あなたを探し求めている神

詩編139編1~10節 / ルカ福音書19章1~10節 はじめに ルカによる福音書19章に記されたザアカイのお話は、聖書の中でも大変よく知られたものです。日曜学校の小さな子供たちも、喜んで聞いてくれるお話しです。 といっても、聖書は、譬えるなら海のような書物です。浅瀬もあって幼子もそこで遊ぶことができますが、また広大無限な広さ深さもあって、知恵ある大人も極めつくすことのできません。ですから、今日の箇所も何度読んでも新しい発見があります。 今朝は、「あなたを探し求めている神」という主題で、改めてザアカイのお話しから神様のみ旨を聞いて参りたいと思います。 ザアカイという人物 さて、ザアカイという人物については、まず2節で「徴税人の頭で金持ちであった」と紹介されています。その彼が、理由ははっきりと書いてありませんが、3節、「イエスがどんな人か見ようとした」とあります。けれども彼は「背が低かったので、群集に遮られて」しまいます。ところが、彼はそんなことで挫けません。4節、彼は「先回り」して群集を出し抜き、してやったとばかり木に登ります。7節には、人々はこんな彼を毛嫌いして、「罪深い男」と言いあっていました。ところが、9節、主イエスは「この人もアブラハムの子」だとお呼びになったというのです。 アブラハムとはユダヤ民族のご先祖の名前です。旧約聖書創世記12章に記されるように、神様は人類の中からこのアブラハムを特別に選び、その歩みを通して、「すべての民は、あなたによって祝福される。あなたは祝福の基である」と約束されました。従って、「アブラハムの子」とは、単に民族としてのダヤ人というだけではなく、人類の祝福のために特別に選ばれ、神様の祝福を周りの方々に持ち運ぶ人のことです。 ところが、その彼がやがて「罪深い男」と呼ばれるようになっていきました。それは、彼が徴税人であったということと関係があります。徴税人が罪深いと言われると、今日、税務関係の方々はお困りになるでしょうが、現在の税務署員とこの当時の徴税人とは、まったく違っていました。その間の事情はこうです。 当時、ユダヤの国はかのローマ帝国によって支配されていました。ローマは、当然、支配した国々や民族から税金を取り立てました。しかし、「支配の天才」と呼ばれたローマは、税金問題が被占領地域の不安定化に繋がることをよく承知していました。そこで、ユダヤ人にはある程度の自治権を認めるふりをして、背後から統率する支配方法をとりました。王様もユダヤ人から立てました。そして税金も、ユダヤ人自身が徴収するようにさせました。すると、人々の憎しみの感情は自然とその背後にいる当のローマ人そのものよりも、彼らの手先として働く目の前の徴税人のような同胞に向けられるようになります。 しかも、徴税人が事のほか憎まれた理由がまだありました。それは彼らの税金の集め方からきます。徴税人は、ローマから割り当てられたある一定額を納めさえすれば、後は自分たちの腕次第。ローマ権力を後ろ盾にいくらでも人々からお金を巻き上げることができたのです。ザアカイが金持ちであったというのは、まさに人々の憎しみを代償として、しかもあまりほめられない手段で成りあがった地位ということでした。 ザアカイの歪み それにしても、なぜザアカイは敵国ローマの手先となってまで、お金に執着したのでしょうか。ある人たちは、ザアカイが「背が低かった」と肉体に関することがわざわざ書いてあるところに、何らかの暗示を読み取ります。彼の生来もっている劣等感、コンプレックスを予想するのです。確かにコンプレックスが心理的に反転して人間の諸活動のエネルギーとなるというのは事実でしょう。しかし、それがなぜザアカイを徴税人としたかまではわかりません。そこで、あえて行間を読むと、こうなります。 実は、ザアカイという名前は、正義や純粋と関連した言葉です。私たちでいうと、正さんとか清さんとか純さんという名前となるでしょう。どのような名前も両親やその社会の人間観を反映しています。きっと、ザアカイという名前も、神様の子供として、信仰深く清く正しく純真な人間に育ってほしいとの願いでつけられたものであったでしょう。しかし、清く正しく純真な心を持って生き続けることは難しいのです。特に、子ども時代はともかく、成人するころには、この世の醜さや矛盾を、だれもが嫌というほど知るようになります。実際、当時のユダヤの民は、神様の民と言われながら、現実には外国に支配されて大変惨めな生活を強いられていました。どこに神様さまがおられるのか、と人々は問うたにちがいありません。では、苦しい中、せめて神様の民同士は互いに助け合い、慰めあっていたかというと、これがそうでもありませんでした。この国では少数の貴族と大商人が土地の大部分を所有し、残りは貧しい民衆で占められていました。 当時、「雨は災い」という言葉があったそうです。なぜなら、雨が降ると土地が潤い、豊作になります。すると人々の生活が楽になる。それだと貴族や商人たちは困るのです。かえって雨も降らず不作だと、商人たちはわずかの収穫物を倉庫に隠し、人々がもっと飢えたころあいを見計らって高値で売りに出す、すると儲かるのです。人間が人間に対して狼となるような、そういう弱肉強食の厳しい時代と社会の中で、このザアカイも育ったのです。 どこに神様がおられるのか、どこに神様の民の愛があるのか、まじめに神様さまを信じ、同胞のために生きようとすれば、自分一人だけ損ばかりする世の中です。一層のこと、ローマの手先となっても、被害者から加害者へ、搾取されるものから搾取するものになった方が良い、そう彼は思ったのではあいでしょうか。以前、久留米出身のIT長者が話題になりました。彼はマスコミにこう言い放ちました。「世の中には2種類の人間しかいない。勝ち組と負け組。どうせならだれもが勝ち組になって、お金持ちになりたいだろう」と、そううそぶいたのです。世の中には、彼のように人生や社会の問題を非常に単純化し、弱肉強食の競争原理をそのまま人間の本能や社会の発展に合致するものとして受け入れ、世の中の流れにうまく棹差しながら生きる人たちがいるのです。ザアカイも、確かにその一人でした。 心の空虚さ ただ問題は、それでザアカイは本当に満足したかということです。