良い羊飼い。

エゼキエル34章7-10節(旧1352頁) ヨハネによる福音書 10章1‐21節(新186頁) 前置き キリスト教は、御子イエス・キリストを頭として打ち立てられた宗教です。この世の誰もキリストに取って代わることが出来ず、そのキリストだけが神に遣わされた唯一のメシアとして崇められる宗教なのです。父なる神が、このキリストだけを、唯一の世界の統治者として立ててくださり、いつか、世の終わりの日に、このキリストは戦争に勝利した王の姿で、善と悪を審判するために来られるでしょう。つまり、主イエスは私たちの思いより、さらに威厳と権能を携えた畏れるべき方であるということです。これが伝統的な終末のキリストのイメージなのです。しかし、新約聖書は、変わらずキリストを、羊を愛し守る穏やかな良い羊飼いとして想起させ、私たちに慰めと平和を与えてくれます。イエス・キリストは、世の誰よりも強力で偉大な方ですが、しかし、誰よりも良い羊飼いであることを忘れないように思い起こさせるのです。今日は、良い羊飼いについて考えてみましょう。 1.良い羊飼いイエスと小さな羊飼いキリスト者。 イエス・キリストは、良い羊飼いです。神を知らず、信じてもいないこの世で、神に選ばれた者たちを導き、青草の原に休ませてくださる愛に満ちた良い羊飼いです。愛のない、他者のためではなく、もっぱら自分だけのために生き、自分のためなら他者が死んでも気にしない邪悪な世で、ご自分の命をかけて、羊を愛してくださる真の羊飼いです。『私は良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。』(ヨハネ10:11) ところで、このイエスはご自身が羊飼いになってくださると同時に主の共同体の指導者にも、主の御心に聞き従う小さな羊飼いとしての務めを与えられます。今日の旧約本文に羊飼いとありますが、これは、イスラエルを治める王や貴族を指し示す言葉です。彼らは民を愛さず、自分の欲望だけを追い求めました。主はそんな彼らに滅びを言われました。良い羊飼いイエスは、ご自分の命を捨ててまで、民を愛されましたが、イスラエルの指導者たちは、自分の名誉、権威、富だけを重んじ、貧しい民には何の興味もなかったのです。神は、ご自分の民の髪の毛までも数えられるほど、民を愛される方です。だから、苦しんでいる民のうめき声と涙に深い関心を持っておられます。そのような神の御心を理解しようともせず、かえって民を放っておいた指導者たちの罪で、イスラエルは神に呪われ、他国に滅ぼされてしまったのです。羊を愛さず、打ち捨てた指導者たちは、心深く羊を愛された主によって裁かれ、滅びてしまいました。 私たちの教会は、イエス・キリストの体です。教会は、イエスの手と足、口となって、イエスが愛する人々に仕え、主の福音を宣べ伝える使命を持っています。私たち志免教会の一人一人が皆、主の手と足、口として生きています。隣人に仕え、愛することは、イエスの体であるキリスト者にとって、当たり前なことであり、近所の人々に主の福音を伝えることは、私たちが召される日まで止まってはならない何よりも大事な務めです。牧師、宣教師、伝道師、教職者だけが羊飼いではありません。真の羊飼いであるキリストの教会を成す全ての者は、イエス・キリストに羊飼いとしての務めを与えられた主の小さな羊飼いです。ですので、私たちは教会員どうし、お互いに自分の羊のように愛しなければなりません。また、まだ信じていない私たちの隣人も、失われた羊と思い、福音を伝え、愛をもって仕えるべきです。ただイエスを信じて、祝福されて、天の国に入り、自分だけのために信仰生活をするなら、それは神に呪われた、昔のイスラエルの指導者たちと違いがないでしょう。真の羊飼いイエス・キリストによって遣わされた私たちは、主の小さな羊飼いです。今、私たちの心に小さな羊飼いとしての自覚があるかどうか考えてみるべきだと思います。 2.羊は羊飼いの声を聞き分ける。 教会の真の良い羊飼いはただお独りイエス・キリストだけです。この世の数多くの教会には、時々、こんな人たちが見られます。「自分は羊飼いとして選ばれた。」口先だけでは、牧師あるいは長老と言いますが、まるで、自分が教会の所有者となっているかのように振舞う人々がいるということです。しかし、厳密に言って、牧師も長老も、羊の群れの中で、説教や奉仕の務めを預かっている、また違う羊にすぎないのです。つまり、牧師も、長老も、執事も、平信徒も、皆、主の羊でありながら、兄弟姉妹に仕える小さな羊飼いであると考えるのが正しいでしょう。ただ、牧師は、神学、聖書について専門的に勉強したため、説教の時は尊重されるべきだと思いますが、牧師も基本的には主の羊でしょう。