イエスの価値観。

箴言5章21節 (旧997頁) マルコによる福音書2章13〜17節 (新64頁) イエスが公生涯を始められた時、イスラエルは霊的な無秩序の時代を過ごしていました。ローマ帝国の行政的な支配とユダヤ教の宗教的な儀式はありましたが、現実は弱肉強食の社会で、正義が守られず、不義がはびこる霊的な無秩序の時代だったのです。そんな無秩序の時代に来られた主イエスはご自身が直接民に仕え、愛されることによって、倒れた霊的な秩序を立て直してくださいました。「神と隣人を愛しなさい。」という律法の御言葉が、その秩序の根源となるのです。主イエスは十字架での死を覚悟されてまで、この秩序を回復させるために闘われたのです。そのイエスの御心は主の体であるこんにちの教会にも継承され、主イエスにならった生き方を要求しています。 1.皆に嫌われた徴税人マタイ 貧しいイスラエルの人々を助けてくださるために旅路に就かれたイエスは、ガリラヤ湖のある地域に着かれました。その時、一人の男がイエスの目につきました。「そして、通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて、わたしに従いなさいと言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。 」(14) イエスに声かけられた男は徴税人のレビという人でした。新約聖書で徴税人といえば、マタイやザアカイがいますが、このレビは誰でしょうか。「イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、わたしに従いなさいと言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。」(マタイ9:9) マタイによる福音書によると、このレビという人が使徒マタイであることが分かります。主はペテロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネなどの弟子たちに加え、徴税人のマタイをもご自分の弟子に呼ばれるためにその町に行かれたわけです。ところで、このレビつまりマタイは、なぜそこにいたのでしょうか? ガリラヤの漁師から税金を取り立てるためでした。当時のイスラエルの徴税人は恨みと憎しみを一身に受ける存在でした。ローマ帝国は頻繁な戦争のために莫大な予算が必要でした。そのため、ローマの総督たちは植民地の権力者から前払いで税金を取り上げました。その代わりに彼らに徴税権を与えたのです。それはイスラエルにおいても同様でした。先に話しましたように、当時のイスラエルは、神による秩序と正義が破れていたので、ローマ帝国に強制的に税金を払わせられた権力者たちは、ローマからの徴税権を悪用して、貧しい同胞からあくどく税金を取り立てました。ローマが納めた税金より、さらに高い税金を貧しい人々から取り立てたわけです。旧約聖書が強調していた隣人愛が完全に破れていたのです。今日の本文に出てくるイスラエルの徴税人は、そのような権力者のもとで働いていました。彼らは割当量を達成するため、同胞から重い税金を納め、イスラエルお人々は彼らをローマ帝国のため、同胞を苦しめる売国奴のように考えました。だから、当時のイスラエル人は、この徴税人を遊女や泥棒のように「地の人」つまり、神の民ではない者と見なしていたのです。 2.マタイを訪れてくださったイエス。 ところで、マタイは徴税人の仕事に懐疑を抱いていたようです。主がマタイに声かけられた時、ただちに従ってきたからです。当時の徴税人は熱心に徴税すれば、同胞に疎外され、いい加減に徴税すれば、権力者にいじめられる立場でした。けれども、お金を横取りすることができ、豊かになりやすい仕事だったのです。しかし、徴税人マタイはそんなに幸せではなかったようです。明治時代に、こんな出来事がありました。、明治23年に制定された教育勅語が東京第一高等中学校で朗読された時、全員は腰を低めて最敬礼をしました。しかし、教師だった内村鑑三は最敬礼をせずに頭を下げるだけでした。彼はキリスト者だったので、神格化した天皇に最敬礼しなかったわけです。(不敬事件)しかし、当時の官憲は、それによってキリスト教全体を疑うことになりました。そのため、日本の教会は国と民族から疎外されないために自ら慎み、国に協力し、結局は屈してしまいました。国と民族からの疎外が恐ろしかったからです。マタイは民族からの疎外と権力者からの要求の間でさまよい続ける孤独な人でした。 