彼はお金持ちとなりましたが、決して幸福ではありませんでした。お金も権力も手に入れたザアカイも、一方で自分が無くしたものに気付くだけの正直さはありました。それは、自分が本来そのように創られた神様の子どもとしての歩みであり、神様の祝福を人々にもたらすという、もう一つの人生でした。 人間はただ生存していれば良いという存在ではないのです。美味しいものが食べられ、他の人よりもお金も権力もある勝ち組になれば満ち足りる、というような単純な存在ではないのです。命の根源にある神様の祝福を感謝し、神の子どもとしての使命を果たさないと、すべては空しいのです。 もちろんザアカイは、神様の祝福などはどうでもよい、と思って生きてきたのです。でも、そうは思っても、心の底にポッカリと空いているその空虚さを無視することはできませんでした。 心の空虚さ 17世紀フランスの数学者、物理学者であり、キリスト教思想家であったブレーズ・スカルという人は、人間の心の奥底につきまとう不思議な空虚さについて、とても面白いことを言っています。いわく、人間の心には大きな穴が空いている。その穴を埋めるために、人は色々なものを追い求めて、埋めようとする。この世の栄光、お金、異性、そして権力・・。しかし、そのようなものでは心の穴は埋めることができない。なぜなら、その穴は神様様の形をしているのだから。神様様以外の何ものをもってしても、人間の心にぽっかりと空いた穴を埋めることは出来ない、と。 みなさまは、ジクソーパズルをご存知でしょう。私も、小さな頃、1000ピースのジクソーパズルに挑戦したことがあります。何日もかかって999ピースを完成させました。ところが、肝心の最後の1ピースが見つからないのです。そのときのことを思い起こすのです。999まで埋め尽くしたのだから、一つくらい欠けていても完成と同じではないか、と自分に言い聞かせても、納得いかないのです。むしろ、逆なのです。最後の一つが欠けているから、せっかく苦労して完成させた他の999ピースが、かえって不完全で醜く見えて、どうしようもないのです。 私がその経験から学んだことはこうです。人間の心理、人間存在の不思議さは、実は自分が今現在もっているものをすべてを集めた総量によってではなく、むしろそれによって全体が統合され調和していくような、究極的なある一つの何かによって、決定されていくということです。主イエスの言葉でいうと、「なくてならないものは多くはない。いや、むしろ一つである」ということです。ですから、その肝心要となる究極的な一つのものがなければ、その他どんなに多くのものをもっていても、人間は決して満足しないのです。 アウグスティヌスという古代教会の有名な先生が、「神様、あなたは私たちをあなたご自身に向けてお造りになりました。それゆえ、私たちはあなたのもとに憩うまでは安きをえません」と祈られましたが、正にこれが、ザアカイの空虚で平安のない状態だったと思うのです。 ただ、その彼が本当に幸いであったのは、主イエスのことを聞いたことです。同じ徴税人仲間のマタイという人がお弟子となったことも、心引かれたでしょう。こうして、3節、彼は「イエスがどんな人か見ようとした」のです。直訳すると、「イエスがどんな人か見ることを切に求めた」となります。何とかしてイエスに会いたい、なぜなのか自分でもはっきりとはわからないのだけれども、しかし心の底から沸き起こる「内的な促し」があって、苦しいほどにキリストを「切に求め」るのです。 決心 そのザアカイの決心は、相当なものでした。3節に、「群集にさえぎられた」とありますが、これは群集が嫌われ者ザアカイに意地悪をして妨害した、と読めます。それでも、ザアカイはくじけませんでした。 聖書には、ザアカイをはじめとして、いろいろな困難や妨害を乗り越えてキリストに出会う人たちのお話しが出てきます。礼拝一つ守るためにも色んな差し障りがあります。家族の反対、仕事上の問題、自分の中で疑い、迷いも起こるでしょう。しかし主イエスはおっしゃいました。「求めなさい、そうすれば与えられる。探しなさい、そうすれば見出す。門をたたきなさい、そうすれば開けてもらえる」。だれでも真剣に求めるなら、与えられ、見出し、道は開かれて行くのです。何か本当のものを求めたいと思っても、人々の目を気にしたり、世間に縛られて身動きできない人はたくさんいます。こうして、今日の決意が明日になり、明日があさってになり、一生を終える時に後悔して苦しむ人もいます。その中で、ザアカイは自分の心の促しに正直に、思いきって一歩を踏み出すことのできた勇気ある人でした。 救いの逆転 しかし、次の5節以下に記されていることは驚きです。というのも、木に登ったザアカイに、何と主イエスの方から彼に声をおかけになった、とあるからです。つまり、ここまでは心の中の空しさに突き動かされる形で、ザアカイが必死になってイエス様を求めていたという話でした。ところが、ここで話しが急に転回して、神様こそがご自分の独り子イエス・キリストにおいて、ザアカイを探し求めておられた、という風に変わっていくのです。 そして、ここにキリスト教信仰の大事な点があります。私たちが神様を求め見いだす前に、実は私たちを探し求める神様のお働きがあって、それが私たちを本当の意味で神様に向かわせ、神様のところに救い、立ち帰らせていくのです。 世間では、宗教信仰とは私たちが神様に近づくために、心を入れ替えたり、熱心に修行もしたりして、神様に相応しいあれこれの諸条件を満たしたら、神様がやっと重い腰をあげて、私たちに恵みを与えてくださる、そう考えられています。しかし、よくお考えください。それならばまるで商取引です。私は、しばしば「自動販売機の神様」という言い方をします。自動販売機とは、こちらが始めに100円をさし出すと、それに少しプラス・アルファした分のご利益が返ってくるものです。もし、それと同様に、こちらがこれだけのことをしたから、神様がそれに見合う祝福を与えてくださるというのなら、それはまさに人間と神様との商取引ではありませんか。かつて日本人は、エコノミック・アニマルと呼ばれましたが、宗教まで経済的な交換様式にしてはいけないのです。 聖書の信仰は、ギヴ・アンド・テイクではないのです。