使徒信条(2) – 神の子を信じる。
詩編2編7〜9節 (旧835頁) ヨハネによる福音書3章16節 (新167頁) 前置き 私たちは、ほぼ毎週の日曜礼拝の時、使徒信条を告白します。古代の教会で使徒信条が造られた理由は、当時の教会を分裂させ、誤った教えを宣べ伝える異端やカルトから、教会のアイデンティティを守り、各地の教会が共通的に告白できる信仰の標準を正しく立てるためでした。使徒信条は聖書に直接記された言葉ではありませんが、使徒信条の告白、すべてが聖書に基づき選ばれたものです。使徒信条と呼ばれる理由は、初代教会の指導者であり、イエスの弟子である12使徒の信仰と精神を要約整理した信条だからです。私たちは、この使徒信条を通じて、神とはどなたなのか、どのように存在しておられるのか、私たちが信じるべきものは何かを知ることができます。今日は、使徒信条その2回の時間で、神の子であり、私たちの信仰の源であるイエス·キリストへの告白を学びたいと思います。 1. 神の独り子 「主の定められたところに従ってわたしは述べよう。主はわたしに告げられた。お前はわたしの子、今日、わたしはお前を生んだ。求めよ。わたしは国々をお前の嗣業とし、地の果てまで、お前の領土とする。」(詩篇2:7-8) 詩篇2篇は、詩篇の中でも代表的な「メシアの詩」と言われます。メシアとは「油注がれた者」という意味のヘブライ語で、旧約時代のイスラエル王国にあって、王、預言者、祭司が油に注がれて働きはじめる代表的な務めでした。その中でも特にイスラエルを治める「王」が、メシアとしての象徴性を強く持っていたようです。そんな意味として、詩編2編はイスラエルの王への詩でもあります。しかし、学者たちはこの詩編2編をメシアや王への詩だけに限らず、未来に到来する真のメシア・イエスを予告する、予言の特徴も持っていると解釈します。「この世の国は、我らの主と、そのメシアのものとなった。主は世々限りなく統治される。」(黙示録11:15) そしてキリスト者は、以上のような、いくつかの新約の言葉に基づき、イエス·キリストこそ、神が選ばれた真の王とメシアであると告白します。ですので、私たちはイエスが真の王、メシア(ギリシャ語でキリスト)であると信じています。 私たちが信じるイエス・キリストは、今日の旧約本文の言葉のように、偉大で唯一の真の神の子です。キリストは神の子ですが、実はキリストご自身も神であります。私たちが信じる、主なる神という存在は、御父、御子、聖霊として存在しておられます。そして、この世は、この父、子、聖霊で存在する神を三位一体の神と呼びます。前回は、その中から「父なる神」への告白について学びました。そして、今日は「子なる神」への告白について学びます。私たちは、キリストを父なる神の 独り子として信じています。イエス·キリストは私たち教会の頭であり、教会は主の体であります。イエス·キリストはご自分を主と告白する者たちに聖霊によって訪れられ、信仰を与えてくださり、神の子供になるように助けてくださり、今でも神の右におられ、彼ら一人一人の信仰のために祈ってくださる方です。もともと、人間は罪によって神と完全に離れてしまった滅びるべき存在です。しかし、神の子イエス·キリストは、滅びるべき罪人たちを、ご自分の体のように愛し、ご自分の御名を保証として、彼らの罪を赦し、神と和解するように導いてくださいます。したがって、私たちが神の子イエス·キリストを信じるということは、キリストによって、神に赦され、和解して子供となったという意味です。 2. 主イエス·キリスト ところで、気になることがあります。「メシア、主、イエス、キリスト」神の子には、多くの名称がありますが、これらはどういう意味でしょうか。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。 あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。」ルカによる福音書1章30‐31節は、神が御使いを通して、マリアが身ごもった子の名前を教えてくださる記録があります。イエスはヘブライ語で「神の救い」という意味です。旧約聖書の「ヨシュア記」に出てくる「ヨシュア」が、神の救いを意味するより原文に近い発音ですが、文化圏や国によって呼び方も多様です。ギリシャは「イスス」日本は「イエス」韓国は「イェスゥ」中国は「イェシュウ」米国、英国は「ジーザス」、イタリアは「ジェス」、ドイツは「イェスス」など。