り合いが共に食事するように、私たちはこの聖餐を通して主イエスとの関係、教会の兄弟姉妹との関係、神との関係を再確認しつつ生きるのです。人が飲み食いしなければ生きることが出来ないように、私たちは主がくださった、この聖晩餐を飲み食いして、キリスト者としての自覚を確かめつつ生きていくのです。だから聖餐は宗教儀式を超える頭なる主と体なる教会の聖なる食事なのです。 2.聖徒の交わり、聖餐。 そういう意味として、聖なる食事である聖餐は聖徒の交わりだとも言えるでしょう。私たちはほぼ毎週、使徒信条を唱えます。ところで、使徒信条にはこんな表現があります。「聖なる公同の教会、聖徒の交わり」イエスを信じ、教会に出席しはじめると、人々は一番最初に「使徒信条」に接し、自然に覚えるようになります。しかし、その意味について深く考えずに、他の信徒たちが覚えているから自分も覚えようとする場合が多いです。特に「聖徒の交わり」という表現を何気なく唱えていますが、これは果たしてどういう意味でしょうか? 日本語の「聖徒の交わり」はラテン語のCOMMUNIO SANCTORUMを訳した表現です。COMMUNIOは「互いに一つになって何かを分かち合うこと」という意味で「交わり」と訳しています。SANCTORUMは「聖なる者たち」という意味で「聖徒」と訳しています。罪人は自ら聖なる者になることができない存在です。罪人が聖なる者になるためには、聖なるキリストの贖いによってのみ可能です。したがって、COMMUNIO SANCTORUMは、「主イエスのよって清められた者たちが互いに一つになって分かち合いながら生きる共同体」のことでしょう。「交わり」という言葉のため、茶話会や食事会を思い起こしやすいですが、本当の意味は、聖霊のお導きの中で主イエスを中心に一つとなり、教会共同体を成していくこと、つまり教会形成のことなのです。 だから、聖徒の交わりを最も明らかに表すのは、この「聖餐」なのです。教会の頭なるキリストを中心とし、聖霊の導きによってパンと杯を分かち合う時、私たちは教会を形成する兄弟姉妹と共に一つなる共同体という関係を堅めます。お茶を飲んだり、楽しく会話したりすることが聖徒の交わりではなく、キリストの恵みと聖霊の導きによって一つの教会を建てていくことこそが、本当の意味の「聖徒の交わり」なのです。そして、それを行動で告白するのが聖餐です。したがって、教会員みんながパンを食べ、杯を飲むことは、主イエスが教会の頭であることを行動によって告白する公の信仰告白です。また、教会員みんながパンを食べ、杯を飲むことは、自分と一緒にパンと杯にあずかる兄弟と姉妹がキリストにあって一つの主の体なる教会であることを行動によって告白する公の告白です。だから、ただの宗教儀式だから、習慣的に聖餐を飲み食いするというわけではありません。聖餐の時に私たちみんなが主イエスの民であることを再確認します。教会員みんなが主の一つの体であることを再確認します。使徒信条を口さきだけで告白するのではなく、目に見える聖晩餐という行動によって証明するのです。 3。聖餐を通して主の永遠の命を憶える。 食べる行為は、主なる神が人間に与えてくださった祝福です。初めに天地を創造された神は、エデンの園のすべての果実を人間の食糧としてくださいました。また、出エジプト記の時代にはマナとウズラを食料としてくださいました。神の幕屋の内部にも、供えのパンという食物が置かれていました。イエスは5000人以上にパンと魚をくださいました。弟子たちに聖晩餐をくださいました。復活してはガリラヤの水辺でペトロに焼いた魚をくださいました。食べる行為は貪欲と関わりやすいので、悪いイメージで描写される場合が多いですが、食べないと生きていけないので、非常に基本的な人間の行為なのです。むしろ神は食べる行為によって、主なる神の栄光のために元気に生きていくように、良い行為として食べる行為をくださいました。食べる行為は、食物から養分を得て命を延ばすことです。食前に「イタダキマス」と言うことも、この食物から養分を得て自分の命にすることへの感謝の意味だと言われます。それと意味は多少違うでしょうが、私たちもイエスの肉と血とを意味する「パンと杯」にあずかり、主にいただいた永遠の生命を憶え、ふさわしい生き方を誓って生きるようになります。 「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。」(ヨハネ福音6:54-57) 主イエスはヨハネによる福音書6章を通して、主ご自身が制定してくださる聖餐の意味について、あらかじめ教えてくださいました。主の言われたご自分の肉と血についての教えは、後、聖餐式となり、それが使徒たちと代々の教会の歩みと共に今まで続いてきたのです。聖餐のパンとぶどう酒を飲み食いする時、私たちは主イエスと一つになって主の体なる教会として、主の生命をいただいて生きていきます。父なる神がイエス•キリストを愛されるように、主の体なる私たちも父なる神に愛されるようになるのです。そして父なる神がイエス•キリストを死から復活させてくださったように、主の体なる私たち教会も、父なる神に死に勝つ生命をいただいて生きていくのです。聖晩餐を通じて私たちは主イエスの体であることを確証されます。そして、私たちはその確証にあって、主の永遠の命を豊かにいただいて生きるでしょう。 締め括り 聖餐は、キリスト教会において毎月行われる、馴染み深い聖礼殿です。しかし、その意味は決して軽くありません。私たちがこの聖餐によってキリストと一つになっていること、そして、兄弟姉妹とも主にあって一つになっていることをを告白し、また証明されるからです。つまり、聖餐式はキリストの体という私たち教会のアイデンティティを公に告白する証明の場なのです。したがって毎月行う馴染んだ儀式ではありますが、その意味を心に留めて生きるべきです。私たちは心で主の体となったことを信じ、口でそれを告白し、聖餐の行為によってそれを証します。この聖餐を大切にし、感謝しながら生きる私たちであることを願います。

神殿、主の臨在の所。

歴代誌下6章18~21節(旧677頁) エフェソの信徒への手紙2章14~22節(新354頁)  前置き 好きな詩編があります。「あなたの庭で過ごす一日は千日にまさる恵みです。主に逆らう者の天幕で長らえるよりは、わたしの神の家の門口に立っているのを選びます。」(詩編84:11) 詩編には美しい信仰の詩が多々あります。その中でも、詩編84編は、信仰者のあり方について考えさせる素晴らしい詩だと思います。「主の庭での一日が、他の所での千日にまさる恵みであり、悪人の天幕で長生きするより、神の家の門番として生きるのがほしい。」この世の財物、名誉、権力より、素朴であっても主の民として主と共に生きたいという信仰の告白なのです。私はその中の「神の家の門番」という表現が好きです。(「門口に立っている」とは原文で門番の意味) たとえ、神の家に入れないとしても、自分は主の近くに生きていきたいという意味ではないでしょうか。ここで神の家について話したいと思います。神の家は聖書によく出てくる幕屋やエルサレムの神殿を意味します。今日は聖書によく出てくる神殿について考えてみたいと思います。 1. 神の家 – 神殿 聖書には神殿という建物がよく出てきます。ソロモン王の前の時代には、幕屋という移動可能なテント形の建物があり、ソロモンの時代からは、聖幕に代わる神殿という固定された建物が建てられました。神殿は、その名称からも分かるように、神のご臨在を意味する非常に象徴的な建物でした。このエルサレムの神殿は、イスラエルのエジプト脱出後、モーセがシナイ山で神にいただいた十戒の石板が入っている掟の箱を置く聖なるところでした。出エジプト記の中盤、シナイ山で主なる神のご命令を受け、移動しながら使用できる幕屋が作られ、それから、何百年の長い時間が経った後、エルサレムに最初の神殿が建てられたのです。ダビデ王の息子であるソロモン王が、この最初の神殿を建てたので、ソロモン神殿とも呼ばれましたが、外部の一部と内部のほぼ全部が、純粋な金で飾られ、神殿の礼拝道具と掟の箱も金箔をかぶせて作ったと言われます。神殿の規模は、長さ約30m、幅約10m、高さ約15mで、そんなに大きくはなかったですが(志免教会堂の4倍くらい)、その華やかさはすごかったと聖書は語ります。最初のエルサレム神殿は、イスラエルがアッシリア、バビロン帝国によって滅ぼされる時まで存在し、その侵略によって破壊されたと言われます。 その70年後、ペルシャ帝国によってイスラエル民族が解放され、エルサレムに帰ってきた時、彼らは第2番目の神殿を建築します。そして、ヘロデ王の時に神殿は増築されたと言われます。しかし、それも西暦70年のローマとユダヤの戦争の時に破壊され、残念なことに今は残っていません。現在、イスラエルの神殿の跡にはイスラム寺院だけが立っており、神殿跡の西側に神殿を支えていた巨大な石壁だけが残り、「嘆きの壁」という名で保存されています。