喜びと祈りと感謝の生活。

イザヤ書41章10節(旧1126頁) テサロニケの信徒への手紙一5章16~18節(新379頁) 前置き 今年、志免教会は「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそキリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」 (1テサロニケ5:16-18)を主題聖句としました。主のもとで、いつも喜び、祈り、感謝する日々を生きる志免教会であったらとの思いで、この言葉を決めたのですが、むしろ今年は喜びと感謝で生きづらい、さまざまなことがありました。そこで、今年の主題聖句を、これにしたため「主に試みられているだろうか、私のミスだろうか」と後悔する時もありました。ところが、改めて考えてみると、喜ぶことも、感謝することも難しい一年ではあったが、それによって祈るようになったと気づくことになりました。私たちのことがうまくいけばいくほど、喜びと感謝はしやすいが、切な祈りは減っていくと思います。しかし、つらければつらいほど、祈りにもっと力を注ぐようになります。そんな理由で、今年いろいろ大変なことがありましたが、私たちは祈りに力を注ぎながら今まで歩んできました。もしかしたら、今年の主題聖句の喜びと感謝を実践しつつ生きることは難しかったもしれませんが、少なくとも、神への祈りという大事な一つは教えていただいたのかもしれません。 1. イエスを信じているのにつらいことが起きる理由。 人によって信仰の経験がそれぞれ異なると思いますが、非常に強烈な霊的経験をする人もしばしないます。夢でイエスに会ったり、祈り中に主の声を聞いたり、大きな交通事故に遭ったが全く怪我をしなかったり、邪悪な霊的存在と祈りで闘ったり、極上の喜びを経験したりするなど、不思議なことを経験する人も世の中にはきっといるでしょう。私も回心したばかりの時、そのような経験がありましたが、イエスによって極上の喜びを感じることでした。数年間さまよい、30歳に主のもとに立ち帰り、回心し、主の民として生きようと誓ったころでした。その2年後に神学校に入学したので、その経験で牧師の道を歩むようになったのかもしれません。とにかく、その当時は今後何の心配もなく、すべてがうまくいき、永遠に幸せに生きるだろうと思いました。主がが私の憂いと悲しみと苦しみをすべて除去してくださると思ったからです。しかし、その経験は一ヶ月も続かず、霊的な興奮はおさまりました。その後、神学校入学のために毎日公共図書館に通いながら聖書と教理書を読みました。一年間聖書を10読もしました。そして母教会の青年礼拝と祈祷会にも毎週出席し、教会生活に頑張りました。その1年後、自分自身を振り返った時、私はまた心配の中に生活していました。1年前の喜びに満ちた私の姿はどこにもありませんでした。 その時、私には一つの疑問がありました。イエスを信じるのに、なぜまた心配しているだろうか? イエスを信じるのに、ことがうまくいかない人はなぜだろうか? イエスを信じるのに、苦しい人がいる理由はなぜだろうか? 母教会の青年たちの中には誠実に信仰生活するにもかかわらず、心配に満ちた人、すべてがうまくいかない人、さまざまな事情で苦しんでいる人がいたからです。なぜ、私たちはイエスを信じているのに、悲しみと苦しみと挫折を経験するのでしょうか? 初代教会にもこんな悩みを抱えている人たちがいたようです。今日の新約本文の背景である古代テサロニケ教会には、いわゆる千年王国がすでに臨んでいるので、主なる神を信じる者には平和と安定だけがあり、迫害と苦難の中にいる者は主を正しく信じず、間違った信仰を持っていると主張する偽りの教師たちがいたようです。そのような理由で、テサロニケ教会の人々の中には、自分の信仰が果たして正しいかどうかと疑い、彼らの主張に心を奪われる人もいたようです。イエスを信じているにもかかわらず、依然として心配と苦しみを感じる私たちのように、その時の人々にも同様の悩みがあったわけです。 2. 苦難は祈りをもたらす。 しかし、私たちが知っておくべきことは、イエスを信じるからといって、この地上での私たちの憂いと悲しみと苦しみが完全に消えるわけではないということです。多くの人々が主イエスが自分のすべての憂いと悲しみと苦しみをなくしてくださるだろうと誤解します。しかし、現実は違います。なぜ、主は私たちの憂いと悲しみと苦しみをなくしてくださらないのでしょうか? 一つ、主なる神は人間の感情に無理やりに立ち入り、まるで操り人形のように操る方ではないからです。もちろん、神は私たちの真の親なので、ご自分の民が憂いと悲しみと苦しみで悩んでいることを放っておかれる方ではありません。しかし、喜怒哀楽は人間を人間らしくする人間の一部です。何の感情もなくただ喜びばかりであるなら、それは麻薬と同じなのでしょう。二つ、主の民は、この世と反対の価値観の存在だからです。魚は川や海の水の中に生きなければなりません。魚が水の外に出てくると、苦しみは当たり前でしょう。私たちは御国に属した存在ですが、世の権勢が支配する地上で生きています。御国の民である私たちは、この世を生きながら盲目的に喜びと幸せだけで生きることができません。キリスト者なら、この世と異なる価値観によって苦しむのが正常です。 三つ、人間の罪は、憂いと悲しみと苦しみをもたらします。私たちが生きるこの世は、創造の時のエデンの園ではありません。初めての人間が神に逆らう罪を犯した結果は残酷でした。長男が次男を殺し、子孫たちは代々憎しみあい、対立しました。男は苦労して働かなければならず、女は出産の苦通を経験しなければならないという創世記の言葉で、聖書は人間の罪によって憂いと悲しみと苦しみの種が生まれたことを示しています。