イザヤ書41章10節(旧1126頁)
テサロニケの信徒への手紙一5章16~18節(新379頁)
前置き
今年、志免教会は「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそキリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」 (1テサロニケ5:16-18)を主題聖句としました。主のもとで、いつも喜び、祈り、感謝する日々を生きる志免教会であったらとの思いで、この言葉を決めたのですが、むしろ今年は喜びと感謝で生きづらい、さまざまなことがありました。そこで、今年の主題聖句を、これにしたため「主に試みられているだろうか、私のミスだろうか」と後悔する時もありました。ところが、改めて考えてみると、喜ぶことも、感謝することも難しい一年ではあったが、それによって祈るようになったと気づくことになりました。私たちのことがうまくいけばいくほど、喜びと感謝はしやすいが、切な祈りは減っていくと思います。しかし、つらければつらいほど、祈りにもっと力を注ぐようになります。そんな理由で、今年いろいろ大変なことがありましたが、私たちは祈りに力を注ぎながら今まで歩んできました。もしかしたら、今年の主題聖句の喜びと感謝を実践しつつ生きることは難しかったもしれませんが、少なくとも、神への祈りという大事な一つは教えていただいたのかもしれません。
1. イエスを信じているのにつらいことが起きる理由。
人によって信仰の経験がそれぞれ異なると思いますが、非常に強烈な霊的経験をする人もしばしないます。夢でイエスに会ったり、祈り中に主の声を聞いたり、大きな交通事故に遭ったが全く怪我をしなかったり、邪悪な霊的存在と祈りで闘ったり、極上の喜びを経験したりするなど、不思議なことを経験する人も世の中にはきっといるでしょう。私も回心したばかりの時、そのような経験がありましたが、イエスによって極上の喜びを感じることでした。数年間さまよい、30歳に主のもとに立ち帰り、回心し、主の民として生きようと誓ったころでした。その2年後に神学校に入学したので、その経験で牧師の道を歩むようになったのかもしれません。とにかく、その当時は今後何の心配もなく、すべてがうまくいき、永遠に幸せに生きるだろうと思いました。主がが私の憂いと悲しみと苦しみをすべて除去してくださると思ったからです。しかし、その経験は一ヶ月も続かず、霊的な興奮はおさまりました。その後、神学校入学のために毎日公共図書館に通いながら聖書と教理書を読みました。一年間聖書を10読もしました。そして母教会の青年礼拝と祈祷会にも毎週出席し、教会生活に頑張りました。その1年後、自分自身を振り返った時、私はまた心配の中に生活していました。1年前の喜びに満ちた私の姿はどこにもありませんでした。
その時、私には一つの疑問がありました。イエスを信じるのに、なぜまた心配しているだろうか? イエスを信じるのに、ことがうまくいかない人はなぜだろうか? イエスを信じるのに、苦しい人がいる理由はなぜだろうか? 母教会の青年たちの中には誠実に信仰生活するにもかかわらず、心配に満ちた人、すべてがうまくいかない人、さまざまな事情で苦しんでいる人がいたからです。なぜ、私たちはイエスを信じているのに、悲しみと苦しみと挫折を経験するのでしょうか? 初代教会にもこんな悩みを抱えている人たちがいたようです。今日の新約本文の背景である古代テサロニケ教会には、いわゆる千年王国がすでに臨んでいるので、主なる神を信じる者には平和と安定だけがあり、迫害と苦難の中にいる者は主を正しく信じず、間違った信仰を持っていると主張する偽りの教師たちがいたようです。そのような理由で、テサロニケ教会の人々の中には、自分の信仰が果たして正しいかどうかと疑い、彼らの主張に心を奪われる人もいたようです。イエスを信じているにもかかわらず、依然として心配と苦しみを感じる私たちのように、その時の人々にも同様の悩みがあったわけです。
2. 苦難は祈りをもたらす。