先に申し上げたように、神殿は神の臨在を象徴する建物でした。「神は果たして人間と共に地上にお住まいになるでしょうか。天も、天の天も、あなたをお納めすることができません。わたしが建てたこの神殿など、なおふさわしくありません。」(歴代下6:18) 今日の旧約本文のように、この世を創造された神は、世の中の何ものも納められない偉大な方です。そのため、神が神殿という小さな建物に住むのはありえないことです。神が家に住むという概念そのものが古代異邦宗教の認識だったので、神が神殿に住むということは間違いです。つまり主なる神はこの神殿という象徴的な建物を通して、主がご自分の民(当時イスラエル)と常に一緒におられるということを示されたわけです。したがって、私たちは聖書を読みながら神殿を考える時「主が住んでおられるところではなく、主のご臨在の象徴」として理解すべきです。 2.神殿の存在理由 今日の旧約本文、歴代誌下6章は、ソロモン王がエルサレムの神殿を完成した後、落成式を行う場面です。この場面をより意味深く読むためには、前の5章と6章全体を参考にする必要があります。 5章13節と14節にはこんな言葉があります。「ラッパ奏者と詠唱者は声を合わせて主を賛美し、ほめたたえた。そして、ラッパ、シンバルなどの楽器と共に声を張り上げ、主は恵み深く、その慈しみはとこしえにと主を賛美すると、雲が神殿、主の神殿に満ちた。その雲のために祭司たちは奉仕を続けることができなかった。主の栄光が神殿に満ちたからである。」(歴代誌下5:13-14) エルサレム神殿の建築はソロモンの父ダビデ王の晩年の夢でした。エサウの末息子に生まれ、兄たちに負けて羊飼いに生きるようになったダビデでしたが、主はそのダビデを選ばれ、彼をイスラエルの王に立ててくださいました。数多くの危機と逆境の中でも主はダビデを見捨てられず、彼を導いてくださったのです。しかし、ダビデの心にはいつも引っかかることがありました。それは自分は王宮に住んでいるのに、主は数百年前に作られた小さな幕屋におられるということでした。そこで、彼は主のための神殿を建てさせてくださいと主に願いましたが、主はその願いを断られました。(歴代誌上17章) しかし、主は彼の息子であるソロモンによる神殿建築は許可してくださいました。 その後、ソロモンが王になってから、イスラエルは高級な材料を集めてエルサレムのに主なる神の神殿を建て、完成しました。そして、古い聖幕にあった掟の箱を運び、新しい神殿の至聖所に置きました。その時、レビ族の祭司たちは多くの楽器を演奏し、神を賛美しました。その時、主の神殿に雲が満ち、祭司長たちが奉仕を続けられないほどになりました。聖書で雲が持つイメージは、神の栄光と臨在を意味する場合が多いですが、この雲に満ちた神殿によって主なる神の栄光と臨在がイスラエルに与えられたという意味でした。そのように神の栄光と臨在の雲が神殿に満ちた時、ソロモンは主に祈り始めました。その内容が今日の本文である歴代下6章の言葉なのです。この時、ソロモンは大きく二つの祈りを(細かく分けるともっと多くなるが)しました。第一に、神の民のための祈りでした。「僕とあなたの民イスラエルがこの所に向かって祈り求める願いを聞き届けてください。どうか、あなたのお住まいである天から耳を傾け、聞き届けて、罪を赦してください。」(歴代誌下6:21) 神の民イスラエルの切実な祈りを聞いてくださり、何よりも彼らの悔い改めを聞いて答えてくださいというソロモンの願いでした。 第二に、異邦人のための祈りでした。「更に、あなたの民イスラエルに属さない異国人が、大いなる御名、力強い御手、伸ばされた御腕を慕って、遠い国からこの神殿に来て祈るなら、あなたはお住まいである天から耳を傾け、その異国人があなたに叫び求めることをすべてかなえてください。」(歴代誌下6:32-33) 異邦人たちも主の神殿に来て祈るなら、憐れんでくださることを祈ります。この落成式の物語を通じて私たちは3つの点を知ることができます。①神殿は天におられる主なる神が、地上のご自分の民といつも共におられることを象徴するご臨在の象徴。②神殿は地上の民が天におられる主なる神に祈り、悔い改め、礼拝するようにする執成しの象徴。③神殿は主なる神の民ではない異邦人も、神を知り、帰ってきて、主の民になれる贖罪の象徴。これらがエルサレムの神殿が持つ主な機能でした。このように、はるかに高い天の神は、地上の罪人たち(イスラエル人、異邦人を問わず)との関係を結んでいかれるために、神殿という象徴的な建物の建設を、この地上に許してくださったのです。 3. 私たちにおいての神殿の意味 ですが、先ほどお話ししたように西暦70年、この神殿という建築物は完全に破壊され、もはや、この地球上に主なる神の神殿は存在しなくなってしまいました。それでは、神殿という建物が無くなった、この時代に、私たちは果たして、どこから神の臨在、執成し、贖罪の象徴である神殿を見つけることが出来ますでしょうか。今日の新約本文は、この時代においての神殿についての大事な手がかりになります。「使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。」(エフェソ2:20-22) イエス・キリストを中心に主の民が一つになる時、その集まりが神のお住まい、つまり、聖なる神殿となると教えているのです。キリストを中心とし、主の民が一つになるというのは、どういう意味なのでしょうか? それは「教会」のことでしょう。したがって、キリストを頭とする教会共同体こそ、主なる神のご臨在のところ、つまり、この時代の神殿であるのです。もちろん、この教会とは、単なる建物のことではないでしょう。 主イエスによって贖われ、主への信仰によって集まり、礼拝し、御言葉を宣べ伝える共同体が、そして、その共同体を成す私たち一人一人が真の意味としての教会であるからです。 締め括り 教会の建物を教会そのものだと誤解する人々も、世の中にはいます。しかし、教会堂はただの建物に過ぎず、教会そのものだとは言えません。教会はキリストを頭として一つとなったキリスト者の共同体だからです。ですから、教会堂を教会そのものだと誤解してはなりません。神殿は神のご臨在、執成し、贖罪を象徴する旧約の存在です。そして、主イエスが十字架で死に、復活してからは、主なる神の臨在、執成し、贖罪は、イエス・キリストによってのみ、この世に伝えられるようになりました。したがって、神の真の神殿のかなめ石は主イエスであり、その方を頭とする教会共同体こそが、この時代の神殿になるのです。だから私たち志免教会も主イエスによって、この時代の神殿となるのです。 私たちと共におられるキリストの恵みによって、主なる神はご臨在なさり、キリストの執成しによって、私たちは、主なる神と交わり、キリストの贖いによって、私たちは赦されるのです。この時代の神殿は、まさに主の教会である私たちです。このような神殿への知識を持ち、主の神殿となる教会として歩んでいきたいと思います。

一死覚悟

イザヤ書55章8~9節(旧1153頁) マタイによる福音書16章24~25節(新32頁) 前置き 先日、大分県竹田市にあるカクレキリシタン遺跡に行ってきました。遺跡を訪問する前に竹田キリシタン資料館で案内人の説明を聞かせてもらいましたが、興味深い話がありました。当時、竹田地域(豊後)の領主がキリシタンだったので、他地域のキリシタンより被害が少なかったということでした。領主の配慮で洞窟礼拝堂といくつかの見張り櫓があって、政府の人々が取り締まりに来たら、素早く対応したとのことでした。その理由か、カクサレタキリシタンという表現も何度か聞きました。しかし、領主の保護がなかった地域のキリシタンは、大勢の人々が信仰を守るために殉教しました。カクレキリシタンの物語は、日本のキリスト教にあって欠かせない重要な殉教の歴史です。なぜ、日本の数多くのキリシタンは命をかけてまで、信仰を守ろうとしたのでしょうか? その歴史を通して、私たちが学ぶべきことは何でしょうか? 1.「フィリポ・カイサリアで」 ある日、イエスは弟子たちとフィリポ・カイサリア地域に行かれました。そこで主は尋ねられました。「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」(マタイ16:13) すると弟子たちは「洗礼者ヨハネ、エリヤ、エレミヤ、預言者の一人だと言う人々がいる。」(14)と答えました。 主は「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」(15)と聞き返されました。その時、ペトロが言いました。「あなたはメシア、生ける神の子です」(16) 主は大喜びで、ペトロをほめられました。ペトロが正しい信仰告白をしたからです。しばらくしてイエスは、弟子たちに「御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている」(21)と打ち明けられました。