人間の罪がある限り、この世を生きるすべての存在は、憂いと悲しみと苦しみから完全に自由になることは出来ません。最後に憂いと悲しみと苦しみがあるからこそ、主なる神を探し求めるようになります。立派な親は、子供の要求をすべて聞いてくれるわけではありません。許可する時もありますが、断る時の方がさらに多いです。無条件の許可は子供の教育に良くないからです。時々、主は私たちの生活に憂いと悲しみと苦しみを許され、早く解決してくださらない時もあります。しかし、信仰のある人ならその状況でしばらくは戸惑うかもしれませんが、結局は祈るようになります。主なる神に力がないので、私たちの憂いと悲しみと苦しみを放っておかれるわけではありません。逆境の中で祈り、主を求め、信仰が成長するようにしてくださるために主は憂いと悲しみと苦しみを用いられるのです。 3. にもかかわらず、喜びと感謝とで生きる理由 私たちは主の救いによって永遠という人間がはかり知ることのできない恵みの中に入っています。イエス·キリストの救いによって永遠の命が与えられているからです。つまり、この地上での人生が私たちのすべてではないということです。私たちは主と共に時空間を超越する神のご統治の中で永遠の命の中に生きるようになるでしょう。この地上での憂いと悲しみと苦しみも同じです。青年時代の労苦が老年には思い出になると同じように、この地上での憂いと悲しみと苦しみも永遠の中では極めて小さなことと記憶されるでしょう。キリスト者はその永遠の命を信じて生きる存在です。すでに永遠に入っている私たち、それでも私たちはこの世を去る時まで、ここで生き続けなければなりません。そのため、この世で経験する憂いと悲しみと苦しみは、私たちがこの世を去るまで私たちについてくるでしょう。その都度、私たちは挫折するのでしょうか? 主は私たちがすべての憂いと悲しみと苦しみの中でも私たちを絶対に見捨てられない御恵みを憶え、信仰によって生きることを望んでおられます。だから、キリスト者はいつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝して生きるべきです。聖書はそれこそが私たちへの主の御心であると語っているのです。この世の苦しみとは比べ物にならない真の喜びと平和が、主によって私たちの永遠の中にすでに与えられているからです。 締め括り 「恐れることはない、わたしはあなたと共にいる神。たじろぐな、わたしはあなたの神。勢いを与えてあなたを助けわたしの救いの右の手であなたを支える。」(イザヤ41:10)私は、今年の牧会は完全に失敗だと思いました。皆さんにも無力な姿を度々お見せして申し訳なく思います。皆さんにとっても2024年は厳しい1年だったと思います。しかし、私たちは今もなおここで主なる神に礼拝を捧げています。喜びと感謝は例年よりは少なかったかもしれませんが、私たちは祈り続けてきました。そして、私たちの憂いと悲しみと苦しみの中でも移り変わりのない主が私たちと共にあゆんでくださいました。主は私たちといつも共におられ、永遠に一緒に生きておられるでしょう。新年を迎えている今、私たち共におられ、支えてくださる主を憶え、喜びと祈りと感謝とで生きる私たちでありますように祈り願います。

天には栄光、地には平和。

ルカによる福音書2章8~14節(新103 頁) 前置き 今年も無事に今まで過ごし、クリスマスを迎えています。今日は主イエスのご誕生と再臨を待ち望むアドベント(待降節)の第4主日であり、主イエスのご誕生をお祝いするクリスマス記念主礼拝の日でもあります。クリスマスが近づいてくると、近場のイオンモールや博多駅、天神の街には、華やかな飾り付けがいっぱいになります。日本ではクリスマスが祝日ではありませんが、多くの人々がクリスマス気分を満喫するために家族、恋人、友人と一緒に時間を過ごします。コンビニではクリスマスケーキの注文を受け付けており、あるチキン専門店では「クリスマスはフライドチキンを食べる日」と宣伝しています。しかし、キリスト者である私たちは、クリスマスがただ人々の楽しみのための日ではなく、人類の罪を赦し、永遠の死から救うためにこの地上に来られたイエス・キリストのご誕生を記念する日であるということを忘れてはなりません。今日はルカによる福音書の御言葉「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」を通じてクリスマスの意味について考えてみたいと思います。 1. 主イエスのご誕生の夜 ローマの皇帝アウグストゥスが支配していた時代、皇帝はローマ帝国と植民地のすべての住民に戸籍を登録せよと命じました。イスラエルの昔の王ダビデの子孫だったイエスの両親は戸籍登録のためにダビデの村である「ベツレヘム」へ足を運びました。イエスの母親は臨月の体でイエスが生まれるのを待っていました。その頃、ベツレヘム地域の羊飼いたちが、夜、外で羊を守っていました。ベツレヘムは山地なので、かなり寒いところでした。その夜、羊飼いたちは忽然と現れた主なる神の天使を見るようになりました。彼らが恐れると、天使は言いました。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」(ルカ福音2:10-11) その時、さらに多くの天使の大軍が加わり、いと高き神とその日お生まれになった御子を賛美しました。天使たちが消えると、羊飼いたちは赤ん坊として生まれた救い主(メシア)イエスのご誕生を見るためにベツレヘムに向かいました。 多くの人々が戸籍登録のためにベツレヘムに来ていたので、イエスの両親は泊りを見つけることができませんでした。