私の一番良いものを。

箴言 3章9-10節(旧993頁) マルコによる福音書 14章3-9節(新90頁) 前置き 今日、探ってみようとする箇所は「イエスの頭に香油を注ぎかけたベタニアの女」の物語です。この本文を通して「私の一番良いものを」という題で話してみましょう。今日の本文を通じて、主は私たちに何を教えてくださいますでしょうか? 1。ベタニアにおられる主なる神。 「イエスがベタニアで重い皮膚病の人シモンの家にいて、食事の席に着いておられたとき、一人の女が、純粋で非常に高値なナルドの香油の入った石膏の壺を持って来て、それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた。」(マルコ14:3) イエスが十字架につけられる数日前、主はべタニアの重い皮膚病(ハンセン病)の人だったシモンの家に行き、食事の席に着かれました。呼称からも分かるように、シモンはかつてハンセン病者だったようです。律法によると、ハンセン病者は必ずイスラエルから隔離しなければなりませんでした。しかし、純粋なユダヤ人だった主イエスは、彼の家に入り、一緒に食事されたのです。食事の席に着くというのは、一緒に飲み食いする、人と深い関係を結ぶという意味です。もちろん、学者たちはシモンがすでにイエスによって癒され、正常になっていたと言います。彼は本当に回復していたでしょう。もし、彼が依然としてハンセン病者だったら、律法のため、イエスを除いた、みんなが彼の家に入ろうとしなかったはずだからです。ハンセン病から治ったとしても、人々は気軽に彼の家に入ろうとしなかったでしょう。しかし、イエスは全くお気になさらず、シモンの家に入り、彼と食事の交わりをなさいました。神の呪いのようなハンセン病によって隔離され、嫌われ、結局は寂しく死んでいくはずだったシモンは、イエスによって癒され、再び隣人と共に生きるようになったのです。 さて、このシモンの家はエルサレムから東へ約4-5km離れていた「べタニア」にありました。べタニアはアラム語(当時、エルサレム地域の人が主に使っていた言葉)で「貧しい者の家」という意味で、べタニアの近くには、ハンセン病者の隔離地域があったと言われます。イエス•キリストは、何のためらいもなくハンセン病にかかった者たちの地域に近いべタニアに行き、貧しい者たちを慰め、ハンセン病にかかった者たちを治してくださったのです。当時、ユダヤ教の人々はイエスを軽蔑して「徴税人や罪人の仲間だ。」と呼びました。ユダヤ人にとって、そのようなあだ名は呪いのようなものでした。しかし、イエス•キリストは、喜んで「徴税人や罪人の仲間」すなわち「疎外された者の友人」になってくださいました。イエスは華やかなエルサレムの王宮、あるいは、聖なるエルサレムの神殿ではなく、汚く、貧しく、疎外された「罪人のところ」におられたのです。神であるイエスは、寒くて汚くて臭い「飼い葉おけ」に生まれ、いつも低くて疎外されたところにおり、最後まで貧しいところ、罪人たちのところ、低いところにおられたのです。今日の本文のその日、神であるイエス•キリストは、べタニアにおられました。そして、貧しくて悲しい者たちと一緒にいてくださいました。私たちの主が生前、しょっちゅうおられた所、そこは低くて貧しいところでした。 2.キリストに香油を注ぎかけた女。 「一人の女が、純粋で非常に高値なナルドの香油の入った石膏の壺を持って来て、それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた。」(マルコ14:3) 主がシモンの家で食事された時、一人の女がイエスのところに来て、300デナリオン以上のナルド香油をイエスの頭に注ぎかけました。ナルドとはイスラエル地域には育たない、現在のインド、ヒマラヤ山脈に育つ非常に貴重な植物だと言われます。当時、元気な男性労働者1人の一日労賃が1デナリオンだったということですから、300デナリオンなら、ほぼ1年の給料に当たる大きい金額だったでしょう。おそらく、そんなに富んでいない彼女は、長い間、貯めてきたお金で高い香油を買ってイエスのためにささげたでしょう。低いところで貧しくて悲しい人々とおられた主のために、女は自分の一番良いものを差し上げたでしょう。「そこにいた人の何人かが、憤慨して互いに言った。なぜ、こんなに香油を無駄遣いしたのか。この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに。そして、彼女を厳しくとがめた。」(4-5) すると、人々は驚いて憤慨しました。常識的に考えても、いっぺんに、高値の物を使い切るよりは、それを売って他の貧しい人たちを助けたほうが、さらに有意義だったかもしれません。しかし、主は彼女をとがめる人々にこう言われました。 「イエスは言われた。するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。」(6) その理由は十字架にて、人類の罪を背負って亡くなられるイエス•キリストの犠牲を記念するために、彼女が自分の一番良いものを主にささげたと、主が知っておられたからです。「この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。」(8) そして、イエスに自分の最も良いものを差し上げた、この女の行為が、福音が宣べ伝えられるすべてのところに共に伝えられると言われました。「世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」(9) イスラエルの多くの人々はイエスに「してください。」と要求ばかりしていたでしょう。イエスの存在自体を讃美し、その方の御救いと犠牲を記念しようとする人は多くなかったと思います。主の弟子たちでさえ、各々の野望と必要のために、主に従ったからです。しかし、この女はいかなる条件もつけず、ただ、イエスとその犠牲を記念するために、自分の大事なものをささげました。ある女が「油注がれた者メシア、イエス」に、実際に油を注ぎかけることで、イエスが自分の主であり、キリストであることを公に告白したのです。そして、主はこの女の行為が福音が宣べ伝えられるすべての場所で記念されると言われました。 3.私の一番良いものを。 今日の本文で重要なことは、主に高値のものをささげということでも、自分のすべてを一つも残さず、すべてささげということでもありません。べタニアの女の香油は高いものでしたが、それを文字通りにして、現実に適用しろという意味ではありません。時には異端団体、いや普通の教会でも度を越えた献金を求めることがあると思います。たくさんの献金を持ってきて神を喜ばせという望ましくない説教をする牧師もきっと世の中にはいると思います。しかし、今日の本文は、それとは違います。私は皆さんが自分の出来る範囲で日常生活に差支えのないくらい、主がくださる心に従って献金することを積極的にお勧めします。つまり、今日の本文は献金の大小の問題ではありません。私たちが主をどれほど憶え、記念し、仕えているかという問題でしょう。主が私たちと一緒におられることを常に憶えているか? 主が私たちの命の主であることを認めているか? 主が私たちの罪を赦し救ってくださったことを信じているか? 私たちの心を主だけにささげているか? 私たちの命を尽くして主の御心と御言葉に聞き従って生きているか? 私たちの一番良いもの、私たちの心、私たちの生命、私たちの意志、私たちの愛を主にささげているかどうかとの問題なのです。 主は貧しい女に高い香油という重荷のような献物を求められたわけではありません。ただ、十字架で死んでいくご自分への愛、奉仕、女の信仰と心をお受けになったわけです。高値の物でなくても、主は神殿でレプトン銅貨二枚(極めてわずかな献金、マルコ12章)をささげた貧しい女や、五つのパン二匹の魚を出した少年(ヨハネ6章)の心も同じくお受け取りくださったでしょう。私たちは主に私たちの心、愛、生命の主権、純粋な信仰をささげているでしょうか? 私たちの情熱的な教会での奉仕と多くの献金も、時には必要であるかもしれませんが、それより、さらに大事なもの、つまり私たちの真心を主にささげていきたいと思います。大金、高値なもの、負担のかかる献物がすべてではありません。主への私たちの真心、私たちの一生をキリストの栄光のために生きると誓うこと、主が命じられた御言葉通りに生きること、神と隣人に仕えて生きること。そのような私たちの真心と愛とが、今日、主に香油を注ぎかけた女のように、主を喜ばせる真の献物ではないでしょうか。 締め括り 「それぞれの収穫物の初物をささげ、豊かに持っている中からささげて主を敬え。そうすれば、主はあなたの倉に穀物を満たし、搾り場に新しい酒を溢れさせてくださる。」(箴言3:9‐10) 旧約聖書は「初物」を非常に大事に取り扱います。神がくださった初めての恵みだと思うからです。