その時、先ほど、正しい信仰告白でほめられたペトロが、主に叫びました。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」(22) ペトロは、主への思いやりで、そんなに言ったのですが、イエスの反応は衝撃的でした。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」(23)イエスがペトロをまるでサタンでもあるかのように厳しく叱られたからです。 イエスは、そんなに厳しくペトロを叱らる必要がありましたでしょうか? ペトロはイエスへの純粋な思いで心配しただけでしょう。しかし、その後、主イエスが言われた言葉、すなわち今日の新約本文を通じて、なぜイエスがそんなに厳しくペトロを叱られたのかを推し量ることができます。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。」(マタイ16:24-25)(詳しい説明は後で)フィリポ・カイサリア地域は、旧約時代には「バアル・ガド」(ヨシュア11:17,12:7,13:5)と呼ばれました。バアル神崇拝の地域だったのです。また、その後には古代ギリシャの神である「パーン」の神殿があったとも言われます。さらにカイサリアという地名からも分かるように、ローマの皇帝(カエサル)を神格化する意味の場所でもありました。すなわち、フィリポ・カイサリアは唯一の主なる神を否定する偶像と皇帝崇拝にあふれていた「偶像崇拝」の町だったのです。イエスがフィリポ・カイサリア地域で弟子たちに、「わたしを何者だと思うか。」とお尋ねになった理由は、偶像に満ちたこの世にあって、ひとえにイエス·キリストだけが真の神であり、王であり、主であることを今後教会を建てていく弟子たちに確認されるためでした。 2.人の思いと神の御心。 イエスが、罪人の救い主となり、世の真の支配者となられるためには、必須不可欠な前提がありました。それはイエスが十字架にかけられ、人類の贖いと神と世の和解のために死んでくださること、いわば「十字架での犠牲」を成し遂げることでした。真の神であるイエス·キリストが、真の人間としてこの世に受肉された理由も、普通の罪人なら絶対に成し遂げることが出来ない、十字架での犠牲を背負われるためでした。つまり、フィリポ・カイサリアでペトロが告白した「あなたはメシア、生ける神の子です」という言葉は、「イエスが必ず十字架での犠牲を成し遂げ、死ななければならない方」になるための前提だったのです。ところが、そんな立派な告白をしたペトロが、しばらく後にイエスへの自分の個人的な思いのため「とんでもないことです。そんなこと(十字架での犠牲)があってはなりません。」と反対したので、前の告白と完全に矛盾になってしまったわけです。ペトロは自分も知らないうちに「この世を救うイエスの十字架での犠牲は決して起きてはならない。」と言ってしまったのです。イエスが怒られた理由は、ペトロの思いが邪悪だったからではありません。主もペトロの思いを知っておられました。しかし、その思いの中に隠されている「イエスが十字架で死んではならない」という思いが、主なる神の御心である「イエスの犠牲によって罪人とこの世を救う。」に逆らうものだったからです。 時々、私たちはこんなに考えるかもしれません。「○○したほうがもっと良いのに、なぜ神は○○されないんだろう。」例えば「神が全日本人の夢に現れてイエスを信じろと一言だけ言われれば、みんなが一晩にしてキリスト者になるはずなのに、なぜ全能の神はそうされないんだろう。」みたいな考えです。全能な神であると聖書も力強く語っているのに、なぜ神は常に、私たちの目に難しい道だけを選ばれるだろうか理解できない時が多いです。しかし、そんな時、私たちは旧約聖書のイザヤ書を憶えなければなりません。「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道はあなたたちの道と異なると主は言われる。天が地を高く超えているように、わたしの道は、あなたたちの道を、わたしの思いは、あなたたちの思いを、高く超えている。」(イザヤ55:8-9) 神がなぜそのように私たちの考えと常識とは違う方法で働かれるのか、私たち人間は、死ぬまで分からないでしょう。しかし、明らかなことは、主なる神には人間の思いをはるかに超える御心があるということ、だから、主なる神の御心が、自分の思いと違うといっても、私たちは、主に信頼して従わなければならないということです。神の御心と人間の思いはまったく違います。時には人間の思いのほうがより効率的で速い道のように見えるかもしれません。しかし、聖書は語ります。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」 3. 自分の十字架を背負う闘 – 一死覚悟 信仰の難しいところは、そこにあります。自分の思いがより正しく判断されても、まずは主なる神の御心はどうか聖書から確かめ、その御心と合わないなら、自分の意志をあきらめ、主の御心に従うこと、それが信仰だからです。人間的な見方で、イエスの死を反対したペトロの行動は悪いことではないかもしれません。むしろ、主イエスへの愛の行動でした。しかし、主なる神の見方では、ペトロの行動は神の御心に逆らう悪行でした。主イエスが死ななければ罪人とこの世への救いが成し遂げられず、ここにいる私たちの救いもなかったことになるからです。このような信仰の難しさのため、信仰をあきらめる人も歴史上いたでしょう。だから主イエスは、こんな趣旨で言われたわけです。「あなたの思いという十字架を背負い、わたしにならって自分の思いを捨て、主なる神の御心に聞き従いなさい。」到底理解できない状況、聞き従いたくない時にも、それが主の御心なら信じ従うこと、それがまさに十字架の道であり、信仰の道であるのです。そして聖書は語ります。「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。」主の御心に従うためには、命をかけなければならない時がやってくるかもしれないということです。主の御心への服従のために、命をかける覚悟があるかどうか、聖書は尋ねているのです。 8月ですので、歴史の話しで例をあげたいと思います。1939年、日本帝国は「宗教団体法」を成立し、翌年から日本のプロテスタント教会を統合して政府に協力する教会にしました。その結果、何人かの影響力ある牧師たちの「神社参拝は国家儀礼である。」という主張によって、数多くのキリスト者が妥協し、神社参拝を犯しました。「そうだ。国家儀礼に過ぎない。家族のために、教会のために今は生き残るのが先だ。」死ぬよりは生き残って、後日を約しようと思ったからです。そのためか、日本のプロテスタント教会には目立つ殉教者は見られません。誰かは日本のプロテスタントに殉教者が皆無だと嘆きます。今日の説教題は「一死覚悟」ですが、植民地朝鮮の牧師「チュ·ギチョル」さんの説教題から引用しました。彼は「人間にはただ一度死ぬことが定まっている。(ヘブライ9:27)その一度の死を愛する主のために覚悟する。」という志を立て、拷問の中で死んでいきました。国家儀礼だと思ったら、一度だけ頭を下げたら、老母、妻、二人の息子の家長だった彼は死ななかったでしょう。しかし、カクレキリシタンが「ふみえ」踏まず、命をかけたように、彼は主を裏切らず信仰のために死を選んだのです。「死に至るまで忠実であれ。そうすれば、あなたに命の冠を授けよう。」(啓示録2:10) 彼は自分の思いではなく、主の御心に聞き従ったのです。 締め括り 私が申し上げたいのは、朝鮮の教会が日本の教会より優れていたということではありません。チュ·ギチョル牧師のような、何人かの朝鮮の殉教者たちは素晴らしかったのですが、その数百倍の朝鮮教会の牧師たちは進んでみそぎばらいをし、宮城遥拝を犯し、チュ·ギチョル牧師は彼らに徹底的に見捨てられたからです。そういう意味として、朝鮮の教会も偶像崇拝の歴史から自由ではありません。しかし、誰かは主の御心を自分の思いより大事にし、自分の命をかけて信仰を守ったのです。それが「一死覚悟」の信仰だったのです。そして、それはカクレキリシタンの信仰でもあったのです。私たちは、なぜ主を信じているのでしょうか? 私たちは果たして自分自身、自分の家族、自分の必要より、主への信仰をさらに大事にし、命をかけてまで守る覚悟をしていますでしょうか? ただ、この志免教会の穏やかな雰囲気、心の安らぎ、あるいは他の理由のために習慣的に教会に通い、信仰生活を続けているのではないでしょうか? いつか自分の思いのために、主への信仰をかるがるに捨ててしまうのではないでしょうか? 何よりも、誰よりも、私たちのために十字架で死んでくださった方への信仰を大切に守り、一死覚悟のあるキリスト者として生きることを願います。歴史の8月、歴史に照らして私たちの信仰を顧み、成長させていきたいと思います。

権威に対する教会のあり方。