それでやっと普通の家の馬小屋で一晩を泊まることとなりました。そういうわけで、神の子は寒い冬の夜、王宮ではなく家畜が寒さを避ける馬小屋にお生まれになったのです。なぜ、イエスは華やかなエルサレムの王宮ではなく、小さな村ベツレヘムのみすぼらしい馬小屋に生まれられたでしょうか? 羊飼いたちに現れた天使が言ったように「民全体に与えられる大きな喜び」つまり、救いの福音を伝えてくださるためでした。イエスはお金持ち、権力者、身分の高い者が中心となるこの世の中で、貧しい者、弱い者、病んでいる者にも慰めと愛の良い知らせを伝えてくださるために、最も高いところから、最も低いところに来られたのです。そんな理由で、主なる神の天使たちも貴族や権力者ではなく、当時のイスラエル地域で最も身分の低い階層だった羊飼いたちに一番先に現れたのかもしれません。イエスは人生の思い煩いと疲れの中で苦しんでいるこの世のすべての人々のために最も低いところに来られたわけです。そして、主なる神の栄光と人々の平和のためにご自分のすべてをささげられたのです。クリスマスは、このイエスのご誕生を憶え、記念する日です。主イエスは、私たちと隣人とすべての人々を愛しておられるため、寒くてみすぼらしくて低いところに喜んで来られたのです。 2. 天には栄光 イエスは天には栄光を、地には平和を与えるために来られました。本文には「いと高きところ」と記してありますが、天に解釈しても問題ありません。古代イスラエルの世界観において、天とは、人間が至ることのできない偉大な神の領域を意味しました。天使も、悪魔も、人も、天に至ることは絶対に許されていなかったのです。つまり、天は、主なる神の権勢を意味し、神の存在そのものを意味すると言える象徴だったのです。ところで、主イエスは、その天の神に栄光を帰すためにこの世に来られました。「栄光」とは何でしょうか? 私たちは栄光という漢字語を目にすると、明るく輝く何かを思い起こしやすいです。実際にも、そういうイメージの漢字語です。しかし、聖書が語る栄光はそれとは少し異なります。聖書が語る「栄光」とは「ある存在がその存在として最もふさわしい完全な姿でいるさま」を意味します。例えば、生徒なら、学校で熱心に勉強し、友達と仲良く生活し、自分の未来のために準備することが光栄です。教師なら、生徒を愛し、誠実に教え、指導することが光栄です。牧師なら、聖書の御言葉をありのままに研究して説教を作り、伝え、誠実に牧会することが光栄です。キリスト者なら、イエスを堅く信じて主なる神の御心に聞き従って生きることが光栄です。聖書における栄光とは「ある存在がその存在として最もふさわしい完全な姿でいるさま」を意味する言葉なのです。 それでは、「神の栄光」とは何でしょうか。創造主である神が、この世のすべての被造物に絶対者として讃美と礼拝を受けられることです。その方おひとりだけが真の主だからです。しかし、この世は罪によって創造主から離れてしまいました。特に人間は本能的に主の支配のもとにいるのを嫌い、自ら主のようになろうとする性質を持っています。このような世の中で神がこの世の人々から讃美と礼拝をされ、絶対者として崇められるのはあり得ないことです。しかし、主イエスのご到来とその方の救いを伝える福音により、罪人たちも「創造主」神の存在が認識できるようになりました。そして、主の恵みによって特別に選ばれた者たちは、神を信じる信仰が与えられ、その方の民として生きるようになります。このような神の民によって人々は神について聞くようになり、神を信じる人々がさらに増えていきます。その中で最初の教会も打ち立てられたわけでしょう。主イエスの存在によって神と完全に遠ざかってしまったこの世の人々は、神に近づくようになります。そして、主イエスはご自分の犠牲と恵みとで罪人の罪を赦してくださいます。したがって、神と人をつないでくださる主イエスの存在のため、神が神として主の民に賛美と礼拝され、神らしくおられるようになります。 3. 地には平和。 このイエスは、また地には平和を与えてくださる方です。聖書の御言葉に基づいて正確に言えば「地上にいる御心に適う人への平和」です。先に申し上げたように、古代イスラエルの世界観において、地は人間の領域を意味します。神の創造通りの罪ない人間ではなく、罪によって堕落した罪人としての人間が生きるところです。そのため、地は憎しみと妬み、対立と葛藤、競争と戦争が絶えないところです。「PAX ROMANA」という言葉があります。「ローマの平和」を意味するラテン語です。このローマの平和は、みんなの平和ではありませんでした。ローマが平和であるためには、周辺の国々を征服して植民地にしなければなりませんでした。沖縄はもともと琉球王国で、日本に属する地域ではありませんでした。しかし、日本の平和のために薩摩藩が征伐し、日本に編入してしまいました。今でも日本国内の米軍部隊の8割が沖縄県内に集中しているそうです。日本の平和のために、沖縄は軍事基地化されているのです。誰かの平和のために誰かが犠牲になるのは、真の平和ではありません。それは戦争と競争の結果による弱肉強食の発露です。この世は平和を望んでいません。誰もが平和であれば、権力者は自分の利権を享受できないからです。そのため、権力者は口先では平和を語りながら、実際には平和を望んでいないのです。 しかし、主イエスは違います。この世は既得権者のために弱者を犠牲にし、偽りの平和を語ります。しかし、この世のすべてのものの主であるイエスは、むしろ弱い者のためにご自分を犠牲にされました。「敵を愛しなさい、隣人を愛しなさい。罪人の救いのために私は死ぬ。」自分の欲望ではなく、他者の平和のために、主イエスは喜んで十字架で死んでくださったのです。