詩編2編7~9節 (旧857頁) 、ヨハネによる福音書16章33節 (新201頁)
前置き
最近、私たちは使徒信条について学んでいます。古代の教会で使徒信条が造られた理由は、当時の教会を分裂させ、誤った教えを宣べ伝える異端やカルトから、教会のアイデンティティ-を守り、各地の教会が共通的に告白できる信仰の標準を正しく立てるためでした。(洗礼者教育のためにも)使徒信条は聖書に直接記された言葉ではありませんが、使徒信条の告白すべてが聖書に基づき選ばれたものです。使徒信条と呼ばれる理由は、初代教会の指導者であり、イエスの弟子である12使徒の信仰と精神を要約整理した信条だからです。私たちはこの使徒信条を通じて、神とは誰なのか、どのように存在しておられるのか、私たちが信じるべきものは何かを知ることができます。今日は、その4番目、イエスの死と埋葬と復活、そして昇天と審判について話してみましょう。
1. 葬られて陰府にくだられた神の子。
「死んで葬られ、陰府にくだり」十字架で、人類の代わりに罪を背負って亡くなられたイエスは、本当に死を経験されました。本当に死を経験されたということは、神であるイエスが、人間の死の悲惨さを「経験しないが理解はする。」という意味ではなく、神であるイエスが人間になり「経験して確実に分かる。」という意味として理解することが出来ます。「経験しないが理解はする。」と「経験して確実に分かる。」は雲泥の差だからです。イエスは人間の真の代表になってくださるために、人間の生だけでなく死まで経験されたのです。日本語の使徒信条では「葬る」とありますが、古代のイスラエルでは人が死んだら、その死体を亜麻布に包んで岩窟の墓に納めたと言われます。古代イスラエルでは、神は天におられ、人間は地上におり、死者は地底世界「シェオール」にいると思いました。このシェオールはヘブライ語ですが、日本語に訳したのが「陰府」なのです。つまり、陰府とは古代イスラエル人において、死の代名詞だったのです。だから、使徒信条はイエスが実際に死んで葬られ、死者のところ、陰府にくだられたと語っているのです。しかし、私たちはこの使徒信条の文章を文字通り理解してはなりません。
ある学者たちは、イエスが実際に地獄(陰府)にくだられ、罪人たちを救われたと解釈します。また、ある学者たちは、イエスが死後、天国と地獄を問わず、ご自身が死に勝利したと宣言されたと解釈します。その他、様々な解釈がありますが、私たちは真相を知ることができないので、ある一つの解釈に盲目になってはなりません。「死んで葬られ、陰府にくだり」は、地上で生きている私たちが完全に証明できない言葉だからです。ただし、長老教会が重要に考える宗教改革者「ジャン·カルバン」は自分の著書「キリスト教綱要」を通して「キリストは神が怒りの中で罪人にくだされた死の刑罰を経験された。だから、主が地獄(陰府)に落ちたとしても驚くことはないだろう。」と語りました。すなわち、カルバンはイエスが直接陰府にくだられたという文字的な解釈より「比喩的に」陰府が意味する人間の死と悲惨さそのものを完全に経験して罪人の代わりに苦しみを受けられたということを強調しているのです。イエスが実際に陰府に行かれたかどうかは誰も知りません。ただ、イエスが私たち人間の死を完全に経験し、誰よりも理解して憐れんでくださるということから慰めを得るべきだと思います。
2. 復活して天に昇られた神の子。
「三日目に死者のうちから復活し、天に昇って」イエスは、明らかに亡くなられました。真の神であるイエスですが、また真の人間として、この地上に生まれ、育ち、働き、罪の贖いのために死んでくださったのです。そのため、イエスは神でありますので、神の偉大さとみ旨を誰よりもよく分かっておられ、また人間でありますので、人間の弱さと死の権能を誰よりもよく分かっておられます。こんなイエスは死んで3日後に復活されました。なぜ3日なのでしょうか。その理由はイエスが直接ヨナを取り上げて言われたからです。「ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる。」(マタイ福音12:40)イエスは、旧約聖書の預言者ヨナが3日間、魚の腹(死)の中にいたが、神が彼を生かしてくださったことを例に挙げられ、ヨナより偉大な存在であるイエスご自身も3日間死に、復活されることを予言されたのです。完全に死にて葬られたイエスは、旧約聖書で神がヨナを魚の腹から出してくださったように、墓から復活して再び生き返られたのです。