つまり、一番良いもの、大事なものということです。私たちにとって最も大事なものを神にささげること、それもある意味で旧約聖書のこのような「初物」に似ているのではないでしょうか? 私たちの一番良いものは高値のものでも、多くのお金でもありません。一番良いものは、神を最も愛しようとする私たちの心構えであり、何よりも神への私たちの真心ではないでしょうか。今日、香油を注ぎかけた女を見て、私たちの一番良いものとは何であり、神に何をささげれば良いだろうか考えてみる機会であれば幸いです。神に一番良いものをささげることが出来る志免教会の兄弟姉妹でありますよう祈り願います。

良い羊飼い。

エゼキエル34章7-10節(旧1352頁) ヨハネによる福音書 10章1‐21節(新186頁) 前置き キリスト教は、御子イエス・キリストを頭として打ち立てられた宗教です。この世の誰もキリストに取って代わることが出来ず、そのキリストだけが神に遣わされた唯一のメシアとして崇められる宗教なのです。父なる神が、このキリストだけを、唯一の世界の統治者として立ててくださり、いつか、世の終わりの日に、このキリストは戦争に勝利した王の姿で、善と悪を審判するために来られるでしょう。つまり、主イエスは私たちの思いより、さらに威厳と権能を携えた畏れるべき方であるということです。これが伝統的な終末のキリストのイメージなのです。しかし、新約聖書は、変わらずキリストを、羊を愛し守る穏やかな良い羊飼いとして想起させ、私たちに慰めと平和を与えてくれます。イエス・キリストは、世の誰よりも強力で偉大な方ですが、しかし、誰よりも良い羊飼いであることを忘れないように思い起こさせるのです。今日は、良い羊飼いについて考えてみましょう。 1.良い羊飼いイエスと小さな羊飼いキリスト者。 イエス・キリストは、良い羊飼いです。神を知らず、信じてもいないこの世で、神に選ばれた者たちを導き、青草の原に休ませてくださる愛に満ちた良い羊飼いです。愛のない、他者のためではなく、もっぱら自分だけのために生き、自分のためなら他者が死んでも気にしない邪悪な世で、ご自分の命をかけて、羊を愛してくださる真の羊飼いです。『私は良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。』(ヨハネ10:11) ところで、このイエスはご自身が羊飼いになってくださると同時に主の共同体の指導者にも、主の御心に聞き従う小さな羊飼いとしての務めを与えられます。今日の旧約本文に羊飼いとありますが、これは、イスラエルを治める王や貴族を指し示す言葉です。彼らは民を愛さず、自分の欲望だけを追い求めました。主はそんな彼らに滅びを言われました。良い羊飼いイエスは、ご自分の命を捨ててまで、民を愛されましたが、イスラエルの指導者たちは、自分の名誉、権威、富だけを重んじ、貧しい民には何の興味もなかったのです。神は、ご自分の民の髪の毛までも数えられるほど、民を愛される方です。だから、苦しんでいる民のうめき声と涙に深い関心を持っておられます。そのような神の御心を理解しようともせず、かえって民を放っておいた指導者たちの罪で、イスラエルは神に呪われ、他国に滅ぼされてしまったのです。羊を愛さず、打ち捨てた指導者たちは、心深く羊を愛された主によって裁かれ、滅びてしまいました。 私たちの教会は、イエス・キリストの体です。教会は、イエスの手と足、口となって、イエスが愛する人々に仕え、主の福音を宣べ伝える使命を持っています。私たち志免教会の一人一人が皆、主の手と足、口として生きています。隣人に仕え、愛することは、イエスの体であるキリスト者にとって、当たり前なことであり、近所の人々に主の福音を伝えることは、私たちが召される日まで止まってはならない何よりも大事な務めです。牧師、宣教師、伝道師、教職者だけが羊飼いではありません。真の羊飼いであるキリストの教会を成す全ての者は、イエス・キリストに羊飼いとしての務めを与えられた主の小さな羊飼いです。ですので、私たちは教会員どうし、お互いに自分の羊のように愛しなければなりません。また、まだ信じていない私たちの隣人も、失われた羊と思い、福音を伝え、愛をもって仕えるべきです。ただイエスを信じて、祝福されて、天の国に入り、自分だけのために信仰生活をするなら、それは神に呪われた、昔のイスラエルの指導者たちと違いがないでしょう。真の羊飼いイエス・キリストによって遣わされた私たちは、主の小さな羊飼いです。