神様は天の高みにいて、高く上ることの出きる立派な人だけを迎えて、恵みをたれるというような神様ではないのです。10節をご覧ください。キリストはおっしゃっています。人の子、これはキリストのことですが、人の子は失われたものを探して救うために来たのである、と。クリスマスの時、神様の子主イエスがまずはじめに身を低くして、罪人たちの悲惨な世界においでくださいました。そして、このザアカイを探し求めてくださったのです。 神様の信実 5節の「ザアカイ、急いで降りてきなさい。」という主イエスのお言葉は、大変興味深い言い方です。ザアカイのこれまでの人生は、コンプレックスにしろ、何にしろ、ともかく人を押しのけ、人よりも高いところに上ろうとした人生でした。キリストにお会いするためにも、自分の才覚で高いところに上らねばならないと思っていたのです。しかし、今や、主イエスは言われるのです。「急いで、降りてきなさい」。急いで、とは時間概念というよりは、回心を迫る言葉です。あなたの今までのモノの考え方や歩み方とはきっぱりと手を切りなさい、ということです。逆に言うと、あなたはもう無理して高いところに上る生き方はしなくてよい、むしろ地面に足をつけて、ありのままのあなたでいて良いのだ、そのありのままのあなたと、私は出会うのだと主イエスはおっしゃっているのです。 しかも、その時、主イエスはザアカイの名前を読んで、そうおっしゃったと言われています。名前を呼ぶ、それは何でもないことのようですが、人格的な関係を表します。もう少し言うと、愛の関係を表します。考えてみると、人々はザアカイを憎んでいましたから、彼の名前を呼ばずに、「あの罪深い男」、「あの汚れた奴」、「あんな奴」、という風に言っていたのです。しかし、主イエスはザアカイの名を呼ばれるのです。これを言い換えると、主イエスはザアカイを、みんなが見るように強欲で罪深い守銭奴としては見ておられなかったということです。むしろ、ザアカイの本来の姿、神様によって創造され、人々への祝福の担い手として歩むべき神様の子としての本来の姿を、ずっと見続けておられたということです。 こうして、「あなたの家に泊まることにしている」、とおっしゃったのです。この言葉も、実は神様御自身の先行的なみ業を表します。神様がそうするようにあらかじめ決めている、これは神様のみ心なのだ、というニュアンスの言葉です。人々はこれを非難して、主イエスが罪人の仲間となったといいましたが、主イエスはザアカイを神様の子として迎え入れられたのです。 神様の信仰 この一連の主イエスとザアカイの出来事を、一言で言い直すと、主イエスがザアカイの本来の姿、神様様から創造された神様の子としてのザアカイをどんなに信じつづけていてくださったか、ということに尽きます。ザアカイがどれほど神様の民としての道を踏み外し、落ちるところまで落ちても、そして他の人々はそのようなザアカイをやれ駄目な奴とか罪深い男だとか言って断罪し、批判し、背を向けたとしても、主イエスだけはザアカイの本来の姿をじっと心に持ち続けながら、彼を信じ続け、神様の子としての歩みへと導くことをおやめにならなかったのです。この神様の独り子イエス・キリストにおけるザアカイを信じ抜く揺るがぬ信仰と、そのためにザアカイに対して変わることなく注がれる愛の真実こそが、キリスト教の救いなのです。 今、「神様の、キリストにおけるザアカイへの信仰」と申しました。これは不思議な言い方かもしれません。信仰と言ったら、私たち人間が神様様やイエス様に持つ信仰と思っています。もちろん、それは間違ってはいませんが、しかしその私たち人間の持つ信仰に先立って、実は神様がキリストにあって、私たちに対する信仰をお持ちになっているのです。 新約聖書の中でキリスト教信仰について語られる時、しばしば「キリストへの信仰」、「キリストを信じる信仰」という風に訳されます。これは、ガラテヤ書やローマ書のような、福音の核心を語る重要な箇所で用いられている言い方ですが、原文を直訳すると、「キリストの信仰」となります。この言葉を、宗教改革者ルター以来、伝統的に私たちは「キリストの」という属格(所有格)を、目的格的属格と理解して、信仰とはキリストに対する私たち人間がもつ信仰ということで、私たちが「キリストを信じること」私たちの「キリストへの信仰」という風に訳してきました。しかし、このような翻訳では、聖書がいうところの「信仰」の全体を捉えきれないのではないかと思われるのです。 そこで、実は一番新しい聖書の翻訳である『聖書協会共同訳』では、ルター以来500年に渡ってそうなされてきた「キリストを信じる私たちの信仰」という翻訳から、「キリストの信仰」という風に訳するようになりました。キリストの信仰、あるいは、信仰という言葉は真実という意味ですから、「キリストの真実」「キリストが私たちに示し続ける神のご真実」と翻訳するようになったのです。これは画期的な翻訳と言われますが、しかし本来のキリストの救いの原点に立ち戻ったような翻訳なのです。 実際、たとえば、「神様の愛」と聖書が言う時、それは第一義的に「神様が私たちを愛する愛」という風に捉えますでしょう。その神様の愛をいただいているから、私たちも神様様を愛することができるのです。同様に、信仰もまずはキリストが私たちを信じていてくださるという、キリストの私たちに対する信仰と真実をいただくゆえに、私たちもまた神様様やキリストに対する信仰や真実を持つことができるようになるのです。 私たちが信仰を得たのも、まさに私たちが信じる前に、キリストにおいて神様が私たちを信じて、どこまでも真実を尽くしてくださったからです。私たちはキリストにおいて神様から信じられているのです。たとえ今、私自身、あるいは、人々が私をどのように見ていようと、キリストだけは私を神様の子として信じ抜いてくださるのです。それに感動しない人はいるでしょうか。その感動が、キリスト教信仰の中心にあるのです。そして、この感動には今まで味わったことがない喜びが付きまといました。ザアカイは、もちろんこれまで色々な喜びを経験しました。うまいこと人をだまし、たんまりと税金をむしり取ってお金がたまっていく喜び。ローマ政府の権力を傘にして特別待遇を受ける喜び。人々を出し抜いて優越感に浸る喜び。