永遠の命を語る。

詩編14編1~7節(旧844頁) ヨハネによる福音書17章1~5節(新202頁) 前置き 永遠の命とは何でしょうか? 私たちは永遠の命という言葉を耳にするとき、死なずに長く生きることだと考えがちです。永遠に生きるって、いかに素晴らしいことでしょう。愛する家族との別れもなく、焦りもなく、何事においても楽天的でゆったりと世の中を眺め、死への恐れもないでしょう。しかし、現実、人間には長くても100年前後という限られた時間が与えられています。だから、老いていくのが悲しく、死を恐れることになるのでしょう。そのような人間の思い煩いに対して、聖書は永遠の命を語るから、とても魅力的でしょう。そんな理由のため、キリスト者になった人もいるはずです。しかし、聖書が語る永遠の命は、そう簡単なものではありません。聖書においての永遠の概念は、ただ長い時間を意味しないからです。今日は聖書が語る永遠の命について考えてみましょう。 1.「永遠の命と天国」 永遠の命といえば、真っ先に思い浮かぶのが「天国」のような来世のことではないかと思います。死後、主の救いによって永遠の命を得ていくところが、天国という概念で、すでにキリスト者の世界観に深くすえてあります。そういう意味として、多くのキリスト者は天国に行くために信仰生活をしているのかもしれません。それだけでなく、イスラムや仏教系の宗教にも天国(極楽)の概念があり、世の中のほとんどの宗教が、このような来世観から自由ではないかもしれません。あらゆる宗教を問わず、人間が天国あるいは極楽に行くことを希望するのは、人間に永遠への本能的な憧れがあるからです。永遠でない自分が絶対者の助けによって、永遠を手に入れ、死を乗り越えることを追求するからです。この世の肉体が死んでも、来世の天国では死を経験せずに永遠に生きるだろうと思うからです。だから、人間にとって「永遠の命」そして「天国」は人生最大の目標であるかもしれません。 2.永遠の命とは何か? しかし、私たちは「永遠の命」の意味より「天国」の幸せの方にもっと関心を持っているかもしれません。永遠の命という言葉も漢字語に基づいて、終わりなく生きることと誤解しているかもしれません。 しかし、永遠の命を追求しつつ生きるだけに、私たちは「永遠の命」の意味についてはっきり分かる必要があります。以前にも話したことがありますが、「永遠」の哲学的な意味は時間に限っていません。西洋哲学で、無限の時間を意味する言葉は「永遠」ではなく「不滅」です。むしろ永遠は時間性と無時間性と両方の概念を含める抽象的な言葉です。つまり、永遠は時間の長さだけでなく、その内容と質の問題でもあるのです。何年前、筑紫野教会の水曜祈祷会の奨励の時、永遠の主について話しましたが、祈祷会後に帰宅する直前、ある方にこう言われました。「先生、永遠に生きることはとても嬉しいことですが、永遠に生きると退屈ではないでしょうか?」その方は永遠を時間の概念として理解されたわけです。永遠が時間の長さの概念だけではなく、内容と質の概念も含めているのなら、私たちは永遠についてどのように理解すべきでしょうか? 「あなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになりました。そのために、子はあなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです。永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」(ヨハネ福音17:2-3) 神が主イエスを救い主として、この世に遣わされた理由は、神の永遠の命を主を通して、この世の罪人に与えてくださるためでした。つまり、神の永遠の命を、この世の罪人が受けることが「救い」なのです。ところが、永遠の命を「天国で長く生きること」と誤解する場合が多いので、「永遠の命がすなわち天国」という誤解が生まれたのです。しかし、イエスは「永遠の命がすなわち天国」と言われたことがありません。「永遠の命とは、唯一のまことの神と、神が遣わされたイエス・キリストを知ることだ。」と言われたのです。これは、永遠の命と天国の概念を説明する大事な鍵です。 まず、ヘブライ語とギリシャ語の聖書に記してある永遠の命の原文について考えてみましょう。日本語で「永遠の命」と訳された言葉は、ギリシャ語で「ゾーエ・アイオニオス」です。「ゾーエ」は生命を、「アイオニオス」は「時代の」を意味します。このギリシャ語の表現はヘブライ語を訳したもので、ヘブライ語では「ハイム•アド•オラム」です。「ハイム」は「生命」、「アド」は「~に至る」、「オラム」は「時代」を意味します。 つまり「永遠の命」の本来の意味は「時代に至る生命」なのです。時代に至る生命とは一体どういう意味でしょうか? ヘブライ語の「オラム」つまり「時代」は、「共通点を持った一定の期間」を表す言葉です。