今、私たちの心に小さな羊飼いとしての自覚があるかどうか考えてみるべきだと思います。 2.羊は羊飼いの声を聞き分ける。 教会の真の良い羊飼いはただお独りイエス・キリストだけです。この世の数多くの教会には、時々、こんな人たちが見られます。「自分は羊飼いとして選ばれた。」口先だけでは、牧師あるいは長老と言いますが、まるで、自分が教会の所有者となっているかのように振舞う人々がいるということです。しかし、厳密に言って、牧師も長老も、羊の群れの中で、説教や奉仕の務めを預かっている、また違う羊にすぎないのです。つまり、牧師も、長老も、執事も、平信徒も、皆、主の羊でありながら、兄弟姉妹に仕える小さな羊飼いであると考えるのが正しいでしょう。ただ、牧師は、神学、聖書について専門的に勉強したため、説教の時は尊重されるべきだと思いますが、牧師も基本的には主の羊でしょう。だから、牧師も、主の羊として、主なる神の声を謙虚に伺わなければなりません。それでは、果たして主の言葉とは何でしょうか? それは、「イエス・キリスト」による聖書の言葉でしょう。聖書を引用しても主と関係ない教えは多いです。イエスが排除されたまま、聞こえてくる全ての愛の言葉、救いの言葉、宗教的な言葉は注意すべきです。統一教会、エホバの証人など、唯一の救い主なるイエスを軽んじて、自分らの教理を教える全ての聖書の教えは、偽りです。彼らは盗人であり、強盗です。これは私たちだけが真実だという独断ではなく、彼らが正しい救いの道から離れ、イエス・キリストを示さない間違った教えを伝えるからです。「はっきり言っておく。私は羊の門である。 私より前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。」(ヨハネ10:7-8)本当にイエス・キリストの民となった者は、ただイエス・キリストの言葉だけを聞こうとします。 「盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。私が来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。 」(ヨハネ福音10:10)私たちは主の羊として主の御言葉を聞き分け、主イエスだけによって神に接しなければなりません。イエスのない言葉は人間の言葉にすぎないからです。 3.良い羊飼い、悪い羊飼い。 1941年、昭和16年6月、日本の34個プロテスタント教派は強制的に統合されます。これは軍国主義による教会統制の一環でした。このような統合により、生まれたのが戦前の日本のキリスト教団です。その日本キリスト教団の初代議長は富田満という牧師でした。彼は旧日本キリスト教会の統理であり、東京神学校の理事長を歴任するほど、影響力のある牧師でした。彼は日本帝国の軍国主義に賛同し、最終的には神社参拝は偶像崇拝ではなく、国民儀礼であると言いました。また、彼の強要により、日本の教会は神社参拝を承認しました。それだけではなく、植民地の教会も彼の主張に屈し、神社参拝に加担しました。富田満は、戦後、教会の命運のために仕方がなかったと言い訳するだけで、まともな懺悔と謝罪もせず、日本キリスト教団の影響力のある牧師、神学教授として働き、1961年に亡くなります。今、彼を尊敬する人は日本の教会にいますでしょうか。 一方、韓国ソウルには楊花津宣教師墓地という場所があります。世界各国から来た宣教師たちを記念するところです。そこには日本人宣教師の墓が一つあります。曾田嘉伊智という伝道者の墓です。山口県出身の曾田嘉伊智は、植民地朝鮮で孤児院を設立し、面倒を見た人です。彼は朝鮮の独立と朝鮮人のために奉仕した人ですが、朝鮮人には侵略者として、日本人には裏切り者として両方から嫌われた人です。しかし、彼は信仰によって、強く忍耐し、全ての誤解を乗り越え、朝鮮人の愛を受けた人です。彼は真の平和を望み、朝鮮を助け、日本を宣教しようという一念で生きました。朝鮮人たちは、彼に感動し、信用しました。日本の敗北後、北朝鮮地域から引き揚げようとする日本人たちが、ロシア軍に攻撃される事件ありました。当時、近く教会で伝道師として働いていた曾田嘉伊智は教会堂に信者、迷信者を問わず、日本人を集め、命をかけて守りました。彼は民族を問わず、主の御言葉のように人を愛したのです。戦後、彼は日本に帰り、伝道活動をして、後韓国に戻って1962年主に召されました。 締め括り 富田満と曾田嘉伊智。