イエスが、この地上に来られたのは、いと高き神である存在が、みすぼらしい人間の姿に自ら低くなられた謙遜の極みを示す出来事です。しかし、イエスが死から復活されたのは、神によって最も高いところに再び高められた栄光の極みを示す出来事なのです。イエスの誕生が低くなることの始まりだったとすれば、イエスの復活は高くなることの始まりであるのです。人間の姿になって、人間の死まで完全に経験されたイエスは、真の神でありながら真の人として死に勝利して再復活されたのです。最終的にイエスの復活は、主が来られた場所、天に帰られることで完成します。主イエスは復活を通して、再び栄光の座、御子なる神の座、父なる神の右に復帰されたのです。それが昇天の真の意味です。ですから、復活と昇天はコインの両面のように密接な関りがあります。復活して昇天されたイエスは、二度と死ぬことなく、永遠におられるようになったのです。そのため、イエスの復活は一時的に生き延びてまた死ぬこととは異なります。世の中でも生物学的に死んだ人が、奇跡的によみがえることが、しばしばあります。しかし、彼らは長生きはしても結局再び死にます。イエスの復活は二度と死がない永遠の命を伴います。イエスの復活は完全に死を乗り切った空前絶後の恵みなのです。
教会の頭なるイエス・キリストは、死から復活されました。そのため、主の体なる教会を成す私たちも、すでにイエスと共に復活の中に生きているのです。そして、その頭なるイエスが天に昇られたので、その体なる私たちも、この地に生きてはいますが、実は天に属した存在として生きているのです。イエス・キリストの復活と昇天は、主イエスおひとりだけが天に帰還した出来事ではなく、その方の民みんなに復活を与え、天の命をくださる栄光の出来事なのです。それはイエスだけの事柄ではなく、主の民みんなの事柄でもあるのです。復活と昇天のある人生とは、過去、救われる前の人生を顧み(悔い改め)新しい人生を生きることです。自分だけのために生きた人なら、他人のことも考えて生き、他人のものを欲した人は、他人のものを守り、節制のできない人は、節制して生き、何気なく罪を犯した人は罪を犯すことを恐れる人生に変わることなのです。それがまさに復活と天国を持った人の生き方ではありませんか。主イエスは復活して天に昇られました。主の民である私たちも、主に召される日まで、この地上で生きますでしょうが、すでに復活と天国に属していることを忘れてはならないでしょう。
3. 真の王として再び来られる神の子。
「全能の父なる神の右に座しておられます。そこから来て、生きている者と死んでいる者とを審かれます。」復活して昇天されたイエスは、本来のご自分のところに帰られました。しかし、イエスの受肉と十字架での死、復活、昇天によって罪と死を征服されたイエスは、全宇宙を治める真の王の中の王になられました。創造以来、旧約時代には、父なる神が三位一体を主導されたのですが、イエスの復活と昇天以来には、詩編2編の言葉のように「お前はわたしの子。今日、わたしはお前を生んだ。求めよ。わたしは国々をお前の嗣業とし、地の果てまで、お前の領土とする。」(詩篇2:7-8) 御子に主導権をお譲りくださり、全宇宙を治めて裁かれるようにしてくださいました。したがって終末の日、イエスが再臨される時には、地上におられた時のように、苦しみを受ける姿ではなく、戦争に勝利した王として来られ、生者と死者を問わず、全人類を審判されるでしょう。私たちキリスト者は、このイエスの栄光と再臨を待ち望み、この世での苦しみを忍耐しつつ生きていくのです。私たちの主がすでに勝利されたからです。
締め括り
罪によって、死に束縛された人類を救うために、イエス·キリストは自ら死を経験されました。葬られたというのは、確実な死の経験を意味します。陰府にくだられたというのは、人間の死の悲惨さを完全に経験し、理解されたという意味です。復活されたというのはイエスが罪と死の権能に勝利され、主を信じる者たちに罪と死の権能からの完全な自由を与えてくださったという意味です。再臨し審判されるというのは信じない者には恐ろしい審判であるが、信じる者には主の栄光を分け与えてくださるという意味です。私たちはこのイエスを信じています。「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハネ福音16:33) ですから、イエスのもとにいる者は、死を恐れる必要がありません。この世では苦しみを受けるかもしれませんが、主は私たちの弱さを知り、いつも共にいてくださるでしょう。私たちが信じるイエスは生と死の支配者です。このイエスへの信仰をしっかりと守り、日常を生きる私たちでありますよう祈り願います。