このような主イエスの生き方が、その方の民である私たちにも求められています。人はもともと神と敵として生まれます。しかし、神の敵には永遠の裁きが与えられるだけです。しかし、イエスは罪人を救い、神の敵ではなく子供であり民であるように身分を変えてくださいました。そのために主イエスは、私たちの罪を担い、私たちに代わって十字架で死んでくださったのです。イエスがこの世に来られ、人間の罪を完全に赦し、神の敵という身分を完全に抹消してくださるのです。イエスによって神と私たちの間に平和が生まれたのです。そのため、私たちはこの神の民としてキリストが伝えてくださった真の平和を世の中に伝えながら生きるべきです。神と隣人を愛し、力ある何人かの平和ではなく、皆の平和のために生きていかなければなりません。神はこの世のすべての人がご自分の御心に適う者になることを望んでおられます。世のすべての人がそうなりますように主イエスは今でも執り成しておられます。 締め括り クリスマスの本当の主人公はイエス·キリストです。クリスマスという言葉そのものも、キリストを礼拝するという意味のラテン語に由来しました。神の真の栄光のために、そして、この世のすべての人々の真の平和のために主イエスはお生まれになりました。クリスマスを通じて、家族、親戚、友人と幸せな時を過ごされますように祈ります。しかし、何よりも大事なこと、主イエスこそが私たちの罪を赦し、救ってくださるために、この世のすべての人々を愛し、慰めてくださるために、神と罪人の間の真の和解のために来られたことを憶えつつ、このクリスマスを迎えましょう。

良い実を結ぶ木。

イザヤ書5章1~7節(旧1067頁) ルカによる福音書3章7~18節(新105 頁) 前置き 今日は、アドベントの第3主日です。そして、次の週は、アドベントの第4主日で、クリスマス記念礼拝の日です。志免教会では、アドベントが始まると、各主日に一本ずつろうそくを灯します。この伝統は初代教会から始まったわけではなく、中世時代のヨーロッパの一部の地域で家庭礼拝や夕食、夕方の祈りの際にろうそくに火をつけたことに由来すると言われます。このように4本のろうそくにそれぞれ火をつける行為によって、希望、愛、喜び、平和を祈ったそうです。そういう意味として、1本目のろうそくは希望を、2本目のろうそくは愛を、3本目のろうそくは喜びを、4本目のろうそくは平和を象徴すると言われます。したがって、今日、灯したこの3本目のろうそくは、キリストによる真の喜びを祈るろうそくであります。喜び、本当の喜びとは何でしょうか? 主イエスのご降臨によって私たちは何を喜ぶべきでしょうか。今日はキリスト者の真の喜び、そして神が喜ばれる教会のあり方について考えてみたいと思います。 1. 喜びについて深く考える。 先ほど、3本目のろうそくはキリストによる真の喜びを象徴するものだとお話ししました。それでは、ここで言う喜びとは何でしょうか? 人は本能的に幸せと喜びを追い求める存在です。適切な経済的な豊かさ、家族との仲良し、職場での安定、穏やかな日常、病気なく元気に生活することなど。私たちは波風のない人生を追求し、それを私たちの喜びと思いがちです。そういう意味で、キリストによる喜びについて、私たちはどのように理解していますでしょうか? イエスを信じることによって得る、この世での安らぎと幸せだと考えているのではないでしょうか? 例えば、主が経済的に満たしてくださること、主が自分と家族を守ってくださること、自分が職場で認められるように主が助けてくれること、主が私たちの心配と苦難をすべて消してくださること。それらが主による喜びなのでしょうか? しかし、私たちの人生に試練と苦難があまりにも多いのではないでしょうか。主が真の喜びを与えてくださると聖書は語りますが、私たちの人生においては、喜びよりは悲しみのほうが、さらに多いかもしれません。つまり、私たちが考える喜びと主による喜びは、別の種類の喜びであるかもしれないということです。 「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」(マタイ福音5:11-12) 聖書は、キリスト者の喜びと幸いについて、この世の価値観のように語っていません。もちろん、主なる神も主の民が、この地上での喜びと幸いを享受しながら生きることを望んでおられるでしょう。子供が苦しみの中で生きることを望む親はいないからです。しかし、キリスト者だといっても、この世において苦難と悲しみにあうことはあり得ます。主を信じるからといって、一生を喜びと幸せばかりに生きるわけではないからです。特に信仰を守りながら生きるなら、信仰を守れば守るほど、この世の価値観とぶつかるキリストの価値観によって世に嫌われることも多いです。したがって、私たちは聖書が語る喜び、キリストによる喜びという言葉が、世の人々が考える漠然とした喜び、幸せとは異なるということを認識し、深く考えて生きるべきです。 2. 神の到来に備えているか? キリスト教では、年に2回、レントとアドベントという期間を定め、大事に守っています。レントはイースター(復活節)前の約40日間、キリストの苦難を憶え、謹んで悔い改めながら過ごす期間です。アドベントは、クリスマス前の 4 週間、主のご到来を喜びつつ待ち望む期間です。そのため、レントは「自分の罪に対する悲しみと悔い改め」で過ごす多少重い雰囲気の期間、アドベントは「主イエスのご誕生と再臨を喜びと感謝」で過ごす明るい雰囲気の期間と考えがちです。しかし、中世の、ある時期にはアドベントもかなり重い雰囲気の期間として守られたそうです。その理由はアドベントがイエスの誕生のみならず再臨も憶える期間だったからです。