例えば、高校時代は身分が高校生である期間を意味します。今、皆さんは高校生ではありませんが、一時は共通して「高校時代」を過ごされました。ところで、皆さんのほとんどが「高校時代」を過ごされた時は「昭和時代」でもありました。ですから、皆さんは「高校時代」を過ごしながら「昭和時代」も過ごされたのです。私も「高校時代」を過ごしました。「高校時代」を過ごしたのは皆さんと同じです。しかし、私の「高校時代」は「平成時代」でした。「高校時代」を過ごしたのは、皆さんと私の共通点ですが、皆さんは昭和時代、私は平成時代であったのが違いです。つまり、聖書が語る時代とは「ある特徴で区分できる一定の期間」を意味し、重なる場合も重ならない場合もあるのです。再び、聖書における「時代」について考えてみましょう。主なる神は世界を創造され、主が秩序と平和にあってすべてを治められる「主が王である時代」、別の言葉では「生命の時代」を始められました。「主が王である時代」は永遠です。主なる神の支配は永遠に続くからです。人間はその主に創造され、「主が王である時代」に属し、絶えず主の生命をいただいて幸せに生きていく祝福された存在でした。 しかし、人間は蛇(悪魔)の誘惑に妥協し、神との約束を破って逆らい、堕落してしまいました。その結果、「主が王である時代」に属していた人間は、「人間が王である時代」、別の言葉では「死の時代」に移ってしまいました。そのように人間が王になった結果、世界は神の摂理から離れ、欲望による無秩序と破壊の歴史を書いていくことになってしまいました。その罪の代価として、人間は死の支配に入ってしまったのです。これを通して、「時代に至る生命」つまり「永遠の命」について説明することができます。ここで「時代」とは、「主が王である時代」を意味するといえます。主なる神が意図された最初の時代だからです。「人間によって生まれた人間が王である時代」は、歪んでしまい、腐敗した偽りの時代です。主なる神は変わりなく「主が王である時代」におられ、人間は依然として「人間が王である時代」を生きています。この二つの時代の隔たりは、人間の力で絶対に崩せない巨大な壁です。しかし、神は、この二つの時代の壁を崩してつなげる道をお許しになりました。その道がすなわち「救い主」イエス•キリストなのです。 永遠の命のヘブライ語が「時代に至る生命」である理由はまさにこのためです。「人間が王である時代」を生きる私たちが唯一の真の神「主が王である時代」をキリストを通じて知ることになり、そのキリストを知る(信じる)ことで神の時代とつながるようになったからです。 3.永遠の命 – 神と共に生きる人生。 永遠の命は時間的に長く生きることだけを意味するものではありません。重要なのは「人間が王である時代」に生まれ、生きている私たちが、主イエス•キリストによって「主が王である時代」の存在に気づき、主イエスによって、その時代に至ることができるようになったということです。聖書はこれを「真の生命」と言うのです。したがって、私たちは「人間が王である時代」に生きる存在ながらも、キリストによって「主が王である時代」に属する存在として生きるのです。 聖書はこれを「救い」と定義します。そして、死後天国に行くことは「人間が王である時代」を離れて「主が王である時代」に完全に入ることであり、この世の終わりの日、キリストの再臨と共に「主が王である時代」は、この地上にも完全に成し遂げられ、その時に私たちも復活するでしょう。これが聖書が語る永遠の命と天国、そして救いの意味なのです。今日、旧約聖書の詩編14章2節と5節は、それぞれこのように語ります。「主は天から人の子らを見渡し、探される、目覚めた人、神を求める人はいないか、と。」(2)「神は従う人々の群れにいます。」(5)天(神が王である時代)におられる主なる神が、地上(人間が王である時代)にいる民をお探しになり、共におられること、これこそが人にに与えられた真の永遠の命なのです。 締め括り ですので、私たちの永遠の命は、すでに始まっています。私たちはキリストによって、すでに「主が王である時代」を知り、その中に生きているからです。というわけで、主イエスはこう言われました。「神の国はあなたたちのところに来ているのだ。」(マタイ12:28) 天国すなわち神の国は死後にだけあるものではありません。主なる神に出会い、その民として生きている今も、私たちはすでに永遠の命のある人生、天国のある人生を生きているのです。そして、私たちが主に呼ばれる日、私たちは人間が王であるこの時代を離れ、主なる神が王である真の永遠の命に入るでしょう。そして、再臨の日、キリストによってこの地に真の主が王である時代、新天新地が成し遂げられるでしょう。私たちキリスト者は永遠の命という意味について、このような理解を持って生きるべきです。