申命記16章18~20節 (旧307頁) ローマの信徒への手紙13章1~7節(新292頁) 1.権威とは何か? 今日の本文の権威という言葉は、ギリシャ語「エクスシア」を訳した表現です。「力、支配、統制、影響力」などを意味しますが、本文では「支配者、権威者の権力、権威」として使われています。この世には創造当時から「エクスシア」が存在して来ました。主が創り主の権威、すなわち主の「エクスシア」をもって世界を造られ、また被造物への支配のために、人間にも「エクスシア」を与えてくださったのです。なぜなら、神はご自分の秩序をもって世界を創造し、その被造物が権威と位階にあって保たれることを望んでおられたからです。ですので、「権威」というのは、創り主なる神から生まれた一種の被造物だと理解しても問題ないでしょう。要すると「権威」そのものは悪いものではないということです。むしろ「権威」は、神が世界をご統治なさるためになければならない道具なのです。「イエスは、近寄って来て言われた。わたしは天と地の一切の権能を授かっている。」(マタイ28:18)イエス・キリストは十字架で死に復活して昇天される直前に、父なる神がすべての権威(エクスシア)をご自身に与えてくださったと言われました。創り主なる神は、終末が到来するまで、ご自分による権威をもって、この世界を治めていかれるでしょう。権威は神の統治の道具です。したがって、私たちは権威について、最初から神のものであるという認識を持つべきです。 だから、私たちは、この「権威」が神のものであるということに基づいて、今日の本文を取り上げるべきです。初めに世界を創造された主は人間に、こう命じられました。「神は彼らを祝福して言われた。産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」(創世記1:28) 主は人間が栄え、世界を導き、治めることをお望みになりました。主は人間に世界を支配する権威を与えてくださいましたが、それは人間への神の「祝福」だったのです。ただし、人間はその権威を身勝手に振るってはなりません。神は、人間がその権威を用いて、被造物を守り、愛し、正しく治めることを望まれただけで、その権威によって他者を踏みつけ、苦しめ、破壊するためにくださったわけではないからです。そういうわけで、権威は支配者だけのためのものになってはならず、支配者の権威を通して被支配者も祝福を得る、みんなのための神の祝福にならなければなりません。支配者のあり方は自分、自民族、自国だけが、うまくいくのではなく、すべての存在が一緒に栄えていくように権威を使うことです。聖書が示す望ましい支配者のあり方はそのような姿なのです。 2.権威(支配者)への服従。 そういうわけで、私たちは、世の支配者がどのようなやり方で世界を支配しているのか、警戒心を持つ必要があります。支配者が自分の利益と権力のために権威を振るうっているか、それとも、自分だけでなく、この世界の他の被造物、自由と平和、神の祝福の媒体として権威を用いているか、キリスト者なら、必ずその点を気に留めて支配者を判断すべきです。私たちの本当の支配者は、この地上の支配者ではありません。私たちをご支配なさる方は、ひとえに三位一体なる神だけであり、とりわけ、直接、神から権威を授けられたイエス・キリストこそが、私たちの真の支配者、主であるのです。ならば、支配者への私たちの服従も、その根本は神とキリストへの服従から始まるべきなのです。もし、支配者が自分の野望や権力ではなく、主なる神の御心にかなう支配、すなわち世界の平和、人類の共栄のために権威を扱うならば、私たちは彼らの権威に積極的な協力と応援をもって従っていくべきでしょう。しかし、支配者が自国だけの繁栄と自分の権力だけのために権威を勝手に振るうならば、私たちは、真の主であるキリストのご意志に基づき、そのような邪悪な支配者に抵抗していかなければなりません。 このように権威への服従は盲目的であってはなりません。支配者が主から与えられた、その権威を正しく用いる時にはじめて、私たちは神への服従の意味として、その支配者の権威にも服従するものです。しかし、支配者が自分の権力だけのために権威を利用するならば、私たちは服従してはならず、服従することも出来ません。支配者の権威はどこまでも神によって与えられたものです。目に見える支配者の権威は、目に見えない主なる神の権威を表す道具に過ぎません。したがって、私たちは、支配者の武力と暴力に屈してはなりません。ただ支配者によって神の権威が正しく示される時のみ、私たちは彼らの権威を認めて従っていくべきです。私たちは、支配者への監視者の役割を担ってこの世を生きているのです。無条件的な国家権力への盲従は正しくありません。いつも「私たちの真の支配者は、主イエス・キリストだけである。」という基本的な前提をもって国や団体の権威に対応する必要があります。ある国の国民という認識に先だって、御国の民という信仰を先にとるべきです。ひたすら服従の対象は主なる神だけであり、主に認められた権威だけが、私たちの服従すべき対象なのです。 3. 邪悪な権威の時代20世紀 1945年、太平洋戦争の末期、アメリカは8月6日広島にリトルボーイ、また8月9日長崎にはファットマンといった核兵器を投下しました。それにより、約15万人から25万人の命が消えてしまいました。毎年 8月になると、日本では終戦(敗戦)と、戦争犠牲者のための記念式を催します。アメリカには多くの犠牲者を避ける選択肢があったにもかかわらず、支配者の誤った判断により、多くの犠牲者を生じさせてしまいました。しかし、当時のアメリカの市民は、このような犠牲を当然だと思い、むしろ喜んでいました。これは明らかにアメリカの過ちです。他方、帝国主義日本はアジアの周辺国を武力で征服し、戦場に追い立ててしまいました。中国では日本軍の暴挙により、1000万人以上の人々が死に、自国民の中にも(内、植民地民も)神風特攻隊や徴用兵として死んだ人が数え切れません。ただし、当時の植民地民は日本人と分類され、詳細な人数は不明です。沖縄の無実な民間人数万が日本軍によって自決を強いられ、あるいは弾除けに死ななければなりませんでした。日本全体で、戦争による日本人の犠牲者が約300万人を上回るのです。その中に日本籍の琉球人、台湾人、朝鮮人も含まれているでしょう。 20世紀は悪魔の時代でした。まるで支配者たちが悪魔のようになり、人々を死に追いやったのです。その時、日本は国体という名目で、為政者の論理を正義としました。アメリカの支配者たちは、自国の軍事力を見せつけるために、日本に核兵器を落としました。日本もアメリカも、自分の支配者を支持しました。しかし、その支配者の中の誰も神の御心である「産めよ、増えよ、地に満ちよ、地を従わせよ。」といったご命令に耳を傾けませんでした。既に自らが神のようになっていたからです。当時、日本の教会は、国体の一部として神社参拝を強行し、軍部に協力しました。植民地の教会も同じく妥協し、偶像崇拝の罪を犯してしまいました。私たち教会は邪悪な支配者のために、すでに一度主を裏切った存在です。これから絶対に忘れてはならない私たちの悔い改めの課題なのです。もし、このような世が再び到来したら、私たちはどう行動すべきでしょうか?私たち教会は再び自分の一身のために邪悪な支配者の権威に服従するのでしょうか?それとも「愛と平和、変わらない信仰」をお望みになる主のみ旨に従い、主なる神の御心のために命をかけるべきでしょうか?「あなたがたは、以前は…この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。」(エフェソ2:1-2)この世の支配者は神に反抗する空中に勢力を持つ者の性質を持っています。彼らは不従順の子になりがちで、不正と罪の存在になる可能性を持っています。このような世の中で、私たちはどのような権威に服従するべきでしょう?私たちは、主なる神の民です。そのアイデンティティーを決して忘れてはなりません。 締め括り 「ただ正しいことのみを追求しなさい。そうすれば命を得、あなたの神、主が与えられる土地を得ることができる。」申命記16章20節には、主なる神の民が追い求めるべき生き方が書いてあります。これは、支配者たちにも適用すべき生き方だと思います。志免教会の兄弟姉妹の皆さんと日本の教会の兄弟姉妹たちのためにも、市民を愛し、正しい政治を貫く支配者が、特にキリスト者の支配者たちが立ち上がることを祈ります。支配者の権威はひとえに主なる神から与えられるものです。支配者は、神の正義と愛を、この世に示さなければなりません。その時にはじめて、私たちキリスト者は、彼らに完全に従うことができるのです。私たちは、この世に属している存在ではありません。御国に属している神の民です。したがって、歪んでいる世界のために正しい怒りを発し、主に祈りつつ投票などの政治的な行いに参加し、さらに正義に満ちた日本と世界になるように動いていきましょう。このような思いを持って支配者と権威者のために祈り、生きていく私たちでありますように祈ります。