主イエスが再臨されるということは「この世への主の審判」がやってくるという意味を持ちます。イエスが再び来られると、善人と悪人、生者と死者を問わず、あの世とこの世のすべての存在が、主の御前に立ち、裁かれるでしょう。それは、神を信じる存在もイエスによって裁かれるという意味です。もちろん、すでに救われた主の民は、その審判にあたって、むしろ主の民であることを認められ、永遠の生命に入ることになるでしょうが、とにかくすべての存在はキリストの審判の下に置かれることになるのです。 だから、キリストが再臨されるということは本当に喜びばかりのことなのか? キリストを信じていると言いながらも、実は主の民として認められていないのではないか? 自分は主の再臨の時、本当に認められるだろうかという自らを反省する思いが広がり、そのため、アドベント期間を重い雰囲気で過ごしたわけではないかと思います。もちろん、その後の時代は、再びキリストのご誕生を記念する明るい期間に変わったと言われますが、主の再臨と救いという点においては、今を生きる私たちも一度考えてみる必要があると思います。私たちはアドベント期間を過ごしながら、二つのことを記憶すべきです。一、救い主イエス・キリストが人間として生まれ、私たちの間に来られたことへの感謝。二、審判者イエスがこの世に再び来られ、世のすべての存在を裁かれることへの畏れ。私たちはイエスの再臨を信じていますが、その方の再臨については非常に遠い未来のことだと思っているかもしれません。そいうことで、今の私たちの生活に正しくない部分があっても「いつかは良くなるだろう」という安逸な心で生きやすいです。しかし、聖書を語ります。「見よ、わたしは盗人のように来る。裸で歩くのを見られて恥をかかないように、目を覚まし、衣を身に着けている人は幸いである。」(ヨハネの黙示録16:15) だから、アドベントはただ喜びばかりで過ごせる期間ではないと思います。再臨の主の御前の私たちの人生は本当に大丈夫でしょうか? 私たちは主のご到来を本当に喜ぶことができますでしょうか? 3. 主が喜ばれる実を結ぶ人生。 今日の旧約本文と新約本文には「木と実」という繋がりがあります。旧約本文は、神の民イスラエルをブドウ畑に比喩します。良い実を結んで神の喜びになるために呼び出されたブドウ畑のようなイスラエルが、むしろ神を裏切って偶像を崇拝し、悪行を犯す悪い実を結ぶことになります。これによって神の民にふさわしくない生き方をとり、神に糾弾される場面です。そして、新約本文は洗礼者ヨハネが旧約本文を一部引用してイエス当時のイスラエルの民に悔い改めの実を結びなさいと力強く勧める場面です。つまり、主の民が悔い改めにふさわしい実を結び、主の民らしく生きることが神にとって、喜びであるということでしょう。もちろん、罪人に生まれ、イエスによって救われた私たちが、自力で完全な神の喜びになることはあり得ないことですが、主イエスの救いと聖霊の導きのもとに教会を成していく私たちの悔い改めと正しい生き方を、主なる神は喜びとして見なしてくださるのではないでしょうか? そして、その主の喜びを私たちの喜びとして生きることが、私たちに与えられるキリストによる真の喜びではないでしょうか? このアドベント期間を通して、私たちは自分の信仰をもう一度顧み、悔い改めるべきことは悔い改め、感謝すべきことは感謝しながら、良い実を結ぶ人生について深く考えて過ごしたいと思います。特にアドベント3主日目は「キリストによる真の喜び」を象徴する3本目のろうそくに火をつけますが、今週がキリスト者である私たちにとって「真の喜び」とは何かを考える時間であったらと思います。私たちの救いのために来られた救い主イエスのご到来を喜び、その方の救いを感謝し、その方によって悔い改め、主の民にふさわしい人生を生きることこそが、主なる神の喜びであり、そして、その神の喜びのために主の御心のままに生きようとするのが私たちの喜びになるべきではないでしょうか。 それが私たちに与えられる「本当の喜び」ではないかと思います。主の喜びを自分の喜びにするために、私たちは主が喜ばれる生き方で生活し、そのような人生の中で真の喜びを見つけなければなりません。主の御言葉通りに生きるために力を尽くし、私たちの罪を毎日悔い改め、より良い生き方のために努力し、隣人を愛し、善を行いつつ生きる人生。それこそが実を結ぶ人生であり、そのような実を結ぶ人生そのものが神と私たちの喜びになることを祈ります。 締め括り イエスのご誕生と再臨を記念するアドベントの期間。私たちを救ってくださるためにお生まれになったイエス・キリストを喜び感謝し、いつか世のすべての存在を裁かれるために、再び来られるイエス・キリストを畏れ、待ち望みながら、この時期を過ごすことを願います。私たちの人生を通して、主なる神が喜ばれ、その主なる神の喜びによって、私たちもまた喜ぶことができるように。真の喜びのアドベントでありますように祈り願います。

我が民を慰めよ。

