我が民を慰めよ。
イザヤ書40章1~11節(旧1123頁) マルコによる福音書1章1~8節(新61頁) 前置き この世は病んでいます。こんにちにも世の中には戦争が絶えず、人と人の間の憎みあいが絶えず、社会には不条理がはびこっています。この世の多くの人々が苦しみと不安の中に生きています。なぜ、この世はこんなに良くないもので満ちているのでしょうか? 聖書は、これらすべての不幸が人間の罪から生まれたと語っています。そして、その罪の解決から真の回復と慰めが与えられると語ります。このような世の中を見守っておられる主なる神は、今日もこの世の罪を赦し、すべての人々が神の救いをいただき、真の平和と慰めのある人生を生きることを望んでおられます。私たちが主とあがめるイエス•キリストは、この世を傷つける罪の問題を解決し、神の真の赦しと慰めの成就のために、この世においでになりました。キリストによる罪の赦しと回復。神は自分の力で罪の問題を解決できない、病んでいるこの世を慰め、回復させてくださるために、ご自分のひとり子を遣わしてくださったのです。 1. 喜んで赦してくださる主。 イザヤ書40章は、かつて主なる神への背反、つまり偶像崇拝の罪のために、神の裁きを受け、滅びてしまった旧約のイスラエル民族の回復を宣言する言葉です。神は国々の中でイスラエルを聖別され、神の栄光をあらわす祭司の国として打ち立ててくださいました。しかし、時間が経つにつれて、イスラエルは主の御旨に背き、自分たちの欲望に従って主の御言葉を無視し、他の神々に仕え、主を離れてしまいました。主なる神は彼らに悔い改め、立ち返りを呼びかけられましたが、彼らは変わらず、自分の欲望を神とし、主の御心に逆らってしまいました。その結果、アッシリアとバビロンといった大帝国に侵略され、イスラエル王国は滅びてしまったのです。しかし、その滅びはイスラエルへの神の無慈悲な仕返しとしての滅びではなく、イスラエルを悔い改めさせ、主に立ち帰らせる戒めとしての滅びでした。そのため、神は約70年後にイスラエルを再び回復させ、故郷に帰らせることを決心されました。今日の旧約の本文は、そのイスラエルへの神の赦しと慰めと回復を宣言する言葉なのです。 「慰めよ、わたしの民を慰めよと、あなたたちの神は言われる。エルサレムの心に語りかけ、彼女に呼びかけよ。苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。罪のすべてに倍する報いを主の御手から受けた、と。」(イサヤ40:1-2)主なる神は、ご自分の民を愛してくださる方です。彼らがたとえ神を裏切る罪を犯したとしても、神はご自分の民イスラエルを完全には見捨てられず、再び回復させ、神のふところに抱いてくださることを望んでおらえる方です。だから、神は、さながら親が子供を戒めるかのように、イスラエルを戒め、彼らを完全に滅ぼされず、悔い改めへと導いてくださいます。主なる神は破滅と審判より、赦しと慰めをさらに望まれる方です。主の民が罪によって堕落したとしても、主は彼らを見守り、赦し、愛をもって正してくださることを望まれる方です。主は民が罪を悔い改め、立ち返るなら、必ず彼らを受け入れてくださる方です。神の民が悔い改めつつ、神の御前に出てくる時、主なる神はわたしの民よと喜んで呼ばれ、赦してくださる方なのです。 2.主なる神の移り変わりのないご意志。 「呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え、わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。主の栄光がこうして現れるのを、肉なる者は共に見る。主の口がこう宣言される。」(40:3-5) 神はご自分の民イスラエルが滅びと捕囚の状態から回復し、再び彼らの故郷であるイスラエルに帰還すると預言されます。そして、その嬉しい便りを公に宣言されます。主がご自分の民イスラエルを回復させる時、荒れ野には神の道が備わり、谷と山、丘、険しい道は平らになるという比喩によって、誰も神の民の回復を妨げることができないと宣言されたのです。 そして、その民と共に歩んでくださる神の御業を「主の栄光」であると語ります。神は誰よりもご自分の民の回復を喜び、望まれる方です。主はその民の回復のためのご自分の御業がすなわち主の栄光であると公に言い現わされたのです。 「肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの。草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい。草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。」(40:6-8) 神は世の中のすべての肉なる者は草と花のように枯れてしまうが、イスラエルを必ず回復させるという神の言葉だけは永遠に変わらないという言葉を通して、ご自分の民の回復への神のご意志(御言葉)は、世のすべてが変わっても絶対に変わらず、成し遂げられると宣言されました。イスラエルは滅びて無力な存在となったのですが、主は必ずご自分の民を回復させ、新たにするという希望の約束をくださったのです。一度失敗した存在を見捨てず、起こして新たにするという神の希望のメッセージ。これは罪人をあきらめられない主なる神の積極的な愛を表します。「あなたたち罪人は失敗の存在だが、わたしはあなたたちを決してあきらめない。」この主のご意志が罪人たちへの救いにまでつながるのです。 そして、そのような神のご意志は新約時代に入ってイエス•キリストという救い主の登場につながります。 3. キリストの到来の意味。 今日の新約の本文は、イエスの公生涯(イエスの地上での御業3年)の始まりを告げ知らせる言葉です。そして、その言葉には今日の旧約本文イザヤ40章の言葉が引用されています。「神の子イエス・キリストの福音の初め。預言者イザヤの書にこう書いてある。見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」(マルコ1:1-3)、このようなマルコ福音書とイザヤ書の言葉の関りを通して、ご自分の民を回復へと導かれる主の御業(栄光)が、まさにこのイエス•キリストの到来を意味するものであり、このイエスによって、神のお赦しとお慰めが、この世に伝わり、罪によって苦しむ存在が赦され癒されることが推測できます。世の中のすべての肉なる者は、草と花のように枯れてしまうが、神の御言葉と呼ばれるイエス•キリストのご恩寵は絶対に妨げられず、必ず成就することを今日の新約と旧約の本文を通して知ることができるのです。 神は旧約で罪によって堕落し、滅びてしまったイスラエルの回復と救いを宣言されました。しかし、神は、新約聖書を通しては、メシア、イエス•キリストを遣わされ、イスラエルに限られた回復と救いではなく、全人類が罪から赦される究極的な回復と救いを宣言されたのです。イザヤ書を通して伝わった主の民のための神の慰めはキリストによって、さらに拡大し、全人類を対象に広がっていくことになったのです。イエス・キリストがこの地上に来られたということは、神の慰めと救いの恵みがイスラエルという一民族を超えて、人類という世界中のすべての民族に広げられたということを意味します。この世は、罪によって依然として病んでおり、戦争も絶えず起こっていますが、そのすべての痛みと苦しみを主なる神は知っておられ、キリストを通して、共に痛がっておられます。 そして、いつか主はイエス•キリストを通して、その罪の痛みと苦しみから主の民を回復させ、慰めてくださるでしょう。 締め括り クリスマスのシーズンになると、街はクリスマスの飾りで輝き、大勢の人々はクリスマスケーキやお酒などを飲み食いしながら、クリスマスを楽しみます。しかし、多くの人はクリスマスの本当の意味も分からず、ただ雰囲気に流されて楽しむようになる場合が多いです。そんな時こそ、私たちキリスト者は罪を赦し、真の慰めを与え、回復と救いを与えるために来られた主イエス・キリストのご到来を記念し、憶えなければなりません。キリストが来られたということは、この世への神の愛と慰めが、近くに来ていることを意味します。このような神の愛を記憶し、アドベントの期間とクリスマスを過ごしていきたいと思います。