しかし、神様の信実に包まれ、神様と隣人と共に歩む喜びだけは知りませんでした。ザアカイは、生まれて初めて、命の喜びに満たされたのでした。 今日この家に救いが来た 最後に、今日、救いがこの家にやってきた、という言葉に注目して終わります。ルカ福音書やその続巻とも言うべき使徒言行録では、特に家ごとの救いということが強調されています。これは、心に残る神様の救いの出来事です。一人の人がキリストと出会い、救われる、それは決してその人一人の救いにとどまらないのです。家全体の救いがそこに始まっているのだ、といわれるのです。 この礼拝にも、家族から切り離されるように一人でお見えの方もおられるでしょう。自分の残してきたその家族を思いながら、時にはその救いをあきらめる思いにも捕らえられることがおありでしょう。しかし、主イエスは、「あなたは救われたが、あなたの家族は救いにはほど遠い」とおっしゃったのではないのです。そうではなく、「あなたの救いと共に、今日、あなたの家に救いが訪れた」、と宣言してくださったのです。それは、キリストの救いと共に、私にだけでなく、私たちの家族にも救いが訪れたという宣言です。私の家族が、神様の大きな命の祝福に包まれていくのです。 ですから、私たちはたとえ今は信仰をもたない家族のことでも喜びを失わない。希望を失わない。そして、どんな時でも、家族にも与えられているこのキリストにおける神様の祝福を担いながら家族と共に生きていくのです。願わくは、神様の救いが目に見える形でも家族の中に現れていくように、祈り、仕えていくのです。それが、神様の子どもたち、神様の祝福を担う者たちの歩みなのです。 主イエス・キリストの父なる神様 私たちは、罪のゆえに、あなたのことも、隣人のことも後回しにして、自分一人の幸福だけを追い求めながらも、心に平安を得ることができず、常に迷い、魂のさすらいを続けているような者たちです。しかし、そのような私たちを憐れみ、あなたはあなたの独り子、イエス・キリストをクリスマスの時に、この世に遣わしてくださいました。そして、救い主キリストにおいて私たち一人一人を探し求め、神様の子どもたちとして回復してくださいますことを、心より感謝申し上げます。 失われた神様の子どもたちを探し求めるあなたの驚くべき愛と恵みのみ業は、今も続けられています。私たちの周りにも、あなたのことを知らず、まるでかつてのザアカイのように世の中の流れに掉さし、あなたから離れ、隣人も失って、自己中心的な歩みをしておられる方々がたくさんおられます。どうか、そのような方々が、主イエス・キリストにおいて、まことの神様であるあなたと出会い、まことの悔い改めと、新しい命の歩みを始めて行けるように、お導きください。願わくは、先に救われた私たちが、キリストにおけるあなたの驚くべき愛と恵みの救いに共に与る者たちとして、その方達の命の道しるべとなり、証し人となって、神様の驚くべき大きな祝福へと立ち帰ることができるように、お仕えすることができるようにお導きください。 尽きせぬ感謝と願いとを、主イエス・キリストの御名によって、祈ります。

使徒信条(5)聖霊による聖徒の交わり。

ヨハネによる福音書14章16-26節(新197頁) 、16章13-14節(新200頁) 前置き ここ数回の説教を通じて、使徒信条が記された理由と使徒信条が持つ意味について考えてみました。私たちが信じる主なる神という存在は、被造物である人間が完全に理解できる対象ではありません。聖書に記された神についての知識も、神という存在のごく一部だけを教えているので、私たちは神について完全に理解することができません。しかし、少なくとも、聖書に記された神という存在とその方の本質については正しく知って信じなければならないと思います。使徒信条は、私たちに、神という存在への極めて限られた知識ではありますが、聖書に記された神について教えているのです。今日、私たちは残りの使徒信条「わたしは、聖霊を信じます。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、からだの復活、永遠のいのちを信じます。」について学びます。これを通じて、聖霊なる神について、教会との関係について考えてみましょう。 1.聖霊なる神を信じる。 毎年「ペンテコステ」になると、教会では聖霊なる神について語ります。神は三位一体「御父と御子と聖霊」として存在するというのが伝統的な教会の教えであり、聖書にも、これを裏付ける言葉がたくさんあります。しかし、御父や御子に比べて聖霊はその比重が低く感じられる傾向があると思います。使徒信条でも非常に短く書いてあるだけです。しかし、聖霊なる神の御業は、御父、御子に負けないほど重要です。なぜなら、現在、この地上で教会を導きながら、御父と御子の業を成し遂げていかれる方が、この聖霊なる神であるからです。「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。」(ヨハネ福音14:16~17) イエスは完全な神でありながら完全な人間である方です。つまり、神の権威と権能を持っておられますが、また人間でもあるため、肉体を持っておられます。そういうわけで、物理的に私たちといつも一緒におられることはできません。聖書によると、イエスの肉体は、御父の右におられるからです。そのため、イエスは宇宙のどこにでも存在することが出来る聖霊のお働きを通して私たちと一緒にいてくださいます。 そんな理由で、イエスはヨハネによる福音書14章を通して、別の「弁護者(助け主)」聖霊を遣わしてくださると言われたのです。 一つの肉体を持っておられるイエスは、その肉体を通して、人間の代表になってくださいます。神であるにもかかわらず「肉体を持つ」とご自分で制限を加えられたのです。ご自身が絶対的な神だから体を複数にし、自然の摂理も無視して何でもするのではなく、主が定められた人間という範囲内で自らを完全な一人の人間とされたのです。それは、完全に人間の代表になってくださるための主のご意志なのです。だから、一つの肉体を持っておられるイエスは、多数の場所におられません。そのため、イエスはすべての所におられる聖霊の御業を通して、今もご自分の御業を全世界において果たしておられるのです。