イザヤ書40章1~11節(旧1123頁) マルコによる福音書1章1~8節(新61頁) 前置き この世は病んでいます。こんにちにも世の中には戦争が絶えず、人と人の間の憎みあいが絶えず、社会には不条理がはびこっています。この世の多くの人々が苦しみと不安の中に生きています。なぜ、この世はこんなに良くないもので満ちているのでしょうか? 聖書は、これらすべての不幸が人間の罪から生まれたと語っています。そして、その罪の解決から真の回復と慰めが与えられると語ります。このような世の中を見守っておられる主なる神は、今日もこの世の罪を赦し、すべての人々が神の救いをいただき、真の平和と慰めのある人生を生きることを望んでおられます。私たちが主とあがめるイエス•キリストは、この世を傷つける罪の問題を解決し、神の真の赦しと慰めの成就のために、この世においでになりました。キリストによる罪の赦しと回復。神は自分の力で罪の問題を解決できない、病んでいるこの世を慰め、回復させてくださるために、ご自分のひとり子を遣わしてくださったのです。 1. 喜んで赦してくださる主。 イザヤ書40章は、かつて主なる神への背反、つまり偶像崇拝の罪のために、神の裁きを受け、滅びてしまった旧約のイスラエル民族の回復を宣言する言葉です。神は国々の中でイスラエルを聖別され、神の栄光をあらわす祭司の国として打ち立ててくださいました。しかし、時間が経つにつれて、イスラエルは主の御旨に背き、自分たちの欲望に従って主の御言葉を無視し、他の神々に仕え、主を離れてしまいました。主なる神は彼らに悔い改め、立ち返りを呼びかけられましたが、彼らは変わらず、自分の欲望を神とし、主の御心に逆らってしまいました。その結果、アッシリアとバビロンといった大帝国に侵略され、イスラエル王国は滅びてしまったのです。しかし、その滅びはイスラエルへの神の無慈悲な仕返しとしての滅びではなく、イスラエルを悔い改めさせ、主に立ち帰らせる戒めとしての滅びでした。そのため、神は約70年後にイスラエルを再び回復させ、故郷に帰らせることを決心されました。今日の旧約の本文は、そのイスラエルへの神の赦しと慰めと回復を宣言する言葉なのです。 「慰めよ、わたしの民を慰めよと、あなたたちの神は言われる。エルサレムの心に語りかけ、彼女に呼びかけよ。苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。罪のすべてに倍する報いを主の御手から受けた、と。」(イサヤ40:1-2)主なる神は、ご自分の民を愛してくださる方です。彼らがたとえ神を裏切る罪を犯したとしても、神はご自分の民イスラエルを完全には見捨てられず、再び回復させ、神のふところに抱いてくださることを望んでおらえる方です。だから、神は、さながら親が子供を戒めるかのように、イスラエルを戒め、彼らを完全に滅ぼされず、悔い改めへと導いてくださいます。主なる神は破滅と審判より、赦しと慰めをさらに望まれる方です。主の民が罪によって堕落したとしても、主は彼らを見守り、赦し、愛をもって正してくださることを望まれる方です。主は民が罪を悔い改め、立ち返るなら、必ず彼らを受け入れてくださる方です。神の民が悔い改めつつ、神の御前に出てくる時、主なる神はわたしの民よと喜んで呼ばれ、赦してくださる方なのです。 2.主なる神の移り変わりのないご意志。 「呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え、わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。主の栄光がこうして現れるのを、肉なる者は共に見る。主の口がこう宣言される。」(40:3-5) 神はご自分の民イスラエルが滅びと捕囚の状態から回復し、再び彼らの故郷であるイスラエルに帰還すると預言されます。そして、その嬉しい便りを公に宣言されます。主がご自分の民イスラエルを回復させる時、荒れ野には神の道が備わり、谷と山、丘、険しい道は平らになるという比喩によって、誰も神の民の回復を妨げることができないと宣言されたのです。 そして、その民と共に歩んでくださる神の御業を「主の栄光」であると語ります。神は誰よりもご自分の民の回復を喜び、望まれる方です。主はその民の回復のためのご自分の御業がすなわち主の栄光であると公に言い現わされたのです。 「肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの。草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい。草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。」(40:6-8) 神は世の中のすべての肉なる者は草と花のように枯れてしまうが、イスラエルを必ず回復させるという神の言葉だけは永遠に変わらないという言葉を通して、ご自分の民の回復への神のご意志(御言葉)は、世のすべてが変わっても絶対に変わらず、成し遂げられると宣言されました。イスラエルは滅びて無力な存在となったのですが、主は必ずご自分の民を回復させ、新たにするという希望の約束をくださったのです。一度失敗した存在を見捨てず、起こして新たにするという神の希望のメッセージ。これは罪人をあきらめられない主なる神の積極的な愛を表します。「あなたたち罪人は失敗の存在だが、わたしはあなたたちを決してあきらめない。」この主のご意志が罪人たちへの救いにまでつながるのです。 そして、そのような神のご意志は新約時代に入ってイエス•キリストという救い主の登場につながります。 3. キリストの到来の意味。 今日の新約の本文は、イエスの公生涯(イエスの地上での御業3年)の始まりを告げ知らせる言葉です。そして、その言葉には今日の旧約本文イザヤ40章の言葉が引用されています。「神の子イエス・キリストの福音の初め。預言者イザヤの書にこう書いてある。見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」(マルコ1:1-3)、このようなマルコ福音書とイザヤ書の言葉の関りを通して、ご自分の民を回復へと導かれる主の御業(栄光)が、まさにこのイエス•キリストの到来を意味するものであり、このイエスによって、神のお赦しとお慰めが、この世に伝わり、罪によって苦しむ存在が赦され癒されることが推測できます。