さまよい人

※イメージ説明:『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか』D’où venons-nous ? Que sommes-nous ? Où allons-nous ?  作者 ポール・ゴーギャン 製作年 1897年 – 1898年 イザヤ41章8〜16節(旧1126頁)  ヘブライ人への手紙11章8〜10節(新415頁) 前置き 人間は、どこから来てどこへ行くのでしょうか? 誰も初めと終わりを知らないままこの世に生まれます。私たち皆が親のもとに生まれたので、私たちの初めは親、さらには先祖にあると言えるかもしれません。しかし、実際、私たちの両親や先祖も、自分がどこから来てどこに行くのかを知らずに生きてきたと思います。ただ生まれ、この世を生きていくことが人間に与えられた一般的な人生の理由ではないでしょうか? そのため、私たち人間は生まれつき、さまよい人として生きる存在であるかもしれません。フランスの有名な画家であるポール·ゴーギャンは1898年「我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか」という最後の作品を完成した後、自殺をくわだてました。自殺は失敗しましたが、彼は結局1903年に病気で死んでしまいます。彼は自分の人生を振り返り、自分がどこから来てどこに行くのか、答えを出すことができませんでした。フランシス·シェーファーという神学者は、ゴーギャンは結局「来たところも、何者かも、行く先も分からずに死んだ。」と自分の著書を通して解釈しました。ゴーギャンだけでなく、大勢の人々が自分の起源と行き先を知りません。本当に人間は一生さまよいの中で苦しみ、短い人生を終える悲惨な存在であるかもしれません。 1。さまよい人として生まれる人間。 自分がどこから来たのか、何者なのか、どこへ行くのかに対する質問は、人間を一生苦しめる宿題です。多くの人々が成功のため、富のため、名誉のために自分の人生を熱心に生きていきますが、成功と富と名誉を達成したとしても、自分が何者であり、なぜ生きているのかという最も重要な謎の答えを得ることはできません。結局、成功も富も名誉も、私たちに根本的な正解を知らせるのはできないからです。そんな理由で、人々は宗教を持つようになります。しかし、宗教を持ったとしても、人間、特に自分の存在理由について明確な説明を教えてもらうことが出来ないので、宗教があるにもかかわらず人生の最後の瞬間が近づいてくると恐怖に震えるようになる人が多いです。たとえば、日本人の精神に莫大な影響を及ぼした仏教でさえ、己の業報に従って輪廻を重ねると教えます。しかし、人間の起源と意味については、明確に説明しません。日本の民族宗教である神道も八百万の神々が助けてくれると語りますが、人がどこから来て、どこへ行き、自分が何者なのかについては明快に説明しません。自分はこのまま消えてしまうのか? 自分は何者なのか? この原始的で根本的で限りのないような質問は、人間をみすぼらしくします。そんな世の中に向かって、主なる神のみ言葉、聖書の言葉はこう語ります。「初めに、神は天地を創造された。」(創世記1:1) 聖書は、すべてのものの初めについて明確に語ります。「この世界は主なる神によって造られた。」聖書は、宇宙の起源を知っているのです。そして、その初めを許された神こそ、すべての人間に命を与えてくださり「自分」という存在の根源になってくださる創り主であることを証しているのです。旧約聖書のイザヤ書には、こう書いてあります。「イスラエルの王である主、イスラエルを贖う万軍の主は、こう言われる。わたしは初めであり、終わりである。わたしをおいて神はない。」(イザヤ44:6) また、新約聖書ヨハネの黙示録はこう述べています。「わたしはアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者。初めであり、終わりである。」(黙示録22:13) このように聖書は、この世の初めと終わりが「主なる神」から生まれたと明確に証しています。私たち人間は「我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか」絶えず自らの存在理由について悩み煩います。しかし、聖書は明らかに 「あなたは主なる神から来た。あなたは主なる神の子供として生まれた。したがって、あなたは主なる神に帰らなければならない。」と教えます。キリスト者である私たちは、人生においての数多くの悩みと苦しみ、心配のため、神に祈ります。しかし、神の民である私たちは、自分がどこから来たのか、自分が何者なのか、自分がどこに行くのかを心配しません。最も根源的な疑問が、すでに解決されたので、比較的に小さい悩みのために祈るだけです。もしかしたら、私たちの今の心配は根源的な問題が解決された存在の小さい悩みにすぎないのかもしれません。 2.主なる神との出会い – 全能者との同行。 伝道が難しい時代となりました。路傍伝道をしようとしても警察にあらかじめ申し出しなければなりません。学校の前での伝道も法律的な問題になる時代です。ポストに伝道チラシを入れたり、地域新聞の小さな広告を載せたりする程度が、現代日本においてできる最善の伝道方法であるかもしれません。しかし、私たちの最も大事な伝道は、ただ、人を教会堂に連れてくることではありません。もちろん、人を集める伝道も無くてはなりません。誰も来ないなら、教会は消滅してしまうからです。しかし、教会の伝道の最も重要な理由は、人類の共通の質問「我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか」に対する正解を宣べ伝えることではないでしょうか? 自分がどこから来たのかも分からずに迷っている人に「あなたは、あなたの主である神から来たのです。」自分の存在理由が分からずに悲しんでいる人に「あなたは主なる神の大切な子供です。」自分がどこに行けばいいのか分からずに恐れている人に「あなたは主なる神に帰らなければなりません。」と正解を教えることこそ、真の伝道ではないでしょうか? 単に「この世では幸あれ、あの世では冥福あれ」という現世と来世の安らぎのための宗教的な口車ではなく、人間の根源的な恐れと不安を乗り切らせてくださる「全能者」の存在を伝えることこそ、私たちが行うべき真の伝道ではないでしょうか? 「信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです。信仰によって、アブラハムは他国に宿るようにして約束の地に住み、同じ約束されたものを共に受け継ぐ者であるイサク、ヤコブと一緒に幕屋に住みました。アブラハムは、神が設計者であり建設者である堅固な土台を持つ都を待望していたからです。」(ヘブライ11:8-10)神に出会い、将来への不安があるにもかかわらず、主に寄りかかって、行き先も知らずに進んでいったアブラハムのように、真の全能者である神に出会う時はじめて、人は人生の意味を悟り、主に寄りかかって自分の進むべき道へ進んでいくことが出来るのではないでしょうか。神は人間に使命というものを与えてくださいました。それは行き先の知らない人生の道を、ただ心配して生きるのではなく「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。」(創1:28)と言われた、人生の主である神が共におられるのを信じ、心配を捨てて主の民として生きていくことです。「恐れることはない、わたしはあなたと共にいる神。たじろぐな、わたしはあなたの神。勢いを与えてあなたを助け、わたしの救いの右の手であなたを支える。」(イザヤ41:10) 「すべての初めであり、すべての意味であり、すべての終わりである全能なる神が、私たちの助けになってくださるから、私たちは主なる神と共に歩んでいく。」それこそが、まさに人生の真の理由ではないでしょうか。 締め括り 神がイエス·キリストをこの世に遣わされた理由は、人生の初めと終わり、人生の意味を知らずにさまよう人々を全能なる神に導いてくださるためです。神を離れて罪の中にさまよっている人間が、このイエスによって自分の罪に気づき、悔い改め、赦され、神のもとに再び立ち返らせてくださるために、主イエスは来られたのです。神は人類への愛をもって今も人々を招いておられます。さまよい人として生まれた私たちは、このイエスによって自分の進むべき道を見つけることになり、この世のすべてを創造された真の主に帰るようになるのです。私たちは主なる神から来て、主なる神の大切な子供として生き、また、主なる神に帰っていくことでしょう。人生最大の謎への答えをすでにいただき、私たちは主なる神と共に人生を生きていくことでしょう。それがキリスト者に与えられた真の祝福と恵みではないでしょうか?