だから、牧師も、主の羊として、主なる神の声を謙虚に伺わなければなりません。それでは、果たして主の言葉とは何でしょうか? それは、「イエス・キリスト」による聖書の言葉でしょう。聖書を引用しても主と関係ない教えは多いです。イエスが排除されたまま、聞こえてくる全ての愛の言葉、救いの言葉、宗教的な言葉は注意すべきです。統一教会、エホバの証人など、唯一の救い主なるイエスを軽んじて、自分らの教理を教える全ての聖書の教えは、偽りです。彼らは盗人であり、強盗です。これは私たちだけが真実だという独断ではなく、彼らが正しい救いの道から離れ、イエス・キリストを示さない間違った教えを伝えるからです。「はっきり言っておく。私は羊の門である。 私より前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。」(ヨハネ10:7-8)本当にイエス・キリストの民となった者は、ただイエス・キリストの言葉だけを聞こうとします。 「盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。私が来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。 」(ヨハネ福音10:10)私たちは主の羊として主の御言葉を聞き分け、主イエスだけによって神に接しなければなりません。イエスのない言葉は人間の言葉にすぎないからです。 3.良い羊飼い、悪い羊飼い。 1941年、昭和16年6月、日本の34個プロテスタント教派は強制的に統合されます。これは軍国主義による教会統制の一環でした。このような統合により、生まれたのが戦前の日本のキリスト教団です。その日本キリスト教団の初代議長は富田満という牧師でした。彼は旧日本キリスト教会の統理であり、東京神学校の理事長を歴任するほど、影響力のある牧師でした。彼は日本帝国の軍国主義に賛同し、最終的には神社参拝は偶像崇拝ではなく、国民儀礼であると言いました。また、彼の強要により、日本の教会は神社参拝を承認しました。それだけではなく、植民地の教会も彼の主張に屈し、神社参拝に加担しました。富田満は、戦後、教会の命運のために仕方がなかったと言い訳するだけで、まともな懺悔と謝罪もせず、日本キリスト教団の影響力のある牧師、神学教授として働き、1961年に亡くなります。今、彼を尊敬する人は日本の教会にいますでしょうか。 一方、韓国ソウルには楊花津宣教師墓地という場所があります。世界各国から来た宣教師たちを記念するところです。そこには日本人宣教師の墓が一つあります。曾田嘉伊智という伝道者の墓です。山口県出身の曾田嘉伊智は、植民地朝鮮で孤児院を設立し、面倒を見た人です。彼は朝鮮の独立と朝鮮人のために奉仕した人ですが、朝鮮人には侵略者として、日本人には裏切り者として両方から嫌われた人です。しかし、彼は信仰によって、強く忍耐し、全ての誤解を乗り越え、朝鮮人の愛を受けた人です。彼は真の平和を望み、朝鮮を助け、日本を宣教しようという一念で生きました。朝鮮人たちは、彼に感動し、信用しました。日本の敗北後、北朝鮮地域から引き揚げようとする日本人たちが、ロシア軍に攻撃される事件ありました。当時、近く教会で伝道師として働いていた曾田嘉伊智は教会堂に信者、迷信者を問わず、日本人を集め、命をかけて守りました。彼は民族を問わず、主の御言葉のように人を愛したのです。戦後、彼は日本に帰り、伝道活動をして、後韓国に戻って1962年主に召されました。 締め括り 富田満と曾田嘉伊智。二人は主の裁判所で、どんな評価を受けたでしょうか?果たして誰が良い羊飼いとしての人生を生きたと褒められたんでしょうか?裁きは主なる神の領域ですので評価はしませんが、聖霊なる神が私たちの心に答えておられるでしょう。今日の旧約本文の「羊を養う」の「養う」の原文は「面倒を見る、愛をもって治める、付き合う、友達になる。」などの意味を持っています。私たちは主イエスの羊です。真の羊飼い、主イエスは、私たちを養ってくださる方です。だから、主は、私たちを守り、愛する友たちにしてくださいます。その主に愛される私たちは、また、他者を愛するために小さな羊飼いとして生きなければなりません。主から愛された私たちは、今や、他者を助け、愛する友たちになる義務を持っています。主の羊であり、小さな羊飼いである私たちの生活を通して、主は喜ばれ、私たちに祝福してくださるでしょう。来たる一週間、良い羊、良い羊飼いとして、主に導かれる私たちでありますように。そのような生活のために、主イエスの恵みと助けが、限りなく与えられますように祈り願います。