二人は主の裁判所で、どんな評価を受けたでしょうか?果たして誰が良い羊飼いとしての人生を生きたと褒められたんでしょうか?裁きは主なる神の領域ですので評価はしませんが、聖霊なる神が私たちの心に答えておられるでしょう。今日の旧約本文の「羊を養う」の「養う」の原文は「面倒を見る、愛をもって治める、付き合う、友達になる。」などの意味を持っています。私たちは主イエスの羊です。真の羊飼い、主イエスは、私たちを養ってくださる方です。だから、主は、私たちを守り、愛する友たちにしてくださいます。その主に愛される私たちは、また、他者を愛するために小さな羊飼いとして生きなければなりません。主から愛された私たちは、今や、他者を助け、愛する友たちになる義務を持っています。主の羊であり、小さな羊飼いである私たちの生活を通して、主は喜ばれ、私たちに祝福してくださるでしょう。来たる一週間、良い羊、良い羊飼いとして、主に導かれる私たちでありますように。そのような生活のために、主イエスの恵みと助けが、限りなく与えられますように祈り願います。

使徒信条(3) 人となって苦しんだ神の子

イザヤ書53章5節 (旧1149頁) ヘブライ人への手紙13章12節 (新419頁) 前置き 最近、私たちは使徒信条について学んでいます。古代の教会で使徒信条が造られた理由は、当時の教会を分裂させ、誤った教えを宣べ伝える異端やカルトから、教会のアイデンティティ-を守り、各地の教会が共通的に告白できる信仰の基準を正しく立てるためでした。使徒信条は聖書に直接記された言葉ではありませんが、使徒信条の告白、すべてが聖書に基づき選ばれたものです。使徒信条と呼ばれる理由は、初代教会の指導者であり、イエスの弟子である12使徒の信仰と精神を要約整理した信条だからです。私たちはこの使徒信条を通じて、神とは誰なのか、どのように存在しておられるのか、私たちが信じるべきものは何かを知ることができます。「主は聖霊によってやどり、処女マリヤから生まれ、ポンティオ・ピラトのもとで、苦しみを受け、十字架につけられ」今日は、御子イエスの誕生、苦難について考えてみましょう。 1. 女(乙女マリア)から生まれた神の子 「主は聖霊によってやどり、処女マリヤから生まれ」日本キリスト教会の大信仰問答は、イエス•キリストを「真の神にして、真の人である方」と定義しています。これは宗教改革の遺産を受け継いだ改革教会なら、どこの教会でも共通して告白する「イエスのアイデンティティー」です。改革神学は語ります。「イエスは完全な神である。また、イエスは完全な人である。」古代ギリシャ神話のように、神と人間が半分半分混じった存在、神でもなく人間でもない「半神」ではなく、完全な神でありながら、また完全な人でもある存在ということです。そういう理由で、イエスは、神の御心を誰よりもよく知っておられると同時に、人間の状況をも誰よりもよく知っておられるのです。イエスが神と人の間の仲保者となられた理由は、このように神でありながら人であるからです。今日、私たちが告白した「処女マリアから生まれ」という告白は、このような完全な神でありながら、完全な人でもあるイエスを定義する最も重要な条件の一つです。 私たちはイエスが、ある日突然、人間になりたがって人間になることを決められた方ではなく、普通の子供たちのように人間の母親から生まれ、育ち、働いて、人間の喜怒哀楽をことごとく経験しつつ生き、時が来て公生涯を始められたことを忘れてはなりません。 ただし、イエスは普通の人間のように罪を持った方ではありませんので、特別な方式でお生まれになりました。代々、罪の影響から自由ではなかったアダムの子孫ではなく、創造の時の罪のない人間の姿そのままに生まれるために人間の種ではなく、聖霊の特別な恵みによってお生まれになったのです。ですから、罪もなく、欠点もない全く新しい人間、つまり新しいアダムとして、この世に来られたのです。「女から生まれた」という言葉から、私たちは2つのことが分かります。一つ、先に申し上げたように、イエスは母親の胎から世の中に生まれ、人間の感情と罪と弱さを知り、自ら人間を代表する存在になるために人間そのものへの完全な理解をお持ちになったということ。だから、イエスは私たちの弱さを責める方ではなく、憐れんで助けてくださる方だということです。二つ、「お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に、わたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く。」