イエスは肉体を持っておられるため、一つの場所、父なる神の右におられますが、宇宙のどこにでもいることが出来る聖霊によって、すべての所で主の民を助けてくださるのです。聖霊は一ヶ所にだけいるイエスに代わって、この地上のどこでもイエスの御業を成し遂げていかれます。聖霊を軽んじてはならない理由は、御父と御子と同じ権威と権能を持って御父と御子の業をしておられるからです。したがって、私たちは聖霊への堅い信仰を持って信仰生活をしなければなりません。三位一体なる神は、お互いに協力しあって神の御業を成し遂げられます。父、子だけが重要なのではなく、父と子と共に働かれる聖霊も、私たちの信仰の対象として崇められるべき方です。 2. 聖なる公同の教会を導いてくださる聖霊。 「聖なる公同の教会、聖徒の交わり」私たちが信じるこの聖霊なる神は、御父と御子の業を成し遂げられる方です。キリスト教の重要な信条の一つである「ニカイア·コンスタンティノポリス信条」は、聖霊についてこう教えています。「聖霊は、父と子から出て、父と子とともに礼拝され、栄光を受け、また預言者をとおして語られました。」聖霊は、御父と御子から出て、共に礼拝と栄光を受けるべき神だということです。ところで、聖霊は「予言者を通して」語られました。御父と御子の言葉を預言者を通して宣べ伝えられた方が、聖霊なる神だということです。そんな意味として、神の御言葉を語る説教の言葉も、その根源は聖霊によるのです。もちろん、歴史的に牧師や司祭が説教を用いて自分の思想や知識を主張する誤った場合も少なからずあったのですが、ひとえに御言葉の本義だけが伝えられ、その御言葉によって三位一体なる神の恵みが現れ、教会に役に立つ説教が語られるのであれば、それはきっと聖霊が語らせてくださった正しい説教なのでしょう。御言葉が伝えられるということは、そこに教会が建てられたということであり、そういう意味として教会は聖霊のお導きによって建てられるとも言えるでしょう。ですから、聖霊は教会を建てられる方です。 父なる神の計画、御子の贖い、聖霊の働きによって、教会は建てられるのです。教会の頭であるイエスは聖霊の働きを通して、教会を見守って導いてくださいます。このような一つの聖霊によって建てられたこの世のすべての教会は「一つの公同の教会」です。頭なるイエス·キリストがおひとりで、世の中のどこにもおられるおひとりの聖霊が導いてくださるキリストの体なる一つの教会なのです。聖霊のお導きによってイエス·キリストの体となった一つの公同の教会は、国家、民族、文化、風習、思想を乗り越え、イエス·キリストによって教えられた「使徒的な教え(使徒信条)」という一つの最も重要な価値によって連結される普遍的な教会であるのです。ですから、教派が違っても同じ使徒的な教えを追求するなら、仲良く交わるのが正しいでしょう。 聖霊によって導かれ、キリストの体となったこの教会は「聖なる公同体」です。使徒信条は、これを「聖徒の交わり」と語ります。聖なるという言葉の意味は「特別に区別された存在」という意味です。教会自体が善を行い、正しい行動をしたから、聖なる存在となったという意味ではなく、御父の計画と御子の贖いと聖霊の導きによって、主の民として、この世と区別され、キリストの民として生きる存在となったという意味です。頭であるキリストが聖なる方なので、その体である教会も聖なる者と見なされたのです。このような教会を建てて導かれる方が聖霊なのです。 3. 信仰を与えてくださる聖霊。 このように聖霊のお導きのもとに主イエスの体として区別された教会は、聖霊がキリストの御言葉によってくださる「信仰」にあって生きるようになります。「しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。」(ヨハネ福音16:13~14) 聖霊なる神は、御父と御子と同一本質で、同じ権能を持っておられますが、いつも謙虚に父と子の御言葉に従って神の御業を果たしていかれます。そのため、聖霊が私たちと一緒におられるならば、私たちは何よりも御父と御子の言葉に集中して生きるようになります。「聖霊は、自分から語るのではなく、聞いたことを語られる。」すなわち、聖霊は聖書にあるキリストの御言葉を通じて主の民に語られます。新しい何かではなく、以前からずっと存在してきた、主なる神の御言葉のみが伝えられるように導かれます。そして、その御言葉によって語らせてくださいます。したがって、健全な教会なら、神の御言葉が記してある聖書を中心として御言葉を宣べ伝えることに努めます。「異言、予言、啓示」これらも時には教会の活動に必要ですが、最も重要なことは私たちに与えられた聖書の御言葉によって、使徒的で普遍的な教えが宣べ伝えられることです。 そして、その使徒的で普遍的な教えによって、教会は保たれていかなければなりません。毎週の説教はいつも変わりなく、時には退屈であるかもしれません。説教者の立場からも、説教のテーマはほとんど変わりがありません。何年前にした説教と大きい変わりのない説教が今年また語られる場合もあります。しかし、新しい内容の説教ではないけれど、常に大事に伝えられなければならない、繰り返しの説教の中で、聖霊なる神は働かれます。繰り返しで退屈な説教を通して、聖霊はご自分の言葉を語られるのではなく、謙虚に御父と御子の言葉を語らせてくださいます。この聖霊の謙虚さによって、私たちは主の御言葉に少しずつ染まっていき、その御言葉から小さな信仰の芽が生えてくるのです。その信仰によって私たちは「父の計画とイエスの贖いによって、私たちの罪が赦されたこと、イエスの復活によって私たちも復活し、永遠に生きること」を知り、信じるようになるのです。聖霊の謙虚さが私たちの正しい信仰の養分になってくるということです。 締め括り 聖霊は三位一体のおひとりの神です。父と子に比べてあまり語られない理由は、聖霊が御言葉を通して、父と子のことを伝えておられるからです。つまり、ご自分のことはあまり語られないということでしょう。だから、聖霊は謙虚な方です。この聖霊は教会を建てて導かれる方です。世の中のすべての所におられる聖霊のお働きによって、父の右におられるイエス·キリストはご自分の御業をすべて果たしていかれます。したがって、私たちも御父、御子と共にこの謙虚によって教会を導いていかれる聖霊なる神を憶えて生きていきたいと思います。長い使徒信条の説教が終わりました。私たちがほぼ毎週告白するこの使徒信条を憶え、私たちが誰を信じ、何を追い求めければならないのか、もう一度顧みる時間であれば幸いです。正しい信仰の告白の中に正しい信仰生活が生まれることを憶えて生きていきたいと思います。

