聖晩餐の意味

ヨハネによる福音書6章47~58節(新176頁) 前置き 日本キリスト教会は、月に一度聖餐式を行います。毎月行われる儀式であるため、私たちは聖餐式の重要性を見過ごしがちかもしれません。しかし、聖餐は主イエスご自身が弟子たちに命じられ、代々の教会が堅く守ってきた最も重要な教会の儀式の一つです。そのため、洗礼とともに聖餐式もキリスト教会を代表する聖礼殿と呼ばれます。今日は、この聖餐式の意味について考えてみたいと思います。月に一度習慣的に行う宗教儀式ではなく、私たちの信仰を成長させる、主の大事なご命令としての聖餐の意味を改めて確認する時間でありますように願います。 1.聖餐の本質は食事である。 まず、私たちが知っておくべきことは、聖晩餐は文字通りに「晩餐」ということです。晩餐の辞書的な意味は「ごちそうの出る夕食。客を招いてもてなす夕食。」です。つまり、聖晩餐は、主イエスが弟子たちにおもてなしくださった夕方の食事だったのです。私たちの聖餐式は昼頃に行われていますが、それでも教会は固有名詞のように聖晩餐という表現を使います。今日、私たちが行う聖餐式の原型はイエスと弟子たちの「最後の晩餐」に由来します。イエスは、ローマ兵隊に逮捕され、十字架で亡くなられる前、弟子たちと一緒に夕食を分かち合われました。イエスは最後の晩餐の時、弟子たちにこう言われました。「一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。取って食べなさい。これはわたしの体である。また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」(マタイ福音26:26‐28)、最初の聖餐式は宗教的な儀式ではありませんでした。イエスと弟子たちの夕食、十字架で亡くなられる前の最後の食事だったのです。 私たちは毎日食事をします。時々一人で食事する時もありますが、基本的に家族、友人、知り合いのような身近な人とする場合が多いです。つまり、関係を結んだ相手と食事するのが一般的です。知らない人と親しく食事することはないでしょう。したがって、食事は関係を結んでいる者たちが共にする行為です。私たちの聖餐は、主イエスを中心に密接に結びついた者たちが共に行う霊的な食事です。教会のために死に復活され、頭になってくださった主イエスの御恵みと聖霊の御導きによって、キリストの体を意味するパン、血を意味する杯を分かち合い、共に主が与えてくださった晩餐を交わす霊的な食事なのです。食事によって力と健康を得て生きていくように、この聖餐を通して、私たちはイエスの恵みと救いの御業を憶え、力をいただき、信仰生活を続けていくのです。互いに関係を結んだ、家族や知り合いが共に食事するように、私たちはこの聖餐を通して主イエスとの関係、教会の兄弟姉妹との関係、神との関係を再確認しつつ生きるのです。人が飲み食いしなければ生きることが出来ないように、私たちは主がくださった、この聖晩餐を飲み食いして、キリスト者としての自覚を確かめつつ生きていくのです。だから聖餐は宗教儀式を超える頭なる主と体なる教会の聖なる食事なのです。 2.聖徒の交わり、聖餐。 そういう意味として、聖なる食事である聖餐は聖徒の交わりだとも言えるでしょう。私たちはほぼ毎週、使徒信条を唱えます。ところで、使徒信条にはこんな表現があります。「聖なる公同の教会、聖徒の交わり」イエスを信じ、教会に出席しはじめると、人々は一番最初に「使徒信条」に接し、自然に覚えるようになります。しかし、その意味について深く考えずに、他の信徒たちが覚えているから自分も覚えようとする場合が多いです。特に「聖徒の交わり」という表現を何気なく唱えていますが、これは果たしてどういう意味でしょうか? 日本語の「聖徒の交わり」はラテン語のCOMMUNIO SANCTORUMを訳した表現です。COMMUNIOは「互いに一つになって何かを分かち合うこと」という意味で「交わり」と訳しています。SANCTORUMは「聖なる者たち」という意味で「聖徒」と訳しています。罪人は自ら聖なる者になることができない存在です。罪人が聖なる者になるためには、聖なるキリストの贖いによってのみ可能です。したがって、COMMUNIO SANCTORUMは、「主イエスのよって清められた者たちが互いに一つになって分かち合いながら生きる共同体」のことでしょう。