(創世記3:15) いわゆる原始福音と呼ばれる女の子孫が悪魔の権勢を打ち砕くだろうという、はるか遠い昔からの神の約束が、処女から生まれたイエスの出来事で成就したということです。神の救いはいくら時間かかっても、必ず成し遂げられることがわかります。 2. 苦難を受ける。 そして、もう一つ重要なことは、イエスが苦難をお受けになったという事実です。 イエスは真の神ですが、肉体を持って人間として来られるようになりました。なぜ、神であるイエスが肉体を持たなければならなかったのでしょうか? 「神は霊である。」という有名なヨハネによる福音書の御言葉がありますが、この御言葉のように神は霊であります。「霊」とは人間のような限界と弱さのない、超越的な存在のことでしょう。しかし、御子なる神イエスは、自ら肉体を持って神であるにもかかわらず、人間として来られました。それは人間の弱さと苦しみを共有できるようになったということでしょう。イエスが人間になって人間のところに来られた理由は、罪によって堕落した人間が受けるべき神の厳しい裁きと刑罰を代わりに担うことができる条件を満たされるためです。つまり、御子が人になった理由は、神でありながら人間であって、人間を代表すると同時に罪人が受けるべき死の裁きを、肉体を持ったイエスが代わりに受けてくださるためです。もし、イエスが肉体を持たれなかったら、霊である神、御子は人間に代わって十字架の刑罰を受けることはできなかったでしょう。それなら人間の救いは絶対に成し遂げられなかったでしょう。人間の弱さを直接経験されたイエスが、ご自分の体を苦難に投げつけ、人間に代わって刑罰を受け、その償いによって人間を救うことができるようになったのです。 しかし、私たちは「肉体の痛みや苦しみ」だけをイエスの苦難だと考えてはなりません。すべてを超越する存在である神が、明らかな限界の人間の姿で、この世に来られたという自体が苦難の始まりなのです。神の国で父と子と聖霊が、お互いに尊重し愛しあう完全なお交わりの中から、御子が被造物の姿、すなわち人間になって、この世に来られ、その御子なる神を罪人たちに代わる贖罪の犠牲にするために、この世に人として生まれさせた、その始まりからが、すでに三位一体、何よりもイエスの苦難の始まりであることを憶えるべきです。そして、罪によって汚された世界は、神を愛していません。使徒信条はそんな世の有様を「ポンティオ・ピラトのもとで苦しみを受け」という言葉で表現しました。ポンティオ・ピラトという特定の人だけがイエスを苦しめたという意味ではなく、ポンティオ・ピラトと象徴されるこの世を支配する悪がイエスを嫌い、反対するということです。神の国で毎瞬間、ほめたたえられた御子なる神は、この世に来られてからは、憎しみと敵対の中で生きなければならないようになりました。したがって、イエスが神を憎む、この世に来られたこと自体が、すでに苦難の始まりだということを憶えましょう。 締め括り 愛するから十字架に。 それでは、イエスが肉体を持って、ご自身を憎むこの世に来られた、いちばん大事な理由は何でしょうか? 「それで、イエスもまた、御自分の血で民を聖なる者とするために、門の外で苦難に遭われたのです。」(ヘブライ13:12) それは人間になった神、イエスの犠牲により、罪に苦しんでいる罪人たちを赦され、救ってくださる限りのない愛のゆえです。創世記で神がアダムとエヴァをエデンの園から追い出された時、私たちは神の裁きだけを見受けやすいです。しかし、神は被造物の真の父であることを忘れてはなりません。人間に罰を下された時、神も悲しまれたのではないでしょうか? 何があっても、神の最高の被造物である人間を救うという、主の救いの計画から神の御心が伝わってきます。父なる神は人間を愛し、ご自分の独り子を十字架の犠牲へと導かれました。イエスは、その父なる神の愛を誰よりも深く知っておられ、イエスもまた人間を愛し、ご自分の命をかけられました。「彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」(イザヤ53:5) イエスが人間になられたこと、苦難を受けて亡くなられたこと。そのすべては、まさに罪によって滅ぼされるべき人間を憐れんでくださった神の限りのない愛に基づきます。私たちはその神の愛と御子の贖いを忘れてはなりません。