繰り返す失敗と溢れる恵み。

創世記20章1-18節(旧27頁) ヨハネによる福音書15章4-5節(新198頁) 前置き 信仰の父と呼ばれるアブラハムは波乱万丈の人生を生きました。主のご命令によってカナンに来るやいなや、ひどい飢饉に襲われ、それを避けてエジプトに行ったら、政治的な問題のため、妻を妹と騙さなければならない命の危機にあいました。その後、主のお助けによってエジプトから無事に脱出しましたが、次は相続人と思っていた甥ロトと財産の問題で別れることになり、神に約束された息子の誕生は兆しが無かったです。側妻は家庭の不和をもたらし、彼女から生まれた息子は神に相続人と認められませんででした。「主の民」という呼び名が形だけのものと思われるほど、アブラハムの人生はつらかったのです。しかし、そのようなアブラハムの人生にあって、絶対変わらないのがありましたが、それは主なる神の存在でした。神はアブラハムと結ばれた契約にあってアブラハムの罪を赦され、いつも共にいてくださいました。聖書において最も重要な価値の一つは、神がご自分の民と永遠に共におられるということです。私たちは今日、アブラハムの失敗を見ます。しかし、それと共に、決してアブラハムを見捨てられない主なる神の愛をも見るようになるでしょう。 1.同じ罪を繰り返すアブラハム。 アブラハムは、最も偉大な聖書の人物の一人です。「信仰の父アブラハム」「アブラハムとイサクとヤコブの神」「アブラハムとダビデの子孫イエス」などの表現があるほど、キリスト教信仰において、存在感の大きい人物です。しかし、このアブラハムという人は、私たちの思いほど、偉大な人でないかもしれません。その理由は、今日の本文のためです。「ゲラルに滞在していたとき、アブラハムは妻サラのことを、これは私の妹です。と言ったので、ゲラルの王アビメレクは使いをやってサラを召し入れた。」(1-2)今日の本文、創世記20章は、前の12章の「アブラハムがエジプトのファラオに妻を妹と騙した物語」と非常に似ています。話の文脈から見ると、今日の本文の物語はアブラハムが神を信じてから、すでに24年が経った時点、つまり、かなり成熟した信仰者になったはずの時点のことです。しかし、彼はなぜか自分の妻をまた捨てる失敗を再び犯し、まったく成長していない姿を見せてしまいます。 創世記12章でアブラハムは神に何も尋ねず、飢饉を避けて勝手にエジプトに行きました。そして神にも、妻にも大きい無礼を犯してしまいました。しかし、その後、神に赦されたアブラハムは繰り返して失敗と回復を経験し、少しずつ成長していきました。なのに、アブラハムは、長年の信仰生活にもかかわらず、再び妻を捨てる、また同じ失敗を犯したのです。彼の妻サラは、ただ、普通の人妻に過ぎない存在ではありません。アブラハムの相続人、つまり神の約束の息子を産む、神に選ばれた大事な人物でした。約束の相続人イサクの母になる妻サラを捨てるということは、神との約束を破る大きな犯罪であり、妻との信頼をも破る裏切りだったのです。このアブラハムの姿を見て、「これが人間の本質なのか?」と思わされます。私たちは戦争も、命の脅威も、人権の抑圧もない平和の時代に信仰生活をしています。しかし、もし、私たちもアブラハムのような命の脅威を感じる状況になったら、私たちは果たして信仰を守ることが出来ますでしょうか。ひょっとしたら、繰り返すアブラハムの失敗は、私たちを映す鏡であるかもしれません。もし、実際に命をかけなければならない日が来たら、私たちはアブラハムと異なる選びが出来ますでしょうか。 現代を生きる私たちは、創世記が一人が書いたか、長い間、何人かが書いたか分かりません。ただし、この創世記という聖書が記される際に、主なる神が深く関わり、導いてくださったこと、主の御言葉として、この創世記をくださったことは分かります。なので、私たちは創世記 12章と 20章で繰り返すアブラハムの失敗と主のお赦しの物語を通して、主が私たちに示してくださる教訓があるということを考えなければなりません。いくら偉大な信仰者であるといっても失敗を経験し、その偉大な信仰者でさえ、神のご恩寵でなければ、絶対に信仰を続けることができないということを教えるための「失敗の繰り返し」それが創世記12章に似ている今日の本文の意義ではないでしょうか。「その夜、夢の中でアビメレクに神が現れて言われた。あなたは、召し入れた女のゆえに死ぬ。その女は夫のある身だ。」(3)神は創世記12章でファラオを戒められたように、今回はアビメレク戒をも戒められ、アブラハムを救ってくださいました。アブラハムは、罪による繰り返す失敗を犯しましたが、神も同じく繰り返してアブラハムを赦してくださったのです。いくら信仰があるといっても、人は自分の信仰を完全に守ることができません。民と共におられる主の恵みによってのみ、人は信仰を守ることが出来るのです。私たちはアブラハムの繰り返す失敗にがっかりするより、それでも、アブラハムを見守ってくださる神の愛に感謝すべきです。 3.繰り返す失敗と溢れる恵み。 「直ちに、あの人の妻を返しなさい。彼は預言者だから、あなたのために祈り、命を救ってくれるだろう。しかし、もし返さなければ、あなたもあなたの家来も皆、必ず死ぬことを覚悟せねばならない。」(7)今日の本文を読んでみると、先に誤った人はアビメレクではなく、アブラハムであることが分かります。古代に一つの勢力が拠点を移す際に、他勢力の暴力を避けるために、家族を人質として差し出す場合もあったのですが、当時のアブラハムはカナンで権力も財力もある有名人で、妻サラはすでに90歳近くの老人でした。ある学者は、神がサラに子供を産ませるため、彼女を若返らせてくださり、それによってアビメレクがサラを連れていったと解釈しましたが、説得力は低いと思います。