わたしはブドウの木である。

ヨハネによる福音書15章1~17節(新354頁) 1.私は··· である。 新約聖書のヨハネによる福音書には、イエス・キリストの7つの自己宣言があります。それらは「私は···である」という表現を基本にします。ヨハネによる福音書でイエスは6章から15章にかけて「①私は命のパンである。(6:35) ②私は世の光である。(8:12) ③私は羊の門である。(10:7,9) ④私は良い羊飼いである。(10:11) ⑤私は復活であり、命である。(11:25) ⑥私は道であり、真理であり、命である。(14:6) ⑦私はまことのブドウの木である。(15:1,5)」と宣言されました。ここで「私は···である」という表現の意味について考えてみたいと思います。私たちは自分という存在を定義する時、「私は誰である。」と言います。「私は日本人だ。私は会社員だ。私はキリスト者だ。」などで自分という存在を表します。「私は···である」という表現によって、自分を知らなかった人々が知るようになり、自分自身も自らへのアイデンティティを確立するようになるのです。ですから、自分が誰なのかを言うことは「自分」という存在を明らかにする、とても重要な意味を持ちます。旧約聖書の創世記3章で、主なる神はエジプト帝国の奴隷だったイスラエル民族を、神が示してくださる乳と蜜の流れる土地に導かれるために指導者をお選びになりました。彼がモーセでした。モーセが初めて神に出会い「あなたはどなたですか?(あなたの名は何ですか。)」と問うた時、主は言われました。「私はある。私はあるという者だ。」主なる神もご自身を紹介される時、「私は···である。」と言われたのです。 ところで、私たち人間が言う「私は···である」と神が言われる「私は···である」には大きな違いがあります。私たちは家族の影響や社会での地位(位置)によって「私は···である」と成り立たせられてきました。しかし、神は、この世の、どんな存在からも影響を受けることなく、自らを「私は···である」と定義されたのです。私たちの名前は家族につけてもらい、私たちの地位は日本という社会の中で成り立ってきました。しかし、神は誰からの助けも影響もなく、自らご自分の存在をお定めになったのです。「私はある。 私はあるという者だ。」という多少文法に合わないような表現は、意訳すると「私は私自身である。あるいは、私は自ら存在する者である」と言えます。これはヘブライ語では「エフエ・アシェル・エフエ」ギリシャ語では「エゴ·エイミー」を翻訳した表現です。神は自らご自身のことを定義された方です。他者の影響を決して受けておられない方です。神がご自身のことを自ら定義されるということは、神が世の中のすべてのものが出来る前からおられた存在という意味です。つまり、神は創り主であるという意味です。また、神がご自身のことを自ら定義されたということは、他者の影響なしで自ら判断される方、つまり、審判者であるということです。神が言われた「私は···である」とは、神こそが全ての上に立っておられる「絶対者である」ということを明らかに示す神的な宣言なのです。 だから神が「私は···である」と言われたのは「創り主、審判者、絶対者」であるという意味になるのです。今日の本文で、イエス・キリストは、この「私は···である。」という意味のギリシャ語「エゴ·エイミー」を用いて「私は(まことのブドウの木)である」と言われたのです。主イエスがご自身のことを神として定義されたということです。先ほど申し上げましたが、イエスはヨハネによる福音書で、7回ご自分について宣言されました。神であるイエスが「私は···である」つまり「エゴ·エイミー」と宣言されたのです。 ①私は神、生命のパンである。(6:35) ②私は神、世の光である。(8:12) ③私は神、羊の門である。(10:7,9) ④私は神、良い羊飼いである。(10:11) ⑤私は神、復活であり、生命である。(11:25) ⑥私は神、道であり、真理であり、生命である。(14:6) ⑦私は神、まことのブドウの木である。(15:1,5)」ですので、私たちはこの7つの宣言の言葉を通じて、イエス·キリストがすなわち神であり、創り主であり、審判者であり、絶対者であり、また、私たちを愛して救ってくださる救い主であることが分かるようになるのです。 2.ブドウの木であるイエス。 そのイエスが、今日の本文で私たちに言われます。「私はまことのブドウの木である。」聖書においてブドウとは豊かさと神の祝福の象徴としてよく用いられる重要な果物です。そのため、新旧約聖書を問わず、さまざまな箇所で、ブドウが言及されたりします。ブドウの木は神に選ばれた民の象徴(ホセア10)、ブドウ畑はイスラエルを象徴する比喩(詩篇80)としてよく使われます。旧約聖書では、乳と蜜の流れる祝福の地をブドウに比喩する場合もあります。また、ブドウは実際にイスラエルの経済において、とても重要な資源でした。当時のブドウ農業は、新鮮な食糧を提供し、ブドウ酒を作る食材を生産し、人々には鉄分と必須ミネラルの供給する重要な農作物だったのです。というわけで、ブドウの木は代々栽培され、大事な財産としての割合を占めていたのです。それだけに、ブドウは神の祝福と密接な関りのある果物だったのです。そして、今日の本文は、この世に遣わされたメシア•イエスこそ、そのブドウに例えられる祝福の源であることを証しているのです。「わたしはブドウの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」 (ヨハネ福音15:5) 先ほど「私は···である」という自己宣言で自らを神として示されたイエスは、また、ご自身をブドウの木であるとも言われました。神の祝福と恵みの象徴であるブドウの根源であるブドウの木を通じて、イエスが神の祝福と恵みをもたらす祝福の源であることを示されたわけです。そして、そのブドウの木であるイエスに従う主の民は、主にあって実を結ぶブドウの木の枝のような存在であることをも教えてくださったのです。ですが、今日の本文には、恐ろしい言葉もあります。「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。」(ヨハネ福音15:2) もし、イエスというブドウの木につながったにも関わらず、実を結ばないならば、農夫である父なる神によって取り除かれるという話です。ということで、私たちはこのようにも考えうると思います。「実を結ばないと、自分の救いは取り消されるだろうか?」結論を言えば、そのような恐れでこの言葉を理解する必要はないということです。木につながっている枝が実を結へないのは「土地の養分が少ないか、木そのものに病気があるか、枝がつながっていないか」の中のどちらかです。父なる神が農夫であり、木はイエス·キリストであるなら、最も理想的な農場の姿ではないでしょうか? それなら実を結ばずにはいられないでしょう。枝が木につながっているならば、自然に実を結ぶようになるということです。 実を結ばないというのは、ブドウの木である「キリスト」につながっていないため、つまり主を信じておらず、御言葉に聞き従わないと言えるでしょう。主イエスを自分の希望とし、信頼して生きるならば、必ず主は実を結ばせてくださるでしょう。それでは、実とはどういうものなのでしょうか? それについては、ガラテヤ書の5章22-23節を通して探ってみることができます。「これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、 柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。」私たちは、主の民として生きながら聖霊のお導きによって「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」を教わっていきます。この9つの実については次の機会に詳しく話してみたいと思います。その中でも今日の本文は「愛」をとても大切な「実」として話しています。「あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。」(ヨハネ福音15:8,9,12)「私は•••である。」