世の中のすべての肉なる者は、草と花のように枯れてしまうが、神の御言葉と呼ばれるイエス•キリストのご恩寵は絶対に妨げられず、必ず成就することを今日の新約と旧約の本文を通して知ることができるのです。 神は旧約で罪によって堕落し、滅びてしまったイスラエルの回復と救いを宣言されました。しかし、神は、新約聖書を通しては、メシア、イエス•キリストを遣わされ、イスラエルに限られた回復と救いではなく、全人類が罪から赦される究極的な回復と救いを宣言されたのです。イザヤ書を通して伝わった主の民のための神の慰めはキリストによって、さらに拡大し、全人類を対象に広がっていくことになったのです。イエス・キリストがこの地上に来られたということは、神の慰めと救いの恵みがイスラエルという一民族を超えて、人類という世界中のすべての民族に広げられたということを意味します。この世は、罪によって依然として病んでおり、戦争も絶えず起こっていますが、そのすべての痛みと苦しみを主なる神は知っておられ、キリストを通して、共に痛がっておられます。 そして、いつか主はイエス•キリストを通して、その罪の痛みと苦しみから主の民を回復させ、慰めてくださるでしょう。 締め括り クリスマスのシーズンになると、街はクリスマスの飾りで輝き、大勢の人々はクリスマスケーキやお酒などを飲み食いしながら、クリスマスを楽しみます。しかし、多くの人はクリスマスの本当の意味も分からず、ただ雰囲気に流されて楽しむようになる場合が多いです。そんな時こそ、私たちキリスト者は罪を赦し、真の慰めを与え、回復と救いを与えるために来られた主イエス・キリストのご到来を記念し、憶えなければなりません。キリストが来られたということは、この世への神の愛と慰めが、近くに来ていることを意味します。このような神の愛を記憶し、アドベントの期間とクリスマスを過ごしていきたいと思います。

真の王を待ち望んで。

詩編132編8~12節(旧974頁) / ヨハネの黙示録1章4~8節(新452頁) 前置き 今日からアドベントが始まります。アドベントは、メシア、イエス・キリストのご誕生(初臨)と再びの到来(再臨)を憶える待降節を意味する言葉です。その語源は「到着」を意味するラテン語「アドベントゥス」に由来します。毎年、アドベントになると、私たちは主なる神が、この世の唯一の救い主としてお遣わしくださったイエス·キリストの降臨(到着)を喜びたたえます。罪によって永遠に死ぬしかない罪人たちを憐れんでくださり、ご自分の子供にしてくださるために、父なる神は 独り子イエス·キリストをこの地上に遣わしてくださいました。そんな理由で、イエスは真の神であるにも関わらず、また真の人間になって、この世に到着されたのです。そして、罪に束縛された人間を赦し救ってくださるために、ご自分の命を贖いの献げ物としてささげ、罪人に代わって死んでくださいました。このように人間のために死に、その後、主なる神の力によって復活されたイエスは、父なる神のご計画に従い、教会と世の真の王になられたのです。したがって、アドベントは赤ちゃんイエスを待ち望むとともに、今や私たちの真の王になられ、私たちの救いを完成してくださった再臨の王なるイエスを待ち望む期間でもあります。今年も恵みに満ちたアドベントの期間を過ごし、私たちの王でおられるキリストを憶え、感謝と平和のクリスマスを過ごしたいと思います。 1.最もつらい時に共におられる王。 西暦1世紀末、ローマ皇帝ドミティアヌスが治めていた時代、イスラエルはローマ帝国の植民地でした。ローマ帝国では、キリスト教への誤解が悪意的な噂となり、皇帝をはじめ、多くの人々がキリスト教を嫌い、迫害するようになりました。イエスの弟子である使徒ヨハネは、そのような迫害の中で、牧会していたエフェソ地域から追い出され、パトモスという小さな離島に流刑されることになりました。パトモス島は険しい山地と強制労働のための採石場のある荒れ果てている島でした。福音書に登場するヨハネはまだ若い青年として描かれていますが、この時期のヨハネは、すでに高齢となっており、一日一日が大変で特に信仰の兄弟姉妹との連絡も途絶えてしまった孤独な生活を暮らさなければなりませんでした。そんな絶望に落ちてしまうような、ある日、ヨハネのところに、主なる神の聖霊が臨まれました。そして、その聖霊を通じて主イエス·キリストがヨハネに語り始められました。「神である主、今おられ、かつておられ、やがて来られる方、全能者がこう言われる。わたしはアルファであり、オメガである。」(黙示録1:8)教会への世の帝国の迫害、肉体の衰退、同僚たちとの別れ。何の希望も喜びもなく、人生の中で最も絶望的で苦しい一日一日を過ごしていたヨハネに、真の神であるイエス·キリストの御言葉が臨んだわけです。 今年、わたしはキリスト教会の教師になってから13年目を迎えました。その中、今年のように、苦しくて悲しい年はなかったです。体も心も疲れ、この道が本当に自分の道なのかと何度も悩んだ記憶があります。年初から、いつも元気だった義理の父がすい臓がんにかかり、心の病によって関係が崩れた姉妹もいました。志免教会員の中にも病気で苦しんでいる方がおられ、教会から離れた方々もおられます。志免教会は伝道所への変更を計画していますし、中会の規模もどんどん小さくなっており、先輩の牧師たちも高齢によって引退を考慮しています。将来を考えると真っ暗で、一寸先も見えません。毎日毎日が心配で、祈っても心が平和にならない一年でした。ところで、おそらく使徒ヨハネは今年の私よりも、100倍以上、大変で苦しく、絶望の時を過ごしたでしょう。教会の存続が不透明な時代だったからです。しかし、変わらない事実がありました。