しかし、私たちが知っておくべきことは、イエスを信じるからといって、この地上での私たちの憂いと悲しみと苦しみが完全に消えるわけではないということです。多くの人々が主イエスが自分のすべての憂いと悲しみと苦しみをなくしてくださるだろうと誤解します。しかし、現実は違います。なぜ、主は私たちの憂いと悲しみと苦しみをなくしてくださらないのでしょうか? 一つ、主なる神は人間の感情に無理やりに立ち入り、まるで操り人形のように操る方ではないからです。もちろん、神は私たちの真の親なので、ご自分の民が憂いと悲しみと苦しみで悩んでいることを放っておかれる方ではありません。しかし、喜怒哀楽は人間を人間らしくする人間の一部です。何の感情もなくただ喜びばかりであるなら、それは麻薬と同じなのでしょう。二つ、主の民は、この世と反対の価値観の存在だからです。魚は川や海の水の中に生きなければなりません。魚が水の外に出てくると、苦しみは当たり前でしょう。私たちは御国に属した存在ですが、世の権勢が支配する地上で生きています。御国の民である私たちは、この世を生きながら盲目的に喜びと幸せだけで生きることができません。キリスト者なら、この世と異なる価値観によって苦しむのが正常です。
三つ、人間の罪は、憂いと悲しみと苦しみをもたらします。私たちが生きるこの世は、創造の時のエデンの園ではありません。初めての人間が神に逆らう罪を犯した結果は残酷でした。長男が次男を殺し、子孫たちは代々憎しみあい、対立しました。男は苦労して働かなければならず、女は出産の苦通を経験しなければならないという創世記の言葉で、聖書は人間の罪によって憂いと悲しみと苦しみの種が生まれたことを示しています。人間の罪がある限り、この世を生きるすべての存在は、憂いと悲しみと苦しみから完全に自由になることは出来ません。最後に憂いと悲しみと苦しみがあるからこそ、主なる神を探し求めるようになります。立派な親は、子供の要求をすべて聞いてくれるわけではありません。許可する時もありますが、断る時の方がさらに多いです。無条件の許可は子供の教育に良くないからです。時々、主は私たちの生活に憂いと悲しみと苦しみを許され、早く解決してくださらない時もあります。しかし、信仰のある人ならその状況でしばらくは戸惑うかもしれませんが、結局は祈るようになります。主なる神に力がないので、私たちの憂いと悲しみと苦しみを放っておかれるわけではありません。逆境の中で祈り、主を求め、信仰が成長するようにしてくださるために主は憂いと悲しみと苦しみを用いられるのです。
3. にもかかわらず、喜びと感謝とで生きる理由
私たちは主の救いによって永遠という人間がはかり知ることのできない恵みの中に入っています。イエス·キリストの救いによって永遠の命が与えられているからです。つまり、この地上での人生が私たちのすべてではないということです。私たちは主と共に時空間を超越する神のご統治の中で永遠の命の中に生きるようになるでしょう。この地上での憂いと悲しみと苦しみも同じです。青年時代の労苦が老年には思い出になると同じように、この地上での憂いと悲しみと苦しみも永遠の中では極めて小さなことと記憶されるでしょう。キリスト者はその永遠の命を信じて生きる存在です。すでに永遠に入っている私たち、それでも私たちはこの世を去る時まで、ここで生き続けなければなりません。そのため、この世で経験する憂いと悲しみと苦しみは、私たちがこの世を去るまで私たちについてくるでしょう。その都度、私たちは挫折するのでしょうか? 主は私たちがすべての憂いと悲しみと苦しみの中でも私たちを絶対に見捨てられない御恵みを憶え、信仰によって生きることを望んでおられます。だから、キリスト者はいつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝して生きるべきです。聖書はそれこそが私たちへの主の御心であると語っているのです。この世の苦しみとは比べ物にならない真の喜びと平和が、主によって私たちの永遠の中にすでに与えられているからです。
締め括り
「恐れることはない、わたしはあなたと共にいる神。たじろぐな、わたしはあなたの神。勢いを与えてあなたを助けわたしの救いの右の手であなたを支える。」(イザヤ41:10)私は、今年の牧会は完全に失敗だと思いました。皆さんにも無力な姿を度々お見せして申し訳なく思います。皆さんにとっても2024年は厳しい1年だったと思います。しかし、私たちは今もなおここで主なる神に礼拝を捧げています。喜びと感謝は例年よりは少なかったかもしれませんが、私たちは祈り続けてきました。そして、私たちの憂いと悲しみと苦しみの中でも移り変わりのない主が私たちと共にあゆんでくださいました。主は私たちといつも共におられ、永遠に一緒に生きておられるでしょう。新年を迎えている今、私たち共におられ、支えてくださる主を憶え、喜びと祈りと感謝とで生きる私たちでありますように祈り願います。