イエスは、そんな彼をあたりかまわず招かれました。「見かけて、わたしに従いなさいと言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。」民族からの疎外と権力者の要求の間でさまよっていたレビ・マタイは、すべてを捨てて、主に従いはじめました。14節で「従う」のギリシャ語「アコルルデオ」は、「後についていく」という物理的な意味だけではありません。「共にある」という意味の「ア」と「道、方向」を意味する「ケルリュドス」が一つになった言葉です。つまり、「イエス・キリストの道あるいは方向に共に歩むこと」という、より深い意味の言葉です。イエスは、民族と国家からの疎外、そして権力者の要求の間で迷っている徴税人レビ・マタイを呼び出し、ご自分の道に招いてくださいました。当時、一番嫌われる存在、すべてのイスラエル人に「地の民」、つまり神に見捨てられた存在、罪人と呼ばれていたマタイに、天から来られた神の子イエスがお手を差し伸べてくださったのです。そして、皆に嫌われる彼をご自分の民として受け入れてくださいました。「イエスがレビの家で食事の席に着いておられたときのことである。多くの徴税人や罪人もイエスや弟子たちと同席していた。実に大勢の人がいて、イエスに従っていたのである。」(15) 3.キリスト者に求められるイエスの価値観。 イエスに従ったマタイは、イエスと弟子たち、徴税人や他の罪人と呼ばれる人々を招き、食事をもてなしました。主は決して善良な人や貧しい人たちだけを救われる方ではありません。罪人、裏切り者、不正な者、売春する者、盗人など、どんなに悪人だといっても、彼らが神に真心をこめた悔い改め、隣人に謝り、主の御心に従うならば、喜んで受け入れてくださいます。そして、彼らと同席され、共にいてくださいます。イエスが同席して一緒に食事をしてくださるというのは、相手をもはや他人ではなく、家族や友人のように認めてくださるという意味です。これは、イエスによって、私たちに示された御父の暖かい御旨なのです。ところで、このように罪人を招いて赦してくださるイエスを責める者たちがいました。「ファリサイ派の律法学者は、イエスが罪人や徴税人と一緒に食事をされるのを見て、弟子たちに、どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのかと言った。」(16)彼らはイスラエルの宗教指導者だったのです。当時のイスラエルの宗教指導者、つまり財力も、名誉も、権力もある者たちが、罪人と一緒におられる神を嘲弄したわけです。彼らは自らが「天の民」であり、神を知っていると高ぶっていました。しかし、彼らは真の神であるイエスを目の前にしても、主を見知ることが出来なかったのです。 「イエスはこれを聞いて言われた。医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(17)イエスは彼らにご自分が来られた理由を明らかに教えてくださいました。「私は罪人を招くために来たのだ。」イエスの価値観は、罪人への裁きではありません。主は罪人を裁きから救ってくださるために来られたのです。罪人への救いこそが本当のイエスの価値観です。主は罪人が主に帰ってくるのを切に望んでおられます。どんな罪人でも、真の悔い改めと信仰さえあれば、主は誰でもお赦しくださり、お招きくださる方です。むしろ、今日、登場した宗教指導者たちのように、神を知ると言いながらも、自分の信仰的なこだわりに閉じこもって、他人をやたらに判断する者こそ、イエスに裁かれるでしょう。私たちが追い求めるべき価値観は何でしょうか?赦しと愛のイエスの価値観、傲慢と判断の宗教指導者たちの価値観。神は私たちの目の前に、この二つの価値観を示され、どっちを選ぶだろうかと見下ろしておられるでしょう。 締め括り 「人の歩む道は主の御目の前にある。その道を主はすべて計っておられる。」(箴言5:21)神は、世のすべての人々の歩みを見下ろしておられます。終わりの日、御前に立つ時、神は私たち人生について、ことごとくお問い掛けになるでしょう。だからこそ、私たちの生き方はイエスに従うべきです。イエスこそ、父なる神に認められる唯一の正しい人だからです。そして、主イエスの生き方こそ、私たちの価値観になるべきです。イエスは愛によって、罪人を赦してくださいました。主の体である私たち、志免教会もお互いに赦しあい、隣人を差別せず、主イエスの愛にならっていくべきではないでしょうか。