という言葉をもって、神であるご自分を証言されたイエスは、自らをブドウの木と示し、主の民が、そのブドウの木につながっている枝だと言われました。「私は自ら存在する者だ」という言葉で世のすべての被造物とご自身を区別された神ですが、イエス•キリストの「私はブドウの木である」という言葉によって、神はすべての被造物と区別されながらも、主の民と一つになって実を結ばせてくださる愛の神であることを教えてくださったのです。 締め括り 私たちは、今日の言葉を通じて、イエス·キリストが私たちにとって、どんなお方であるかを、もう一度学ぶことができます。イエスは、被造物と区別される、偉大な神でおられますが、遠くにおられる方ではなく、私たちとつながっている方であるということです。主イエスはブドウの木、主の民である教会は、ブドウの木の枝、そしてブドウの木を耕してくださる方は父なる神、実を結ばせてくださるは聖霊なる神です。このように、三位一体なる神が、イエス·キリストという仲保者を通して、常に教会と共におられながら、教会を見守っておられるということを今日の言葉を通じて憶えたいと思います。だから聖書はイエス·キリストを私たち教会の頭であると語っているのです。被造物があえて近づくことのできない絶対者である神ですが、イエス·キリストを通して、私たちと近くおられる主になってくださいました。朽ちた枝のような罪人であった私たちが、キリストによってまことのブドウの木の元気な枝になったのです。実を結ぶことができない弱い私たちがキリストによって実を鈴なりに結ぶことができるようになったのです。主イエスは神ですが、私たちの主であり、私たちを導いていかれる方です。私たちの頭であり、聖霊によって私たちに実を結ばせてくださるイエス·キリスト。今日の言葉を通じて、主の愛を憶えて生きる私たちでありますよう祈ります。

ここが神の住まい。

佐賀めぐみ教会 海東強 伝道師 イザヤ書57章19節(旧1156頁)  エフェソの信徒への手紙2章11~22節(新354頁) アメリカの西部開拓時代。一人のならず者の男が聖書を開きながら、主イエスの信仰に篤い男性に語り掛けます。 「聖書を読んだことがあるか?俺は一度読んだ。8歳の時だ。俺の父はウイスキーの飲みすぎで死んだ。母親はある日、駅で「この本を読みなさい」と聖書をくれた。母親は列車のチケットを買いに行くといった。俺は母親の言うとおりにした。一生懸命聖書を駅のベンチに座り端から端まで読んだ。読み終わるまでに3日間かかった。母親は帰ってこなかった。家族とはそれっきりだ」 先日、アメリカの聖書学者であり映画研究家のアデル・ラインハルツが綴った「ハリウッド映画と聖書」という本を読んで知った一本の西部劇があります。2007年の『3時10分、決断のとき』という作品です。鑑賞し強い衝撃を受けました。今日の聖書箇所が語るメッセージに関わりがあるので、少し触れさせていただきたいと思います。 19世紀。南北戦争が終わったばかりで、まだまだ無法者がはびこるアメリカのアリゾナ州で、強盗と殺人を繰り返した、伝説の早打ちの名手でもある凶悪犯ウェイドが逮捕されます。一方で、体が不自由ながら小さい牧場を経営する敬虔なキリスト者のエヴァンスは、牧場を維持する金を稼ぐため、悪党ウェイドを護送する一員として旅をします。悪党ウェイドは旧約聖書の箴言をはじめ、聖書の一説を引用しながら人々の心を掴み信用させます。 手っ取り早く、人のものを奪えば簡単に金は稼げるのに、なぜそうしないか?悪党ウェイドが、エヴァンスに尋ねます。「俺は神に背を向けず生きる。この生き方を子どもたちにも伝えるためだ」といいます。「俺を逃がせば、約束の二倍の報酬を現金で渡すぞ」と悪党ウェイドから買収を持ちかけられても、エヴァンスは応じません。クライマックス、彼らが最後に豪華な宿に宿泊し、そこに置かれていた聖書を開きながら、悪党ウェイドが自らの過去をはじめて語る台詞が冒頭のものです。 幼い頃、自分を捨てた親から渡された唯一の財産が聖書だった悪人。最も信頼していた親に見捨てられ、それ以降誰も信じられず、その信じられない人々が信じる聖書を利用しながら、悪党ウェイドは幼い頃から世の中を一人きり生き抜いてきました。聖書を用いれば善人とみなされ、神の国の住人として受け入れられる手段を彼は知り、利用します。彼に信仰はないはずでした。聖書はただ無常なこの世を渡るための道具でした。 しかし、聖書を、主イエスの教えを生きようとするエヴァンスの姿を通じ、悪党ウェイドの中に変化を与えていきます。映画の最後の最後、過去や生い立ちから切り離された、彼なりの神を前にした悔い改めと、正義が行われることになります。 今日与えられた聖書箇所には、私達が今までたとえ神も希望をも知らなかったとしても、キリストに招かれ、主にあって一つとなることが解かれます。信仰とは何か、赦しとは何か、平和とは何か、神のすまいはどこにあるのか?…など様々な神学的テーマが語られます。主にとらえられ、導かれる人々は、地上の人間における厳しい裏切りや競争の世界にあったとしても、あらゆる壁を越え、隔てを打ち破り、真の平和に向かう人物に変えられていきます。冒頭で語った映画と同様、この聖書箇所はそのことを私達に教えてくれます。ぜひ皆さんと味わっていきたいと思います。 今日の11節には異邦人について書かれます。「あなた方は以前には肉によれば異邦人であり」とあります。この手紙の著者がユダヤ人キリスト者であって、読者が主に異邦人キリスト者であったことを示していると思われます。改めて語る必要はありませんが、この教会にいる私達も異邦人キリスト者の一人です。ユダヤ信仰の中にある限り、ユダヤ人でない異邦人の私達は、決して神の救いに入ることはありませんでした。12節にあるように、私達はこの世の中で希望も持たず、神を知ることなく生きていた…と表現されるのです。 ユダヤ民族以外は神の救いに漏れているという考えがあることで、ユダヤ民族とそれ以外の民族で対立のきっかけは生まれます。私は、今日の箇所でユダヤ教のように、キリストを知らなければ決して人は救いも希望もない…ということを言いたいのではありません。ただ、キリストに招かれ救われ、一つにされた私達にとって、キリストを知らずに生きていた時は、確かに望みも神もなかったと、いえるのではないか?とここから語りたいのです。主イエスへの信仰を告白したのが、たとえ数日前、数年前、数十年前だったとしても、私達は主を信じるまでは、まるでユダヤ教の人たちが自分たちの民族とそれ以外の異邦人としてとらえていた時代と同じ程度の違いがあることを、この箇所は私達に呼び起こしてくれるのです。 ユダヤ教とそれ以外。その垣根を、私達は主イエスを知らなかった時と知ってからの喜びに、率直に省みることができるのです。また14節には「二つのものを一つにし、ご自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律づくめの律法を廃棄されました」とあります。信仰を隔てていたのは、神を信じるか否かだけではなく、イスラエルの民の持つ律法が隔ての明らかな一つであったことを意味します。ここでパウロは律法そのものが廃棄されなければならないこと、律法があるために遠い者と近い者という隔てが生れていたと考えるのです。そこにこそ、敵意があったのでした。だからこそ、14節のはじめにある、キリストはわたしたちの平和であります…というように、キリストの十字架によってユダヤ人も異邦人も、割礼がある人もない人も、律法を持つ人も持たない人も、一つのからだとして神と和解し、平和の福音を告げ知らされることになったのでした。 17節で、キリストがおいでになり、遠くに離れていても、近くにいても、平和の福音を告げ知らせられた…とあります。キリストご自身が伝えてくださらなかったら、私達は福音を知らず、私達は福音をこの地上の現実に生きることはできなかったことでしょう。主イエスによって福音が、隔てを打ち破る平和が教えられなかったら、今も私達は世界の中で異邦人、よそ者としての敵意の中で怒りを抱えて生きていたのかもしれません。しかしもはや、聖なる国の住民として、敵意は砕かれ、共に神に近づく者とされました。そのさらなる証といえる言葉が18節に含まれます。