しかし、発音が違っても「イエス」という名前は「神の救い」という明確な意味を持っています。イエスの使命が、その名前に、ありのまま現れているのです。また、私たちはイエスを「主」とも呼びます。「主」は、古代イスラエル人が神の御名を直接呼ぶことを恐れ、御名の代わりに呼んだ表現で、ヘブライ語「アドナイ」を訳したものです。中世時代の明、清(中国)や朝鮮では「王」の名前を、むやみに呼ぶことが許されなかったと言われます。古代のイスラエルでも、神の御名を口で呼ぶと大きな罪だと思って「アドナイ」と呼び、それが「主」と訳されたわけです。もちろん漢字語の意味のままに「私の主人」という意味もあります。 最後に「キリスト」とは、どういう意味でしょうか? 聖書はこの言葉を「メシア」をギリシャ語に訳したものだと語ります。新約聖書はギリシャ語で記録されたため、ヘブライ語の「メシア」をギリシャ語の「キリスト」に訳したのです。ところで、このキリストという概念はローマ帝国にとっては「皇帝」を意味する表現でもあります。皇帝そのものをキリストとは呼ばなかったでしょうが「神々の子、ローマを救った者」という意味で、ローマの皇帝はイエス時代のもう一つのキリストのような存在でした。そのため、当時のローマ帝国の各地に散らばっていたキリスト者たちは「ローマ皇帝をキリストとして崇めるべきか? 「主イエスをキリストとして崇めるべきか?」という分かれ道の前に立っていました。迫害を恐れてローマ皇帝をキリストとした者たちは、すぐにイエスと教会を裏切って自分の道に離れました。しかし、イエスだけをキリストとした者たちは、残酷な弾圧と迫害の中で命をかけなければなりませんでした。私たちにとってメシアは誰ですか? 私たちにとって救い主は誰ですか? 私たちにとってキリストは誰ですか? 現代の日本は宗教的な圧迫から自由な国家ですが、太平洋戦争の時には、教会はイエスと天皇の中で誰を上にするべきかとの現実的な悩みがありました。私たち教会はメシア、主イエス·キリストを信じています。使徒信条はイエスだけが真のキリストであると告白しているのです。 3. 神と人間をつなぐたった一つの道。 使徒信条を観察してみると、父なる神と聖霊なる神に比べて、御子イエスへの告白がより長いことが分かります。そのため、あと2回ほどキリストとかかわる使徒信条の説教が残っています。「キリスト教」であるだけに、この新約時代には、三位一体の中、キリストへの比重がより多く与えられていると言えます。もちろん、だからといってキリストが御父や聖霊より権能があるという意味ではありません。他の信条である「ニカイア信条」には、御子は御父と同一本質を持っていると記してあります。つまり、三位一体なる神のどっちのほうがより偉大だとは言えないということです。しかし、父なる神は、新約時代においては「キリスト」に支配権を与えられました。そして、その支配権はイエス·キリストが再臨して救いと裁きを完全に成就される時に父なる神に返されるでしょう。神はこのイエス·キリストを通して、神と世の中の繋がりを造られました。神と人間は絶対に会うことも、共通点を持つことも、付き合うこともできない全く違う格の両者です。神にとっての人間(罪人)は、人間にとってのアリよりも取るに足らない存在です。しかし、イエスはご自分の十字架での贖いによって、みすぼらしい人間と全宇宙の創造主である神とをつなげてくださいました。だから、私たちが主とあがめるキリストは、偉大な神と小さな人間をつなぐたった一つの道なのです。 締め括り 私たちは、イエス·キリストをあまりにも便利に信じているかもしれません。キリスト教会に通うのが馴染んでない日本社会ではありますが、誰も教会に通うからといって迫害しません。また、長年の信仰生活のために教会に通う人たちも習慣的になっているかもしれません。しかし、初代教会の状況は今とはまったく異なっていました。ローマ帝国の皇帝が、この世のキリストとして世界を支配しており、周辺には教会の正統的な教えを歪曲する異端が多かったのです。このような苦しい状況の中で、三位一体なる神への正しい信仰告白と異端の教えに闘うために、イエス·キリストの教えを継承した使徒たちの信仰を命のように守ろうとする者がいました。私たちが告白する、この使徒信条を単なる教会の儀式くらいに考えてはならないでしょう。私たちの信仰の根となり、骨となる信仰告白を正しく守り、その信仰にあって生きる私たちであることを祈り願います。