使徒信条(2) – 神の子を信じる。

詩編2編7〜9節 (旧835頁) ヨハネによる福音書3章16節 (新167頁) 前置き 私たちは、ほぼ毎週の日曜礼拝の時、使徒信条を告白します。古代の教会で使徒信条が造られた理由は、当時の教会を分裂させ、誤った教えを宣べ伝える異端やカルトから、教会のアイデンティティを守り、各地の教会が共通的に告白できる信仰の標準を正しく立てるためでした。使徒信条は聖書に直接記された言葉ではありませんが、使徒信条の告白、すべてが聖書に基づき選ばれたものです。使徒信条と呼ばれる理由は、初代教会の指導者であり、イエスの弟子である12使徒の信仰と精神を要約整理した信条だからです。私たちは、この使徒信条を通じて、神とはどなたなのか、どのように存在しておられるのか、私たちが信じるべきものは何かを知ることができます。今日は、使徒信条その2回の時間で、神の子であり、私たちの信仰の源であるイエス·キリストへの告白を学びたいと思います。 1. 神の独り子 「主の定められたところに従ってわたしは述べよう。主はわたしに告げられた。お前はわたしの子、今日、わたしはお前を生んだ。求めよ。わたしは国々をお前の嗣業とし、地の果てまで、お前の領土とする。」(詩篇2:7-8) 詩篇2篇は、詩篇の中でも代表的な「メシアの詩」と言われます。メシアとは「油注がれた者」という意味のヘブライ語で、旧約時代のイスラエル王国にあって、王、預言者、祭司が油に注がれて働きはじめる代表的な務めでした。その中でも特にイスラエルを治める「王」が、メシアとしての象徴性を強く持っていたようです。そんな意味として、詩編2編はイスラエルの王への詩でもあります。しかし、学者たちはこの詩編2編をメシアや王への詩だけに限らず、未来に到来する真のメシア・イエスを予告する、予言の特徴も持っていると解釈します。「この世の国は、我らの主と、そのメシアのものとなった。主は世々限りなく統治される。」(黙示録11:15) そしてキリスト者は、以上のような、いくつかの新約の言葉に基づき、イエス·キリストこそ、神が選ばれた真の王とメシアであると告白します。ですので、私たちはイエスが真の王、メシア(ギリシャ語でキリスト)であると信じています。 私たちが信じるイエス・キリストは、今日の旧約本文の言葉のように、偉大で唯一の真の神の子です。キリストは神の子ですが、実はキリストご自身も神であります。私たちが信じる、主なる神という存在は、御父、御子、聖霊として存在しておられます。そして、この世は、この父、子、聖霊で存在する神を三位一体の神と呼びます。前回は、その中から「父なる神」への告白について学びました。そして、今日は「子なる神」への告白について学びます。私たちは、キリストを父なる神の 独り子として信じています。イエス·キリストは私たち教会の頭であり、教会は主の体であります。イエス·キリストはご自分を主と告白する者たちに聖霊によって訪れられ、信仰を与えてくださり、神の子供になるように助けてくださり、今でも神の右におられ、彼ら一人一人の信仰のために祈ってくださる方です。もともと、人間は罪によって神と完全に離れてしまった滅びるべき存在です。しかし、神の子イエス·キリストは、滅びるべき罪人たちを、ご自分の体のように愛し、ご自分の御名を保証として、彼らの罪を赦し、神と和解するように導いてくださいます。したがって、私たちが神の子イエス·キリストを信じるということは、キリストによって、神に赦され、和解して子供となったという意味です。 2. 主イエス·キリスト ところで、気になることがあります。「メシア、主、イエス、キリスト」神の子には、多くの名称がありますが、これらはどういう意味でしょうか。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。 あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。」ルカによる福音書1章30‐31節は、神が御使いを通して、マリアが身ごもった子の名前を教えてくださる記録があります。イエスはヘブライ語で「神の救い」という意味です。旧約聖書の「ヨシュア記」に出てくる「ヨシュア」が、神の救いを意味するより原文に近い発音ですが、文化圏や国によって呼び方も多様です。ギリシャは「イスス」日本は「イエス」韓国は「イェスゥ」中国は「イェシュウ」米国、英国は「ジーザス」、イタリアは「ジェス」、ドイツは「イェスス」など。