いずれにせよ、当時のアブラハムは自分の妻を妹と騙す必要はなかったと思います。創世記12章では、勢力も弱く、妻も比較的に若かったので、命を救うために騙したのかも知れませんが、創世記20章では財力も、権力もあるアブラハムが、あえて妻を渡す理由がなかったということです。なので、おそらくアブラハムが早のみ込みして怖がり、妻を渡したのではないかと思います。 いずれにせよ、今日のアブラハムは信仰の父にふさわしくなく、情けない姿をとっています。しかし、この情けないアブラハムへの神の御心は驚くべきです。主はアブラハムを「預言者」と呼んでおられるからです。神はアブラハムが信仰の父にふさわしく行動する時も、そうでない時も、変わることなく「主の民、神の預言者」と認めてくださいました。彼の行いではなく、神と結んだ契約をご覧になったからです。これはキリストの福音と非常に似ています。キリスト者は、自分の功績によって神の民となった存在ではありません。私たちもアブラハムのように、時には信仰で、時には不信仰で生きます。いや信仰より不信仰に生きるほうが多いかも知れません。しかし、それでも、神は私たちを救ってくださったキリストの義によって、私たちをご自分の民と認めてくださったのです。今日のアブラハムが犯した罪は、彼が最初犯した罪と同じ罪、つまり妻を捨てる罪でした。しかし、神は彼が繰り返して罪を犯しても、変わりなく彼を赦し、正しい道を教えてくださいました。同じくイエスは、人生の初めの罪から終わりの罪まで、すべての罪をお赦しくださり、私たちを主の道へと導いてくださるでしょう。繰り返す罪の中でも、主は満ち溢れる恵みで主の民を憐れんでくださるのです。 締め括り 「私につながっていなさい。私もあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、私につながっていなければ、実を結ぶことができない。私は葡萄の木、あなたがたはその枝である。人が私につながっており、私もその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。私を離れては、あなたがたは何もできないからである。」(ヨハネ15:4-5)イエスは十字架にかけられる前夜、ご自身はぶどうの木であり、弟子たちは枝であると言われました。枝は幹につながっている時にのみ、実を結ぶことができ、自分では実を結ぶことができないものです。アブラハムは同じ失敗を繰り返しました。しかし、彼は偉大な信仰の人物として聖書に記録されています。アブラハムが偉大な人物として描かれた理由は、失敗にもかかわらず神を信じ、離れずにつながっていたからです。神はキリストにつながっている者をも守っておられます。私たちが繰り返して罪を犯しても、主は繰り返して赦してくださり、常に私たちを正しい道へと導いてくださるでしょう。だから失敗を恐れる必要はありません。失敗したら悔い改め、赦してくださる神を最後まで信じていきましょう。私たちが神につながっている時に、神は私たちを実を結ぶ枝として養ってくださるからです。繰り返す失敗にも溢れる恵みによって応えてくださる神のご恩恵を憶え、神のもとにいる者として生きていきましょう。

使徒信条(4)‐復活と勝利の神の子

詩編2編7~9節 (旧857頁) 、ヨハネによる福音書16章33節 (新201頁) 前置き 最近、私たちは使徒信条について学んでいます。古代の教会で使徒信条が造られた理由は、当時の教会を分裂させ、誤った教えを宣べ伝える異端やカルトから、教会のアイデンティティ-を守り、各地の教会が共通的に告白できる信仰の標準を正しく立てるためでした。(洗礼者教育のためにも)使徒信条は聖書に直接記された言葉ではありませんが、使徒信条の告白すべてが聖書に基づき選ばれたものです。使徒信条と呼ばれる理由は、初代教会の指導者であり、イエスの弟子である12使徒の信仰と精神を要約整理した信条だからです。私たちはこの使徒信条を通じて、神とは誰なのか、どのように存在しておられるのか、私たちが信じるべきものは何かを知ることができます。今日は、その4番目、イエスの死と埋葬と復活、そして昇天と審判について話してみましょう。 1. 葬られて陰府にくだられた神の子。 「死んで葬られ、陰府にくだり」十字架で、人類の代わりに罪を背負って亡くなられたイエスは、本当に死を経験されました。本当に死を経験されたということは、神であるイエスが、人間の死の悲惨さを「経験しないが理解はする。」という意味ではなく、神であるイエスが人間になり「経験して確実に分かる。」という意味として理解することが出来ます。「経験しないが理解はする。」と「経験して確実に分かる。」は雲泥の差だからです。イエスは人間の真の代表になってくださるために、人間の生だけでなく死まで経験されたのです。日本語の使徒信条では「葬る」とありますが、古代のイスラエルでは人が死んだら、その死体を亜麻布に包んで岩窟の墓に納めたと言われます。古代イスラエルでは、神は天におられ、人間は地上におり、死者は地底世界「シェオール」にいると思いました。このシェオールはヘブライ語ですが、日本語に訳したのが「陰府」なのです。つまり、陰府とは古代イスラエル人において、死の代名詞だったのです。だから、使徒信条はイエスが実際に死んで葬られ、死者のところ、陰府にくだられたと語っているのです。しかし、私たちはこの使徒信条の文章を文字通り理解してはなりません。 ある学者たちは、イエスが実際に地獄(陰府)にくだられ、罪人たちを救われたと解釈します。また、ある学者たちは、イエスが死後、天国と地獄を問わず、ご自身が死に勝利したと宣言されたと解釈します。その他、様々な解釈がありますが、私たちは真相を知ることができないので、ある一つの解釈に盲目になってはなりません。「死んで葬られ、陰府にくだり」は、地上で生きている私たちが完全に証明できない言葉だからです。ただし、長老教会が重要に考える宗教改革者「ジャン·カルバン」は自分の著書「キリスト教綱要」を通して「キリストは神が怒りの中で罪人にくだされた死の刑罰を経験された。だから、主が地獄(陰府)に落ちたとしても驚くことはないだろう。」と語りました。