隔てを越えてキリストにより招かれた人々が一つの霊に結ばれます。そして「御父に近づくことができるのです」と書かれます。ここには近づける対象を神とは記しません。御父、お父さんと書かれています。神を父に例えるほどに近い存在として表現し、近づく自由が与えられているのです。 ところで、今日の聖書箇所には教会との言葉は出てきません。しかし主イエスのもとに集められた、この送り先のエフェソの教会での信者に対して、19節から激励のメッセージがあります。有名な「要石はキリスト・イエス」という表現です。教会での説教者を表現するとも思われる使徒や預言者の土台の上に建てられる、信仰を持つ神の家族。その最も下で揺らぐことなく支え、決定的な方向付けをする存在こそ、隅のかしら石、要石なるイエス・キリストなのです。 この要石に支えられ組み合わされた建物は、成長する、と書かれます。もう地上の私達が住むためだけの家とは異なり、主における聖なる神殿は、まさに私達と同じ“からだ”そのもともいえます。つまり教会とは、建物であって、キリストのからだでもあります。 教会における様々なイメージとして最後に書かれるのが、「霊の働きによって神の住まいとなる」との表現です。神の住まいとは、唯一、霊の働きによって、主において実現されるものです。つまり教会とは、主と聖霊の働きにあって、はじめて神の住まわれるところとなる、神が生きておられる存在となることを伝えます。へだたり打ち破られ、二つのものが一つになり、敵意が消えて、真の平和を共に生きる。これは教会堂そのものであることと同様に、私達の内側、私達のからだそのものに求められるものともいえます。 真の平和について…。確かに目に見える紛争や戦争、命を奪い合う対立が止むことこそが平和です。祈り求めないわけではありません。しかし常に私達は地上での気忙しさ、様々なかたちの要求を自分自身に与え、苦しみを重ねます。苦しみを増し加える中で、私達は神の前での罪を知ります。私達はその罪を認めなければなりません。そうあってこそ、私達に平和を教え、そして与えてくださいとの主への祈りが切実になると思えるのです。 本当の平和とは何か?創世記4章に現れる、人類のはじめての殺人とされる、兄カインが神から愛された弟アベルの命を奪う物語。アベルから流れた血は土の中から神に向かって呪いを叫びます。それはまさにカインへの報復への呪いでした。世界の紛争の中に、報復と呪いは充満しています。しかし主イエスが地上に現れ、自ら十字架で流した血をもって私達の罪を贖い、救いをもたらしてくれました。だからこそ私達は今、真の平和への祈りを合わせることができます。しかし弱い私達は常に報復への思いに駆り立てられるようです。 先日、著述家である河野義行さんの本『命ある限り』を読みました。ご存じのように、河野さんは1994年(平成6年)6月に発生した、オウム真理教による、松本サリン事件の被害者です。サリンにより奥様は意識不明の重体に陥り、2008年に60歳で亡くなりました。河野さんは松本サリン事件に際して事件の第一通報者で、河野さん宅に農薬があったことなどから事件への関与が疑われます。地元の長野の地方紙、全国紙を含め、多くのメディアが河野さんを犯人と決め付けます。その後山梨県のオウム真理教施設周辺で不審物が発見され、1995年3月20日の地下鉄サリン事件により、松本サリン事件もオウムの犯行と明らかになり、河野さんへの疑いは解消されます。 河野さんについて知りたいと思った最大の原因は、河野さんが許しの中に生きるためでした。河野さんは松本サリン事件で、サリンを噴霧した車を制作したとして懲役十年の刑期を満了した、オウム信者Fさんと2006年に出会います。Fさんはオウムの後継団体アレフの信者として謝罪のために河野さん宅を訪れます。河野さんの奥さんが重篤な後遺症を患う中で、謝罪をするFさんは、ただただいたたまれない様子だったといいます。当時について河野さんは「私がすることは、妻の回復を願うことだけだった。彼のやったことに対して恨みはなかった。第一彼は刑期を務めてきているのだ。社会的制裁を彼はすでに受けている」と振り返ります。 Fさんはテロ計画はもとよりサリンの噴霧車とは知らず、溶接の作業に手伝ったことだけで、懲役十年を刑に処されます。 河野さんにすれば、Fさんのそれはまったく推定有罪に縛られた自分の苦しみでした。Fさんは受刑中に、植木の選定作業を覚えたといい、河野さんは「それならうちの庭の剪定もやってよ」とお願いします。Fさんは河野さんの家を訪れる庭師となり、家族とも交流を持ち、河野さんと釣りに共に行く友人となります。その後、Fさんのオウムをめぐる信仰から脱却していったといいます。 なぜ河野さんは、妻が死の時まで後遺症に苦しませ、それまでの日常生活を奪ったオウム真理教の一人Fさんを許せたのでしょうか?河野さんはこう語ります。「社会、メディアが私に期待しているのは教祖麻原に対する血を吐く恨みの言葉なのだろう。しかし私も家族もこんなにひどい思いをした上に、さらに事件の首謀者を恨み続けて、人生を無駄はしたくない。人を恨むことは限りある自分の人生をつまらなくしてしまう。さらにその行為はとてもエネルギーがいることだ。それだけのエネルギーを使うなら、妻の介護も含め、もっと別なより有意義なことに使いたい。それが私の本音なのである。」 河野さんが信仰を持つからこそ、恨みの空しさを語り、未来へのエネルギーに変えていこうとできるのでしょうか?決して信仰によるものだけではないのかもしれません。また信仰なくしては険しい地上での道を生きられないオウムの人々への共感があったからこそ、河野さんはこういった許しへの境地に至れたのかもしれません。逆に河野さんのような生き方をしたいと、河野さんを偶像化するような人々も現れるのかもしれませんが、河野さんはそれを避けるように奥様の死去の後は長野から鹿児島に移住し、今年74歳。釣り三昧の悠々自適な生活をされます。 私は決して河野さんを偶像化しようとはしません。河野さんがどのような信仰心を持つかも知りません。ただ私達キリスト者は河野さんの中にキリストの教えが生きていることに気づきます。カルトとして暴走する教団の中、考えることを止め、信仰ではなく組織の掟に従ってしまったFさんら有名・無名の信徒たち。松本サリン事件における第一通報者の河野さんを最も逮捕に近い容疑者として推定有罪として報道したマスコミ。そしてその報道を信じた私達国民一人ひとり。全員が予想もつかない事件の中で、疑心暗鬼に内なる闇を膨らませ、正義とは何か?見失っていきます。私達は常に大きな組織の力、時代の流れに揺さぶられます。その無力さを、河野さんは当事者の一人として、痛みと共に最も実感した一人でした。人一倍、人間の無力と罪に向き合わされた方でした。だからこそ、巨大な力の暴走に抗えずまきこまれたFさんらを許すにいたったのではないでしょうか。 私達は2000年前、主イエスを十字架につけてしまった、見過ごしてしまった私達の罪を知っています。そして復活して天に上り、私達を今、迎えてくれている主イエスの尽きることのない御国に生きることを信じています。 私達は罪を知っています。だからこそ呪いや恨みを叫ぶことより、罪を贖ってくれた主イエスの赦しを、希望を生きようとします。赦してこそ、私達は初めて本当の平和を祈り求めることができるのかもしれません。その祈りの場こそ、神が住み、霊の働きが充満する、キリストのからだであるこの教会であります。また同時に、ここで霊を注がれ、神が住むのは私達一人ひとりの内側であるともいえるのではないでしょうか。神が住むのは、建物にすぎない教会堂ではありません。神を信じる私達が集うこの場所であってこそ、はじめて神の住む教会は成り立ちます。 気づいていても、気づいていなくても、主に導かれて、霊を注がれ生きる人たち。その一人が河野さんかもしれません。私達はそのような人たちを通じ、隔たりを壊して、二つを一つにする存在の源、主イエスの偉大さに改めて気づかされます。これは大きな幸いであります。なぜなら、私達は迷っても、流されそうになっても立ち返る存在を、場所を与えられているからです。これからも皆さんと共に、隔たりを、敵意を越える、私達の中にたてる教会を共に生きたいと願います。 それでは祈ります。