しかし、発音が違っても「イエス」という名前は「神の救い」という明確な意味を持っています。イエスの使命が、その名前に、ありのまま現れているのです。また、私たちはイエスを「主」とも呼びます。「主」は、古代イスラエル人が神の御名を直接呼ぶことを恐れ、御名の代わりに呼んだ表現で、ヘブライ語「アドナイ」を訳したものです。中世時代の明、清(中国)や朝鮮では「王」の名前を、むやみに呼ぶことが許されなかったと言われます。古代のイスラエルでも、神の御名を口で呼ぶと大きな罪だと思って「アドナイ」と呼び、それが「主」と訳されたわけです。もちろん漢字語の意味のままに「私の主人」という意味もあります。 最後に「キリスト」とは、どういう意味でしょうか? 聖書はこの言葉を「メシア」をギリシャ語に訳したものだと語ります。新約聖書はギリシャ語で記録されたため、ヘブライ語の「メシア」をギリシャ語の「キリスト」に訳したのです。ところで、このキリストという概念はローマ帝国にとっては「皇帝」を意味する表現でもあります。皇帝そのものをキリストとは呼ばなかったでしょうが「神々の子、ローマを救った者」という意味で、ローマの皇帝はイエス時代のもう一つのキリストのような存在でした。そのため、当時のローマ帝国の各地に散らばっていたキリスト者たちは「ローマ皇帝をキリストとして崇めるべきか? 「主イエスをキリストとして崇めるべきか?」という分かれ道の前に立っていました。迫害を恐れてローマ皇帝をキリストとした者たちは、すぐにイエスと教会を裏切って自分の道に離れました。しかし、イエスだけをキリストとした者たちは、残酷な弾圧と迫害の中で命をかけなければなりませんでした。私たちにとってメシアは誰ですか? 私たちにとって救い主は誰ですか? 私たちにとってキリストは誰ですか? 現代の日本は宗教的な圧迫から自由な国家ですが、太平洋戦争の時には、教会はイエスと天皇の中で誰を上にするべきかとの現実的な悩みがありました。私たち教会はメシア、主イエス·キリストを信じています。使徒信条はイエスだけが真のキリストであると告白しているのです。 3. 神と人間をつなぐたった一つの道。 使徒信条を観察してみると、父なる神と聖霊なる神に比べて、御子イエスへの告白がより長いことが分かります。そのため、あと2回ほどキリストとかかわる使徒信条の説教が残っています。「キリスト教」であるだけに、この新約時代には、三位一体の中、キリストへの比重がより多く与えられていると言えます。もちろん、だからといってキリストが御父や聖霊より権能があるという意味ではありません。他の信条である「ニカイア信条」には、御子は御父と同一本質を持っていると記してあります。つまり、三位一体なる神のどっちのほうがより偉大だとは言えないということです。しかし、父なる神は、新約時代においては「キリスト」に支配権を与えられました。そして、その支配権はイエス·キリストが再臨して救いと裁きを完全に成就される時に父なる神に返されるでしょう。神はこのイエス·キリストを通して、神と世の中の繋がりを造られました。神と人間は絶対に会うことも、共通点を持つことも、付き合うこともできない全く違う格の両者です。神にとっての人間(罪人)は、人間にとってのアリよりも取るに足らない存在です。しかし、イエスはご自分の十字架での贖いによって、みすぼらしい人間と全宇宙の創造主である神とをつなげてくださいました。だから、私たちが主とあがめるキリストは、偉大な神と小さな人間をつなぐたった一つの道なのです。 締め括り 私たちは、イエス·キリストをあまりにも便利に信じているかもしれません。キリスト教会に通うのが馴染んでない日本社会ではありますが、誰も教会に通うからといって迫害しません。また、長年の信仰生活のために教会に通う人たちも習慣的になっているかもしれません。しかし、初代教会の状況は今とはまったく異なっていました。ローマ帝国の皇帝が、この世のキリストとして世界を支配しており、周辺には教会の正統的な教えを歪曲する異端が多かったのです。このような苦しい状況の中で、三位一体なる神への正しい信仰告白と異端の教えに闘うために、イエス·キリストの教えを継承した使徒たちの信仰を命のように守ろうとする者がいました。私たちが告白する、この使徒信条を単なる教会の儀式くらいに考えてはならないでしょう。私たちの信仰の根となり、骨となる信仰告白を正しく守り、その信仰にあって生きる私たちであることを祈り願います。