すなわち、カルバンはイエスが直接陰府にくだられたという文字的な解釈より「比喩的に」陰府が意味する人間の死と悲惨さそのものを完全に経験して罪人の代わりに苦しみを受けられたということを強調しているのです。イエスが実際に陰府に行かれたかどうかは誰も知りません。ただ、イエスが私たち人間の死を完全に経験し、誰よりも理解して憐れんでくださるということから慰めを得るべきだと思います。 2. 復活して天に昇られた神の子。 「三日目に死者のうちから復活し、天に昇って」イエスは、明らかに亡くなられました。真の神であるイエスですが、また真の人間として、この地上に生まれ、育ち、働き、罪の贖いのために死んでくださったのです。そのため、イエスは神でありますので、神の偉大さとみ旨を誰よりもよく分かっておられ、また人間でありますので、人間の弱さと死の権能を誰よりもよく分かっておられます。こんなイエスは死んで3日後に復活されました。なぜ3日なのでしょうか。その理由はイエスが直接ヨナを取り上げて言われたからです。「ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる。」(マタイ福音12:40)イエスは、旧約聖書の預言者ヨナが3日間、魚の腹(死)の中にいたが、神が彼を生かしてくださったことを例に挙げられ、ヨナより偉大な存在であるイエスご自身も3日間死に、復活されることを予言されたのです。完全に死にて葬られたイエスは、旧約聖書で神がヨナを魚の腹から出してくださったように、墓から復活して再び生き返られたのです。 イエスが、この地上に来られたのは、いと高き神である存在が、みすぼらしい人間の姿に自ら低くなられた謙遜の極みを示す出来事です。しかし、イエスが死から復活されたのは、神によって最も高いところに再び高められた栄光の極みを示す出来事なのです。イエスの誕生が低くなることの始まりだったとすれば、イエスの復活は高くなることの始まりであるのです。人間の姿になって、人間の死まで完全に経験されたイエスは、真の神でありながら真の人として死に勝利して再復活されたのです。最終的にイエスの復活は、主が来られた場所、天に帰られることで完成します。主イエスは復活を通して、再び栄光の座、御子なる神の座、父なる神の右に復帰されたのです。それが昇天の真の意味です。ですから、復活と昇天はコインの両面のように密接な関りがあります。復活して昇天されたイエスは、二度と死ぬことなく、永遠におられるようになったのです。そのため、イエスの復活は一時的に生き延びてまた死ぬこととは異なります。世の中でも生物学的に死んだ人が、奇跡的によみがえることが、しばしばあります。しかし、彼らは長生きはしても結局再び死にます。イエスの復活は二度と死がない永遠の命を伴います。イエスの復活は完全に死を乗り切った空前絶後の恵みなのです。 教会の頭なるイエス・キリストは、死から復活されました。そのため、主の体なる教会を成す私たちも、すでにイエスと共に復活の中に生きているのです。そして、その頭なるイエスが天に昇られたので、その体なる私たちも、この地に生きてはいますが、実は天に属した存在として生きているのです。イエス・キリストの復活と昇天は、主イエスおひとりだけが天に帰還した出来事ではなく、その方の民みんなに復活を与え、天の命をくださる栄光の出来事なのです。それはイエスだけの事柄ではなく、主の民みんなの事柄でもあるのです。復活と昇天のある人生とは、過去、救われる前の人生を顧み(悔い改め)新しい人生を生きることです。自分だけのために生きた人なら、他人のことも考えて生き、他人のものを欲した人は、他人のものを守り、節制のできない人は、節制して生き、何気なく罪を犯した人は罪を犯すことを恐れる人生に変わることなのです。それがまさに復活と天国を持った人の生き方ではありませんか。主イエスは復活して天に昇られました。主の民である私たちも、主に召される日まで、この地上で生きますでしょうが、すでに復活と天国に属していることを忘れてはならないでしょう。 3. 真の王として再び来られる神の子。 「全能の父なる神の右に座しておられます。そこから来て、生きている者と死んでいる者とを審かれます。」復活して昇天されたイエスは、本来のご自分のところに帰られました。しかし、イエスの受肉と十字架での死、復活、昇天によって罪と死を征服されたイエスは、全宇宙を治める真の王の中の王になられました。創造以来、旧約時代には、父なる神が三位一体を主導されたのですが、イエスの復活と昇天以来には、詩編2編の言葉のように「お前はわたしの子。今日、わたしはお前を生んだ。求めよ。わたしは国々をお前の嗣業とし、地の果てまで、お前の領土とする。」(詩篇2:7-8) 御子に主導権をお譲りくださり、全宇宙を治めて裁かれるようにしてくださいました。したがって終末の日、イエスが再臨される時には、地上におられた時のように、苦しみを受ける姿ではなく、戦争に勝利した王として来られ、生者と死者を問わず、全人類を審判されるでしょう。私たちキリスト者は、このイエスの栄光と再臨を待ち望み、この世での苦しみを忍耐しつつ生きていくのです。私たちの主がすでに勝利されたからです。 締め括り 罪によって、死に束縛された人類を救うために、イエス·キリストは自ら死を経験されました。葬られたというのは、確実な死の経験を意味します。陰府にくだられたというのは、人間の死の悲惨さを完全に経験し、理解されたという意味です。復活されたというのはイエスが罪と死の権能に勝利され、主を信じる者たちに罪と死の権能からの完全な自由を与えてくださったという意味です。再臨し審判されるというのは信じない者には恐ろしい審判であるが、信じる者には主の栄光を分け与えてくださるという意味です。私たちはこのイエスを信じています。「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハネ福音16:33) ですから、イエスのもとにいる者は、死を恐れる必要がありません。この世では苦しみを受けるかもしれませんが、主は私たちの弱さを知り、いつも共にいてくださるでしょう。私たちが信じるイエスは生と死の支配者です。このイエスへの信仰をしっかりと守り、日常を生きる私たちでありますよう祈り願います。