「交わり」という言葉のため、茶話会や食事会を思い起こしやすいですが、本当の意味は、聖霊のお導きの中で主イエスを中心に一つとなり、教会共同体を成していくこと、つまり教会形成のことなのです。 だから、聖徒の交わりを最も明らかに表すのは、この「聖餐」なのです。教会の頭なるキリストを中心とし、聖霊の導きによってパンと杯を分かち合う時、私たちは教会を形成する兄弟姉妹と共に一つなる共同体という関係を堅めます。お茶を飲んだり、楽しく会話したりすることが聖徒の交わりではなく、キリストの恵みと聖霊の導きによって一つの教会を建てていくことこそが、本当の意味の「聖徒の交わり」なのです。そして、それを行動で告白するのが聖餐です。したがって、教会員みんながパンを食べ、杯を飲むことは、主イエスが教会の頭であることを行動によって告白する公の信仰告白です。また、教会員みんながパンを食べ、杯を飲むことは、自分と一緒にパンと杯にあずかる兄弟と姉妹がキリストにあって一つの主の体なる教会であることを行動によって告白する公の告白です。だから、ただの宗教儀式だから、習慣的に聖餐を飲み食いするというわけではありません。聖餐の時に私たちみんなが主イエスの民であることを再確認します。教会員みんなが主の一つの体であることを再確認します。使徒信条を口さきだけで告白するのではなく、目に見える聖晩餐という行動によって証明するのです。 3。聖餐を通して主の永遠の命を憶える。 食べる行為は、主なる神が人間に与えてくださった祝福です。初めに天地を創造された神は、エデンの園のすべての果実を人間の食糧としてくださいました。また、出エジプト記の時代にはマナとウズラを食料としてくださいました。神の幕屋の内部にも、供えのパンという食物が置かれていました。イエスは5000人以上にパンと魚をくださいました。弟子たちに聖晩餐をくださいました。復活してはガリラヤの水辺でペトロに焼いた魚をくださいました。食べる行為は貪欲と関わりやすいので、悪いイメージで描写される場合が多いですが、食べないと生きていけないので、非常に基本的な人間の行為なのです。むしろ神は食べる行為によって、主なる神の栄光のために元気に生きていくように、良い行為として食べる行為をくださいました。食べる行為は、食物から養分を得て命を延ばすことです。食前に「イタダキマス」と言うことも、この食物から養分を得て自分の命にすることへの感謝の意味だと言われます。それと意味は多少違うでしょうが、私たちもイエスの肉と血とを意味する「パンと杯」にあずかり、主にいただいた永遠の生命を憶え、ふさわしい生き方を誓って生きるようになります。 「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。」(ヨハネ福音6:54-57) 主イエスはヨハネによる福音書6章を通して、主ご自身が制定してくださる聖餐の意味について、あらかじめ教えてくださいました。主の言われたご自分の肉と血についての教えは、後、聖餐式となり、それが使徒たちと代々の教会の歩みと共に今まで続いてきたのです。聖餐のパンとぶどう酒を飲み食いする時、私たちは主イエスと一つになって主の体なる教会として、主の生命をいただいて生きていきます。父なる神がイエス•キリストを愛されるように、主の体なる私たちも父なる神に愛されるようになるのです。そして父なる神がイエス•キリストを死から復活させてくださったように、主の体なる私たち教会も、父なる神に死に勝つ生命をいただいて生きていくのです。聖晩餐を通じて私たちは主イエスの体であることを確証されます。そして、私たちはその確証にあって、主の永遠の命を豊かにいただいて生きるでしょう。 締め括り 聖餐は、キリスト教会において毎月行われる、馴染み深い聖礼殿です。しかし、その意味は決して軽くありません。私たちがこの聖餐によってキリストと一つになっていること、そして、兄弟姉妹とも主にあって一つになっていることをを告白し、また証明されるからです。つまり、聖餐式はキリストの体という私たち教会のアイデンティティを公に告白する証明の場なのです。したがって毎月行う馴染んだ儀式ではありますが、その意味を心に留めて生きるべきです。私たちは心で主の体となったことを信じ、口でそれを告白し、聖餐の行為によってそれを証します。この聖餐を大切にし、感謝しながら生きる私たちであることを願います。