それはヨハネがどんな状況に置かれていても、主イエス・キリストは常に彼を見守っておられ、彼の人生と共におられることでした。そして、主が王の中の王であることには何の変わりもないということを教えてくださいました。おそらく日本キリスト教会の牧師として生きる限り、今の状況から改善される可能性は低いかもしれません。しかし、最もつらい時にもかかわらず、主イエスが私の王として見守り、助けておられることは変わらないでしょう。 最もつらい時に、私の王であるイエスは私と共におられるでしょう。 2.主なる神がお遣わしになった真の王。 私たちが喜びの中にいても、悲しみの中にいても、変わらない事実。それは主イエス·キリストが私たちの王として共におられるということです。今日のヨハネの黙示録の本文は、イエス·キリストを「地上の王たちの支配者」と語っています。王たちの支配者とは、言い換えると「王の中の王」であり、これは結局、植民地や属州の王を征服し、その上に立っている「皇帝」を意味する言葉です。実は「王たちの支配者、王の中の王」は、当時の中東地域の帝国やローマ帝国などの皇帝を意味する表現として使われたそうです。したがって、王たちの支配者は結局、皇帝、つまり真の王を意味する表現です。私たちは「王」と言われる時、征服して支配する存在を思い浮かびがちです。あるいは、暴力的で権威的な存在を思い出すかもしれません。実際、この世の国々の王たちには、そんな者が多かったのです。しかし、主なる神が私たちにくださった真の王イエスは、暴力と権威ではなく、愛と恵みによって、ご自分の民を治められる方です。以前にもお話ししたと覚えていますが、旧約聖書の創世記にはこんな言葉があります。「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。神は彼らを祝福して言われた。産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」(創世記1:27-28) ここに書いてある「支配する」という言葉は、ややもすると「権力で抑えつけて治める」と理解される可能性があります。しかし、現代の神学者たちは、この言葉を単に「暴力的に支配する」という意味として理解してはならないと言います。むしろ、支配される被造物、民を正しく導き、面倒を見るという意味として理解した方が文脈的に正しいと主張します。そのような意味で、私たちを支配し、導いてくださる真の王イエスは、主の民を正しい道に導き、愛によって面倒を見てくださる方だと理解できるでしょう。世の中の王たちは自分の権力と安らぎのために民を死に追いやります。この世の多くの王、皇帝、指導者たちが自分の権力のために戦争を起こし、何も知らない民を戦争の弾除けに死なせたのです。そして、彼らは言いました 「これは国家と民族(実は支配者の権力)のための意味ある死だ。」しかし、真の王であるイエスは、ご自分の民の命のためにご自分の命を惜しげもなく捧げました。主イエスはこう言われました。「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」(ヨハネ福音10:11) 主イエスは「王」の概念を権力のための支配者ではなく、愚かで弱い民を最後まで守る、良い羊飼いのような存在だと言われたのです。主なる神が私たちに主イエスを遣わされ、愛をもって正しい道に導いてくださった理由は、主イエスという真の王を私たちにくださるためでした。 3.私たちの真の王である主イエスが来られる。 クリスマスは、その真の王であるイエスのご到来を喜びながら記念する日であり、アドベントはそのクリスマスまでの4週間、主イエスの「初臨」と「再臨」を憶え、教会が大事に記念する期間です。主イエスは私たちを押さえつけ、思いのままに利用する邪悪な王ではなく、私たちを贖い、愛をもって守ってくださるために来られた良い羊飼いとしての王です。時には、この世での苦しみと悲しみによって全てをあきらめたい時がやって来るかもしれませんが、主イエスはそのような弱い私たちのそばにおられ、私たちが試練を乗り越えて主に従い、真の平和と喜びで生きるように勇気と力をくださる方です。私たちは毎年、このイエスのご到来を憶え、感謝し、アドベントの時期を過ごします。神は、この真の王であるイエスが、永遠に私たちと一緒におられ、助けてくださることを望んでおられます。そのため、神は旧約聖書を通じてご自分が遣わしてくださる真の王の永遠な王位についてこのように言われたのです。「主はダビデに誓われました。それはまこと。思い返されることはありません。あなたのもうけた子らの中から王座を継ぐ者を定める。あなたの子らがわたしの契約と、わたしが教える定めを守るなら、彼らの子らも、永遠にあなたの王座につく者となる。」(詩篇132:11-12) 締め括り 試練の連続で、終わりそうになかった今年も、もう12月に入ります。来年も新しい心配事が志免教会を襲ってくるかもしれません。けれども、絶対に忘れてはならないことがあります。それは私たちの王であるイエス・キリストが、私たちを離れられず、いつも一緒におられるという事実です。天の王座を捨てて地の馬小屋に来られたイエス。天の栄光を捨てて、地の貧しさを選ばれたイエス。全世界の真の王であるイエスが貧しい大工の息子としてお生まれになった理由。それはこの地で苦しみ、悲しんでいる数多くの主の民と重荷を担い、慰めてくださるためです。クリスマスまで約4週間。私たちの真の王である主イエスが、私たちと一緒に歩んでおられることを憶え、苦しい時も悲しい時も主に頼りつつ真の平和を祈る12月になることを願います。 主の御誕生を喜びながら、このアドベントの時を過ごしてまいりましょう。